目覚めれば、上に微笑み。
 虚ろな眼差しで見つめ続けたなら、白く透き通るきめ細かい肌に、薄桃の熱が灯る。
 それよりも鮮やかな、宝石を思わせるライラックピンクの輝きは、自らが作り出した陰の中、くるりと光を漂わせている。
「瑪瑙……」
 切なげに顰められた形の良い眉の心情を表すべく、女と見紛うばかりの美貌が、朱唇を狂おしいと震わせた。
 吐息混じりの囁きは、合間の風を絡めて甘く耳朶へ染み入る。
「ん……」
 相手の熱から逃れるべく身じろいだなら、するつもりのなかった返事の音が、甘える素振りで唇から零れ落ちてしまう。
 これに気を良くしたのか、細められる瞳。
 認めたなら、ぞくりと肌が粟立った。
 意識しているのかいないのか。
(……たぶん、していないのだろうけど)
 時折見せる、捕食者の様相。
 媚び諂う視線が常のためか、冷然な双眸を前にすると心音が嫌な具合に跳ね上がる。
 畏怖、とでもいうべきか。
 嫌がるだろうから、口には出せないけれど。
 この目を前にするとどうしても、跪きたい衝動に駆られてしまう。
 頭を垂れて、目を合わせることも畏れ多いと。
 本当にそんなことをしたら、「無視しないで」と泣きつかれるのは容易に想像出来た。
 今だって、注視に耐えられないと逸らしたなら、途端に怯えた目でこちらを見るのだから。
「……瑪瑙?」
 恐る恐る、伺うように。
 涙が滲む声音へ、寝相により頭上にあった手を伸べ、滑らかな頬を宥めるべく撫でる。
 すると安らぎに和らぐ瞳。
 与えられたとでも思っているのか、頬に宛がわれた手に恭しく触れては、何度も何度も頬を摺り寄せる。
 気持ち良さそうに目を細め、愛おしむように指の腹へ唇を這わせて。
 単純。
 けれど。
 難解。
 何故こうも、目の前の男は己を望むのか。
 理由がさっぱり分からない。
 暴漢から助けた――
 経緯だけ見ると、そういうことになるのだが、彼の正体を鑑みれば在り得ない話であった。
 幾ら、彼の属する理の人が、暴漢らの属する稀人を同じ者として認めようとも、稀人にとって神の位置に等しいほど、理の人は理不尽に強いのだ。
 甘言に靡く呑気な彼とて、本当に身の危険や不快を感じたなら、こちらが手を出すまでもなく、相手をどうとでも処せる。
 だからこそ思う、何故? と。
 全てにおいて、理由が在るとは思わないが、切っ掛けくらいはあるはずだろう。
 とはいえ、これだけ慈しまれて、顔の右半分が白く爛れているから、という珍獣扱いのような理由は御免蒙りたい。
 この顔は事故であり、不本意。
 褒められても嬉しくないし、何より、それを気に入られたのでは、生まれ持ったありとあらゆるモノを否定された気分に陥りそうだった。
 まだ相手が手に夢中なのを良いことに想像してみた。
“瑪瑙の右の顔が好きなんだ。それが理由……じゃ、駄目?”
(駄目、というより、嫌)
 優しく微笑まれようが、暖かな瞳を向けられようが、描くだけで胸が痛む。
 実際、この場面は幾度も想定してきたけれど、その度哀しいと思ってしまう。
 苦しいと、感じてしまう。
 だから、聞けない。
 いつも、思い描く前に尋ねたいと思う事を。
 私の何処が貴方の心を惹きつけるの?
 惹きつけて、おけるの?

 ――いつまで?

