――などという結果で終わる訳もなく。
「……はれ?」
「あ、起きた?」
自宅の離れにある作業場、中央にでん! と置かれた作業台の上から、間の抜けた声が届いたのを受け、瑪瑙はすり鉢の中身を潰しつつ振り返った。
寝惚け眼のライラックピンクは、結わえた黒髪にマスク姿の瑪瑙を見ても、さして不審がらず、。
「めにょぅう……」
相変わらずの気の抜けた声音で、起き上がろうとする。
その際、ガキッと響いた嫌な音にはビクついたものの、予定通り起き上がれない孔雀に、瑪瑙はほっと息をついた。
当の孔雀は、何故動けないのか理解出来ない様子で、執拗にもがいている。
「わっ、ちょっと待って?」
度々鳴る音に慌てた瑪瑙が潰す作業を止め、手袋に覆われた手を孔雀の頬へ寄せた。
途端、孔雀は与えられた手へ頬ずり。
うっとりした面持ちに若干引きつつ、冷や汗混じりに瑪瑙は微笑んだ。
「おはようございます」
「うん。おはよぉ……めにょう、んん」
「……なに、ソレ」
「? おはよぉのちぅ」
「…………」
目を閉じ、唇を少しばかり尖らせる相手に、ちょっぴり頭痛を感じる。
「えっと、今、自分が置かれている状況、分かる?」
「? そぉいえばぁ……きゃらだぎゃ、うぎょきゃしにゅくいにゃ?」
身じろぐ孔雀の動きに合わせ、ギシギシ鳴る音。
これに瑪瑙の眼は瞬き、驚きを示した。
「さすがは理の人。本当なら、まだ動けないはずなのに」
「? どーゆーこちょぉ?」
きょとんとした顔と共に動きが止まれば、瑪瑙は今までで一番良い笑顔を浮べた。
「ちょっと、実験に付き合って貰おうかと思って」
「じっけんん?」
「ええ。それで、自由に動き回られると厄介だなと思って、拘束させて貰ったの」
「……あ、ほんちょら」
舌っ足らずな声が向けられたのは、孔雀を作業台に縛りつける黒いベルト。
予備として手足首、肘上、膝上、腰周りに付けられた枷もある。
「……にゃんか、しゅんごいじゅうしょうびだにぇ?」
ここに来て、ようやく自分がどういう状況に陥っているか理解したらしい。
頬ずりを止めた孔雀の顔が青褪めたのを確認し、彼から手を離した瑪瑙の眼が、殊更楽しそうにマスクの上で笑う。
「それはもちろん、相手が理の人だからよ。拘束一つ取っても、手を抜けないと思って、色々頑張ったわ。その甲斐あって、貴方は立派なまな板の上の鯉に」
「い、いちゅかりゃ?」
孔雀の頭の上に位置する椅子へ腰を下ろした瑪瑙は、回りにくい舌でなお喋る孔雀を愛しそうに見つめた。
「いつから……が良い?」
「え……あの、く、くちじゅけは?」
「ええ、したわね」
にっこり笑ってやったなら、つられたように孔雀の顔が綻んだ。
こんな状態であっても歓ぶ様に、少しだけ罪悪感が芽生えたが、コレを無視して瑪瑙はすり鉢を孔雀の横に置いた。
空いた手で、マスクの上から自身の唇を指す。
「ココに、ね。眠り薬を仕込んでおいたの。私には効かないけど、相手には効く、とっても強力なヤツを」
「い、いちゅ?」
「さあ?……いつが良いかしら?」
言いつつ、黒い作業着の腰にある道具袋から、薬品を一つ取り出す。
微笑みは絶やさず、孔雀の目の前で中身を開け、手袋にコレを塗ったくる瑪瑙。
これで少しは怯えるかと思いきや、真剣な面持ちで瑪瑙を睨む孔雀にそんな色はなく、逆に瑪瑙の方が怯んだ。
「誓いの……後が良い」
「…………そう」
取り戻された正常な舌の巡りよりも、諦めず自分を求める目に恐怖を感じた。
払拭するように、瑪瑙は首を振ってみせる。
「残念。貴方から口付けた時よ」
「…………そっか」
もっと悲壮な顔をするかと思った孔雀が、寂しそうに笑うのを受けて、瑪瑙の眉が寄った。
どう考えても、騙したな、と憤る場面である。
そうすれば、瑪瑙とて、もう少し作業しやすいのだが。
かといって今更止める気はなく、濡れた手袋で孔雀の頬を包み込んだ。
数秒、液を浸透させるように静止し、これを首から鎖骨にかけて伸ばしていく。
予め緩めておいた孔雀の服から覗く肌は、これが本当に男のモノかと思うほどきめ細かく、滑らかな感触が手の平に伝わった。
手袋越しでも分かるしっとりした肌触りに、少しばかり瑪瑙の目元が綻ぶ。
寝起きの体温も混じれば、不思議な心地良さを感じる。
が、薬の塗布は続けられ。
「これはね、痺れ薬の一種。脳からの指示を鈍らせる役割があるの。だから――」
「気持ちいぃ」
「え?」
妙な発言を受け、瑪瑙の両肘が孔雀の顔を挟む形で落ちた。
