再度簀巻きにされた孔雀の上で、野太い声が歌う。
『で? 何よ、コレ? あたしがちょっと留守にした内に、なんだって理の者がいんのよ? 瑪瑙ってば、浮気者? こんなに尽してやってるってぇのに』
「……誤解を招くようなこと言わないでよ、カァ子さん。それに、私が招いたわけじゃないから」
 訂正を入れつつ、自分用とは別に、もう一つお茶を食卓へ置いた瑪瑙。
 手で「どうぞ」と示せば、孔雀の上で愚痴っていた相手は羽ばたき、一つ円を描いてから、湯のみの傍へ舞い降りた。
 どうやっているのか、湯呑みへ嘴を突っ込んだ先から、啜る音が響いた。
『……カーっ!! やっぱ、家ったらコレよね!? 瑪瑙の全く上達しない刺激的なお茶の味、実家にいる間中、恋しかったわぁ』
「相も変わらず失礼な…………否定はしないけど」
 自身でも茶を啜った瑪瑙は、鼻の頭に皺を寄せた。
 何度淹れても美味くゆかない味を忘れるべく、食卓へ故意に放置、椅子に腰掛けては、同居人を睨みつける孔雀を見つめた。
 同居人、といっても、カァ子は瑪瑙と同じ稀人には属さない。
 かといって、理の人――カァ子からしてみれば、理の者である孔雀とも違う。
 利、と呼ばれる、大きく括ったなら人間と表される存在であった。
 ――見た目は、白い瞳以外、そこら辺で土を穿り返している、カラスそのものだったとしても。
「どうして、利がいるんだよ。瑪瑙ってば、浮気者? 俺という夫が居ながら」
 不貞腐れた口調で孔雀がのたまう。
「あのね……誤解以前に了承もしていないでしょ、夫だなんて。それなのに浮気者って」
「コイツがいなきゃ、瑪瑙は了承してたんだ!」
 力強く床から見つめられ、うっかり目を合わせてしまった瑪瑙は、図星を衝かれて息を呑んだ。
 瑪瑙が理の人の存在を知っていたのは、偏に利であるカァ子が居たためだ。
 後から来たという稀人とは違い、利は理の人と同じくらい長くこの世界に住む種である。
 人間という区切りは、言葉を介し関係を築ける者同士であることだけ。
 従って、カァ子の姿に利の特徴はない。
 加えるなら、カァ子と同じ姿の理の人もいるという話。
 ならば、利を利足らしめるモノは何かと問われれば――
「どうして、瑪瑙!? 一体、この利に何の代償を払わされているのさ! 叶えたい願いがあるなら、夫だもん、俺が叶えるよ? だから即刻、コイツを追い出して!」
 じたばた暴れる孔雀の言う通り、利はこちらの願いを聞く代わりに、自分の願いを叶えることを要求する存在であり、かつ、これが利の特徴だった。
 大抵の場合、願った事柄より要求される願いの方が難しいため、同じ能力を持つ理の人が神と分類されるなら、利は妖の類と稀人から認識される。
 けれど、利は願いを叶えるという点で、忌まれはしても理の人より稀人に近しかった。
 理の人にも願いを叶えられる能力はあるのだが、いかんせん、捉える感覚が稀人から遠い。このため、面と向かって頼まれることなぞ、稀人の有史以来、数えるほどしかなかった。
