着せ替え人形の如く、為す術もないまま、孔雀によって仕立てられた瑪瑙。
 そんな彼女に玄関先で出迎えられ、帰ってきたカァ子は何も言わなかった。
 笑いも、せず。
『…………瑪瑙、タダで願い事聞いてやるよ』
 たっぷり時間を置いては、溜息混じりに吐き出された案へ、俯いたままの瑪瑙は親指を後方、浮かれ頭の変態に向けた。
「アイツを止めて」
『……了解』
 地獄の底から響く音に、やはり溜息混じりで請け負ったカァ子は、やれやれと首を振る。

* * *

 カァ子に頼んで孔雀を気絶させ、その間に用事を済ませてきた瑪瑙は、現在、むすっとした表情で離れの椅子に腰掛けていた。
 その衣装を一言で表すなら、最も適した表現は「甘そう」だろうか。
 基調は薄桃で、形は上半身のほっそりとしたいつもの服と変わりないが、幅広の袖や裾にはひらひらした白い薄布がふんだんに使われている。
 無地の上着は、取って付けたようなリボンに彩られ、留めとばかりに、それらの親玉と見紛う巨大リボンが、瑪瑙の登頂にふんわり乗っかっていた。
 孔雀曰く「可愛いよ、瑪瑙。とってもよく似合ってる!」だそうだが。
 瑪瑙と普段の彼女をよく知るカァ子にとっては、「……何の罰ゲーム?」と目を覆いたくなる格好である。
 当然、馴染みの店に行こうものなら、顔見知りの笑いを誘う代物だろう。
 現に、薬の材料を買いに行った瑪瑙は、待ち時間に来店した他の客に笑われてしまい、恥ずかしさのあまり、「そんなに笑いたきゃ、もっと笑わせてやるわよ」と言って、隠し持っていた笑い薬を、客たちに片っ端から振舞っていったのだ。
 一過性の代物だが、しばらくは笑い過ぎによる、腹痛に苛まれることだろう。
 ざまぁみろ、とは言わない。
 自分と同じ性格をした奴が、同じ格好をしていたなら、確実に笑うと瑪瑙は断言できる。
 ゆえに、笑い薬に関して、謝る気もなかった。
 同じ目にあっても、致し方ないとさえ思った。
 それほどまでに、現在の瑪瑙の姿は普段の彼女を知る、普通の神経を有する者にとって、衝撃的なのである。
「……はあ」
 とはいえ、いつまでも剥れているわけにはいかない。
 頭を一度振り、鬱屈とした気分を払った瑪瑙は、椅子から立ち上がると薄手の手袋を装着。
 作業台の上に置いた鞄を開ける。
 がさごそ、慎重に漁ること数回。
 作業台にもたれたまま放置された孔雀を、目一杯叩いたにも関わらず、中身に損傷は見当たらなかった。
 ほっと一息つき、次いで、手にした物から台の上に出していく。
 数種類の枯れ草と形容し難い液体の入った小瓶。
 用途不明の小石と中に奇怪な蟲の影を潜ませる色彩豊かな宝石。
 膨らんだ麻袋と厳重に封の為された小箱。
 何が入っているのか、がさがさ音を立て続ける、布の被さった籠状の品。
『相も変わらず、得体の知れないブツを仕入れてきたねぇ』
 これらの品を見、感心か呆れかつかぬ声で、作業台の隅にいるカァ子が呟いた。
 対し、瑪瑙は先程までの怒りはどこへやら、うっとりした目で、最後に取り出した細長い箱へ頬ずる。
「うふふ……イイでしょう? さすが、黄晶だわ。通いがいがあるってもんよね」
『はあ、そうかねぇ。あたしゃ、アンタに通われている黄晶の坊やが不憫でならないよ』
 齢300を数えようが、自身をか弱い女の子と断言するカァ子。
 かといって、自分とは違う齢の取り方をする稀人の成人男性を、無闇に坊やとは言わない。
 瑪瑙が黄晶を贔屓する要因も、その辺に理由があった。
「何言ってるの、カァ子さん。黄晶を紹介してくれたの、カァ子さんじゃない」
『いや、そりゃそーなんだけどさ』
 見た目、黒いカラスのカァ子さん。
 彼女はその昔、稀人の幼子を拾ったという。
 カラス姿でどうやって拾ったのかはさておき、妙な縁で幼子を育てることになったそうな。
 成長した幼子は色んな過程を経て、いかつい薬種店主の黄晶となり、それが坊や呼びの由来となっている。
 ちなみに黄晶からカァ子への呼称は「カァさん」。
 うら若い乙女のカァ子にとっては、不愉快極まりない呼び方であるため、許されるのは幼い頃から使ってきた黄晶だけ。
 瑪瑙がそんな特別扱いの坊やを紹介されたのは、まだカァ子と知り合って幾日も経っていない頃であった。
 瑪瑙とカァ子の出会いには、瑪瑙が先生と仰ぐ存在が関与しており、カァ子はこの先生を信用して、瑪瑙を黄晶に引き合わせたのだ。