「瑪瑙……? どこか痛むの?」
 知らぬ間に、顔が顰められていたらしい。
 写し取ったかのように歪む美貌から、細く長い繊細な指が降りた。
 羽根の柔らかさで頬に触れ、するりと指先で撫でては耳まで手が下がり、涙を拭う素振りで目の下に円が描かれる。
 細めたなら滲む視界、涙まで浮かべていたのだと知り、弱い自分を呪った。
 次いで、頑ななはずの己の心に、彼はちゃっかり居座ってしまったのだと認める。
 こうなるのが嫌で、自称・夫の男を拒んできたのに。
 本当は全部、言葉だけの拒絶だった。
 思い、至り――
(私か……単純なのは。陥落しやすいにも程があるわ)
 不甲斐ない自分に、留まっていたはずの涙がポロポロ落ちてきた。
 すると、案の定というべきか、ライラックピンクの瞳に動揺が現れる。
「め、瑪瑙? どうしたの? 大丈夫? 具合悪い? それとも……俺が嫌?」
 慌てふためきながら、最後は小さく、痛みを堪えて吐かれる言葉。
 拒絶を望むようであり、それでもきゅっと握られるのは、彼へ与えたままの瑪瑙の手。
 小刻みに震える様を感じ、返事の変わりにその手を握り返す。
 あからさまな安堵が吐息となって唇を揺らした。
「……目に、ごみが入っただけ、だから」
 分かりやすい嘘。
 寝起きの掠れた小さな声は、しかし、彼の顔を綻ばせるに至る。
 数度瞬き、涙を止めて、
「おはよう、孔雀」
「うん。おはよう、瑪瑙。もう昼だけど」
「そっか」
「うん。朝ご飯作ったんだけど、もう冷めちゃったよ」
「……そ、そう」
 朗らかな表情はそのままに、何やら冷え切った声音が突き刺さってきた。
 どうやら機嫌が悪かったらしい。
 にこりと微笑む瞳の圧力から視線を逸らしたいものの、実行すれば、更に機嫌を損ねてしまいそうだ。
 ここは一つ、愛想笑いで手を打とう。
 引き攣りつつ、笑みを引っ張り出す。
 と、途端に意地悪っぽい企みの笑みを目にした。
「折角作った朝ご飯、瑪瑙は食べなかったけど、ご褒美、ちょーだい? 瑪瑙のために作ったんだから」
 言って、今度は唇が降りてくる。
 零れる呼気。
 からからに乾いた唇が僅かに湿り気を帯び、さっと顔が青くなった。
「ちょ、く、孔雀? ご褒美は頬って約束」
「んぅ? うん、知ってる。でもさ、今回は特別。だって瑪瑙、全然目を覚ましてくれないんだもん。俺、お腹ペコペコで」
「た、食べてないの?」
「うん。食べてない。だから瑪瑙が欲しい。起すのもしのびないから、ずーっと待ってたんだよ? 垂涎の君が無防備でいるのに、触れずに、目が覚めるまで、ずーっと」
「……それって、ずっとそこで私の事を」
「うん。見てた。起きるまでずっと。だから、ねぇ、瑪瑙? 今回は特別。いい、だろう?」
 尋ねる風体を装い、笑ったままの顔が近づく。
 対し、頬を固定され、手を取られた状態では、覆い被さる男から逃げも出来ない。
 唇になると、執拗な口付けを繰り返すのが、目前の変態だった。
 まだ頬だから許容出来るのだ。
 呼吸云々抜かしても、朦朧となる前例にぞっとする。
 と、不意に鼻が擽られた。
「ふ……」
「ふ?」
 漏れた声に止まった首が小さく傾いだ。
 間髪入れず、捕まっていない手で戸惑う鼻から上を鷲掴む。
「……邪魔」
「えっ!?」
 先程までの優勢な態度はどこへやら、一転して怯える相手を忌々しいと突き放した。

* * *

 兎にも角にもまずは食事。
 もそもそ食べては、こちらを伺う孔雀の視線を無視し、瑪瑙は黙々と箸を動かす。
 冷めても美味しい料理の数々は、終ぞ、彼女の顔を綻ばせることはなかった。
 素っ気ない「ごちそうさま」の後で、瑪瑙の黒い瞳がキッと孔雀を睨みつけた。
 飯粒を口の周りにつけたまま、ビクッと肩を揺らした孔雀は、怒り肩で近づく瑪瑙に戸惑い――

