「あはっ…………呆気ないの」
窓枠に片手を掛けたまま、もう一方の手で頭を掻く。
そのまま後ろに滑らせては、リボンの端を掴み、しゅるりと解く。
ただの布と化したそれを目元に当て、瑪瑙は泣きもせず笑った。
「ホント、面白いよ。今までだって、拒んだ場面、幾らでもあったのにさ。いつもなら、最終的に自分のイイ様にしちゃうくせに……こんな、簡単に…………いなく、なっちゃうんだね」
『……瑪瑙』
静かな呼び声に瑪瑙の喉がくつくつ揺れた。
合わせ、クセのない黒い髪が夜風に弄られ流される。
『浸ってないで、とっとお行きよ』
殊更呆れたカァ子の野太い響きに、瑪瑙の笑みが止まった。
無言で「何故?」と問う間へ、カラスの頭が振られた。
『あたしゃね、別段、孔雀の奴がどうなろうが、知ったこっちゃないんだよ。利、だからね。相対する理の者を慮る義理なんざ、こうして共に住む羽目になったってありゃしない。いや、あっちだって、利の気遣いは御免だろうさ』
面倒臭げに嘴をつく溜息。
新たな空気を吸い込みながら、白い瞳が薄桃の布で目を覆う瑪瑙を憐れむ。
『……けどさ。今回の件に関しちゃ、口を出させて貰うよ? 他の要因で奴が出てくってなら兎も角、今回は――』
「私が原因だから、って?」
囁く小ささながら、早く流れる言葉。
それは問いよりも確認に近かった。
自分の不用意な言動のせいで相手を傷つけてしまった――その確認に。
瑪瑙と同じ種である稀人の腕を美味しそうと語った孔雀。
これだけ聞けば、眉を顰めても仕方がないかもしれない。
けれど、利であるカァ子により、彼女の種と孔雀の種たる理の人を知る瑪瑙にとっては、さして驚くことでも、嫌悪を抱くことでもない。
ひと括りに人間と言っても、稀人と理の人や利の関係は、ミツバチとスズメバチのようなものだ。
同じハチに属しながらもミツバチを捕食するスズメバチの如く、有史以来、理の人や利が稀人を喰らう話は尽きない。
中には彼らが望まずとも、稀人が勝手に贄を仕立てて献上する場面もあった。
理の人と利が、神と妖、そう認識されるゆえに。
逆に、スズメバチを群れたミツバチが殺すように、理の人や利が、英雄と称される稀人たちの手で“退治”される話もある。
だが、この関係を知っていながら、いざ前にして、怯えてしまった瑪瑙。
彼女ありきの孔雀が反応しないわけがないのに。
距離を置いたばかりか、伸べられた手にさえ震えて……
そうして出て行ってしまった孔雀をどうして責められようか?
あるいは責めても良いのだろう。
種の違いを理由に。
けれど。
瑪瑙が責めるのはあくまで己。
明確な非は自分にあると、誰よりも彼女自身が知っていた。
怯えたのは、孔雀が「美味しそう」と口にした言葉ではなかったから。
それはただの切っ掛けで、本当に瑪瑙が恐れたのは――
『アンタが原因? 寝言は寝て言えっての』
おどけた口調のカァ子に、瑪瑙はそろそろと宛がう布を下ろした。
視線を孔雀の駆けていった方へ向けたカァ子は、そんな瑪瑙を見もせず、嘴を弾くように言った。
『人の話は最後まで聞くモンだよ、瑪瑙。今回はさ? アンタが後悔しているから、あたしは口を出すのさ』
「カァ子さん……」
惚けて見やったなら、白い眼がくいと上げられた。
『見くびるんじゃないよ? 少なくとも、奴よか長い付き合いなんだ。アンタが何に反応したかくらい分かるさ』
「…………」
含まれる、にたりとした笑み。
観念したように軽く眉根が寄れば、カァ子の視線が夜の闇に戻る。
『とはいったものの、アレでも理の者だからねぇ。追いかけたところで間に合わんかもしれないが……。どうする、瑪瑙? 索敵掛けてみるかい?』
「索敵って……孔雀は」
『言っただろ? あたしら利にとっちゃ、理の者は敵と等しいんだ。索敵の言を遣う方が見つけやすい』
瑪瑙の意見を押しのけ、カァ子は嘴を彼女に向けて首を傾げた。
再度、どうするのかという問いかけ。
意を呑み込んだ瑪瑙は、こくり、喉を鳴らして問い返す。
「……代償は?」
幾ら親しいカァ子といえど、彼女は願いの代償を求める利。
それを知っていて、それでもカァ子に頼もうとする自分に対し、返答を待ちつつ内で呆れる。
結局のところ瑪瑙は、最終的に孔雀のイイ様にされてしまっても、離れ難いと思っているのだ。
……イイ様にされたことを許すか許さないかは別として。