 しかもそのどれもが、自然災害の様相を呈し、稀人の暮らしに大打撃を与えているのだ。
 まさに、触らぬ神に祟りなし、というヤツである。
 結果、利より稀人に友好的な理の人は、嫉妬心も剥き出しで、利を嫌う傾向があった。
 そして、そんな風に己を嫌う人間を好きになれる人間は、余程のことがない限りいないだろう。
 なので。
『けっ。後から来た分際が偉そうに。利の近くにいたくないなら、とっとと出ていきな。目障りなんだよ。理の者なんざ、この家にはいらないよ!』
 売り言葉に買い言葉。
 元々、利抜きにしても、喧嘩っ早いカァ子だ。
 外見はカラスそのものとはいえ、切る啖呵には迫力があった。
 対し。
「うっ……め、瑪瑙〜」
 情けない顔をしてこちらをうるうる見つめる孔雀は、外見が成人男性のくせに弱々しい。
 それでも美人であるため、必要以上に不恰好にならないところが凄かった。
 かといって、元より助ける気のなぞない瑪瑙。
 先程迫られ、あっさり陥落しかけた気恥ずかしさがあるため、ぷいっと視線を逸らした。
「ああっ、酷い! 夫を見捨てるなんて!」
 途端、上がる非難。
『ジファ!』
 次いで、縄からの解放を呼びかける言葉が孔雀の喉を通り、
『させるか! 「グス」!』
 すぐさまカァ子が野太い声を響かせ、これに呼応した縄は、立ち上がり様、瑪瑙の方へ突っ込もうとした孔雀の身体を再度拘束した。
 バランスを崩し、孔雀はびたんっと床に倒れた。
「あぅっ……ううううううう、また、捕まっちゃったよぉ」
 と思えば、しくしく泣き出した。
 これを見、相手を縛する言葉を用いたカァ子は、羽で口元を覆いつつ瑪瑙へ問う。
『な、なんなの、コイツ?』
「そんなの……こっちが知りたいくらいよ。大体、理の人のことなら、カァ子さんの方が知ってるはずでしょ? 同じ能力が使えるんだから」
 利にも理の人が使う能力と同じ力が備わっている。
 この能力は、この世界のコトワリを持つ者でなければ扱えぬ代物で、威力は生きてきた時間に比例する。
 これでも一応、三百年は生きているらしいカァ子。
 縛する言葉にも、過ぎた年月が秘められており、ちょっとやそっとの力では、物理的であっても縄を解くのは難しい。
 しかし、彼女は言う。
『知ってるって……確かに知ってるけど、あたしが知ってんのは、物心ついてからの理の者だけよ?……こんな感情の起伏が激しいヤツ、内側にいないんだけど』
 孔雀が自身の内から瑪瑙の名を取り出したように、カァ子も同じ能力を持っていた。
 その範囲も、生きてきた時間に限られている。
「……え? それってつまり――――」
『ジファ・グ』
 孔雀の言葉を受け、二人は同時に彼を見やった。
 簡単には解けないはずの、三百年分の言葉は、容易く解かれ、それどころか膜のような光が孔雀の身体を一瞬覆い、すぐに消え去る。