 孔雀の背後に回った瑪瑙は、流れる金髪を前に首を傾げた。
「なんで今まで、思いつかなかったのかしら?」
「め、瑪瑙?」
 伺う素振りを孔雀が見せたなら、指を前に突きつけて言う。
「孔雀! こっち向かない、前だけ見てなさい! まだご飯の最中でしょう?」
「あう……はいぃ」
 えぐえぐ喘ぎつつ、食事を再開する孔雀。
 これに頷いた瑪瑙は、孔雀の背中越しに、その椀に盛られた白飯の量を見、眉を寄せた。
 瑪瑙よりも背丈がある孔雀は、家事全般をこなしているため、彼女より活発に動く。
 けれど、食べる量は瑪瑙より遥かに少ない。
 一口にしても、箸に乗っけた十数粒の米を三十回以上延々噛み続け、思い出した頃に呑み込む、といった具合である。
 低燃費といえば聞こえは良いが、あくせく頑張って食べている節があるため、もしや理の人は物を食べないのではと疑ってしまう。
「……ねえ、孔雀?」
「ふみゅ?」
 問い掛けても言われた通り前を向き続ける頭が、ぐらぐら揺れつつ小さく傾ぐ。
 飯をまだ噛み続けている様子に、瑪瑙は同じ角度で首を傾げる。
「ご飯、美味しかったよ?」
「んくっ、ほ、本当?」
 背中を向けていても分かる上機嫌な確認に、瑪瑙の頬が勝手に緩んだ。
「うん。本当。で、孔雀。ご飯、美味しい?」
「うん、美味しいよ。瑪瑙が美味しいって褒めてくれたから、もっと美味しい」
「その割にはいつも、食べる量少ないよね? 理の人って皆そうなの?」
「ううん。たぶん、俺と藍銅と……あと、宮(きゅう)に居る数人くらいかな。外からの摂取が稀人より極端に少ないのって」
 宮というのは、理の人の中でも特に力の強い一族が暮らす場所である。
 平然と言ってのける孔雀とは違い、その意味するところを重々承知している瑪瑙はひくりと頬を引き攣らせた。
 宮から直接の害を蒙った憶えは――そこに住んでいたという孔雀を数に入れなければ――ないが、身じろぎ一つで街を潰す相手、本能的に恐怖を感じても致し方あるまい。
 幸いなことに、背を向けた孔雀では瑪瑙の微弱な変化を捉え切れず、察知されたくない彼女は平静を装って話を続ける。
 知られたら最後、鬱陶しいくらい宮に住んでいた自分は嫌かと問われるだろうから。
「外からの摂取……?」
「うん。ご飯はね、俺の場合、大半を内側から摂ってるの。心、っていうのかな? そこから」
「へえ」
「だから、瑪瑙に美味しいって言って貰えると、本当に美味しいの。瑪瑙のためにってだけでもいいけど、やっぱり瑪瑙から言われたり触れて貰ったりすると、凄く満たされる」
「そう」
「うん。あのね、今の俺は全部、瑪瑙で出来ているんだよ? 生かすも殺すも瑪瑙次第なんだぁ」
「…………」
 えっへんと胸を張る口振りに、瑪瑙は何とも言えず溜息を吐いた。