瑪瑙の中で着実に、孔雀への好意は芽生え、育まれている。
彼が瑪瑙の夫を自称してから、ずっと。
たとえ瑪瑙自身が、どれだけ否定を口にしても。
『そうさねぇ』
笑う口調で呟いたカァ子は、離れの中を羽ばたく。
革鞄から出された品を物色するように、作業台の上を旋回した翼は、ある物の上で優雅に止まった。
孔雀が出て行く発端となった、その腕の上に。
『コイツが、イイ』
「……足下見てくれちゃって」
にやりと歪む白い眼に、瑪瑙は苦笑した。
「結構高かったんだよ、ソレ」
『だろうね。なんせ、このあたしの目に止まったんだから。んで、どーすんだい、瑪瑙? コレと引き換えに索敵して欲しいかい?』
「うん」
愚痴った割に躊躇せず頷いた。
カァ子はこれに目を細め、肩を竦めるように羽を軽く広げる。
『「ツオシュ」』
途端、巻き起こる風。
しかし、揺らぐのは瑪瑙の周囲のみ。
壁にぶら下がる干からびた薬草は、ささやかな夜風の動きを受けるだけで、瑪瑙を取り巻く風の害には遭っていない。
そよ風というには慌しく、強風というには柔らかく吹く風は、瑪瑙の意識に不思議な感覚を植えつけた。
窓の向こう、暗く歪んだ森の中に、警告するような赤い気配。
どろりとした赤と黒の入り混じる点。
近づいてはいけないと、本能に訴えかけるソレこそ、孔雀の位置を示す目印。
敵の分類で見た孔雀が、これほどまでに禍々しい者だと知り、瑪瑙に震えが起こった。
と同時に、取り巻く風が宙へ霧散していく。
緊張も共に溶けてゆき、残された瑪瑙は拳をぎゅっと握り締めた。
窓へと向き直り、自身もそこから出て行く――直前。
問う。
「…………ところでカァ子さん。その腕、何に使うの?」
惚けた口振りの瑪瑙。
何に使うか分かっての問いに対し、カァ子の声は歌う朗らかさで。
『もちろん、御土産さ。ウチの一族連中にゃ、稀人の肉を好む奴がいるって、知ってるだろ?』
「うん、知ってる」
そう。
そんな事は百も承知だ。
憚ることなくもたらされた答えに、瑪瑙はカァ子との付き合いの長さを実感し、窓から勢いよく飛び出していった。
* * *
怖いのは、自分と同じ種を食と見た、その眼ではない。
怯えたのは、自分と違う種という区切り、その遠さ。
本当はないはずの境を孔雀に感じ、一人、取り残された気がしたのだ。
俺と君は違う――そう暗に告げられたようで。
離れから北東に向かって伸びる森。
明るい昼とは違い、一歩踏み入れたなら、包み込む闇が用心しろと訴えてくる。
さやさや風にそよぐ葉は、心を惑わす人の囁きにも似た音と為り、遊ぶような揺れさえ、物々しい影と為って恐怖を煽る。
踏みしめる土も柔らかさを失い、ぬめりを帯びて靴に絡みつく。
深緑の薫りは陰に褪せ、一つ吸う度、夜気混じりの歪な匂いが鼻を刺した。
元より運動量の少ない身では、時も置かず、息が切れてくる。
「っ……はあはあ、はあっ…………くっ」
梢のざわめきだけが辺りを覆う中、吐かれる自身の呼吸音が煩く響く。
繰り返し、空気を入れ替える肺が冷たいのか熱いのかも分からない。
喉が嗄れていく感覚だけが、ひんやりと内側を通っていた。
「つっ」
早くと望む足に引かれ、上体が前を向けば、薄く裂かれた皮膚。
構わず、また地を蹴る。
熱せられた身体が浮いた皮に痒みをもたらした。
けれど、手を当てることなく放る。
「きゃっ!?」
索敵の言葉が示した点だけを目指す瑪瑙に対し、森は自身の存在を思い出させるように、彼女の足へ根を引っ掛ける。
大きくバランスを崩した瑪瑙は、満足に受身も取れず、膝から地に伏した。
「ふぐっ…………くぅ……」
手で土を掻き、痺れる足を根から抜き取り、小さく蹲る。
じりじり焦がされる響きに怪我を負ったと知った。
だが同時に、大した事ではないと手の平を大地に押し付けた。
身体を起こせば、軋む音が聞こえそうな痛みが走る。
堪えた瑪瑙、よろけつつ、足を取られた根の主たる木に支えを求める。
木肌に手を当てたなら、内に蠢く感触。
ぞわりと這い上がる悪寒に、反射で手を見やる。
細い月明かりが木の葉の合間をぬって落ちる先に、醜怪な虫の姿が映った。
「…………」
認めたところで、瑪瑙の顔色には何の変化もない。
前方へと黒い瞳が向けられた。
追うように、痛む足が地を離れては落ち、虫を潰さぬよう幹を突いた手は、目指す先へ振られていく。
