出てくから――
そう孔雀が告げた言葉は、最初から、瑪瑙の下を去る、という意味ではなかった。
原因である、美味しそう、という言葉も、最初からただの冗談。
そもそも孔雀には稀人を食べた経験がない。
ついでに言えば、利を食べた事もなかった。
ただ、干からびた腕が何やら居た堪れないと思い、水でふやかすという発想から、食べ物へと繋がっていっただけの話。
孔雀本人にとっては、本当に軽い気持ちの話だったので、瑪瑙が怯えを表した時、何が原因なのかさっぱり分からなかった。
けれど孔雀、ふと気づく。
己の手をぐーぱー開いては閉じるを繰り返しつつ。
自分は干からびた腕を素手で触ったが、瑪瑙は手袋をして触っていた。
もしかすると、素手で触ってはいけないモノだったのかもしれない。
だから下がった瑪瑙へ手を伸ばしては、怯まれてしまった――
いやしかし、直接触れたのは右手で、瑪瑙に向けたのは左手だったはず。
何故だろう、もう一度考える。
はっと思い出した、自身の言と瑪瑙の種。
加え、呪術用、という意味。
知識としてはあったものの、瑪瑙と暮らすようになってから実感した、理の人や利と違い、稀人にはこの世界のコトワリを操る能力がない事実。
この知識を与えたのは、孔雀に近しい男・藍銅だ。
その際、彼らには別の力があるのだとも、孔雀の古い記憶は語っていた。
稀人に興味はあっても、藍銅の説教染みた話に興味のなかった孔雀は、寝そべった格好で投げやりに聞いていた。
だらしない孔雀の態度に、青筋を立てていた彼は、それでも偉そうに教鞭を揮ったものである。
稀人は自分たちの思いをモノに託す、と。
これにより、稀人は様々な事柄を為せるらしい。
中でも一番強い効力を発揮するのが、彼らが負と呼ぶ感情や、それを引き起こす事象を備えた代物で作られる呪具。
反面、稀人は自身で作り上げたコレらを厭うのだという。
死に纏わる、あるいは心身の傷に纏わる、負の作品であるがゆえに。
ならば、孔雀が語った言葉は、その負に陥った稀人を食すという解釈が出来、彼らが厭うモノを身に入れた己は、怯えられて当然。
考えがそこまで及べば、食べた事はないんだ、と瑪瑙に訂正しかける。
だが、すでに負を纏う腕には触れてしまっていた、と改めて気づいたなら、コレをどうにかしない限り、瑪瑙に厭われてしまうと孔雀は思い至った。
想いを瑪瑙へ向ける度、拒まれても鬱陶しがられても孔雀がめげないのは、最終的に彼女が自分を受け入れてくれると知っているからだ。
面と向かって「大っ嫌い」と言われたあの時ですら、瑪瑙は孔雀の望みを叶えてくれたから。
……余裕綽々だった表とは裏腹に、内でざっくり傷ついたのは内緒だけれど。
だというのに、これでは厭われるだけで、受け入れて貰えそうにないではないか。
本気で嫌悪される想像に、孔雀の心が軋みを上げた。
眼前、怯える瑪瑙が居ては、現実味が勝った分だけ軋みも大きくなる。
厭われる事を恐れ、瑪瑙に一切触れない選択肢も浮かばせてはみたものの、愛くるしい青褪めた左の顔と、変わらない白い右の顔を併せ持つ彼女を前にしては――
絶対無理、と即座に却下。
(……いっそのこと、この両腕を切り落としてしまおうか)
刹那的な自虐の境地に達した孔雀。
本当にやる一歩手前。
脳内にやかましい声がこだました。
未熟者が!
手より先に、頭で得策を練らぬか!
貴公の傍若無人な振る舞いが、いかほど周囲に悪影響を及ぼすか!
少しはその、無い頭で考える努力をしろ!