そのまま、孔雀の顔を覗き込めば、頬を紅潮させた美貌にかち合う。
「あの……貴方、これから自分がどうなるのか、とか、そういう不安はないの?」
「ないよ」
間髪入れず、答えが為された。
理解できない瑪瑙は、孔雀へ自分の影を落として問う。
「あの、ね? 昨日は、結果的に貴方を救うことになっただけなのよ? はっきり言っちゃうと、私は今、あの男たちより酷いことをしようとしているの、貴方に。それなのに――」
「別にいいよ」
「へ?」
すっと閉じられた目。
惚けた瑪瑙は、正気を疑うような目でコレを見つめ。
「瑪瑙になら、何されてもいいよ、俺」
「……なんで?」
「んー……改めて効かれると困るけど」
開かれた瞳。
熱に浮かされたライラックピンクは、映す瑪瑙をくるりと揺るがし歪ませる。
「好き、だからさ、瑪瑙のこと。何されてもイイくらい」
「…………そう」
「うん」
戸惑う瑪瑙に対し、あくまで孔雀は笑いかける。
溜息をついた瑪瑙は、手袋を脱ぎ捨てた。
だが、最初の予定を覆したわけではない。
道具袋から新しい手袋を取り出しては、装着。
すり鉢の中に片手を突っ込み、中のモノを丸く形作る。
程好く練り合わさった、赤茶のソレを取り出し、孔雀の口へ、何も持っていない手を添えた。
無理矢理開かせるつもりだったのに、痺れているはずの口は、孔雀の意思で勝手に開き、
「あー……」
「……貴方…………抵抗、しないの?」
直前で丸めたモノを抓んだ手が止まったなら、孔雀の方からぱくりとコレに齧り付いた。
「ん」
驚く瑪瑙を楽しげに眺めた孔雀は、口にしたモノを咀嚼し、ごくり、喉を鳴らす。
* * *
最後の拘束を解いた瑪瑙は、ぐったりとした面持ちで、孔雀の頭を背に、椅子へ腰掛けた。
開けたままの窓から、黒い影が飛来しても、一瞥せず。
「なんで……大人しく丸薬食べちゃうかな?」
様々な薬草が張り付けられた白壁や、備え付けの棚に置かれた中身入りの瓶、開閉式の水晶の板が付けられた机、北向きの窓と西に面する木造の扉。
あえて人のいない場所だけ見渡せば、背後から返事がやって来た。
『そりゃ、アンタを好いているからだろ。愚かしいくらい』
意識のない孔雀から発せられたと思えない野太い声は、軽い音を跳ねさせ、瑪瑙の肩に納まった。
「カァ子さん……ありがとう。この人、ここまで運んでくれて」
ちらりと黒い目が、肩のカァ子を映す。
これを受け、白い目は頭を振った。
『いんや。これで少しは、アンタの疑り深さが晴れりゃイイと思うんだけど』
「ははは……」
笑いながら、足を椅子の上まで持ち寄った瑪瑙は、膝に自分の頭を擦り付けた。
* * *
口付けの最中、意識を失った孔雀を、瑪瑙はしばし抱き締めていた。
流れるような金の髪を梳き、力を失った手に手を重ねて。
苦労知らずの孔雀の手は、髪同様、瑪瑙とは段違いに滑らかで。
溜息が漏れて、孔雀の前髪が揺れる。
「……御免なさい。でも、信じられないの。貴方のこと。私を、好きだって言葉も」
語りに反し、瑪瑙は抱く力を強めた。
縋るような手が、孔雀の黒い衣に皺を作る。
「だって貴方、とても綺麗な人だから。あの人も、整った顔、してたから」
浮かんだのは、利用されていたと知る前の、万人に向けられる優しげな微笑。
右半分だけ、白く溶けかかった顔を真っ向から見ても、その微笑みは変わらなかった。
だけど、本心を知った。
だから、信じられない。
綺麗な薔薇には棘があるという。
しかして薔薇は、棘を備える前にも、多くの生物を傷つける。
大輪の花を咲かせる為に。
自分の手ではなく、人という、己に魅了された者の手を使って。
自身が枯れることを恐れるのは当然だが、こちらも生き物、そう簡単に潰されては堪らない。
それも他人を介すような真似で。
一度、潰れかけた経験があるなら、なおさら――
そうして瑪瑙はカァ子を呼び、己の考えを告げた。
試したいことがある、と。
頑なな瑪瑙には呆れたカァ子だったが、運ぶための言葉を紡いでは、孔雀の身体をこの離れまで運んでくれたのだ。
* * *
もうすぐ、夜が明ける時刻。
北と西にしか陽の訪れを望める場所はないが、白む空は判別できた。
春の終わりを迎える季節柄、早朝でも着込むほどの寒さはない。
そっと吐いた息も、無色透明。
「……でも、御免。やっぱりまだ、納得出来てない」
『瑪瑙……』
「だって相手は理の人だもん。もしかしたら、心を読む術を持っているのかもしれない。施したのが、ただの睡眠薬だって……分かってたのかもしれない」