 孔雀はこれに気づかず、ウキウキ楽しそうに続ける。
「本当はね、瑪瑙と一緒にいるから、こういうご飯もいらないんだけど、瑪瑙と一緒に食べるのが好きなの。でも、そうするとお腹が一杯過ぎて、どうしても食べるの遅くなっちゃうの。なるべく早く食べようとはしているんだけど」
「……何で?」
「え? だって、瑪瑙が言ったんだよ? ゆっくり食べてって」
 確かに、そんな事を言った気もするが、話の流れを考えれば、ゆっくり食べても良いだろうに。
 妙な展開に眉を寄せたなら、最後の一口を含み、咀嚼。
 呑み込む音の後、孔雀の背が目一杯反り返り、逆さの顔が小難しい表情を浮かべていた。
「それってさ、俺はゆっくり食べてても良いけど、自分は別の事をするって意味でしょ? 何だか除け者にされた気がして……」
「だから早く食べる、って?」
「うん」
 にっこり笑いかけられ、瑪瑙は少しだけ頭痛を覚えた。
 軽く額を抑えると、孔雀の顔に戸惑いが浮かんでいるのを知った。
 苦笑一つ、吐息も一つ。
「……孔雀、ご飯粒ついてる」
「ふぇ」
 間抜けな返事に笑みだけ深めた瑪瑙は、ひょいひょい米粒を拾って自分の口に入れた。
 食べて呑み込めば、薄っすら頬を染める潤んだ孔雀の瞳とかち合う。
「何か今……とっても夫婦な感じだった」
 蕩けた音色に、意地の悪い笑みが瑪瑙の口元に浮かんだ。
「……夫っていうより、子どもっぽいよね、孔雀って」
「ええっ!? ひ、酷いよ、瑪瑙ぉ」
「はいはい。イイ子だから、首を元に戻しましょうねー?」
「むぅ」
 頬を膨らませ、それでも言われた通りに孔雀は顔の位置を戻した。
 やっぱり子どもみたい。
 孔雀の両肩に手を置いた瑪瑙は、その頭を小突くように額を乗せた。
「孔雀、貴方って重いわ」
「ぬ? 重いの俺の方じゃないの? 瑪瑙にこうされるの好きだけど、俺は瑪瑙に何にも」
「物理的にじゃなくて。貴方の生殺与奪権なんて私に押し付けないでよ。稀人と理の人じゃ生きられる時間の長さが違うんでしょ? 理の人の間隔なら、そう遠くない未来に私は――」
 死んでしまう。
 言いかけた言葉は、重ねられた孔雀の手に遮られる。
 その、微かな震えによって。
「瑪瑙……止めて。それ以上先は言わないで。……押し付けるつもりなんかないから。違うんだ。ただ、事実を述べただけだ。君なしでは生きてゆけぬと。だか――にゃあ?」
「孔雀、口調がまた変わってきているよ?」
 孔雀の手を掻い潜り、語る両頬を引っ張った瑪瑙は、気の抜けた声にくすくす笑う。
 至極真面目に話していたからだろう、手を離せば、ぷくりと孔雀の頬が膨らんだ。
 ちょっと遊び過ぎたと反省した瑪瑙は、当初の目的を果たすべく、食卓近くの小さな本棚へ手を伸ばす――前に。
「ぶぅー……って、瑪瑙!」
 悪戯心から膨れた頬を潰してやった。

