瑪瑙のお仕事は薬師である。
 仕事内容は、薬の調合と顧客や問屋への売付け、そして材料の買付け。
 材料は、高価なものか安価なものまで、ヤバい品からショボい品まで、実に多種。
 売買の時間帯はその日によって変わるが、白く溶けかかった右半分の顔にコンプレックスを抱く瑪瑙は、出かける際、余程のことがない限り夜の時間帯を選ぶ。
 とはいえ、夜の闇を厭う明かりは、人里に溢れているもの。
 なので、昼であれ夜であれ、瑪瑙は必ず右側を隠して、外出することにしていた。
 隠す方法は、包帯や布を巻いたり、布を被せるだけだったり、長い黒髪を下ろしてみたり、仮面をつけたり――等々。
 工夫したところで、痛々しい、もしくは、おどろおどろしい様相を呈す代物、当然合わせる服も、それ相応の暗さを演出していた。
 薬や材料の種類によっては、先方に舐められる訳にはいかない職。
 なればこそ、いかにも怪しげな雰囲気は歓迎されるべきだ――

 本来なら。

* * *

 重々しいベルの音が響く。
「……いらっしゃい」
 細い月明かりしか望めぬ闇夜より鬱屈とした店奥から、男の陰気な挨拶が届いた。
「よお、瑪瑙の…………嬢、ちゃん?」
 つかつか歩み寄る馴染みの顔へ、店主たる男が声を掛けようとしては、ビシッと固まった。
 笑いかけようとした店主の表情が、みるみる青褪めていく。
「見るな訊くな喋るな息も止めて沈黙貫きブツだけ寄越せ」
 当の瑪瑙は、強盗紛いの台詞を一息に吐き、古ぼけた木造のカウンターの上へ、大口の鞄を置いた。
 黒く長い乱れた髪の隙間から、異様な光を放つ黒目が店主を射る。
 何やら物々しい雰囲気。
 形の良いスキンヘッドに巌のような顔、筋骨隆々の身体に、何故か薄手の白いぴっちりシャツを着た、どこからどう見ても喧嘩を売ってはいけないタイプの店主は、これを受けて対峙するでもなく、慌てて動き出す。
「ま、待て、今――――」
「喋るなと言ったわよね喋るくらいならとっととモノを出しなさい」
 ここで一旦、息を大きく吸い込み。
 深く、吐き出し。
 噤み。
「さもなくば」
「ひっ――っ!!」
 温度の感じられない瑪瑙の声に、異様な怯え方をする店主は、出した悲鳴を両手で押さえ、鞄を引っ掴むなり、そのままカウンター向こうの小部屋へ入って行った。

 数分後。

「ひゃぁああああははははははは」
「幾ら?」
「うひぃぃぃぃひっひっひっひっ」
「さ、三十万で」
「は、はははははははははははぅぐっふ、うーふふふふふふ」
「そ」
「へっへっへっへへへへへへへへ、ひぃひぃひひひひひ」
 破裂しそうな鞄と紙幣の交換の合間を縫い、多種多様な笑い声が、暗い店内にこだます。
 これを物ともしない瑪瑙は、来た時と同じスピードで扉へ戻る。
 途中。
「ぐげ」
「へぐ」
「ぅぎゅ」
 と、これまた多種多様な空気を吐き出す音が、彼女の足下より輪唱。
「あ、あのっ!」
 さすがに堪えきれなくなった店主は問うた。
 愛想笑いも出来ない、脂汗の浮いた顔で、
「こ、コイツ等、どうすればいいんだい?」
 厳つい手で店主が示したのは、店に転がった、腹を抱えて笑い続ける奇妙な集団。
 どれもこれもが顔馴染みの客であるため、無下には出来ないと暗に込めて伝えたなら、
「その内元に戻るわ」
 射殺すような目で店主を一瞥した瑪瑙は、無責任な言を残して、扉のベルを鳴らした。
「……その内って、どんくらいだよ」
 暗に告げられた、解毒剤はないという意味を受け、店主は途方に暮れた。
 次いで、笑う一団を見る。
「お前ら……笑うからそうなるんだ。大方、そんなに笑いたきゃもっと笑えと、あの子から薬を処方されたんだろう。瑪瑙の嬢ちゃんはアレで繊細なんだぞ?……それにしても」
 つるり、店主は頭をひと撫で。
「あの格好は……何だったんだ?」
 笑ってしまった彼らの気持ちも分からぬではないが、それより勝る瑪瑙の薬の怖さに、薬種店の店主・黄晶(おうしょう)は、笑い声の中、深い溜息をついた。