「ふふ……これでもう、利の言葉は俺に効かない」
 半ば茫然とする二人を余所に、立ち上がった孔雀は満足そうに息をついた。
 そして、自分を見つめる瑪瑙へ歩み寄ると、いきなりその腕を掴んで胸に抱き寄せた。
「むがっ!?」
「やっと取り戻した……」
 ぎゅーっと力一杯抱き締められ、呼吸もままならない瑪瑙は、回した腕で孔雀の背中をバシバシ叩く。
 これを何と勘違いしたのか、孔雀は拘束を緩めずに、嬉しそうに瑪瑙の頭へ擦り寄った。
「ふふふ……もう離さない」
『いや、離してやりなさいよ』
 遅れて我を取り戻したカァ子、些か呆れた口調で孔雀に言う。
 受けた孔雀は今までの貧相さを忘れた、愉悦混じりの高飛車な視線をカァ子へ送った。
「煩いな。利は黙ってろよ。カラス姿のまんまなくせして、瑪瑙の伴侶を気取るなんて図々しい」
「ふぁがっ!?」
『……はあ!?』
 目と鼻と口は塞がれていても、耳は無事な瑪瑙が驚愕の声を上げ、ワンテンポ遅れてカァ子も似た声を上げた。
『は、伴侶!? だ、誰が誰の!?』
「もちろん、伴侶は瑪瑙と俺だよ? だから、気取りのお前は瑪瑙の側にいちゃ駄目なの!」
 んべーっと瑪瑙の頭を抱えたまま、舌を出す孔雀。
 食卓の上のカァ子は、嘴を数回、開閉させ――後。
『ばっ、だ、誰が、瑪瑙の伴侶気取りだい!? 大体、あたしゃ、娶るんじゃなくて、娶られる方だよ!?』
「……同性愛者? しかもその声で、受け?」
『がっ!? あ、アンタね!? どういう知識の在りようだい!? 何より、男がしれっと言う台詞じゃないだろうが! そもそもっ!――「ビシ」!』
 怒りのまま言葉を放ち、羽を払ったカァ子に合わせ、食卓に多量の煙が噴出した。
 瑪瑙を守るように孔雀が一歩下がれば、煙の中から瑪瑙が忘れ去ったはずの杯がやってくる。
「あいたっ!」
 寸分違わず、孔雀の顔のど真ん中に命中。
 仰け反っても瑪瑙を放さないライラックピンクの眼は、涙で潤んだ目で煙を睨む。
 が、晴れては現れた姿に目を丸くした。
「イイ事!? 見た通り、あたしは女なの! ちょっと声が低いくらいで、変な言いがかりつけないでよね!?」
 食卓の上に立つのは、黒いショートと白い瞳を持つ、黒装束の見目麗しい少女。
 アルト寄りのソプラノは、ちょっと声が低い、という範囲に入るが。
「変身出来たのか……でも、女? ちょっと低いって、カラス時のあの野太い声で?」
「っ、いい、加減、放して! 苦しいってのっ!!」
「ふぐぅ!?」
 どぐっという鈍い音が、変わり果てたカァ子の姿に茫然とする孔雀を襲う。
 腕からの解放を得、握り拳で腹を抉るように叩いた瑪瑙は、一発KOで沈んだ身体を蹴り、荒い呼吸を繰り返した。
 顰めた顔とその赤さは、酸欠のせいばかりではないのだが。
「瑪瑙っ!」
 くらりと襲う眩暈は、確実に酸素不足がもたらした災難だろう。

