「それじゃ、行こうか」
「……どこに?」

 夕食を終えて茶を一服。
 さあて、と瑪瑙が椅子から立ち上がった矢先、その手首を掴んで孔雀は言った。
 何の事かさっぱり分からない瑪瑙は、掴む手も払わず、予定でも入っていただろうかと眉根を寄せる。
 今日の瑪瑙の予定は、離れの作業場で受注の薬を作る傍ら、趣味の新薬作りに没頭する事ぐらい。
 たとえどこかへ行くとしても、それは受注の薬の出来次第。
 馴染みの薬種店にしても、足りない材料はないので、特に入用もなかった。
 それどころか、外に出ている暇はあまりないと言った方が正しい。
 何せ、今回の受注内容の期限は明後日なのだ。
 薬自体は、レシピもあって簡単に作れる代物だが、依頼されたのは今朝。
 それも、書面だけで。
 左の愛らしい顔つきに対し、右半分白く溶けかかった顔を人目に晒すのを厭う瑪瑙は、その感情ゆえに表立った功績を残してはいない。
 代わりとばかりに、彼女が薬師として活躍する舞台は、専ら裏に限られる。
 このため本来瑪瑙は人の見えない、書面だけの依頼は受けない事にしていた。
 だというのに、何故この薬に関してだけ、例外が生じたのかといえば、今現在、瑪瑙をどこかへ連れて行こうとしている孔雀に原因があった。
 朝にあまり強くない瑪瑙が寝腐っている内に、家の周りを箒で掃いていた孔雀が、尋ねて来た小間使いと思しき少年から、この手紙を預かってしまったのである。
 一応、手紙には用件の他、相場に若干上乗せされた金額を記した証文と、一介の薬師程度ではお目にかかれない、さる大貴族の捺印があった。

 とはいえ、これを知った時の瑪瑙の機嫌は最悪だった。

 思いつく限りの罵詈雑言を孔雀に浴びせ、めそめそ泣く背中を足蹴にする事、数回。
 幾らかすっきりした気分の頭で考えるのは、注文分の材料の在庫と手順、所要時間。
 ハンカチで涙を押さえつつ、ぽかんとした表情で、注文を受けるのかと問う孔雀に対し、傍若無人な振る舞いを明後日の方向に忘れ去った瑪瑙は告げる。
 どんな手段だろうとも、一度受け取ってしまった依頼は断らない。
 だから今度は絶対受け取るな、とも釘を刺す。
 すると、何故か顔を輝かせた孔雀、自分はまだここに居て良いのかとしつこく尋ねてきた。
 どうやら、悪し様に扱われたより、瑪瑙の機嫌を損ねた事によって嫌われたと思い、泣いていたらしい。
 これに頭痛を感じた瑪瑙は、おざなりに「良いわよ」と返事をしたのだが、気を良くした孔雀は懲りずに何度も同じ事を尋ね。
 最終的には、頭突きをかまして黙らせた瑪瑙、自身も痛む額を擦りさすり、「今回はね!」と強く言い放った。 

