宛がわれた部屋は、石造りの屋敷にしては、風通しの良い場所だった。
 ここに案内された瑪瑙は、まず最初に豪勢な家具を片っ端から撤去させ、作業台と椅子、その他細々とした道具を要求。
 己好みに配置させてから、同時進行で認めていた紙を小間使いへ渡し、薬の材料を入手。
 瑪瑙が不審な行動をしたり脱走しないよう、部屋の前で待機する兵士たちもどこ吹く風。
 それどころか反対に、全てを手にし扉を閉める直前、彼女は地獄の底から響く声音で彼らへ告げた。
「飯時以外開けるな。急ぎの用じゃないならノックもするな。部屋の前での談笑も禁止。これを守れないなら……ふふ」
 意味深な笑みを浮かべる変人薬師は、掘削の薬を免れたせいで、一部始終を目撃してしまった兵士たちの青褪めた顔を見もせず、ゆっくり扉向こうへ消えていった。

 それから二日後。

 あとは人肌まで冷ますだけとなった薬を放置し、遅めの朝飯に舌鼓を打っていた瑪瑙は、ノックもせず部屋に入って来た人物を、左の黒目でじろりと睨みつけた。
「……貴方も大概、暇な御仁ですな? 何しに来られた、典の若君」
 発する声音はいつもより低く、語る言葉も厳しい。
 これは、薬師として接客する際の彼女のスタイルだが、おどろおどろしい雰囲気は容姿も相まって、客から好評を得ていた。
 何でも、こちらの方が効果がありそう、だそうで。
 瑪瑙からすれば、小娘と舐められないために始めただけなので、この好評は思わぬ副産物と言えよう。
 内側から身体へ働きかける心が、頭から効かないと決め付けていては、どんな薬でも効果はさほど望めないのだ。
 ヘタをすると、副作用のみが身体に出てくる場合さえある。
 薬とは元来、外側から物理的に身体へ働きかけるモノであるがゆえに、対象の受容が肝要。
 ――とはいえ、これはあくまで、身体に良いと言われる薬の話だ。
 この毒は自分に効かないと煽る者がいるなら、瑪瑙は一笑に付すだろう。
 毒を毒と認めた時点で、それは毒でしかない。
 なればこそ、瑪瑙の前に現れた青年は彼女にとって、毒でも薬でもない、ただただ邪魔な客の息子であった。
「心配せずとも、薬は程なく――」
「ふふふふふ……心配なんかしてないさ。何せ瑪瑙殿は、虹蹟(こうせき)に御す、蛇視の姫君」
 炎を思わせる、金混じりの赤い髪を緩く編み込み前に垂らした青年は、金と見紛う茶の瞳を細め、にっこりと笑ってみせた。
 受けた瑪瑙は箸を置き、長い黒髪を深緑の衣装に散しては、仰々しい溜息を吐き出した。
「……その異称は好みませぬ」
「では、隻眼の才? もしくは、清らかなる毒、凄惨たる癒し、悪徳の聖杯、生を謳う死の商人、可不可の賢人――」
「…………はぁ。よくもまあ、それだけの異称を集めたものですな?」
 兵士たちの尋常ならざる怯え方を鬱陶しく思い、包帯で隠した右半分の頬を撫でつつ、率直な呆れを口にする。
 青年がぽんぽん口にした異称は、どれも真実、薬師たる瑪瑙を表す代物だが、一所に置いては一つ知るのが通例である。
 それを青年は全て語る勢いなのだから、瑪瑙の呆れようも分かるだろう。
 そんな彼女から典の若君と呼ばれた、彼女よりも幾つか年上の彼は、この言い様に気分を害した様子もない。