言われた場面は各々違えど。
一遍に沸き起こった藍銅の罵倒は、孔雀の頭のどこかをぷちっと鳴らした。
音がしたと思しき辺りを擦りさすり、唇を噛み締める。
その時、同じく藍銅の、違う語りが脳裏を掠めた。
――世を巡る浄き水に浸せば、負は流れ墜つ。
どこからどこまでが「浄き水」に該当するかは分からないが。
思い立ったが吉日の孔雀。
森の中にある泉を記憶から引っ張り出し、外出の旨を瑪瑙に告げた。
即ち――
* * *
「出てく……て、ちょっと泉まで行ってくるって意味、だったの?」
「うん、そう」
「……………」
孔雀と合流し、泥まみれの服装と足の怪我のせいで、彼におんぶされる羽目となった瑪瑙。
泣き顔を見られるのが嫌だと横抱きを猛然と却下した黒い瞳は、しっとり濡れた金の髪の主に、この剣呑な光が届かない事を悔しく思う。
「で、手と髪を洗ってね」
続く孔雀の話で、両肩を押さえた手と金髪が濡れていたのは、泉で洗ったためだと知った。
手は兎も角、何故髪まで洗う必要があったのかといえば、洗う前の手で頭を擦ったからだそうで。
「これで大丈夫だと思って、帰ろうとしたら瑪瑙がいてさ。驚いちゃった」
呆れ果てた瑪瑙は、自分が謝罪を口にした理由を口にしようとし、
「でも、嬉しかったなぁ。俺って結構、瑪瑙に愛されているんだね。こんな泥だらけになってまで追いかけてきてくれるなんて」
でれでれ続く、だらしのない声に口を尖らせる。
言葉での抗議の代わりに背中をべしっと叩けば、くすくす笑われた。
心底楽しそうな様子に今更、貴方を遠くに感じてしまって怖かった、などとのたまえるはずもない。
言えば確実に孔雀は図に乗り暴走するだろう。
付き合わされる自分の身体は、幾つ在っても足りないに違いない。
かといって、笑うなと叩いたところで照れ隠しにしかならない現状。
代わりとばかりに仰々しい溜息が瑪瑙の口をついた。
「…………けどね、瑪瑙」
打って変わり、笑いを顰めた真剣な孔雀の声。
言われる言葉がなんとなく分かった瑪瑙は、孔雀の肩から胸に回した腕をきゅっと締めた。
まだ湿っぽい髪に顔を埋めたなら、呆れたような苦笑が頭の裏からやってきた。
「やっぱりさ、夜、一人で外出はして欲しくないな。怪我も、して欲しくないから。今まで一人だったって言ってもね」
「……じゃあ、次からは一緒に来るの?」
拗ねた子どものような口調とは、重々承知しつつ尋ねる。
案の定、孔雀は苦笑しながら頷き。
「駄目かな?」
「駄目って言ったって、どーせついてくんでしょ」
「うん。まあ、そうなんだけど」
「……最初に会った時は、私が助けたようなもんなのに。一緒に来て役に立つの?」
「あはははははははは」
ストレートに問えば、快活な笑い声が暗い森にこだました。
孔雀が口を噤むと、転じ、元の静寂より一層、ひたり吸い込まれる静けさが辺りを包む。
お陰で、笑い事じゃない、と身を起こして応戦する声を失った。
ちらりと覗く孔雀の顔に、喉がごくりと音を立てた。
柔らかく微笑むライラックピンクの、底冷えする光。
蔑む、艶のある眼。
闇の中にあっても、光増す瞳は語る。
「君が望むなら。稀人でも、利でも、我が同胞だろうとも。全て、殺めよう。君を傷つけようとする者が在るなら……我が力の限りを尽くし、破滅を約そう」
「く、じゃく……」
出会った夜や普段の彼を思えば、誇大妄想も甚だしい誓い。
だが、真実、望めば叶えてしまうだろう、と瑪瑙は察した。
そして怯えた。
目の前にある強大な力に――ではなく。
遠いその眼差しに。
起した身を彼の背に預け、腕を伸ばして孔雀の頭を抱いた。
「怖いから、止めて。他の誰かが傷つこうとも知った事じゃないけど。貴方が私のためだというなら。貴方が望んだ訳でもないことはしないで」
「……君の望みこそ我が望みと告げてもか?」