 それが丁度、昼過ぎの事。

 ならば、大人しく瑪瑙に薬を作らせれば良いだろうに、聞き返した瑪瑙へ神妙な顔を向けた孔雀は言う。
「……手紙の主のところ」
 突拍子のない発言に瑪瑙の眼が丸くなった。
「なんで」
「断るの。本当は手紙、受け取っちゃいけなかったのに、俺が受け取っちゃったから。受け取った人が瑪瑙じゃないって、ちゃんと分かって貰って」
「はあ? わざわざそのためだけに行くって? 良いじゃない、別に。もう引き受けたようなモンなんだから。第一、捺印の主がどこに居ると思ってんの。ここは大陸中心部から見て西南の外れよ? 典(てん)の一族って言ったら、領地一つ分挟んだ向こう側の佳枝(かえ)の域(いき)じゃない。一体、何日掛かると――」
「てん? かえ? いき? なぁに、それ?」
「へ?」
 頭の悪い発音を耳にし、瑪瑙はきょとんとした目で孔雀を見た。
 常識を聞き返されて、すぐさま答えられるはずもなく、それよりも、何故そんなことを聞くのかと問いかけては合点がいった。
「ああ、そっか。孔雀は理の人だから」
「む? 何それ。理の人だから何だっていうのさ。そういう区切りは嫌いだって、前に言ったよね、俺」
 瑪瑙の手首を放した孔雀は、腕を組んで口を尖らせた。
 広義で人の括りになるとはいえ、瑪瑙属する稀人と孔雀属する理の人の、認識の差は大きい。
 稀人からすれば、神と崇められても可笑しくない位置に居る理の人だが、彼らは稀人を同じ位置に置きたがるため、畏敬であっても喜ぶどころか怒る始末。
 けれど、瑪瑙は決して、そういう意味で理の人の話を持ち出した訳ではなかった。
「あのね。そうじゃなくて。ほら、理の人での常識を稀人が知らないように、稀人の常識を理の人も知らなかったりするよね、ってこと! たとえば、私は宮(きゅう)についてよく知らないけど、孔雀は知っているように」
「? 瑪瑙、宮の事が知りたいの? それならそうと言ってくれれば良いのに。教えるよぉ? 俺が懇切丁寧に、手取り足取り」
「たとえば、の話! 大体、話を聞くのに、どうして手取り足取りになるのよ」
 頭痛を堪えるように、こめかみへ指を当てた瑪瑙は、そこに円を描いて呆れを外へ逃がした。
「まあ、いいわ。兎に角、さっきの言葉を簡潔に説明すると、典は稀人の中で身分が高いとされる氏族の内の一つ。佳枝は稀人が勝手に土地につけた名前で、域はその範囲の事。ちなみに領地一つ挟んだっていうのは、佳枝と同じ広さの域がその前にあるって事だから」
「ふぅん?」
 分かったような分かっていないような孔雀の返事に、付きそうになった溜息を留め、瑪瑙は同意を得る要領で彼の顔を伺った。
「ね? 距離がありそうでしょう? だから、断るより薬作った方が早いのよ。使いの子に言ったところで無意味なんだし」
 ここでぽんぽんと慰める素振りで孔雀の肩を叩いた瑪瑙は、ふっと笑んで言った。
「今回は言ってなかった私にも責があるから。御免ね、無下に扱ったりして。でも、次からは気をつけて? 今回の依頼はそんなに危険な薬じゃないけど、中には物騒な調合頼む奴もいるからさ。そういう奴って、一回引き受けたら付け上がるのよ。自分だって足元掬われるくせに、調合した事自体、脅しに使ったり」
 区切り、孔雀の肩に手を掛けたまま俯く瑪瑙。
 次第に肩が揺れたなら、遅れて喉がクククと鳴らされた。
 後ろで三つ編みにしていても掛かる前髪は、目元に不穏な陰を落とし、口元の上機嫌へは暗い花を添える。
「……まあ、私の場合、そういう連中には茶に一服持って、趣味に付き合って貰うんだけどね」
 最終的にヒヒヒ……と不気味に笑う声を携え、孔雀から手を離した瑪瑙は、作業場へと足を向けた。
 ――が。
「……孔雀?」
 すぐさま離した手を取られ、嗤いを拭った顔が不思議そうに孔雀を見上げた。
 じっとこちらを見つめる、思いつめたライラックピンクに小首を傾げれば、物珍しい重々しい頷きが一つ返された。
「うん。やっぱり、断りに行こう」
「え……と、貴方、人の話聞いてた?」
 頬を掻き掻き問う瑪瑙を余所に、一人で決心した風体の孔雀は、ぽんっと手を打つ。
「あ、そうだ。カァ子さんに言っておかないと。利だけど家主だし」
「く、孔雀?」
 言うなり、ぱたぱたと靴音を響かせ、夕食後、自室に戻ったカァ子の下へ走っていく孔雀。
 利に属する家主のカァ子は、見た目、そこいらでぴょこぴょこ跳ねる黒いカラスだが、姿形はどうあれ、理の人同様、広義の人間である。
 理の人と利の違いを挙げるならば、稀人から見た利の分類が魔性ということ。
 同じ箇所を挙げるなら、理の人と利は互いに嫌い合う性質を持っていた。
 利の感覚が稀人に近いため、理の人がこれに妬みを抱いたのが確執の始まりとされているが、孔雀に関して言えば、利であっても瑪瑙と親しいカァ子個人とは、友好関係を築きたい様子。
 以前、カァ子の記憶を弄くる無体を働いていたとしても。
 程なく、ぱたぱた帰って来る靴音。
「瑪瑙! カァ子さん、分かったって!」
 開けっ放しだった扉から、喜色満面の声が現れた。
 けれど瑪瑙は孔雀の顔を見るなり、目を丸くした。
「孔雀……どうしたの、その顔?」
 言って指差したのは、孔雀の額からだらだら流れる、一筋の血。
 指摘され、きょとんとした孔雀は、瑪瑙の目が釘付けになった箇所へと手を当てた。
 指先にべっとり血がついたのを認めては、柳眉を寄せて小首を傾げる。
「あれ? 何だか痛いなって思ったけど……血、出てたんだ」
 納得したならそれで終わったとばかりに、孔雀は笑顔を再開させた。
 慌てたのは瑪瑙の方である。
 濃緑を基調とした服の物入れから、手拭を取り出しては、落ちにくい血を思うこと数秒、頭一つ分弱高い孔雀の額にこれを押し当てた。
「出てたんだ、じゃないわよ。一体、何をしたらそんな風になるの。……と、その前にそこに座りなさい」
「うん?」
 呆れ果てた瑪瑙の物言いに困惑を示したものの、言われた通り孔雀は食卓の椅子に腰を下ろした。
 孔雀に手拭を押さえておくよう言い渡し、今度は小さな入れ物を取り出す。
 蓋を開け、中身を指で掬い、手拭をずらさせてから、まだ血を流そうとする傷口へこれを薄く塗布した。
「それは?」
「血止めよ。傷自体は大したことなくても、額って血が流れやすいから。……よし。触らないようにしとけば、とりあえずこれで十分。あとは……まずは水かしら」
 座ったままでいなさいと孔雀へ言い置いた瑪瑙は、すぐに少量の水を桶に張って現れた。
 手拭を孔雀から受け取り、桶の中に浸しては、絞ったそれで孔雀の顔を拭く。
 顎を上向きに取られ、されるがままの孔雀は、始終、ぽけっとした表情を浮べていた。
 右を向かせ、左を向かせ。
「これで、よし」
 角度を変え、いつものきめ細かい肌を取り戻した顔へ頷き一つ。
 手拭を桶に入れ、改めて瑪瑙の小首が傾げられた。
「で? その怪我はどうしたの?」
「うん……カァ子さんがね、合図もなしに乙女の部屋に入るとは何事だい! って」
「へぇ…………人の事言えた義理でもないけど、容赦ないな、カァ子さん……」
 何とも為しに、件の主がいる方向を見やった瑪瑙。
 呆れつつも桶を戻しに行こうと動けば、腕に手が掛けられた。
 少し跳ねた水に眉を顰め、孔雀へ文句を言いかけたなら、真剣な顔がそこにあった。
「カァ子さんから了承も得たし、行こう、瑪瑙」
「……本気?」
 額にこさえた孔雀の傷を知りつつも、その話は終わったとばかり思っていた瑪瑙は、こだわる理由が分からず眉根を寄せた。
 構わない孔雀は、答える代わりに瑪瑙から桶を取り上げる。
「これは俺が片付けておくから、瑪瑙は準備しておいてね?」
「あ」
 留める間もなく、孔雀はすたこらさっさといなくなってしまった。
 残された瑪瑙は頭を掻き掻き。
 こうなったら本気で行きそうな孔雀を思い、面倒臭そうな溜息を吐いては、思いつく準備をするべく動く。