* * *

 説得力のない、笑いながらの「御免」を繰り返した瑪瑙は、一冊の本を孔雀へ手渡した。
 怒りに燃えつつこれを受け取った孔雀だが、途端に首がこてんと傾ぐ。
「髪形?」
「そう。どれでもいいから選んでみて。なるべく近づけるから」
 ぺらぺら捲る孔雀は、瑪瑙に背を向けたままで問うた。
「なんで?」
 それは――
「う……い、いいから選んでよ。そ、そういえば、カァ子さんは?」
 まさか馬鹿正直に真実を語るわけにもいかず、先程から姿の見えない同居人の黒い影を探す瑪瑙。
 こういう時、妙な察しの良さを見せる彼女がいないのは有り難いが、逆に、こういう時にいないのは不自然でもある。
 野次馬根性が人一倍あるカァ子の不在は、嫌な思いを瑪瑙に抱かせた。
 先日、カァ子の持ち物であるこの家を半壊させた孔雀は、煩いという理由だけで、稀人には使えない特殊能力を用い、カァ子の記憶を操作したという。
 カァ子自身も利という種であるため、同じ力を使えるのだが、こう見えて齢300を数える彼女より長生きしている孔雀、抵抗を捻じ伏せて無理矢理行使したそうで。
 普通、相手の内面へ干渉する力は、相手の精神に支障を来たす恐れがあるものだ。
 しかも抵抗があったのなら尚の事、その恐れが現実になる可能性は高い。
 最悪、精神崩壊を起してしまう場合もあるらしい。
 不在というだけで考えがそこまで及んだ瑪瑙、無事でいて、と祈り始めたなら、その元凶がのほほんと答えた。
「カァ子さんなら集会だって。夕方までには帰るってさ。……泊まっていけばいいのに。そしたら俺と瑪瑙の、二人っきりの甘い時間が」
「ないから」
 きっぱり言い捨て、軽いチョップをお花畑の後頭部に見舞う。
 少し弾んだ頭は「うぅ、酷いよぉ」と呻き。
「あ、コレなんか面白いかも。こっちも楽しそう。おー、なんか凄いな。むむむぅ。瑪瑙、君はどう思う?」
「ん? どれどれ…………げ」
 孔雀の肩越しに、示されたページを覗いた瑪瑙は、露骨に嫌な顔をした。
 なんでこんな頁があるのよ……
 孔雀に渡した本は、女性用の髪の結い方が描かれていたはずである。
 それなのに、孔雀がにこにこ見せたページには。
「……いっそ、剃ってしまおうか?」
「ええっ!? い、嫌だ!」
「じゃあなんで、よりにもよって、この三つを選ぶのよ!」
 いわゆる、大仏ヘアーとリーゼント、そしてモヒカン。
 瑪瑙の、技術的にも、審美眼的にも、孔雀には施せない、施したくない髪形に、綺麗な長い金髪の男は慌てて訂正を入れた。
「お、俺は選んだんじゃなくて、どう思うって聞いただけ! 第一、この髪形じゃ髪を切らなきゃ駄目でしょ!? 藍銅に怒られちゃうから、切るのは最初からナシなの!」
「切るの……駄目なの?」
 違うと聞いて一安心の瑪瑙は、孔雀の言葉にきょとんとする。
 度々出てくる藍銅という名の男は、孔雀に絶大な影響を及ぼす存在らしい。
 けれど、髪形一つ自由に出来ないとは、些か厳し過ぎるのではないか。
 そんな思いが瑪瑙に過ぎったなら、髪を庇うように前に持っていった孔雀が、くすんと鼻を鳴らして言った。
「駄目なの。怒られるのはいつものことだから、別にいいけどさ。それより何より、元の姿に戻った時、凄い不恰好になっちゃうから」
「…………………………元の、姿?」
 珍妙な言葉を受け、瑪瑙の眼が真ん丸くなる。
 カラス姿のカァ子同様、理の人の中にも、稀人とは違う姿の者がいる。
 彼らは力を使うことで、稀人に似た姿となれるのだが、その間、力を行使したままの状態を維持しなくてはならない。
 なればこそ、変化を不得意とするカァ子は、物の数秒でカラス姿に戻り、得手とする者であっても最長で一週間かそこらが限界である。
 しかも、眠りにいたっては維持する事もままならないので、元の姿があるなら、その時点で戻っているはずだった。
 一応、装飾品に姿を保つための力を定期的に込め、身につける事で維持する方法もあるらしいが、孔雀にはそういった飾りっ気は一切ない。
 だからこそ、瑪瑙は孔雀の姿はそのまま、稀人と同じ姿なのだと理解しており。
(……止めよう)
 今、突っ込むのは危険だと首を振った。
 孔雀に尋ねて、意気揚々と正体を現すのは予想がつく。