* * *

 ひんやりした感触を額に受け、瑪瑙はゆるゆると覚醒した。
 鈍く目を刺す光に細める傍ら、塞がった上半分の視界へ、第一声を放つ。
「……カァ子さん、重い」
 訴えたなら、ふかふかの黒い羽毛の先に、尖った嘴がにゅっと現れた。
『お目覚めかい、瑪瑙。にしてもアンタ、花も恥らう乙女に重いだなんて……喧嘩、売ってんの?』
 野太い呆れ声に、瑪瑙は苦笑を返す。
 手を伸ばしては、額の上に居座るカァ子の、頭から背にかけてを柔らかく撫でた。
「喧嘩なんか、売らないよ。カァ子さんとじゃ、絶対負けちゃうもの、私……ところで、あの男の人は?」
 目覚めた当初はすっかり忘れていた、こうして伏す羽目になった原因を思い出して問う。
 するとカァ子は無言で額から跳び、瑪瑙の右側、顔と共に視力も乏しくなった方へと降り立った。
 これを追い、先を眺めて瑪瑙は目を丸くする。
 そこにあったのは、自室の床。
 なれど。
「……綺麗になってる。カァ子さん、なわけないし……あの人が?」
『そうさ。……気持ち悪い、とは思わないかい? 寝てる内に、勝手に部屋の掃除しやがって、とか』
「うん……」
 半ば不貞腐れたカァ子の様子を不審がりつつ、瑪瑙は身を起こした。
 心配する声には大丈夫と告げ、少しふらつく背は壁に預けて、見違えるほど片付いた部屋を見やる。
 枕側に位置する右の壁の、円い窓。
 これと壁の明かりを光源とする卓は磨かれた平面。
 散らばっていた衣服はどこぞへ消え、毛足の短い薄桃の絨毯が、淡い色を思い出している。
 開けっ放しになっていた箪笥も、歪み一つない。
 ぼーっとした頭で、最後、視界に入れたのは、すりガラスが嵌め込まれた扉。
 霞む向こう、長い金髪と黒い衣が、丁度、背を向ける形で立っていた。
『……あたしはイイって言ったんだ。片付けるのも……片付けた後、アンタを看病するのもイイってさ。けど、ヤツには責任があるんだと。瑪瑙は今日、部屋を片付けるつもりだったのに、気絶させてしまった。そんな自分に看病する資格はないってね』
「……それで、片付けて、あそこに? もう、夜だよね。……いつから?」
 背を向けたままのカァ子へ尋ねる。
 黒いカラスはすぐには答えず、繕った羽を広げた。
 舞い上がり、卓へ一直線。
 降り立っては、面倒臭そうに嘴の先で溜息をつく。
『ずっと、さ。利みたいに契約に縛られないせいか、飽きっぽい理の者が、ずぅっと。……何度か、そこに居られた方が鬱陶しいから入れって言ったんだけどねぇ。根性弱っちぃくせしやがって、妙に頑固だね、アレは』
 つと、カァ子のそこだけ白い瞳が、瑪瑙を捉え、にやりと笑う。
『しかも、一途だ』
「……カァ子さん。もしかして、もしかしなくても……気に入ったの?」
『まさか。心意気は買ってやっただけさ。あたしが好きなのは』
 もう一度、翼を広げて羽ばたき、カァ子が降りたのは、瑪瑙の膝元。
『アンタみたいな黒髪黒目のヤツだよ。誰が、金髪いかがわしい色の眼の軟弱野郎なんて、好きになるかね』
 カァ子の好みは、そのまま、彼女が本当はそう在りたかった色を示していた。
 黒い羽に映える白い目は、彼女が自身の中で尤も嫌う部分だ。
 地味な苛立ちを宥めるように、カァ子の首下を指で撫でる瑪瑙。
 すると、扉の向こうでガタンッと音が鳴った。
 何だろう、そう思って瑪瑙は顔を上げる。
「っ!?」
 危うく絶叫に近い悲鳴が出かかった。
 背を向けていた男が、すりガラスにべったり顔を押しつけていたのだ。
 化け物さながらである。
 しかも、恨みがましいライラックピンクの視線を感じては、カァ子がいるにも関わらず、膝を掛け布団ごと引き寄せ身を守る。
 当のカァ子は涼しい顔で、瑪瑙の隣に居座る姿勢。
 しばらく無意味な睨み合いが、すりガラスの向こうからカァ子、瑪瑙からすりガラスの向こうと、一方通行で続いた。
 唐突な終わりは、勢い良くすりガラスの扉が開けられて訪れる。
「お前!!」
 目に涙を溜めた孔雀が、ずかずかとカァ子に近寄ってきた。
「ひっ!」
 これに対し、その隣に居た瑪瑙が怯えた声を上げた。
 美人の迫力ある怒り顔に気圧され、壁に縋りつく。
「あ……」
 影を掛ける位置まで近づき、そんな瑪瑙にようやく気づいた孔雀は、一転してバツが悪そうな顔をした。
『んじゃ、後は二人で話すこったね』
「え、か、カァ子さん!?」
 待って、と去るカァ子へ伸ばした手の先に、孔雀がいるのを見た瑪瑙。
 咄嗟に手を引っ込めれば、孔雀が哀しそうに俯き、その陰、カァ子は開けられた扉の上で小休止。
『瑪瑙、判断はアンタに任せる。あたしゃ、どっちでもイイよ』
 野太い声はからかうようにそう残し、あっさり部屋を出て行ってしまった。