* * *

 必要最低限の、暗色を基調とする旅装に身を包んだ瑪瑙に対し、玄関先で待っていた普段着姿の孔雀は驚いた顔をした。
「瑪瑙、重装備だね?」
「そういう貴方は旅を舐めてるの?」
 決して野外向けとは言い難い瑪瑙だが、孔雀の格好はそれ以前の問題である。
 絶句すれば、首を傾げる孔雀に合わせ、瑪瑙が結って以来、彼自身で結うようになった長い金髪の髪が、紅い紐と共に横へ流れた。
 元より女にも見える孔雀、映える紅に、本来の持ち主である瑪瑙は、少しだけ悔しい気分を味わう。
「旅?」
「……遠方に行くんだから、当たり前でしょ?」
 紐以上に頭の痛い思いに駆られ、眉間に皺を寄せたなら、孔雀の目がぱちぱちと瞬いた。
 次いで、瑪瑙の手首を掴んでくる。
 突拍子のない動きはいつものことなので、大して驚きもしない瑪瑙は、そのまま引かれて外へと移動する。
 数歩、玄関から遠退けば、ぴたりと立ち止まった孔雀が、突然、瑪瑙の身体を抱き締めた。
「!」
 急な事に驚く瑪瑙の耳朶へ、孔雀の声が響く。
「瑪瑙は佳枝のどこに依頼主がいるか、分かる?」
「だ、大体の位置なら」
 いつもちゃらんぽらんな面が目立つ孔雀の、稀に見る真剣な音色。
 当てられた瑪瑙は赤くなる頬を自覚しつつ、上擦ったまま頷いた。
「じゃあ、思い描いていて」
 頼まれたようでありながら、命じられた気分に陥る。
 返事の代わりに孔雀の胴へ恐る恐る腕を回せば、抱く力が強まった。
「じゃ、いくよ。『リィゥド』」
 孔雀の言に合わせ、撓む空間。
「っ」
 身体の内側と外側が入れ替わるような気分の悪さを味わい、吐き気を覚えたなら、堪えろと身体が締められる。
 応じて瑪瑙は更に孔雀にしがみつき、ぎゅっと目を閉じた。 

