ピンチを救われて、相手に惚れるというのは、よくある話。
 極度の緊張から逸る鼓動に際し、相手を見出しては、恋心から起こるトキメキと勘違いする現象を、俗に吊橋効果という……。
 だからといって、段階くらいは経るものだろう。
 行き過ぎても、未来の夫、くらいの主張が打倒――
 なのに。

「……婚姻した覚えはないんだけど?」
 自宅の居間で用意した茶を啜る瑪瑙。
 不法侵入者の孔雀と名乗る男へ、出すはずもない茶は、少しばかり渋く、眉が顰められた。
 一口だけつけた茶の残りを、背後の食卓へ、存在を忘れるように放置。
 顰めた眉は視線を戻しても、茶の渋みが去った後も戻らない。
 その原因は、現在、椅子へ腰掛ける瑪瑙の足元、簀巻きにされた姿で転がっていた。
 芋虫のように這うことしか出来ない美麗な相貌に、何故だか恍惚を宿して。
 出来うるなら、コイツの存在も茶同様、忘れてしまいたかった。
 ……忘れたが最後、どうなるかは実感済みなので、仕方なく対峙はしておくけれど。
 そんな瑪瑙の思いなど知らないだろう男は、楽しそうな顔つきで大きく頷いた。
「うん。俺もないよ。だけど、婚姻に特別必要な事柄はないだろう? 大事なのは家と当人同士。だから俺は君の夫なんだよ、瑪瑙ちゃん」
「っ!? な、どうして私の名前を――」
 初対面の孔雀、名乗ったのは彼だけで、瑪瑙は自分の名を語ってはいない。
 警戒を強め、椅子ごと遠くへ移動すれば、気持ち悪い動きで孔雀が追ってきた。
 顔が良いだけに、一層おぞましい。
 あんまりにも鳥肌を呼ぶものだから、綺麗な顔面を思いっきり蹴り上げた。
「どりゃっ」
「ふげっ」
 貧弱な呻きが孔雀から漏れ、憐れなほどもんどり打つ。
「ひ、酷いよ、瑪瑙。ただでさえ俺は身動き出来ないのに、遠ざかるなんて」
「酷いってそっち? 冗談じゃないわよ。ちょっと聞きますけど、貴方がもし、知らない相手に名前知られてたら、どう思う?」
「そりゃもちろん、ぐっちゃぐちゃのげしょんげしょんにするさ。気持ち悪いから」
 間髪入れず答えられ、瑪瑙は軽く頭を抱えた。
「げしょんて何よ……いや、それなら分かるでしょう、私の気持ち。どうして名前知ってるんだっ、て仰け反っても良いでしょ?」
「む? 可笑しな事を。俺と瑪瑙は知らぬ仲ではないだろ? それなら、名前も知っていて当然」
「コイツ……疲れる」
 自然と零れた溜息。
 会話の成立しない輩に対して使える薬品名が、薬師たる瑪瑙の脳裏にずらりと並ぶ、反面。
 あの手の薬は、相手の隠しておきたいことを語らせるのに長けている。
 隠すどころか、こちらの意図を全く汲めない思考回路の持ち主に、高価な品を用いる温かな財布はなかった。
 このため、瑪瑙は質問を変えることにする。
「……じゃあ、聞くけど」
「うん、なぁに?」
 簀巻き状態でにこにこと笑い、甘ったれた声を上げる孔雀。
 決して男がする言動ではないが、月明かりの元、美女と見紛う容姿を持った彼相手では、妙に色っぽく見えた。
 一瞬、絆された瑪瑙が、簀巻きを解いてやろうかと思ってしまったほどに。
 本当に一瞬だったので、解くことはなかったが。
「どこで私の名前を知ったのよ?」
 単刀直入に尋ねた。
 すぐさま訪れる答えは、
「どこって、俺の中でだよ?」
「は?」
 要領を全く得ないそれに首を傾げたなら、孔雀から笑みが取っ払われ、美麗な顔立ちが輝く金の下に埋もれる。
『ジファ』
 低く響く音。
 同時に、簀巻きの縄が火も起こさず、焼け焦げ朽ちてゆく。
「!」
 目を剥いて仰け反り、椅子の背にしがみつく瑪瑙。
 そんな彼女を余所に、異様な術で解放を得た孔雀は、よろけつつ立ち上がると、あちらこちらを擦る。
 この様子に、瑪瑙はおっかなびっくり震える指を、孔雀へ向けた。
「な、何をしたの?」
「何って、縄を外しただけだけど。『ジファ』は解く言葉だし」
 手首を回し、肩を回し、首をぐるりと回しながら、孔雀は平然と答える。
「……あ、そうか。瑪瑙は稀人(まれびと)だもんね。こういうやり方は知らないんだっけ。うーん……ソトの言葉だと、チョーノーロクって言う力が近いかな?」
「ちょー……超能力?」
「うん、そんな感じ。だから全然、不思議なことじゃない」
「…………」
 言葉の意味を正しく理解出来ていない発言に、瑪瑙は頭痛を覚えた。
 超能力自体、不可思議な代物だという発想が、孔雀にはないらしい。
 黒の下地に、金の刺繍が施された衣は、華のある顔立ちも相まって、気品さえ感じさせるのに、中身がとんちんかんでは話にならない。
 とはいえ、目の当たりにした“超能力”は厄介だった。
 先程まで気軽に蹴ったりなんだりしていたが、それは相手が男でも、昨日見た限りでは弱いと思っていたからだ。
 それが妙な能力を持っていると知っては、迂闊に声を掛けるのも憚られる。
 椅子に座ったまま、瑪瑙は無意識で孔雀から身体を遠ざけた。
 孔雀はその行動に気付かず、柔軟を終えて、にっこり微笑む。
「でね。昨日、助けて貰った時、瑪瑙の名前を知ったんだ。姿が分かれば、生きている者の名前は取り出せるから」
「取り出せる?」
「そう。俺の中には、生きとし生ける者の名が記録されているんだ。意識しなければ出てこないけど。勿論、意識した相手なら、鬼籍に入っても憶えていられる」
 話の内容は珍妙なモノであったが、瑪瑙の中でこの男に関し、ある結論が導かれ形成されていった。
 ……あまり、辿り着きたくなかった結論だが。
「貴方……訊くのもどうかと思うけど…………人間じゃ、ないの?」
「む? 俺は人間だよ」
 即答。
 しかし瑪瑙の疑念は払われず、今度は別方向から突いてみる。
「じゃあ……理(り)の人?」
「うん、そう」
 途端、満開の桜を思わせる微笑が孔雀を彩り、瑪瑙は目の前が真っ暗になった。
 道理で話が通じないわけだ、という納得も、同時にする。