「ふふ……では、仕置きに薬を用いるかい? 僕としては、この男らしからぬ身体を強化してくれる薬を希望したいところなんだが」
 言いつつ、青年はおもむろに、青を基調とした己の衣服を脱ぎ始めた。
 最初の頃こそ内心で制止を叫んだ瑪瑙だが、今では表裏共に反応は微々たるものだ。
「お止めくだされ。典の若君ともあろう御方が、下賤の者に肌を晒すなぞ。典の名が泣きましょうぞ」
「おや? 注意すべきはそこかい? 女性の前でみだりに脱ぐな、とは言ってくれないのかな?」
「……それは、私の範疇ではございますまい。私は一介の薬師。男女の性など、薬の処方の違い程度の事で――」
「ならば、今此処で、瑪瑙殿の性を直接、貴女の身体に尋ねても?」
 脱ぐ手を止め、上半身裸のまま、つかつか歩み寄ってくる青年。
 右半分の顔が爛れてからというもの、そういう対象として見てくる男なぞ、約一名しか知らない瑪瑙は、頭の中だけで真っ赤になりながら青年をボコボコに殴るのみ。
 表では、卓に向かい合ったまま座る身体を動かさず、恥じらいもせず、ただただ呆れを表情に示すだけ。
 何せ、頭の中の暴力を本当に実行したところで、自身を男らしからぬ身体と謙遜した青年には、一発も当たらないのだから。
 そういう意味ではたぶん、薬を使おうとしても、青年には効かないし、逆に命を奪われかねない。
 澱みない足取りで瑪瑙の背後までやってきた青年が、そっと、彼女の肩に手を降ろした。
 するり、腕を辿って、瑪瑙の手に己の手を重ねては、屈んだ唇を耳に押し当ててくる。
「……珊瑚様。私は食事の途中なのですが」
 顔と喉には平常を取り繕い、心でぎゃあぎゃあ騒ぐ瑪瑙は、呆れた眼を彼へ向けた。
 丁度、互いの呼気が唇に当たる距離にもめげず、じっと見つめたなら、典の若君・珊瑚はその場でくつくつ笑う。
「瑪瑙殿……断りの言にしては、些か色がなさ過ぎる。それでは、もう一度僕は問うてしまうよ? 食事が終わってからでも良い。僕の部屋においで、と」
「では、私も問いましょう。何のために?」
「無論、貴女を頂くために」
 囁いた唇が、そのまま瑪瑙の口の端に触れた。
 ぺろりと舐められる感触が届けば、誘うように珊瑚が自身の唇を舌で弄る。
「うん、美味しい。どうかな? 僕の料理人。いい腕しているだろう?」
「…………そう、ですね……」
 思いもかけない不意打ちを受け、段々平静でいられなくなった瑪瑙は、顔をぎこちなく卓へと戻した。
 ――これがいけなかったのか。
「きゃっ」
 逸らした矢先、首筋に触れる柔らかな温もり。
 うっかり声を漏らしたなら、瑪瑙の手から珊瑚の手が離れ、肩へ一方の腕が回された。
 もう一方は、瑪瑙の顎を捕らえ、頭上から逆さに覗く顔と合わせるよう、首の角度を変えさせた。
「さてと――瑪瑙殿? 考え直しては頂けませんか? 貴女にとっても、決して悪い話ではありますまい? 我が下で、この珊瑚の専属薬師として、その腕、奮って欲しいのです」
「わ、悪いも何も、今、この瞬間、この姿勢が辛いのですが?」
 その気になれば、瑪瑙の首をへし折る事も可能な珊瑚へ、必死な抵抗を試みる。
 瑪瑙は回された腕に触れ、近寄りそうな顔をそれとなく押し退けながら、何故こんな目に合っているのか、何度目になるか分からない回想をする。