* * *

 二人っきり、それも自分はベッドの上で、相手はベッドの傍でこちらに影を落としている。
 状況が状況なら、彼を暴漢と考えても差し支えない立ち位置である。
「……とりあえず、そこに座ったら? 立たれていると、圧迫感があるの」
 指でベッドの端を示し、その指で瑪瑙は頬を掻いた。
 こくり、無言で頷き、作った影を除いた孔雀は、
「ちょ、ちょっと!? 確かに座れって私は言ったけどっ!」
 何故か、ベッドの上、身を縮ませる瑪瑙の向かいに俯いて正座した。
 異性を入れたことのない寝台に、彼の長い金髪が流れ、纏う金刺繍の黒い衣が白い褥を浸食する。
 そう広い場所でもないため、種類の違う緊張から、段々瑪瑙の顔が赤くなっていった。
 だが、対峙する孔雀の表情は、どこまでも、暗い。
「瑪瑙……御免。苦しかったよね。俺……理の人だから、稀人が鼻と口塞がれたくらいで、息が出来ないなんて知らなくて」
「…………は?」
 ちなみに、利であるカァ子の呼吸法も、瑪瑙と同じ鼻と口である。
 それ以外のどこで呼吸するんだと瑪瑙はいぶかしんだ。
(……エラ? いやいや、水中じゃないし)
 しばし、状況を忘れて、新たな呼吸法を見出そうとする。
 その隙に、ずずいっと孔雀がこちらに近寄っているのも気づかず。
「……嫌いになった? 怖い、かな? 俺の事」
「……皮膚呼吸?」
 瑪瑙の視線が自身の手の甲へ落ちる。
 また、死角で孔雀が近づく。
「あのカァ子ってヤツに言われたんだ。いきなり夫っていうのは可笑しいって。でも俺さ、瑪瑙の事が好き。だから、行き着く先はやっぱり夫だと思って」
「光合成、出来るのかしら……」
 咬み合っていないどころか、双方、相手の言い分を全く耳に入れていない。
 正座した格好のまま移動していた孔雀、姿勢を徐々に四つん這いへと変形させる。
「だから、殺しかけた後で何なんだけど……改めてお願い。俺を瑪瑙の夫にして?」
「じゃあ、栄養は根から? それとも――――って、わぁっ!?」
 今頃になって、孔雀の顔が至近にあるのを知り、膝を寄せる自分の身体が彼の身体に覆われていたと気づいた瑪瑙。
 思ってもみない距離に慌て、仰け反った頭をごんっと壁に激突させた。
(いったぁ……)
 押さえる頭はあれど、言葉は口を出ない。
 否、声は喉を通ってはいた。
 ただ、出る場所を間違っただけだ。
 星散る痛みから目を瞑っていた瑪瑙に分かったのは、唇に触れる柔らかさだけ。
 これが離れ、次に開いた目が映したのは、ぽっと頬を染めた孔雀の微笑。
「……嬉しい」
「へ?…………あ、あれ? わ、私、今、一体、何を……」
 頭の痛みが弱まり、遅れてやってきた初めての感触と、孔雀の反応に、瑪瑙は戸惑った。
 混乱する彼女を余所に、孔雀の身体が更に瑪瑙へ添う。
 下から突き上げるようだった美貌が、いつの間にか瑪瑙を見下ろす至近にあった。
「瑪瑙……」
「は、はい?」
「君から口付けをくれるなんて、思ってもみなかった」
「……く、口付け? え? こ、この残った感触が? 嘘っ!? ぜ、全然、知らない」
 言葉として得た情報から、瑪瑙の顔が真っ青に染まる。
 どれだけの相手にどんな趣味を興じようとも、瑪瑙も一端の女。
 年齢的には、早婚が一般常識の世間に置いて、完璧な行き後れだが、最初のアレコレにはそれなりの夢を持ち合わせていた。
 ――なのに。
「……そ、そんなぁ、どうしよう。百歩、ううん、万歩譲って、相手が貴方でも良いってことにしても……頭ぶつけて、痛みにかまけている内に、全部終わってるなんて」