* * *

 こそこそ誰もいない道を通り、帰ってきた我が家。
 けれど瑪瑙は真っ直ぐ離れに向かい。
「瑪瑙っ!」
 扉を開けた瞬間、両手を広げて迫ってきた影へ、予め振りかぶっていた鞄を叩きつけた。
 くぐもった呻きと後方へ吹っ飛ぶ姿、作業台へ何かをぶつけた音が、静かな森を間近に控えた離れを賑やかにする。
『よ、容赦ないねぇ』
「カァ子さん、明かり」
 野太い呆れ声に対し、瑪瑙は唸るように言う。
 細い三日月の下、薄暗い室内で小さな吐息が為された後。
『「チャデ」』
 世界に古くからいる人間しか操れない言葉を受けて、離れの明かりが一斉に灯る。
 闇が払われた室内で、作業台近くの椅子を見つけた瑪瑙は、乱暴にそこへ腰掛けた。
 その際、ふんわり、彼女の登頂付近が揺れた。
『瑪瑙……まだ怒っているのかい?』
 短い羽ばたきで作業台の上に降り立ったカァ子は、カラス姿の小さな身を用い、不貞腐れる瑪瑙の顔を覗き込んだ。
「……当たり前、でしょ? 今日だけで何人に笑われたと思ってるのよ」
 ふくれっ面の眦に、少しばかり浮かんだ涙。
 認めたカァ子は毛繕いをするように、あちらこちらへ嘴を動かす。
『でもさ、コイツも悪気があってやったわけじゃないと思うんだけど?』
「当たり前じゃない! 悪気があってやったんだったら、余計腹が立つわよ! 無自覚なのもそれはそれで腹立たしいけどっ!」
 孔雀を擁護する言葉には、断固応戦する構えの瑪瑙。
 キッと睨みつける黒い目、潜んだ哀しみに、カァ子はやれやれと首を振った。