* * *

 薬の症状が落ち着き、我に返った兵士たちが、減棒に加えて過酷な修復作業を命ぜられ、涙するのを目の端に。
 一応、客人として迎えられた瑪瑙たちは、そこで珊瑚の父でもある依頼主から、ある取引を持ち出されてしまう。
 すなわち。
“屋敷を破壊しておいて、償いも何もなく、仕事すら引き受けないとは、些か酷なお話ではありませぬか? ここは一つ、こちらの言い分も聞いて頂きたいのですが”
 という理由で。
 仕事を断るだけのつもりだった孔雀はこれに反対したが、瑪瑙は当然だろうと思って頷いた。
 普通に考えれば、身分ある氏族の屋敷を半壊させた者は、死罪が適当。
 これを免れられるというのだから、こんなに有難い話はない。
 まあ、瑪瑙の場合、本当に死罪だったとしても、逃げ道は幾つか用意していたので、さして問題があるわけでもなし。
 それでも、数多の異称に犯罪歴がつかないだけ、儲けモンである。
 抗議する孔雀の足を踏み躙り、悶絶する頭を肘でぐりぐり詰る瑪瑙は、呆気に取られている依頼主へ、話の続きを求めた。
 咳払いで気を取り直した依頼主の提案は、二つ。
 一つは、瑪瑙が当初の依頼通り、薬を作る事。
 異論は特にない。
 消耗品ゆえ増えると思われた作成数も増えず、瑪瑙にとっては易い話であった。
 そしてもう一つは、そもそもの原因である孔雀の身柄拘束。
 ……というのは建前で、実際は、依頼主の娘であり珊瑚の妹である紅玉(こうぎょく)が、孔雀を傍に置きたいと求めたのである。
 いつも側にいるせいで、時たま思い出したように意識するぐらいだが、孔雀の容姿はそれはそれは優れていた。
 男女問わず、見惚れさせてしまうほどに。
 なので瑪瑙は、あっさりと了承した。
 けれど孔雀は、瑪瑙の暴力から逃げるなり、彼女を抱き締めては怒声を放つ。
“ふざけるな! 我は瑪瑙と夫婦ぞ!? 何故、斯様な侮辱を受けねばならんっ!?”
“夫婦…………?”
 不可解だと言わんばかりの依頼主が、孔雀の腕の中で冷めた目をした瑪瑙を見やる。
 正確には、隠し忘れた右半分の爛れた顔を。
 孔雀にしろ、依頼主にしろ、双方が双方に対して、失礼極まりない事を言っているため、口に出来る不満はないが、この状況は拙かった。
 生まれたての我が子を守るべく、毛を逆立て威嚇する母猫のような孔雀へは恋する乙女の眼を、守られている可愛げのない仔猫の瑪瑙へは嫉妬に荒れ狂う眼を向ける、紅玉がいるこの状況は。
 祟ってやると言外に告げる視線は恐くないが、愛娘の言葉に左右される依頼主が、彼女の機嫌如何で、コロッと態度を一変させてしまうのは恐ろしい。
 手荒な事をされればこちらも相応に対処出来るが、地味に注文を増やされたり、値切られたりするのは、まともに反撃できない分、非常に面倒なのだ。
 そんなわけで瑪瑙、いきり立つ孔雀の腕を叩き、自分から説得に当たった。
“お願い、孔雀。私を助けると思って”
 途端にしゅんとした表情を浮かべる孔雀へ、瑪瑙は更に告げる。
 今度は挑発混じりに、反面、憂いを秘めた瞳で。
“それとも自信がない? 離れたら私の夫じゃいられなくなっちゃう?”
 かなり卑怯な言い草だと自覚しているものの、ぐっと詰まった孔雀は、瑪瑙の思惑通り首を振った。
 私の夫――初めて瑪瑙からそう言われて、ライラックピンクの瞳を潤ませながら。
“そんなことないよ。俺は何があっても、君の夫だよ?”
“じゃあ、お願い。このままじゃ、別の仕事を探しに行く事になるから”
 もちろん、瑪瑙に薬師以外の職の選択なぞ、毛頭ない。
 しかし、自分以外の存在と瑪瑙の接触を嫌う、意外と自分に自信のない孔雀は、この言葉に難色を示し、黙考しばし。
 抱く力を一層強めては離れ、立ち上がった孔雀は告げた。
“瑪瑙のお仕事に支障が出ても困るし、貴方の言う通りにしよう。けれど、期限は瑪瑙が薬を作り終えるまでだ”
 淡々とした声音で、瑪瑙を一度も見ずに。
 これに気を良くしたのは、射殺す目付きで、二人の様子を見ていた紅玉。
 珊瑚と同じ色合いを見せる豊かな髪を結い上げ、濡れた光のような茶の瞳で孔雀を見つめつ、ほんのり朱に染む唇を笑みで彩っていく。
 華やかさを増す美貌に違わない、女の色香が実を為したような肢体を孔雀へ近づけ、躊躇いなく添わせた。
 ほんの一瞬、彼女の香水に顔を顰めた瑪瑙へ、嘲る眼差しを向けつつ。
“期限の旨、了承致しましたわ。では、参りましょう、孔雀様”
 裏返す思いに、その期限の内で孔雀を己に振り向かせる自信が読み取れた。
 瑪瑙如きに出来た事が、己に出来ないわけがないと。
 否定はしない。
 だが、肯定もしない。
 瑪瑙自身、未だに、孔雀が自分の夫にこだわる理由が分からないのだから。
 それでも、背を向けたまま、部屋を出て行く孔雀に、もしかしたらと胸が疼いた。
 もしかしたら――帰る時は一人かもしれない。
 構わないと思いながらも、少しだけ寂しい気持ちを抱える。