『まあ、無いとは言い切れないが』
「…………」
膝から顔を離し、くるり、拘束を解いた孔雀の寝顔を見た。
幸せそうな、その顔を。
試したかったのは、孔雀の本心。
望んでいたのは、罵倒。
近づいた、本当の理由。
けれど。
真実、望んでいたのは――
痺れ薬を拭き取った頬を、触れるか触れないかの位置で撫でた。
すると、孔雀の唇がむず痒そうに動き、くすりと瑪瑙が笑う。
「面白いね、この人。……ねえ、カァ子さん?」
孔雀へ手を伸ばしたまま、作業台に顔を寝そべらせた瑪瑙。
『なんだい』
彼女の肩から降り、目の前に身体を留まらせたカァ子は、面倒臭そうに首を振る。
「……この人がさ、目が覚めて。それでも私の夫になりたいって言ったら、ココに置いても良いかな?」
『言ったはずだよ。好きにしろってね。大体――』
一旦切ったカァ子は、仰々しい溜息をそっぽに吐き出す。
『何が、貴方から口付けた時よ、だよ。確かに薬はそん時仕込んだんだろうが、誓いの口付けはきっちり受けてたじゃないか』
「……うん」
カァ子の指摘に、瑪瑙はふっと苦笑した。
瑪瑙が親しむ世界の婚姻に関し、決まりがあるとするなら、それは誓いの言葉と応じる口付けのみ。
それさえ行えば、晴れて夫婦となる。
至ってシンプル、簡単な仕組みだ。
が、一つ、重要な点があった。
口付けの前に誓う言葉は、単なる言葉ではない。
夫婦関係を違えれば、相応の代償を支払う羽目になる、一種の呪いなのだ。
代償の度合いは、何を誓いとするかにより、強弱が決まる。
一番軽い誓いなら、頬を叩かれる程度の痛み。
一番重い誓いなら、死、もしくは死んだ方がマシレベルの代償を、誓った相手が払うことになる。
踏まえ、孔雀が口にした誓いはといえば――
『なんてーかさ? コイツ、かなり頭悪いんじゃない? 夫になるって意味、絶対分かってないわよね、あの誓いの内容じゃ』
嘴で孔雀を示すカァ子。
瑪瑙は苦笑のまま頷いた。
「うん。あの内容は違えた時、かなり危険だよ。だって、一生を私に捧げるってさ? 私が解消しちゃったら、この人、その時点で死んじゃう。私は誓いを口にしていないのに……不公平だって思わなかったのかな?」
『まあ、それくらいアンタに本気――って、さっさと認めてやりゃいいじゃん!』
はっと気付いた様子のカァ子が、瑪瑙の頭を羽で叩いた。
痛くはないが、痒みを引き起こすそれに、孔雀へ向けていた手を伸べて掻き掻き。
『そうよ。よくよく考えりゃ、あんな誓いしたんだもの。それだけで、コイツ、信じても良いはずでしょ?』
「うん……だけど、理の人だから」
『誓いの代償に対抗出来るかも、って?』
「うん。カァ子さんの拘束解いたくらいだし」
『……アンタって…………本当、疑り深いわね』
呆れた白目の白い目に瑪瑙はくすくす笑い、転じては、半眼でじろりとカァ子を見つめた。
「心配性のカァ子さんには言われたくないけどね。……あの時、何があったかはほとんど話してなかったよね? それなのにカァ子さん、どうして詳しく知っているのかしら? 特に、薬仕込んだ時と誓いの時が別ってさ……どうして、分かったのかなー?」
『う……こ、細かい事は気にしない気にしない』
野太い声が、両の羽を振って誤魔化す仕草。
それでも睨み続ければ、カァ子の背がぴんと伸びた。
『あ、ほら、コイツ、目覚めるよ!? 今はまだ、誓いの成立は内緒なんだろ? いつまでも話題に上げてちゃ駄目じゃないかなー?』
ほらほらと彼女が羽先で指す先を、頭は作業台に預けたまま、瑪瑙は追う。
長い金の睫毛がふるふる動くのを認めては、嘆息一つ。
似た息を吐いたカァ子を再度視界に入れた。
「じゃあ、今日の追及はここまでね」
『きょ、今日の?』
「そう、今日の。……もう覗きはしないって約束するなら、見逃してあげても良いけど」
『あぅっ……じゃ、じゃあ、そういう方向で』
「破ったら、誓って貰うから」
『えっ!?』
「口付けもありかしら?」
意地悪い笑みを浮かべ、カタカタ震えるカァ子を見つめる瑪瑙。
にやっと笑む直前で、
「瑪瑙の口付けは、俺だけの特権!」
寝言の勢いで起きた孔雀が、誰もいない足下を指して宣言したのを見、諦めともつかぬ苦笑が瑪瑙から零れた。
……同じ勢いで後ろ向きに倒れたのに、「瑪瑙ぉ」とにやける様は、寝惚けただけと分かっていても引いてしまう不気味さだが。
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