 体感にして数秒。

 気付けば、ずしっと掛かる圧に膝が曲がりかけ。
(! 足場がない!?)
 宙に投げ出された足の感覚に胃がきゅっと縮こまった。
 縋るべく孔雀に身を寄せたなら、ひょいと不安定な両足が攫われ、目の高さに膝が持ち上げられる。
 そこでようやく目を開けた瑪瑙は、夜空の中、下方を見つめる孔雀の横顔に魅せられた。
 微笑を携えた唇。
 だというのに、ライラックピンクの瞳は、どこまでも冷めた光を視線の先に向けていた。
 くいっと口の端が上げられたなら、更に瞳は鋭く冷ややかとなる。
「ふぅん? これが依頼主の屋敷か。思ったより、こぢんまりしてるな」
「へ? 屋敷?」
 孔雀の言葉に驚き、瑪瑙が視線を下に向けたなら、石造りの砦を髣髴とさせる建造物がそこにあった。
 ただし、こぢんまりというには、些か大きい。
 広さにしても――高さにしても。
「!?」
 建造物を認めた直後、それより高い位置に居る己を知り、瑪瑙の喉が引き攣った。
 どうりで、足場がないはずである。
 何せ、瑪瑙は――否、瑪瑙を抱えた孔雀は、両足を地につける要領で、空中に立っているのだから。
 理の人や利が使える、不可思議な能力を知らねば、瑪瑙は今頃、恐慌状態に陥っていたに違いない。
 孔雀が玄関先で口にした『リィゥド』は、自分、もしくは近接する相手が思い描いた場所へ瞬時に移動することが出来る力だと、理の人や利の事を知る瑪瑙は推測する。
 こうして宙に在り続けていられるのも、孔雀が何かの力を、瑪瑙が移動の余波から回復する前に使ったからであろう。
 とはいえ慣れぬ状況下、なるべく孔雀の邪魔にならないよう気をつけつつ、瑪瑙は強張る腕を彼に回してしがみつく。
 寄せられた身をどう思ったのか、抱える腕に力が込められた。
 ふんわり、華やかな笑みが孔雀の顔を彩った。
「ふふふふふ。可愛いな、瑪瑙。このまま、ずっと、宙に居ようか。そうしたら、愛しい君は我から――」
「離れて落っこちて死んでやるわよ絶対に」
 しがみつく格好悪さを放り投げ、ギロリと孔雀を睨んだ瑪瑙は歯を剥き出して怒る。
「でなけりゃ、貴方の髪の毛、一本残らず引き千切ってやる」
 途端、しゅんとした表情を浮かべる孔雀は、口を尖らせていじけた。
「……冗談なのに。酷いや、瑪瑙。俺は絶対、君を放さないし落とさない。見殺しにもしない。髪の毛も……止めてね? 抜かないでね? 千切らないでね? じゃないと、藍銅が来ちゃうんだ。文句を言いに。アイツも大概暇だからさ」
「あーはいはい。孔雀がランドウって人を怖がる理由は分からないけどさ、分かったから早く降りて頂戴! いつまでも宙に居たくないないの、私」
「分からないのに分かったって……それに、俺はランドウを怖がっているんじゃなくて、面倒なだけで」
「いいから、さっさと降りろ」
「はあーい。……あーあ。折角二人だけの空中散歩なのにぃ。瑪瑙って、淡白っていうか、素っ気ないっていうか」
「……本人抱えている近くで文句とは。イイ度胸してるわ、孔雀」
 命令通り、徐々に下降する孔雀は、瑪瑙のこの一言を聞くやいなや、顔をぱっと輝かせた。
「わぁい! 瑪瑙に褒められちゃった!」
「……どこをどう取ったら、褒め言葉になんのよ」
 珍妙な受け取り方に軽い頭痛を感じる瑪瑙。
 だがそれも、長くは続かず。