* * *

 決して、選択を間違ったとは思っていない。

 しかし、孔雀が離れた後の食事時から、毎度毎度瑪瑙の元を訪れる珊瑚の存在は鬱陶しい。
「珊瑚様っ! 貴方は、一体、何を、為さりたいんですかっ!?」
 薬師としての顔もかなぐり捨て、逸らされた首と回された腕にもがく瑪瑙。
 これを尻目に、彫りの深い偉丈夫は、涼しい顔で無精髭が蓄えられた唇を歪ませた。
「酷いな。最初から言っているじゃないか、瑪瑙殿。僕は貴女が欲しいんですよ」
 温和な喋り方とは裏腹に、典の中でも武将として名高い珊瑚は、男らしからぬどころか、無駄のない猛々しい筋肉で瑪瑙を椅子ごと包み込む。
 はっきり言おう。
 このままでは、死ぬ。
 折角拾った儲けモンの命。
 手放すわけにはいかないと意識を奮い立たせるが、健闘虚しく、瑪瑙はだらりと両腕を垂らした。
 すると、完全に意識が落ちる手前で、無遠慮に重ねられる唇。
「っ!」
 瞬間的に覚醒しても、今更阻めるはずもなく、貪られる感覚だけが瑪瑙の口内を蹂躙する。
 応えるつもりはないが、ちくちく当たる髭にもぞもぞ瑪瑙が動けば、勝手に気を良くした中が深まった。
 最中、珊瑚の喉仏を視界に納めつ、瑪瑙はとある感想を浮べた。
(……孔雀の方が上手、よね。やっぱり)
 実は珊瑚のこの行為、瑪瑙が冷静に感想を述べられるところからも分かるように、今回が初めての事ではなかった。
 佳枝の氏族・典の珊瑚と言えば、その名の響きに似合わず、あるいは希少な血赤サンゴの名の通り、血生臭い話の絶えない男であると共に、数々の浮名を世に流す、話題性に事欠かない人物。
 そんな彼が、薬を取り上げれば、何も出来ない瑪瑙にこだわる理由は唯一つ。
 薬師云々すっ飛ばし、世にも稀なる美貌を携えた孔雀を、どうやって留めているのか知りたい――それだけである。
 最初に不意を衝かれて唇を奪われた時、混乱する瑪瑙へ彼自身が言っていたのだから、間違いないだろう。
 巻き添えも良いところの瑪瑙にとっては、何とも傍迷惑な話だった。
 そして、もっと迷惑なのは、理由を知りたがっている相手が、珊瑚に限らないという事。
 紅玉は勿論、依頼主や、果ては兵士たちまでもが、瑪瑙に執心する孔雀、その理由を知りたがっているのである。
 ほっとけ、と言いたい。
 瑪瑙でさえよく分からないのに。
 しかも、どこをどう勘違いしてか、瑪瑙の女としての部分が孔雀を捕らえて離さないと考える珊瑚は、会う度、彼女を自分の褥へ招こうとする。
 余計、たちが悪かった。
 他の者はこれを知らないようなので、訴えたところで自意識過剰と言われるのがオチ。
 結果、珊瑚の暴走を留める忠臣を得られない瑪瑙は、彼の気まぐれに幾度となく付き合わされる羽目となり。
 長い長い、一方的な口付けが終わり、ようやく解放された瑪瑙は、卓の上にあった手拭を取ると、そこへ口の中の不快を吐き出した。
 残る感触に舌を出して拭えば、卓の横まで移動してきた珊瑚が、不機嫌な視線を送ってくる。
「……少し、傷つきますよ、瑪瑙殿。僕は、僕の持てる技巧の全てで、貴女に接しているというのに」