痛みは引き摺っても、瑪瑙はただ、前を――孔雀を見つめる。
後悔だけが残されるのは嫌だ。
たとえ、追いつくことなく、今生の別れとなってしまっても。
持てる力の全てで彼を追う。
勝手な解釈をしたせいで、傷つけたであろう彼を。
常に傍らに――
孔雀は結ばれていると知らない、誓いの言葉が思い起こされる。
境などないと、彼は最初から口にしていた。
同じだという孔雀の言葉を瑪瑙は疑っていたのかもしれない。
なればこそ、腕の一つで動揺する。
不甲斐ない自分。
歯噛みすれば、いつの間にやら口にしていた砂利の存在を知り、これに気を取られたなら、またしても足が縺れ、身体が地へと叩きつけられた。
「っ…………」
こんなに転んでばかりいては、追いつくものも追いつけなくなる。
悔しさから強く噛み、広がる土の味を吐き出した。
留まる匂いは咳の数度で払い、口元を拭っては、ふいに零れかける目元を拭う。
進んだ距離はまだ、示された内の半分にも満たない。
遠退くばかりの背を思い、もたげる諦め。
どうせ追いつかない、という自嘲。
瑪瑙はこれを、首を振って払う。
「冗談……背中押されてんだから。収穫なしじゃ、どやされるのがオチ。そうじゃなくたって――」
脳裏に浮かぶ、在りし日の己。
右の白く拉げた顔のせいで、居るだけで怯えた目に晒された、あの不快、疎外、寂寥。
同じ思いを、こんな己でも好いてくれる相手にさせてしまった。
だからこそ、追わなくてはいけない。
彼を。
「孔雀……!」
間に合ってと願い、その名を口にし――
「あれ? 瑪瑙?」
横合いから、きょとんとした声。
「へ?――――どあっ!?」
気を取られた瑪瑙は、そちらを向く直前で何かにぶつかった。
「瑪瑙っ!?」
二、三歩、よろけたなら、両肩に濡れた感触が落ち、背中を温かなモノに受け止められた。
火花が散る頭を押さえつつ、ぶつかった正面を見やる瑪瑙。
「……木」
そびえ立つ、黒い壁のような幹を追って上を向く。
細い月が落とす木の葉の陰に、人の頭部と思しき影が重なった。
と、水らしき粒がぱたぱた瑪瑙の頬に落ち。
「瑪瑙……大丈夫かい?」
掛けられる、困惑と心配を混ぜた低い音。
「くじゃ……く?」
先程まで、必死で追いかけていた相手と同じ声に、瑪瑙は恐る恐る手を伸ばした。
逆さの視界。
映る輪郭に触れようとし、己の手が汚れていると気づいては、直前で止めた。
代わりに、もう一度呼ぶ。
「孔雀……なの?」
「うん? そうだけど……ああ、暗いから見えてないんだね」
納得したと笑む気配。
瑪瑙の黒い瞳が見開かれれば、泥まみれの手を孔雀の手が躊躇いなく包み込み。
『チャデ』
流れた孔雀の言葉を受け、森が光を浮かび上がらせる。
蛍火のような青とも緑とも付かぬ、淡い無数の小さな灯。
決して細い月光を遮らない明かりは、影に隠れた孔雀の顔を瑪瑙に――
見せてはくれなかった。
「め、瑪瑙?」
焦る孔雀の声が聞こえても、瑪瑙にはどうする事も出来ない。
ただ、顔を上げたまま、包まれた手を自分から思いっきり握り締める。
「くじゃくぅ……」
ぼたぼたと、歪んだ世界の端から雫を零す。
それがどれだけ情けなく、醜く映るかなぞ、知ったことではなかった。
皮膚が下に引っ張られても、見上げた格好を取り続け、何度も何度も、繰り返し彼の名を呼ぶ。
会いたかった。
会えて良かった。
出て行ったのではないの?
どうしてここにいるの?
探したんだよ。
追いかけたんだ。
貴方に、言わなきゃいけない事があったから――
「ひっ……ぅくっ…………ご、御免ね? 私、わたし、貴方に、酷い事っしてっ」
怯えて御免なさい。
止まらない涙の中で告げる。
涙で滲んだ内では、この言葉に孔雀が、どんな表情をしたのかは分からないけれど。
息を呑むような音が聞こえた気がして、名を繰り返したのと同様に、謝罪を今一度、口にし――かけ。
その言葉を塞ぐように、あるいは呑み込むように、重ねられる温もり。
いつもの遊ぶ動きをしない短いソレは、離れるなり瑪瑙の頭を下げさせた。
頭上に擦り寄る頬の感触を受け、俯く瑪瑙は孔雀の方へと向き直ると、おずおずとその背に腕を回した。
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