 しかし――

『……最初に軽口叩かれたくらいで、丸一ヶ月、大の男を軟禁状態にした挙句、新薬施す変人だなんて知らなかったんだよ、あたしゃ』
 羽先で頬と思しき箇所を掻くカァ子に、細長い箱を抱えた瑪瑙は口を尖らせた。
「変人とは失礼ね。そんな顔じゃこういう職にしか就けない、って笑った黄晶が悪いのよ。薬師に顔は関係ないでしょうが」
『あのね。アンタは程度を知らなさ過ぎるんだよ。お陰で黄晶、アレから半年近く、あたしに媚振り撒いてたんだから。想像してご覧よ。巌のような顔をした男が媚び諂う場面を。っああ! 今思い出しても、気味が悪い!!』
「……カァ子さんも結構酷いこと言ってるじゃない」
 不公平だと端で零せば、羽をぶるりと振るわせたカァ子の白い目が瑪瑙を睨んだ。
 言葉のない非難に目を逸らした瑪瑙、わざとらしく、「どこに置こうかしら」と手にした箱を持って、辺りをぐるりと見渡した。
「……ん…………瑪瑙っ」
 と、作業台に背中を預けて気絶していた孔雀が、起き様に勢いよく身を起こす。
 が。
「あうっ……」
 急激な姿勢の変化についていけなかったのか、すぐさま額を押さえて蹲ってしまった。
 これを冷めた目で見つめた瑪瑙。
 箱を作業台へ置き、長い金髪から覗く苦悶の表情の傍へ近づいた。
 溜息を一つ吐き出す。
「急に起き上がるから気持ち悪くなるのよ。大丈夫、孔じゃ……く?」
 くいっと裾が小さく引っ張られた。
 何なんだと眉を寄せれば。
「…………た。…………れ。…………な」
 何事かを呟く頭。
 意気消沈を体現する様子に首まで傾げた瑪瑙は、突拍子のない孔雀の行動を警戒しつつ、中腰となった。
「孔雀?」
 もう一度呼んだなら、がばっと孔雀の顔が上がった。
 眼差しに含まれる怒りの感情に、ひゅっと喉が鳴る。
「愚か者!」
 唐突に叫ばれて目をぎゅっと瞑る。
 叩きつけられた怒気は、離れ全体が揺れた錯覚を瑪瑙に与えた。
 恐る恐る目を開けると、座ったまま、更に眉を吊り上げた孔雀の姿がそこにある。
「君はなにゆえ、斯様な夜分に一人で外出する? 勤めの為? ああ、そうだろうとも! だがな、君は女人なのだぞ? たとえ手持ちの薬で対処しようとも、限り在る代物、どうして掛かる災いの全てを防げようか。同行を申し出る者が在るというに、此れを払ってまで危険に身を晒す理由は?」
「え……あ…………と?」
 ただでさえ、初めて見る孔雀の怒りに混乱しているところへ、聞き慣れない語りが入り、瑪瑙は目を白黒させた。
 人の裾を抓むこの男は、果たして本当に孔雀なんだろうか、と疑いたくなるほどの驚きに、瑪瑙はとりあえず何か言わねばと言葉を探し。
「いや、でもさ、今までだって、私、一人で外に」
「だから?」
「だ、だから、別にどうってこと」
 しどろもどろな受け答えしか出来ない自分がまどろっこしい。
 大体、そう言うなら、孔雀が瑪瑙をこんな格好にしなければ良かったのだ。
 それもあんな方法で。
 ふと脳裏に浮かんだのは着替え時の記憶。

 