 事の発端は、孔雀がある提案をしたことによる。

 この日、夕食を終え、そのまま本を読み漁っていた瑪瑙。
 そろそろ出掛ける時間だと顔を上げれば、白く爛れた右眼付近に、柔らかな感触が落ちた。
 柔らかさの正体は、自称・瑪瑙の夫である孔雀が、夕食の片付けと朝食の下ごしらえを終えて後、自分自身へのご褒美として行う接吻。
 恥ずかしいことこの上ない行為だが、これは一応、瑪瑙が妥協して受け入れたモノだった。
 実は孔雀、世間知らずな面を除けば、あらゆる面において有能な男である。
 家事を任せたなら、部屋は清潔を保たれ、洗い物は新品同然の仕上がり、食事は文句ない出来栄え。
 自分の齢を指を折って数えたくせに、計算も迅速且つ正確。
 これは良いと思って家事全般を頼めば、彼は快く了承――しなかった。
 さらさらと流れる金髪の、ふわふわした頭で、褒美をくれたら良いと、俗物的で非常によろしくない条件を出してきたのだ。
 最初に提示された条件は、瑪瑙からの口付け。
 拒めば困った顔をして、自分からする唇同士の口付けを要求。
 羞恥で「嫌だ!」と叫んだなら、むっとした表情になった孔雀が、では家事はやらないと言った。
 ここで、「結構よ!」とそっぽを向けたなら良かったのだが……
 心を掴むには胃袋を掌握せよ、とはどこの誰が言った言葉だろう。
 すっかり孔雀の料理に慣れてしまった瑪瑙は、今更、調合はこなせようとも、美味くゆかない自作の料理を食べる気になれず。
 羞恥と食を天秤にかけ、若干傾いてしまった食から、「く、唇以外なら」という妥協案を孔雀に提示した。
 すると孔雀はコロッと態度を改め、「じゃあ、まずは、今までの分から」と思い出したくもない行動を取ってきた。
 つまりは、キス責めを。
 しかも内数回は拒否したはずの唇にされ、最後に至っては意識が朦朧とする直前で開放。
 挙句、瑪瑙が気力を取り戻して彼をぶん殴るまで、抱き枕のように扱われてしまった。
 非常に屈辱的な過去だが、これも一つの経験であり、教訓。
 本をぱたりと閉じた瑪瑙は、性懲りもなく唇へ降りようとする感触に対し、思いっきり本を振り上げた。
「邪魔っ」
「ふぎゃんっ!?」
 程好い硬さの背表紙は、孔雀の横っ面を瑪瑙の後方へとずらした。
 けれど、これくらいではめげない孔雀、大きく逸れかけた身体を瑪瑙の肩を抱く腕で固定。
 彼女の後ろに回っては、黒い髪に頬を摺り寄せる。
「瑪瑙、酷いよぉ。ご褒美の最中に邪魔するなんて。俺、頑張ってご飯支度したのにぃ」
 甘ったるい声で非難を口にされても、説得力は全くない。
 肩に腕を回されたせいで、先程より動きにくい現状に辟易した瑪瑙は、頭をぐらぐら揺らす背後の存在へ睨みを利かせた。
 尤も、孔雀側からは鬱陶しがる視線に気づけないのだが。
「ご褒美って、家事一つに付き、頬へ一回のはずでしょう? 大体、何が嬉しいのよ、私の頬に、んなことして」
 怒り口調に含まれるのは、恥ずかしいと嘆く響き。
 顔は見えずとも、こちらは察せたようで、孔雀が喉を鳴らして笑った。
「ふふ、嬉しいよ? だってコレは、瑪瑙が俺にイイって言って、受け止めてくれるものだから」
「家事の条件付きでね」
 素っ気なく溜息混じりに返したなら、孔雀が頭に口付けた。
 瞬間、硬直する瑪瑙へ、再度頬を摺り寄せる孔雀は言う。
「いーの。その条件だって、瑪瑙が喜んでくれるんだもの」
 恍惚と届く低い声。
 異性に耐性のない瑪瑙は、かぁーっと赤らむ頬に戸惑った。
 対処に困った果て、彼女が見たのは真っ暗な窓。
「おあっ、も、もうこんな時間だ、い、行かなくちゃ」
「どこに?」
 わざとらしい棒読みの台詞へ、勘繰る声が頭上よりもたらされた。
 肩に置かれた手がぎゅっと握られる。
 少しばかり痛みを感じ、瑪瑙は顔を真上へと向けた。
 そこで見たのは、冷めた表情の孔雀。
 熱病に浮かされまくったライラックピンクの瞳が常であるため、変わらぬ柔らかな色合いに反した凍てつく眼差しは、数瞬、瑪瑙の息を止めた。
 何も言わない瑪瑙へ、孔雀が再度口を開こうとしたなら、反射で彼女の身体が大きく震える。
 大きく分ければ人間である孔雀だが、その実、瑪瑙とは性質に天と地ほどの差がある。
 孔雀は理の人――瑪瑙が属する稀人から見れば、神と称される存在なのだ。
 普段がちゃらんぽらん過ぎて、度々忘れてしまいそうになっても、その位置づけは不動。
 なればこそ、畏怖の念を抱いた瑪瑙は、孔雀の語りを待つ。
 しかし、孔雀は瑪瑙の変化を感じ取ったようで、口を噤んで目を閉じた。
 息が吐き出されたなら、瑪瑙の身体が緊張から開放され弛緩する。
 孔雀の額が頭を押し、視線が元に戻れば、小さな謝罪が為された。
「御免ね、瑪瑙。変に緊張させちゃって。ただどこに行くのか、気になっただけなのに……だって、ご飯の材料も定期的に届けてくれる人がいるしさ」