 瑪瑙が親しむ世界には、大きく分けて三つの人間が存在する。
 一つが稀人と呼ばれる人間。
 稀人というのは世界が形成された後に、別の場所からやってきた移民を示す言葉である。
 この人間たちの特徴は、人間という種を自分たちに限定している面にあった。
 そんな稀人から見て、もう一つの人間・理の人は、神という存在で認識されていた。
 何せ彼らの能力たるや、稀人にとっては、人間のひと括りから外れた超常現象が主。
 とてもではないが、同じ稀人たちのように気安く付き合える相手ではないのだ。
 かといって、無闇に崇めても、稀人を同じ人間として扱う理の人は、喜ぶどころか不満を口にする。
 彼らにしてみれば、同じ人間、垣根なく付き合いたいらしい。
 残るもう一つは、利(り)という人間だ――が、話の都合上、説明は割愛させて頂く。

 元来、稀人と理の人の接点は、非常に乏しいものである。
 今では、皆無、と言っても過言ではない。
 ――というのは建前で、実際は崇められるのが嫌いな理の人が、稀人に混じっているだけなのだが。
 ともあれ、これにより、大方の稀人は、理の人の存在を知らない。
 知っていたとしても、ほとんどは神話やそういう類のお話の上でしかなく、理の人と認識して、実物を見る機会は滅多になかった。
 幸い――といって良いかどうかは別として、瑪瑙は理の人が実在することを知っていた。
 が、認識して目にするのは始めてであるため、多少なりとも困惑する。
 特に、稀人の中で当たり前のことが、通用しない辺り。
 それともこの奇天烈さは、孔雀個人が持ち合わせているものなのだろうか。
 分からない事象は悩んだところで憶測の域を出ず、従って瑪瑙は混乱を整理するため頭を掻いた。
「つまり、理の人だから、貴方は私の名前が分かった……てことで良いのかしら?」
「……そういう区別は好かないが、まあ、そうだね」
 言葉通り、嫌な顔をした孔雀は、溜息を一つ付いた。
「もしかして瑪瑙は、俺が理の人だから、夫になるのを嫌がるのかな?」
 また随分、突拍子もない飛躍の仕方をしたモノだ。
 それでも、嫌がっている節は伝わっていて、瑪瑙はちょっぴり感動を覚えた。
 てっきり“イヤよイヤよもスキのウチ”などという、ご都合主義のいい加減な考えをしていると思っていたので。
 ココに来て、改めて孔雀の姿を見る瑪瑙。
 怯みつつも赤らむ彼の頬は無視して。
 もじもじする動きも除外して。