 唇以外にも口付けを受けつつ、しなやかな指が素肌を滑る感覚。
 熱い息と共に勝手に喉を通る音色を「もっと」とせがまれては、一層甘く啼き出し喘ぐ。
 うつ伏せられ、潤んだ瞳で見返れば、歪んだ視界の中、背中が剥き出しになった自分とは対照的な、着衣に乱れのない孔雀が微笑む。
 眼福と評して後、少しくらいなら、と瑪瑙の了承も得ず、覆い被さる影。
 拒もうと思えば拒めたはずなのに、容赦なく付けられていく跡を知りながら、瑪瑙は敷布を掻くだけ。
 最後にはその手も取られ、瑪瑙はたどたどしく許しを乞うた。
 すると過剰に反応した孔雀、焦ったように「危ない」と繰り返し、瑪瑙を後ろから抱き締め顔色を確認。
 ほっと安堵を吐いては、実は自作だという、忌々しい服を瑪瑙に着せた。
 その間にも、止めたはずの動きを施行された瑪瑙は、「可愛い」とのたまう孔雀の下、火照る身体に惑い――

 

 睨みつけても「手は出さなかった」と胸を張る変態は、段々剣呑な顔つきとなった瑪瑙を似た眼差しで射た。
「今までが無事ならば、此れからも無事だ、とでも? 大層な自信だな。恐れ入る」
「…………」
 皮肉げな笑みを浮かべた孔雀は、おどけたように両肩を竦めた。
 冷淡とも取れる怒りの眼はそのままに。
 彼の指摘は正しいのだろう。
 だが、普段が普段だけに、この高慢ちきな態度が気に入らなかった。
「……さっきから黙って聞いてれば貴方ね」
 口火を切るつもりで、一歩足を踏み込む瑪瑙。
 中腰になり、吠えるように顔を突き合わせれば、
「無事で、良かった」
「……へ?」
 孔雀の額が裾を掴む彼の手に落ちた。
 出鼻を挫かれたていの瑪瑙は、一転、気弱となった態度の対処に困る。
 そんな彼女を余所に、孔雀は緩く首を振った。
「独りで目覚め、傍らに君無き事がどれほど苦痛か、君には分かるまい。我が時と君が時は等しくなかろう? ひと時の眠りと思えども、君を失くす程に経てしまわぬかと、怯懦に落ちぬ夜はないのだ」
 とつとつで語られる言葉へ瑪瑙が思い出すのは、夜中に目覚めた際、ぐーすか大口開けて涎を垂らし、どんなに揺すっても叩いても起きない誰かさん。
 辛い姿勢を正し、切り返しの言葉を探しては頬を掻き掻き。
 目線をちらりとカァ子へ寄せたなら、つんっとそっぽを向かれてしまった。
 どうやら黄晶に関して、つっ込んだ事を根に持っているらしい。
 口の中で溜息を吐き出せば、視界の隅で金色の頭が動いた。
 視線を孔雀に戻した瑪瑙、内心で「げ」と呻く。
 人の裾で口元を隠しつつ、泣く一歩手前の表情で、くすんと鼻を鳴らす男がそこにいたので。
 女々しい仕草が妙に似合う孔雀は、目を余所へ向けつつ、
「だというのに、傍に居ぬばかりか、外出してしまったと知って……追おうとすれば、カァ子さんに足止めを喰らい」
 口調に変わりはないが、カァ子だけは意地でも「さん」付けする様子。
 他方を向いているのを良いことに、瑪瑙は唇だけで薄く笑った。
「過ぎた事をとやかく言うつもりはない。けれど、此れだけは知っておいて欲しいのだ」
 すいとこちらを見つめる孔雀。
 気取られぬよう表情を改めた瑪瑙の裾へ、吐息を零しては言う。
「瑪瑙……心配、したぞ? 頼むから、次は我も連れて行け。積極的に害す事は望まぬが、君を守る盾ぐらいには為れる。だかや――め、めひょぅ?」
「誰が女豹よ。いかがわしい発音しないで頂戴」
 呆れを含んだ笑みを浮べた瑪瑙は、懇願する語りの最中、抓んだ孔雀の両頬を解放した。
 裾を離し、頬を擦りさすり、こちらを軽く睨む上目遣いに、にやりと嫌な笑い方をしてみせる。
 と、孔雀の身体がビクッと震えた。
 位置的に下でも、先程まで上から物を言っていた相手の、不穏を察した怯えを面白がりながら瑪瑙は言う。
「御免ね、孔雀」
「え…………」
「ありがとう、心配してくれて」
「め、瑪瑙」
 頬を押さえながらも、抓られてのとは違う赤さが滲む孔雀。
 ふっと微笑を和らげた瑪瑙は手を差し出した。
 揺れるライラックピンクの瞳は、嬉しそうに恐々と手を重ね――かけ。
「ぁいたっ!?」
 ぺしんっと額を指で弾かれ、そこを擦る孔雀の顔に、再び不機嫌が宿った。
 構わず、瑪瑙は両手を腰に当てて胸を張った。
「でも、何? その喋り方。そっちが素なのかしら?」
「あ…………ご、御免。つい」
 額を擦っていた手で口元を覆い隠した孔雀は、気まずそうに目をあちらこちらへ向けながら言う。
「あの、素っていうかね、昔、使ってた口調でね。藍銅が、語りを改めよ、さすれば貴公にも雀の涙ほどの威厳が備わる……かもしれぬ、って言ったから」
「……随分な言われようね、なんとなく分かるけど」
 きっとランドウという人は、孔雀の性格に相当苦労していたに違いないと、瑪瑙は遠い目をし。
「いや、それよりその、ランドウって、誰?」
 初めて聞く名に首を傾げたなら、何故か孔雀の顔が苛立ちに染まった。
「……聞いて、どうするの?」
「え」
 ただ聞いただけなのに、この反応。
 聞いては不味いのかと困惑すれば、ぷくぅっと孔雀の頬が膨らんだ。
「駄目だよ……瑪瑙の夫は俺なんだから。瑪瑙は藍銅を知らなくてもいいんだ。ううん。他の男の事なんて全部、瑪瑙は知らなくていい。瑪瑙は俺だけ知ってればいいの!」