 しおらしかったのは最初だけ。
 次第に陰鬱な雰囲気を漂わせる声は、言外に邪推していると伝えてきた。
 孔雀が来てから家で過ごしていた、散歩に誘われても却下する出不精の瑪瑙が、わざわざ出かけるその理由を。
 他に男がいるのだろうか、と。
 勘違いも甚だしい。
 瑪瑙は半眼で揺れる前方を睨み、大きく息を吐き出した。
「……あのね、定期的に届けてくれる人がいたって、それはお金を払っているからでしょう? 私の仕事、何だったか覚えてる?」
 特別伝えた憶えはないが、そう尋ねれば、
「うんと、薬師?」
 刺の取れたまろやかな低音が、頭の上で首を傾げた。
「そう。薬を作って売る稼業よ。んで、今回は薬の材料を買いに行くの。食材と違ってね、ああいうのは、取り扱いに慣れた奴じゃないと駄目だから、届けて貰うわけにはいかないのよ」
 届けて貰えば、と孔雀が口にする前に、すかさず告げた瑪瑙。
 「ぐっ」と呻く声に苦笑し、回された腕に手を置いた。
「さてと。本当に暗くなっても面倒だし。そろそろ行く用意するから、この腕、離してくれないかしら?」
「…………」
 あやすように叩けば、渋々といった様子で離れる腕。
 聞き分けの良さに感心しては薄く笑う。
「……付いてく」
「は?」
 立ち上がった途端に言われ、瑪瑙の眼が丸くなった。
 振り返ると、椅子を挟んだ向こう側で、無表情の孔雀がじーっとこちらを見ていた。
 それも、上から下を何度も視線が往復していく。
 注視に耐えかねた瑪瑙は、仄かに色づく顔を俯かせつつ、自身の格好を見やる。
 よく言えば深緑、正しく表現するなら、どろりとした緑色の沼を彷彿とさせる色合いの服。
 どこかに汚れでも?
 服の端を掴んで伸ばしてみるが、夕食の痕跡はない。
 不思議に思い、孔雀の視線を追うべく顔を上げた瑪瑙は、眉根を寄せた美貌とかち合った。
「うん、瑪瑙。お出かけするなら、おめかしした方が良いと思う」
「へ?」
「俺に任せて。可愛くしてあげるから」
「は? いや、ちょっと!?」
 このままの格好で行くつもりだった瑪瑙は、安心させるような微笑に危機感を覚えた。
 嫌な予感が現実となる前に逃げようと動いたものの、背中を見せたと同時に、孔雀に抱きかかえられてしまう。
「ちょっ、は、離せ!」
「ふふふ、大丈夫。うんと可愛くして上げる。なんたって、初デートなんだから♪」
「はぁっ!?」
 トンチキな孔雀の台詞に、肩で担がれた瑪瑙は黒い背中をばしばし叩いた。
 けれど彼は楽しそうに笑うだけで、一向に下ろす気配がない。
 足をばたつかせても、膝裏に腕を通されては威力も望めず、後頭部に肘鉄を食らわせようとしても、容易く避けられてしまう。
 叫んだところで、顰められる眉も在らず。
 やがて暴れ過ぎて疲れた瑪瑙。
 荒い息をついたまま、ぐったりと全体重を孔雀に預ける羽目となる。
 ようやく下ろされたのは、勝手に入られた自室の、最近では孔雀と共有しているベッドの上。
 さすがにぎょっとし、身体を起こそうとしたなら、肩が後ろに押された。
 伺う黒目を向ければ、眼前の男はにたりとライラックピンクの瞳を歪ませる。
「不安がらなくていい……俺に身を委ねれば、すぐに終わる」
「ひっ」
 ぞっとする思いで足を掻いても、押さえつけられた身体は、孔雀の下で限られた動作しか出来ない。
「ちょ、ちょっと待った! な、何する気よ!?」
「む? もちろん、着替えだよ?」
 のほほんとした返答だが、孔雀の息は餓えた獣の如く荒かった。
 瞬時に顔を青褪めさせた瑪瑙、もがきながら首を振る。
「き、着替えって……冗談じゃないわ! 私はこのままで良いし、第一、他人に服を着せられるなんて!」
 自由の利く両手で孔雀の肩を押したなら、ふっと彼の表情が和らいだ。
「やだな、瑪瑙。俺たち夫婦でしょ? あ、もしかして恥ずかしいのかな、俺に肌を見せるのが。でも、大丈夫」
 華やぐ微笑のまま、孔雀は瑪瑙の手首を一纏めにした。
「だって、ここで最初に逢った時、君は全部、俺に見せてくれたでしょう?」
「っ!? み、見せたって言わない! 人を露出狂みたいに言わないで! あれは貴方が勝手に――ふっ!?」
 噛み付くが如く叫べば、片手だけで拘束された両手首が、瑪瑙の頭上に押し付けられ、弾みで浮いた唇が奪われる。
 離れたなら、至近に潤んだ孔雀の瞳。
 魅入られた先の、よろしくない体勢に、瑪瑙の喉の奥が震え――
「愛しい君……怯えずとも良い。我が手技は君を傷つけはせぬ」
「ん……!」
 低く染み入る言葉と共に降りた深さは、いつかのご褒美より、不慣れな瑪瑙の意識を混濁させる。

 

 しゅるり、解かれる衣擦れの音さえ、甘く響くほどに。

 

 


UP 2009/4/24 かなぶん

修正 2018/4/18

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