 結果、はじき出されたのは、孔雀が優良物件である事実。

 見た目は優れているし、身体つきも均衡が取れている。
 昨日は暴漢程度にやられていたが、縄を言葉の一つで消失させる術は見過ごせない。
 たとえ、無断で人の家に侵入し、人の着替えを一部始終見ているような変態だったとしても。
 上手く扱えば、孔雀は瑪瑙にとって益となりそうな者である。
(夫……形だけでも良いかな?)
 なんとなく、誘惑され、そんなことを思う。
 が、ふと疑問に思った瑪瑙、孔雀へ問うてみた。
「ねえ……貴方、理の人なら、どうして昨日はあんなのにやられてたの?」
「あんな……ああ、彼らのことか? いや、だって、良いモノ見せてやるからって言われて」
 前言撤回。
(……元より、口に出してはいないんだけど)
「今時、子どもでも引っ掛からないわよ、そんな怪しい文句。とんだ不良物件だわ」
 ぼそりと呟いた。
 食卓へ肘をつき、頭を掻いては、夫という名乗りをどう撤回させるべきか悩む。
 と、気配が動いた。
 無視して悩み続けていたなら、気配の元は椅子の前に跪き、瑪瑙の空いた片手を両手で包む。
「何か、気に触ることでもした?」
「は……」
 今当に、そういう状態に置かれている瑪瑙は、そもそもの原因である孔雀を睨もうとし――言葉を失った。
 黒い目の先で、お綺麗な彼の顔が、いたく傷ついた表情を浮かべていたのだ。
「やっぱり、俺が理の人なのが嫌? 瑪瑙の夫には為れない?」
「え……いや、あの?」
 取られた手の甲が、そっと孔雀の頬に押し当てられる。
 瞬間、真っ赤に染まった瑪瑙を知らぬ孔雀は、壊れ物を扱うように擦り寄っては、柔らかく口付ける。
「っ」
 かつて経験したことのない羞恥に襲われる瑪瑙。
 同時に、ようやく気付いた。
 今の今まで、冗談めいた受け取り方しかしていなかったので、自覚などしていなかったが。

(こ、これって……突拍子はないし、段階もすっ飛ばしてるけど――――プロポーズ!?)