「…………」
 勝手な言い分に呆れ果て、物も言えない瑪瑙は、再度カァ子に視線を移した。
 今度はこちらをちゃんと見たカァ子、何も言わずただ首を振る。
 伝わったのは、この先、孔雀を連れて買出しに行けば、面倒に巻き込まれる瑪瑙への、憐れむような思い。
 そうなった場合、黄晶が巻き添え食うのは確実だろうに、カァ子は諦めたように首を振るだけ。
 育ての親――というと、カァ子どころか黄晶まで怒る――に見捨てられた形となった黄晶へ、瑪瑙は溜息一つ。
「あー! 今、誰か別の男の事を考えてたでしょ!?」
 半分当たっている指差しの非難に、今一度溜息を吐き出した。
 それからふと思い当たり、瑪瑙は孔雀へ苦笑してみせる。
「ねえ、孔雀?」
「……何?」
 疑る眼差しの孔雀、疑いはそのままに、自分へ向けられた言葉に喜びを滲ませた。
 単純というかなんというか。
 表面に笑みを乗っけつつ、頭痛を感じる瑪瑙。
 つと指を差したのは、作業台の上の細長い箱。
「それ、取ってくれない? もちろん、中身、だけど」
「? うん、いいよ?」
 座った状態の孔雀からでは、作業台に何が乗っているか分からないくせに、安請け合いする返事。
 立ち上がった孔雀は、埃も払わず、瑪瑙が指した箱――の横に手を伸ばす。
「違う違う、その横の箱」
「あ、うん」
 形容し難い液体の入った小瓶に伸ばされた手には冷や冷やしたものの、にやつく顔を隠しもしない瑪瑙は、無事、孔雀が目的の箱を取ったのを見、更に笑みを深めた。
 開け方を調べるため、箱を様々な角度から見やる孔雀を余所に、羽ばたきが瑪瑙の肩に降り立った。
『瑪瑙……アレの中身って』
「うん。でもまだ軽めだよ? アレで根を上げるんだったら、同行以前の問題だからさ」
 白い瞳の白い目を受けても、なお瑪瑙は笑い。
「ぅぎゃああああっ!!?」
 大きく飛び退いた孔雀を見ては、口元に笑みを携えて眉を寄せた。
 かたかた小刻みに震えた孔雀は、ゆっくり振り向いた眼に、たっぷり涙を浮かべて青褪めている。
「め、めめめめめめめめめ瑪瑙…………こ、ここここここここれは?」
 そう言って差し出した孔雀の右手には、右手があった。
 正確には、干からびて細くなった、所々骨と肉の覗く、肩口から切り取られた、何者かの右腕が。
 買った張本人の瑪瑙はこの中身を知っているため、今更驚きはしない。
 しかし、てっきり放り投げると思っていた孔雀が、しっかり右手を握り締めているのを見ては、感嘆の声を上げつつ、ぱちぱち手を叩いた。
「おー、凄い凄い。はい、頂戴」
「め、めのぅー」
 情けない声を上げて、瑪瑙へ右腕を渡した孔雀は、握り締めていた右手をぐーぱー動かす。
 あうあう、言葉にならない泣き言を口にする彼へ、苦笑気味の瑪瑙はトドメを指すべく言った。
「これは稀人の腕よ。それもそんなに日は経ってない、まだ生きている奴の、ね」
「ひぇっ…………な、ど、どうして?」
 自分より背丈のある男の情けない声。
 対処しきれない混乱の様子に、瑪瑙は不思議そうな顔で小首を傾げた。
「あら。私の職業忘れちゃった? 薬師なんだから、薬の材料として使うに決まってるじゃない。ま、コレは呪術用なんだけど」
「そ、そうなの?」
 うるうるした目で問われ、にっこり笑った瑪瑙は言う。
「これが、私が自分で買出しにいかなきゃいけない理由なの。こういう品は普通じゃ手に入れられないからさ。誰かに頼んで、ぼられたり破損したり、役所に届けられちゃ面倒なんだよ」
『役所……はあ。黄晶の育て方、どっかで間違ったかねぇ』
 他方へ哀愁漂うぼやきを語るカァ子を視界に入れつつ、殊更楽しげに瑪瑙の目が細められた。
「孔雀、コレ怖い? だとしたら、やっぱり貴方と外出するのは無理だと思うわ」
 念を押すように首が傾けば、登頂のリボンがぐわんと揺れる。
 しばらく自分の格好を忘れていた瑪瑙は、不快な揺れで全てを思い出し、少しだけ笑みを引き攣らせた
 それでも我慢し、孔雀の出方を待つ。
 こくりと彼が頷いたのを受けては、勝利の気持ち半分、不思議にも寂しい気持ちが半分沸き起こった。
 不可解な感傷に眉根を寄せ、寂しさに締め付けられた胸へ視線を落とす。
 ――と。
「ううううう……み、水でふやかしたら戻る?」
「……………………………………………………はぃ?」
 珍妙な言葉を吐かれ、自分でも思ってもみない速度で顔が上がった。
 すると、いつの間にやら近づいていた孔雀が、指で干からびた腕を突く姿が在る。
「か、カラカラに乾いてるのはヤダ。干し肉状ならまだ分かるけど、そのまんまの形じゃ気持ち悪いよ。せめて乾く前だったら」
「…………」
 涙目になりつつ、可笑しな自論を持ち寄る孔雀。
 呆気に取られた瑪瑙は、その内容を理解するまでに数秒を要した。
 その間で、続く言葉を孔雀は口にした。
「――美味しそうなのに」
「!」
 これには瑪瑙、すぐさま反応し、思いっきり孔雀から距離を置いた。
『おっと』
 唐突な動きにカァ子が飛び立つか立たないかで、突かれていた右腕を自分の身体の陰に隠しながら。
「……瑪瑙、どうしたの?」
「…………」