からかい混じりの音に、瑪瑙は軽く眉を顰めた。
「それは嫌よ。私の望みは私だけのモノ。貴方の望み、なんて責任まで負う気はないから。止めて頂戴」
「責任? 選択したのは我ぞ? 君が負う必要など」
「じゃあ聞くけど。私の望みが、もう二度と貴方とは会いたくない、だったら――」
「分かった。君の望みと我が望みは別……それで良いのだろう?」
ふいっと回した腕ごと逸らされる孔雀の顔。
厳かな雰囲気はどこへやら、不貞腐れた様子を受け、腕を下げた瑪瑙の表情が和らいだ。
「うん…………だけど孔雀、今のは例えばの話だから。御免ね、試すようなことして」
「……試す?」
ぐしゅっと鼻を啜るような音を聞き、瑪瑙はくすくす笑いながら言う。
少しくらいは、素直になっても良いだろう、と。
「私がそう望んで孔雀が受け取ったら……それって孔雀も私に二度と会いたくないってことでしょう? だから、試したんだ。でも、別だって言ってくれたから。貴方の意思で居てくれるなら、ちょっぴり嬉しい」
「瑪瑙……」
うるうるした瞳が瑪瑙を振り返った。
いつもと同じ孔雀の頼りない眼光を受け、急に照れくさくなっては鼻の頭を掻いて目を逸らす。
「まあ、あくまでちょっぴり、だけどね。……それより孔雀。貴方って、どっちの喋り方が素なの?」
「え?」
「今もまた、違う口調になってたけど……もしかして、自分じゃ分かってない?」
そういえばさっき指摘した際にも、何やら酷く慌てていた。
小首を傾げて視線を戻したなら、ささっと孔雀の眼が前に逸らされる。
「?」
不思議な反応に、瑪瑙は身を乗り出して、孔雀の頬を突っついてみた。
数回続ければ、徐々に薄く色づく頬。
やがてもごもご動いたなら、観念したように孔雀の頭が小さく垂れた。
「強いて言うなら、どっちも、かな。どちらって選べないほど、どっちも身について久しいから」
「ふーん? じゃあ、使い分けでもしているの? 普段はこっち、怒っている時はそっち、て」
「ううん。本当はない。けど、この喋り方って、気安い感じでしょ? だから、瑪瑙といる時はこれだけにしたいんだけど……怒ったりする時はさ、どうしても、自分が怒られている時の口調が参考になっちゃって」
「怒られているって、ランドウって人に?」
思い出すのは、孔雀の口調を窘めたという人物。
孔雀の口真似がそっくりそのまま、藍銅のモノならば、瑪瑙の指摘は正しいだろう。
これを肯定するべく、孔雀の頭が渋々弾む。
「……うん。俺を怒れるって言ったら、藍銅くらいしかいないし」
「くらいしか……?」
「うん。それ以外の人にしてみたら、俺って怖いんだって。突拍子がなくて、次に何をするか想像も及ばないから」
「…………へぇ」
以前、孔雀の発想の奇天烈さは、理の人括りではなく、孔雀に限定されるのでは、と考えたことが思い出された。
自分の仮説が証明されても、そこに嬉しさは在らず、ただただ、疲労だけが瑪瑙の肩にずっしり圧し掛かった。
同じ理の人でも引く男――
そんなのに好かれ、あまつさえ、本人は知らねども夫婦の誓いをしてしまった己。
孔雀という人物を知れば知るほど、誰もが憐れむ、可哀相な位置に自分が居るような錯覚を起す。
ならば、今日はもう口を噤んでしまおう。
そう思い、孔雀の頭に額をくっつけた瑪瑙。
全力疾走の疲れも相まって、歩く振動が心地良い眠りへと瑪瑙を誘う。
毎夜、床を共にしては、殴っても蹴っても、抱きついてくる孔雀の匂いに反応して、瞼がとろとろと落ちていき――
* * *
「あ、お家だよ、瑪瑙」
「んー……」
孔雀の声に、少しの間意識を手放していた瑪瑙は、のろのろ彼の背後から正面へ顔を覗かせた。
告げられた通り、木々の合間から見えるのは、居候しているカァ子の家の影。
肩に顎を乗せ、ぼんやりしていると、こちらへ微笑みかける孔雀の目と出会う。