「勘弁してくだされ。好奇心を満たすだけなれば、他のおなごでも事足りましょう? 前にも申しました通り、彼が夫を名乗る理由は私にも皆目検討が付かないのです。珊瑚様はどうも勘違いしていらっしゃるようですが、夫を名乗る前の彼とは、面識こそあれ、爪の先ですら、触れた憶えはございません」
 何度目になるだろう。
 この言葉を紡ぐのは。
 いい加減辟易する瑪瑙の耳に届く、切なさを装う声さえ、聞くのは何度目になることやら。
「……確かに最初は、孔雀殿が貴女に懸想する理由探しのためでしたが…………一度目の口付けを経てから、僕は貴女を忘れられなくなってしまった。元々、薬師として名高い貴女を我が軍に取り入れられたらと考えてはおりましたが……如何でしょう、瑪瑙殿。この際、専属の薬師だけとは言わず、僕だけの君に」
「度々頂戴致しまする、お褒めの数々、恐れ入りましてございます。けれどそれでは、些か買い被りに過ぎましょう。典の珊瑚様ともあろう御方が、私のような小娘との口付けで、そこまで心動かされる道理はございますまい」
「貴女は……御自分がどれほど、僕の心を揺り動かす口付けを為されたか、まるで分かっていない!」
「此れは異な事を。口付けを交わした事は、不本意ながら認めましょうが、応えた憶えなぞ私にはございません」
 役者も真っ青の告白を演ずる珊瑚へ、すっかり調子を取り戻した瑪瑙は、遠回しな嫌味を含みつつ、ゆっくりと首を横に振った。
 毎度、奪われるだけの口付けに、為した為さないなど、議論するだけ無駄。
 これで話は終わりとばかりに、置いた箸を持った瑪瑙は、未練がましい視線を受けて溜息をついた。
 いつもなら、ここで終わりを見せる話だというのに、珊瑚は今日に限って退室する気配を微塵も感じさせない。
「…………事が事だけに、ずっと、穏便に進ませようと考えていたのが間違いか。……瑪瑙殿、こちらへ」
 剥いた服を着直す珊瑚の言に、瑪瑙は緩く首を振った。
「申し訳ありませんが、私は今、食事の真っ最中で」
「いいから、来い」
「…………………………はい」
 冷めて不味い料理ではないが、どうせなら少しでも温かい内に食べておきたかった。
 洒落にならない眼光に射られ、渋々珊瑚の後へ続いた瑪瑙は、扉ではなくバルコニーへ出る窓まで連れていかれる。
 そうして、開け放たれた空間へ足を踏み出せば、珊瑚が右を指差して言う。
「御覧あれ。彼は真実、貴女の夫君かどうか、その目で確かめよ」
「…………」
 意味深発言に深く考えることもせず、瑪瑙の眼は言われた通りの場所へ向けられた。
 この位置から見えるのは、瑪瑙たちが最初に降り立った中庭。
 向こうからではこちらが死角となる造りのそこには、二つの姿があった。
 一つは、紅玉。
 一つは……孔雀?
 少しばかり瑪瑙の黒い瞳が開かれれば、これを一瞥した珊瑚の口元が緩む。
 たぶん彼は、瑪瑙が二人の姿に驚いた、とでも思ったのだろう。
 慣れた様子で、深く口付け合う二人の姿に。
 けれど、本来なら夫の浮気現場を目撃した妻の立場であるはずの瑪瑙は、てんで別の事に心を奪われていた。