 もしもこの家より元の姿の方が大きかったら……
 そうなった場合、真に恐ろしいのは、激昂するカァ子の記憶を孔雀がまた、弄くる事である。
「……瑪瑙?」
 固まった瑪瑙へ不安な表情を浮かべる孔雀を知っては、笑みを浮かべて彼の髪を手の内に収める。
 とりあえず今は、この髪をどうにかする事を優先しよう。
 手櫛で柔らかく孔雀の髪を梳き、一纏めに持ち上げ、頭頂部の辺りで縛り上げる。
 まだ長さのある髪を掬い取り、団子状に纏めては、縛った周りを髪留めで留める。
「はい。孔雀が選ばないから、こんな感じになったよ」
「え、どれどれ?…………うわぁ」
 されるがままだった孔雀が、自分の手鏡で髪形を確認する様を瑪瑙は眺め、内心で溜息を付いた。
 孔雀の元の姿など、カラスなカァ子と暮らす瑪瑙にとっては、今更思い悩むには値しない。
 純粋に、驚きはしたものの。
「何だか……凄い…………瑪瑙って本当に、薬師の仕事以外、不器用なんだね」
 世辞もない率直な意見を受け、瑪瑙の頬が引き攣った。
「煩い。でも、今度からはそんな感じで纏めて頂戴。じゃなきゃ、擽ったくて邪魔なのよ、その長い髪。さっきもくしゃみが出そうになって」
「それって……さっきの、口付けを止めた理由?」
「そうよ、そう――――って、うぁ……」
 結局、喋るつもりのなかった事を、馬鹿正直に言ってしまった瑪瑙。
 後悔しても、もう遅い。
 手鏡越しに、孔雀のにたりと笑う顔が見えてしまった。
 くすくす笑いに震える肩から、瑪瑙は一歩後退した。
 けれど、すぐさま伸びた手に片腕が捕らえられ、ぐいっと孔雀の背を抱くように身体が引っ張られてしまう。
 至近で笑う瞳に見つめられ、瑪瑙の顔が真っ赤に染まった。
「瑪瑙ったら……可愛いなぁ、もう。言ってくれたら、髪の毛なんてさっさと纏めたのに。でも、君からそういう行動を起してくれるってことは、俺との口付け、結構お気に入りなんだよね?」
「うっ、ち、違――」
 否定を口にする瞬間、掠め取られる唇。
 尾を引くように舐められ、更に赤くなった瑪瑙へ、底意地の悪い探る眼が問う。
「ん? 違うの? まあいいけど。カァ子さんのいない今くらいは、嘘でもそうだって言ってくれて、良いんじゃない? ご褒美もお預けなんだからさ。俺を甘やかしてくれるなら、最後まで甘やかして、瑪瑙?」
「っ」
 孔雀が喋る度に、擽られるだけの唇がもどかしい。
 焦らされているのだと知り、羞恥に顔が熱くなっていく。
 ここで違うと言ってしまったなら、孔雀は案外、あっさり引いてしまいそうだった。
 こういう場面に際しては、遥かに年長者である孔雀の方が、何枚も上手なのだから。
 きっと、瑪瑙が強請るまで、触れもしないに違いない。
 髪を結い上げた時点で、瑪瑙はどう足掻いても、孔雀に屈するしかないと踏んで。
 それでも、嘘でも、と言ったのは、孔雀なりの気遣いだと思う。
 意地っ張りな自分が、望み易い様に。
 完璧に把握されている己の面映さを感じつつ、瑪瑙は根負けしたように言った。
「……違わない、です」
「そう。嬉しいな」

 深まる笑みに魅せられて。

 最近、流されているなと思う瑪瑙は、すでに夫婦の関係なのだとばれるのも、時間の問題かも知れないと感じながら――
 ばれたら絶対、身が持たないと考える。
 孔雀の想いは徐々に信じ始めていても、今しばらくは、隠し通さねばなるまい。
 誰より、自分のために。
 偽りの拒絶ですらこうなのだから、許容したら最後、孔雀がどこまで暴走するか検討もつかない。
 ぞっとしない話である。
 なので、これ以上流されないためにも、保険は必要だと結論付ける。

「っ痛! め、瑪瑙ぉ、酷いよぉ……最後の最後で咬むなんて」

 非難の声には意地悪い笑みを浮かべつつ、孔雀の口付けでだらけた身体を預ける羽目になった瑪瑙は、こっそり疲労を吐き出した。

 

 


あとがき
孔雀の髪、長くて鬱陶しいなぁと思って出来たお話です。
思いの外甘めになってしまい、少々痒いです。

UP 2009/7/4 かなぶん

修正 2018/4/18

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