中途半端に会話を終えた後も、黙々とここまで連れてきてくれたことを知り、「ありがとう」と告げた。
微笑み返せば、一瞬虚を衝かれた顔つきの孔雀、頬を一気に赤く染め、慌てて視線を前に戻した。
何をそんなに焦るのか分からず、孔雀の動きを追った瑪瑙は、同じく家を見据える。
視界の端に捉えた離れは、窓が閉められ、灯の落ちた状態。
家の方にも明かりは見えない。
どうやらカァ子さんは、瑪瑙を見送った後、どこかへ出かけたらしい。
もしかしたら、一族の誰かにあの腕を土産として持って行ったのかもしれない。
見た目カラスのカァ子さんだが、鳥目ではないし、夜目は利く方だ。
長い付き合い、特に心配する必要もないだろう。
ふいに孔雀から、家か離れか向かうべき場所を問われ、瑪瑙は家を指差した。
カァ子さんが外出したのなら、離れの戸締りは完璧だ。
黄晶のところから買ってきた品はどれも高価だが、同業でもない限り、その価値は分かるまい。
放り出してしまった材料は、明日片付ければ良いのだ。
そんな結論に至った瑪瑙は、再び歩き出した孔雀の背にもたれ掛かり、徐々に家の外観がはっきりしたなら、
「…………何、コレ?」
家の戸を開ける前に口角を引き攣らせた。
見開かれた黒目に、睡魔の気配は欠片も見当たらない。
肩を二回叩いたなら、そろそろしゃがんだ孔雀。
この反応で察した瑪瑙は、地に足をつけるなり、また立ち上がろうとした金髪の頭を鷲掴んだ。
「くーじゃーくぅ? 説明なさい。何よ、コレ。この惨状はっ!?」
「はぅ……い、痛いよぉ、瑪瑙ぉー。あ、頭潰れちゃう」
「黙れ。んな柔な頭してないでしょうがっ! 離して欲しいなら、さっさと言いなさい!」
無理矢理、孔雀の顔を自分の方に向かせた瑪瑙は、逸らそうとするライラックピンクの眼に対し、顎を掴んで引き寄せた。
「め、瑪瑙ってば、大胆」
「……で?」
ぽっと赤らめられた頬を無視し、半眼で睨みつけたなら、上目遣いで愛想笑う孔雀が「えへへー」とひとさし指同士を合わせた。
「あ、あのね……起きて、瑪瑙がいなかったからね、俺、滅茶苦茶探してね」
「で、気づけば、家を滅茶苦茶にしたって?」
そう言って瑪瑙が顎で示したのは、細い月明かりの元、歪になった家の形。
中を想像するのも恐ろしい外観は、力任せに叩き折った柱の先が飛び出しており、とてもではないが入れるものではない。
何をどうすれば、瑪瑙一人を探すだけで、こんな廃墟が出来上がるのか。
改めて、孔雀のとんでもなさを知る。
ついでに、これではコイツに留守番させる方が危険と思い当たり、悩ましい溜息が吐き出された。
これに震える孔雀をじろり睨んだ瑪瑙は、もう一つ、浮かんだ事に眉根を寄せた。
「ねえ孔雀……カァ子さんはこの事、知ってんだよね?」
真っ直ぐ帰った離れで、孔雀と共にいたこの家の主は、目の前の惨状があった割に冷静だった。
ケチではないし、時として温情厚いカァ子。
とはいえ、果たしてこの家の現状を見て、あれだけ普通でいられるものか。
首を傾げたなら、孔雀の視線がすーいと横に逸らされていく。
まさか。
「貴方……カァ子さんに何かした?」
「…………てへ。記憶操作しちゃった」
気恥ずかしそうな媚売りに、くらりと眩暈を覚える。
次の瞬間には孔雀の胸倉を掴み上げ、揺さ振りつつ瑪瑙は吠えた。
「貴方ね!? カァ子さんはここの家主なのよ!? 住まわせて貰ってんのはこっちなんだから、変な事しないでよ! 記憶操作って、負担尋常じゃないでしょうに!」
「だ、だってぇ〜。カァ子さん、ぎゃーぎゃー煩かったんだもん。瑪瑙探すの邪魔するし!」
「――――!! だからって、他にも止めるやり方は幾らでもっ! ああもうっ、いいわ! 兎に角、カァ子さんが戻ってくるまでには、元通りにしなさい! それくらい出来るでしょ!?」