(孔雀、貴方って…………………………こんなにも綺麗だったんだ)

 いつも家の中に閉じこもったままの瑪瑙が、陽の下にいる孔雀を見るのは、これが初めての事。
 けぶる金の髪は陽光より柔らかく、空に溶けるほど眩く、これを結わえる素っ気ない紅の飾り紐さえ、美しい色彩を放つ。
 温もりある朱を仄かに滲ませつつ、痘痕のないきめ細やかな、瑞々しくも張りのある肌は、しっとりと甘く煌き。
 朝露に濡れる葉の如き睫毛から、光の陰を落とされたライラックピンクの瞳は、水面に広がる光のように、鮮やかな輝きを増すばかり。
 黒地に金の刺繍が施された衣装も、深みのある色合いに光沢を宿しており、その仕上がり具合は、均整の取れた背に回された紅玉のたおやかな手が歪に映る程である。
 そんな彼女へ噛み付くように重ねられた唇や、掻き抱く手の動きさえも、繊細且つ華やか。
 思わず溜息を零した瑪瑙は、次いで珊瑚に向き直った。
「珊瑚様の仰られた旨、了承致しました」
「では」
「はい。薬もそろそろ出来上がりますゆえ、私は早々にここを立つ事とします」
 恭しく頭を垂れれば、晴れやかに笑った珊瑚の顔が、虚を衝かれたモノへと変った。
 まさか、そう来るとは思わなかったのだろう、頭を掻くと、その手で顎を擦りさすり。
「ううむ……こちらの思惑は、最初からバレていた、という事かな?」
「ええ、まあ。多少驚かされる事はございましたが、僭越ながら、最初から検討はついておりました。貴方がたが欲しているのは孔雀だと。だから、彼が妻と主張する、私の扱いも厚遇だった……加えるなら、欲しているのは紅玉様だけではなく、彼の姿を目にしたこの屋敷の者たち全て」
「……驚いたな。流石は蛇視の姫君。なるほど? では、その疑り深い眼差しに映った僕も、彼を望んでいると?」
「さあ? それは分かりかねますが……貴方はどちらかといえば、この状況を愉しんでいらっしゃる御様子。戯れに過ぎる場面も度々見受けられましたが、今度からは軽々しく、僕だけの君、なぞ、口に為されない方が賢明かと。でなければ、現在の奥方と、眠れる御方々が泣かれますゆえ」
「参ったな……そこら辺も知っているわけか」
 苦笑する珊瑚に対し、瑪瑙は徹して無表情。
 ついと移動した珊瑚の眼が、仲睦まじい男女へ向けられたなら、瑪瑙もこれを追った。
 終わった口付けの代わりに寄り添う一つの影へ、珊瑚が皮肉混じりに告げる。
「御覧なさい、瑪瑙殿。あれこそ真に在るべき姿とは思われませんか? まあ、彼には僕の妹程度じゃ役不足かもしれないが……貴方ではその位置にすらつけますまい」
「…………ま、そんなもんだろ」
 ぼそり、呟く瑪瑙。
 言われずとも知れたことだ。
 孔雀が寄り添う相手として、絵的に自分は相応しくない、なんて事は。
 そして、珊瑚の――否、この屋敷に住まう者の真意も。
“薬が出来たならさっさと出て行け”
“しかしあの男を伴い、出て行ってしまうのでは、彼があまりにも可哀相だ”
 陽の光を浴びた孔雀の姿を見たなら、尚の事、彼らの言い分は正しいと思えてしまう。
 だがしかし、誰が正しいかなど、瑪瑙の問題にはならない。
 問題は、孔雀のその心がどこにあり、誰に向いているか。
 軽く眼を閉じて思い出すのは、ある時、珊瑚へ尋ねた孔雀の様子。
 元気だと、聞いて。
 眼を開けたなら、実際、やつれてもいない彼が、隣に誰かを添わせる絵があり――
 十分だった。
 瑪瑙の夫を強く主張する孔雀は、閉じ篭りがちな瑪瑙に合わせているのか、あまり他と面識を持たない。
 それがこうして機会を与えられたなら、易く相手を見つけられた。
 結構な事だと瑪瑙は思う。
 一抹の寂しさがないわけでもないが、夫として祝福されるなら、そちらの方が良い。
 森近くで陰気な生活を送るよりも、大勢に囲まれて暮らす方が、大変さは段違いでも、楽しいに違いない。 

 ――本当は、自分がそういう生活を送りたいものだから、余計、瑪瑙にはそう思えた。

「……珊瑚様、帰るのは食事を頂いてからでも? 貴方が仰る通り、ここの料理はとても美味ですから。薬も、その頃には出来上がっているでしょうし」
 告げながら、孔雀の作る料理の方が美味しいけどと、心の中で瑪瑙は付け足す。
 ついでに、この屋敷を去るに当たり、最後に口にしたモノが、どれも孔雀と関係のない事を内でのみ嘆き。
「いいよ。ここの、っていうより、僕専属の料理人だけど」
 そんな瑪瑙など知らぬ、散々彼女の唇を奪い弄った珊瑚は、この申し出を快く承諾した。
 当然とでもいうように、ごくごく自然に瑪瑙の腰へ手を回して、開けたままであった部屋へ戻る傍ら。
「で、どうかな、瑪瑙殿。食事だけとは言わず、僕も食べてみる気はないかい?」
「…………ご遠慮申し上げる」
 幾ら他から化け物扱いされようが、男の珊瑚相手に食べられてしまうのは、どう足掻いたところで瑪瑙の方だ。
 ぞっとしない申し出に身を捩ったところで、解放されず、それどころか再び奪われる唇。
 勝手に揺れ動く視界の中、心底愉しそうに目を細める珊瑚を見つつ。
(……もしかしたら私、この先誰を好きになったとしても、孔雀を忘れられないんじゃないかしら)
 瞼を閉じた瑪瑙は、最後に孔雀を求め、蠢く感触に初めて訂正を加えていった。

 

 


UP 2009/8/11 かなぶん

修正 2018/4/18

目次 011

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