 理解した途端、彼女の口をついて出た言葉は――
「駄目っ! 無理っ! 私は貴方のお嫁さんには為れないっ! ほ、他を当たってよ!」
 引っくり返った断り。
 しかし、瑪瑙の手を取ったままの孔雀は、眉を顰めて反論する。
「誰も、家族から受け入れられなければいけない嫁に、為って欲しいとは言っていない。それに瑪瑙に為って貰うんじゃなくて、俺が瑪瑙の夫に為りたいんだ」
 いじけたように言いつつ、瑪瑙の手の甲へ、また口付けを施す孔雀。
 手一つで嬉しそうに笑う彼に対し、瑪瑙の中でかっと熱が巡る。
「だ、だから駄目なんだってばっ!」
 仕舞いに瑪瑙は眦に涙を浮かべ、半ば強引に孔雀から手を取り返した。
 追っても取り戻せず、がっかりした孔雀に、瑪瑙は惑いつつ諭すように言う。
「あの、ね? 女だったら他にもいるわ。それこそ世界中に」
 人差し指を立て、諭す提案。
 しかし孔雀は首を振る。
「けど、瑪瑙は一人しかいない」
「め、瑪瑙って名前の人も、探せばきっと」
「君は一人しかいないだろう? 俺は君が良いんだ」
 きっぱり断言されて、先程までの冷淡な姿勢を引っ張り出せない瑪瑙は狼狽するばかり。
 他の理由をあれこれ探し、良い人も他にいると伝えても聞き入れて貰えない。
 最終的に、言いたくないことを叫んだ。
 孔雀が夫と為ることを断る、最大の理由を。
「わ、私は確かに一人しかいないけど……でも、珍しがられるのは嫌なの。こんな顔だから、なおさら、貴方と一緒じゃ人目を引くもの!」
 そうして彼女が覆ったのは、顔の右半分。
 重たい印象を与える黒髪を持ちながら、全体的には可愛い顔立ちをしている瑪瑙。
 だが、覆われたその部分は、肌の色からして他と違っていた。
 拉げた白。
 これに飾られるのは、精巧な蝋人形の顔を右側だけ溶かしたような形。
 見ようによっては仮面染みた顔は、紛れもない瑪瑙の皮膚で成り立っている。
 原因は、生まれつきでもなんでもなく、彼女自身の所業。
 なればこそ、最初の頃はインドア派であったことも手伝って、どうとも思わなかったのだが。
 ある日、陰で言われた言葉を瑪瑙は偶然聞いてしまう。
 ――瑪瑙って、イイ引き立て役だよな。アイツと一緒に交渉したら、大抵の奴はあの顔にビビって、俺についてくれるからさ。
 それは、同じ職場で働いていた男の言だった。
 仲も悪くはなかったのに、知らぬところでそんな風に扱われていたと知り、心が悲鳴を上げた。
 今の彼女なら男相手に趣味に興じることも可能だが、当時の彼女は逃げることしか出来なかった。
 たぶん瑪瑙は、彼のことが好き、だったのだろう。
 趣味には興じられても、あの時の痛みを引き摺るくらいには。
 以来、知人を頼って町を点々とし、ここに落ち着いた瑪瑙は決めていた。
 もう絶対、意識するような存在を傍には置かないと。
 後で利用されていたと知るのは、真っ平御免だからと。

 何より、この顔を利害なしで好く者なんか、いない。

 言葉で好きと言っても、それは冗談でしかない。
 だから、孔雀の言葉を瑪瑙は拒絶する。
 幾ら理の人であっても、文献の中の彼らが好くのは見目の良い者。
 本気に取って、馬鹿を見るのは決まっている――
 と、そんな彼女に伸ばされる手があった。
 頬へ添えようとする動きに顔を背ける。
 だが、ささやかな拒絶で跳ね除けられるほど、孔雀は優しい相手ではなかった。
「良い度胸だね、瑪瑙。その程度で俺を拒むつもり?」
「!」
 染み入る声音に身体が固まった。
 上から押さえつけられたかのように動かない頬は、逃れたはずの手に触れられた。
 孔雀の唇が、覆い隠していた瑪瑙の頬をゆっくりと這う。
 驚きに目を見開いたなら、手を添えたままの孔雀がふわりと笑った。
 ただし、ライラックピンクの瞳は底冷えする光を湛えている。
 唐突に実感させられる、理の人という存在。
「言っておくけど俺は、容姿なんか関係ない、大事なのは心だー、なんて陳腐な台詞、死んでも吐かないよ? 君がどう思おうとも、この容姿ひっくるめた君の夫に為ると言っているんだ」
 有無を言わせない口調に、知らず瑪瑙が頷く。
 すると孔雀は瞳を和ませ、揺らし、瑪瑙の頬を撫ぜつつ、顔を近づけ始めた。
「でも良かった……拒む理由が容姿だけで。俺自身が嫌われてたら、どうしようかと…………」
 頬に添えられていた手は、いつの間にやら背後の黒髪を梳いていた。
 孔雀の声に酔わされた面持ちの瑪瑙が、ぼんやりその感覚を理解しては目を閉じる。
「瑪瑙……我が愛しき君。口付けを交わそうぞ。我らの久遠を誓うために――……」
 子守歌の如く響く音色は心地良く、深まる気配に瑪瑙は為すがまま。
 やがて重なる吐息。
 互いの温もりを味わうように交わり。
 触れる。
 唇。
 ――――の直前。

『人ン家で何やっとるんじゃっ、こんの、スケコマシ!!』

「ふげっ!?」
 窓を打ち破った黒い塊が、孔雀の頭を直撃した。

 

 


2009/2/4 かなぶん

修正 2018/4/18

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