確認を取るに似せ、襟を掴んだ手首を交差させる。
締まる首に合わせ、「げぇ」と鳴いた孔雀は、こくこく頷きつつ苦しいと瑪瑙の腕を叩いた。
* * *
世のコトワリの力を使おうとも、惨状の回復は容易ではない。
それでも、カァ子が帰って来るまでに、どうにか元通りとなった家。
白み始めた空を迎え、遠い目の瑪瑙は、ようやく寝られると欠伸を一つ。
「…………うっ」
自身の格好を思い出した。
へとへとの孔雀を放り、痛む足を引き摺りつつ自室へ向かっては、早速着替えるべく動く。
「そうだった……どうやったら脱げんのよ、コレ?」
ここに来て思い出したのは、孔雀を気絶させたのに、薬種店へ着替えもせず行かなければならなくなった理由。
自分では脱げない、衣服にあるまじき不便さ。
がっくり瑪瑙は項垂れ、これでは泥も流せないと嘆く。
そこへ、ぽんっと叩かれる肩。
振り向けば、そこにはでろでろに濁った瞳の孔雀がいた。
背後を取られた事にさして驚きもしなかった瑪瑙は、彼が言わんとするところを先読みし、拳を硬く握り締める。
「瑪瑙……俺に任せっぶぅ!?」
瑪瑙の綺麗なストレートが孔雀の顔面に埋められた。
「黙れ、外道」
寝不足やら何やらでキレ気味の上、洒落にならない行為になんぞ、付き合ってやる義理はない。
相手が完全に沈黙したのを、これまた七面倒臭い造りの靴先で確認。
にたり、凄惨な笑みが瑪瑙に浮かんだ。
時間の関係上、この格好のまま黄晶のところへ行く羽目になったけれど。
今はたっぷり、時間がある。
「……ふふ。貴方が悪いのよ、孔雀」
意味深な言葉を吐いた瑪瑙、取り出したのは手の長さと等しい刃を持つ鋏。
しゃきりしゃきり、音は続き。
――で。
「ほへ……?」
瑪瑙の部屋で孔雀が目覚めた時、彼が一番最初に目にしたのは細切れにされた、彼女のための服。
わざわざ倒れる孔雀の上に散されてあったことから、瑪瑙の怒りっぷりが分かるだろう。
けれど、これを認めたはずの孔雀は、ふにゃりと相好を崩した。
起き上がり、もう用を成さなくなった布切れは無造作に払って踏み躙る。
瑪瑙が眠る寝台に向かっては、傍にしゃがみ込んで、くすくす笑う。
「瑪瑙……怒ってたみたいだけど、傍には置いてくれるんだね」
無防備に眠る彼女の頬へ触れたいけれど、まずは身を清めてから。
目を細めた孔雀は、ふと思い立って瑪瑙の右頬に唇を這わせた。
離しては、ごくりと喉を鳴らし、立ち上がっては袖で口元を隠しつ、にたり、嗤う。
「もし、稀人の血肉を欲するとしても」
瞳に瑪瑙を宿し、ぺろりと内で唇を湿らせる。
「――我が望むのは君だけだよ、瑪瑙。君が厭うその頬はね、溶かされた分だけ、君の味がよく分かるんだ。薄い皮膚の内に息づく、柔らかな肉、甘い血の流れ……」
袖口から覗かせた指が、離れる袖に代わって唇をなぞり撫でる。
艶やかな誘う仕草で、孔雀は熱い吐息を混ぜつつ、瑪瑙を乞う。
「ご褒美……だよ。君の全てが。君こそが我が望み……だから」
転じ、泣き顔に似た情けない表情が孔雀に浮かんだ。
両手もだらしなく下がり、頭も項垂れて。
「嘘でも、やだよ。会いたくない、なんて。それなのに、また言われたら……」
零れぬ涙を受け止めるよう、顔を覆い隠す手の平。
隙間から瑪瑙を捕らえるライラックピンクは、至福に笑みつつ。
小さく、熱く、甘く、囁く。
「壊して、しまいそうだ……」
誰を?
己を?
――彼女も。
吐かれた息は満足げに空気を震わせ、踵を返した孔雀は、散った残骸の上でくるりと円を描く。
合わせ、言葉もなく残骸を燃やすコトワリの力。
飛び火することのない青い炎に笑んだ孔雀は、今一度、瑪瑙を冷淡な眼差しで捕らえ、彼女の部屋を去る。
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