 びっくり眼の孔雀が手を伸ばせば、びくっと瑪瑙の肩が震えた。
「あ」
 この反応に一番驚いたのは、他でもない瑪瑙自身。
 気まずい思いを抱き孔雀に視線を戻すと、ぱちくり瞬いた彼は伸ばした手を自分に向けて、ぐーぱーと繰り返す。
 孔雀が緩やかに目を落とした先にあるのは、右腕を掴んだ右手ではなく左手。
 咄嗟に伸ばされたのが、右手ではないと知り、瑪瑙の黒い瞳が揺れた。
「あ…………の……」
 置いてしまった距離を詰めるべく、緩く手を伸ばす。
 一歩、近づき。
 けれど。
 はっと何かに気付いて顔を上げた孔雀は、くしゃりと表情を歪めてはぎこちなく笑った。
「御免。変な事言っちゃって。……ちょっと…………うん、御免ね?」
「く、じゃく?」
 照れ隠しの仕草で頭を掻いた孔雀は、きゅっと唇を噛み締める。
 そして、瑪瑙を見ることなく背を向けた。
「俺、出てくから」
 残す言葉はそれだけ。
「!」
 受けた瑪瑙が、先程の比ではないほど大きく震えても、孔雀は彼女の反応を確かめもしない。
 瑪瑙の後ろにある扉を避けて、一つしかない窓から飛び出して行ってしまった。
『……瑪瑙』
 追う形で開け放たれた窓枠に降り立ったカァ子が振り返る。
 名を呼ばれたことにより、遅れた足が縺れそうになりながら、窓まで歩み寄った。
 作業台を通り過ぎる前に、脱いだ手袋ごと干からびた腕はそこへ置く。
「……出て、いっちゃった…………思ったより、随分、あっさり」
 のろのろした動きで窓枠に手をかけた瑪瑙は、飛び越えるように身を乗り出し、そのまま視界を俯かせては、「はっ」と息を零した。

 

 


UP 2009/5/1 かなぶん

修正 2018/4/18

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