「何者だっ!?」

 地が近づくなり聞こえて来た怒声。
 驚き、抱えられたまま目を下へと向けた瑪瑙は、こちらに向けられた幾つもの槍と、甲冑姿の兵士を認めた。
 孔雀が降り立とうとしている先は、有名氏族である典の一族の屋敷。
 深く考えずとも分かる、自分たちに向けられた敵意へ、瑪瑙は身を竦ませて孔雀へ縋りつき。
「空から来るなど……人ではあるまい! いやしかし……あの美しさは、神か? 天の使いか?」
 孔雀の姿を目にしてか、槍は敵意を殺がれ、てんでばらばらに動いた。
 けれどそれも、短い間のこと。
 地面に近づいた瑪瑙が、兵士の内の一人と目を合わせるなり、若い瞳にあからさまな恐怖が浮かび上がった。
「ひっ!!? ば、化け物を抱いているぞ!」
「何っ!? くっ、確かに! そんな者が清き者であるはずがない!」
「皆の者! 奴らを通すなっ! 美しい外見に騙されてはならん! あ奴が抱いておる者を見よ! あの禍々しき面構え……間違いなく、屋敷に災いを為す者であろう!」
 途端、先程にも増して敵意を向けてくる兵士たち。
 慌てて用意したせいで、顔を隠すのを忘れていた瑪瑙はこれに表情を失くしていく。
「…………」
「め、瑪瑙?」
 化け物呼ばわりが誰に向けられたものか、分かっているのかいないのか、俯き唇を噛む瑪瑙へ、孔雀がおろおろした声を掛ける。
 その目に映るのは、向けられた槍や恐れ戦く兵士ではなく、瑪瑙の悪くなっていく機嫌。
 おもむろに頬に手を伸ばされ、ほっとした表情が孔雀に浮かぶ。
 が、擦り寄ろうとした直前で、触られた頬が思いっきり抓られ、ライラックピンクの眦に貧相な涙が溜まってゆき。
「ふ……ふふふふふ…………くひ、ぃひひひひひ…………………………れーぎがなっていないわねぇ? 頭数揃えただけの無能共が。お望み通り、屋敷、ぶっ壊してやろうじゃないの――ほれ」
 懐から小瓶を取り出した瑪瑙は、俯いたまま下を見もせず、これを手放した。
 重力に従い、静かに落ちた小瓶。
 瓶部分は余程丈夫なのだろう、兵士たちが素早く避けた先の石畳に接しても、割れることなく転がるのみ。
 ただし、蓋は衝撃を受けたためにずれ、中身の液体がでろりと石に染み込む。
 それから間を置かず。
「っ!!? な、何だ、この煙はっ!?」
「ひぐっ……く、くるし」
「ばっ、げほっ、げ、げぶいぃっ!」
 辺りに立ち込める、赤紫の濃い煙。
 包まれた兵士たちは口々に喚き、悶え苦しみ――

 唐突に、静かになった。

「な、何をしたの、瑪瑙?」
 煙の害がないところへ降り立った孔雀は、直前まで抓られた頬を擦りさすり、地面につくなり離れてしまった瑪瑙の肩を、前から腕を通して抱きしめた。
 まるで煙から瑪瑙を守るような動きに、少しばかり溜飲を下げた彼女は「この薬は私には効かない」と前置いてから、にたり、煙へ笑いかける。
 合わせ、吹き付けた風が煙を払い、中からぼんやりした面持ちの兵士たちが現れた。
「屋敷に災いを為す者が化け物って言うからさ?」
 孔雀の腕を両手で掴んだ瑪瑙は、くつくつ笑い、孔雀を見上げ、歪に目を細めた。
「化け物、にしてやったの」
 その宣言が聞こえていたわけではないだろう。
 しかし、合図と紛うタイミングで、ぼんやりしていた兵士たちの目に光が宿る。
 形容し難い、獰猛な光が宿った彼らは――

「お、お前たち、何事だ!?」
 槍や甲冑、己の肉体で持って、砦然の屋敷を破壊して回る兵士たちへ、突如、金きり声に近い叫びが向けられた。
「ふぅん? どうやらアレが、依頼主のようだけれど」
「瑪瑙……動いたら危険だよ?」
 降り立った場所から一歩も動かず、薬の効能で掘削に異様な執念を燃やす兵士たちを、孔雀共々座って眺めていた瑪瑙は、彼の腕の中、現れた人物へうっとりとほくそ笑む。

 

 


UP 2009/7/27 かなぶん

修正 2018/4/18

目次 010

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