「瑪瑙?」
「酷いっ!」
 戸惑う孔雀へ、キッと睨みつける瑪瑙。
「は、初めてだったのに! もっと、こう、浪漫溢れる感じとか、なかったの!?」
 この時の瑪瑙は、あまりのショックから、自分が何を口走っているのか、全く分かっていなかった。
 孔雀の中で、都合の良い書類に、ぽんっと瑪瑙の分の判が押されたのにも気づかない。
 くすり、笑われて、瑪瑙の怒りに薪がくべられた。
 激情に従い、自分の唇を指で示す。
「何!? 何が可笑しいって言うの!? 最初にこだわるのって変!? そりゃ、男の人は良いわよ、ヤるだけなんだから! でも女には残るの! 色々、跡とかそういうモンが!」
「……瑪瑙…………そういう言葉使いは良くないよ?」
 些か呆れた表情が至近に浮かび、一旦は、自分の言を恥じる瑪瑙。
 しかし、こればかりは譲れないと孔雀の胸倉を掴んで、再度、彼へと叫び。
「だって!」
 ふっと微笑まれて、言葉が後に続かなくなった。
 知らず、孔雀を引き寄せていた自分に、今更理解を示しても、もう遅い。
 かぁーっと染まり、黙り込んだ瑪瑙に、孔雀は笑みを深め、目を和ませて言う。
「そうだね。何事も最初は肝心だ。だから、さ? 瑪瑙からは、もう終わってしまったけど……俺からなら、まだ――」
 初めてだよ?
 続く言葉は、結局、今回もこつりと壁へぶつけてしまった頭の内で響く。
 それでも、先程とは違い、感じる熱は確かにあり――
 きゅっと胸倉を掴む、緩めていた手をまた強めたなら、そっと解放された。
「あ、御免。苦しかった?」
 離れたといっても、尋ねる声は湿る唇のすぐ傍に。
 恥ずかしさから瑪瑙は少し俯き、ふるふると首を横に振った。
 実際は、苦しかったりする。
 だけどそれは、孔雀が心配する呼吸のせいではなく、激しく脈打つ鼓動のせいだ。
 出逢ってから、変態行為ばかりが特出する孔雀相手、それなのに。
「お……かしい…………」
「ん?」
「だって、私、貴方の事、全然……知らないのに、こんな…………貴方、私に何か、した?」
 黒い瞳が、真正面のライラックピンクを勘繰る。
 これには少しばかり、寂しそうな顔をする孔雀。
 大袈裟に嘆くことはせず、壁から瑪瑙の身体をゆっくり剥がし、あやすように髪を撫でた。
「知らないなら、知ってくれれば良い。そうしたら、証明出来る。俺は君に、何もしていなかったと」
 こつりと額を合わせ、閉じた孔雀の瞼が苦痛に揺れた。
 酷いことを言ってしまった。
 そんな後悔が瑪瑙を支配し始めたなら、眼前の瞳が開かれる。
 魅入られたのは、何故だろう?
 頭の隅で考えても、出ない答え。
 合間で、孔雀が囁く。
「愛しき君……我らの久遠を誓おう。この口付けにおいて。我が身は君が為、常に傍らに在らんと欲す」
 埒が明かない答え探しの終止符として、瑪瑙の瞳が閉じられる。

 再度訪れた温もりは、寝台の白を黒と金に彩り、幾度となく重ねられ――

 翌日、孔雀の腕の中で目覚めた瑪瑙は、ずっと起きていた彼に告げられた。
 これでもう俺は、君の夫だね――と。
 事故で口付け、故意でされ、もう後戻りは出来ないと察した瑪瑙は、観念した様子で渋々頷く。
 耳まで真っ赤に染めながら――

 

 


UP 2009/2/19 かなぶん

修正 2018/4/18

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