雷鳴轟く暗い屋敷の廊下を、真珠はひたすら走っていた。
 煌びやかな裾が跳ねるのも、白い足が露わになるのも構わずに。
 荒い息だけを繰り返す頭に、酸欠以上の息苦しさを感じながら。

(どうしてどうしてどうしてどうしてどうして――!?)

 同じ言葉、思いだけが、今の彼女を支配していた。
 けれど、この問いを向ける相手は別にいる。
 そしてその男は、優雅な足運びで真珠の後ろをひたひた追ってきている。
 振り返ったところで、見えるのは灯りのない長い廊下だけ。
 しかし、独特の存在感は、続く闇の先に確かにあった。
「ぃっ」
 喉が鳴る音に合わせ、薄く開いていた口から引き攣れた声が出た。
 早く、逃げなければ。
 何度思ったかも知れぬ事を真珠は思う。
 逃げられない、逃げ切れないとは決して思わずに。
 自分の思いがどうあれ、本当は逃げられないと知りつつも。
「っ、ふっ……!」
 走る最中、脳裏に過ぎるのは、幼い自分の子どもたち。
 母を呼ぶ愛くるしい音色がこだますれば、見開いた瞳に涙が浮かぶ。
 生きたい……!
 強く望む。
 せめて、彼らが独立するその時までは――
 若い身空、命に関わる病も在らず、本来なら叶うべき事柄。
 だが、彼女は知っている。
 否、嫁いだ時には気づいていた。
 これから先、必ず己の身に降りかかるであろう災厄を。
 もたらす者の腕の中で、幸せに微笑みながら。
 この屋敷には――彼の住いには、戦とは違う血のにおいがあると、察して。
 なのに、全てを知りながら、真珠は逃げを選択しなかった。
 逃げを選択することなぞ、最初から彼女には出来なかった。
 なにせ真珠は、彼の事を深く愛していたから。
 そして彼もまた、死をもたらす者でありながら、彼女の事を愛していた。
 剣を片手にぶら下げて、愉しげに追う今でも、彼は彼女を慈しみ、愛しいと囁く。
 躊躇いなく剣を振るう手を掲げて――。
「っ、きゃあ!?」
「きゃっ」
 後ろにばかり気を取られていた真珠は、曲がり角から現れた相手にぶつかってしまう。
 衝撃は双方、同程度にかかっただろうが、逃げる足取りの真珠は反動に対処できず、相手がたたらを踏んだのに比べ、無様にも尻餅をついてしまった。
 声からして相手は女と知れていたものの、真珠は謝罪よりも先に、広がった裾を慌てて回収する。
 追われる身とはいえ、彼女はまだ、この屋敷の片翼を担う存在。
 何よりも、体裁を取り繕わなければならない。
 いかに絶望が滲む顔つきであっても、相手に侮られるような醜態を晒すわけには――
「……あら? 真珠お義姉様?」
「え……貴女は…………」
 上から掛かる自分の名に、真珠はそちらを見やり、眼を丸くした。
 そこにいたのは、真珠の夫とよく似た色彩を持つ、彼女の義妹。
 銀髪黒目に、辛うじて子どもではなく女であると分かる肉付きの薄い、地味な真珠とは違い、華ある容姿の義妹は、不思議そうに小首を傾げてみせた。
「如何為されましたの? このような暗い中を、灯りも持たずに急ぎ足で」
「あ、の……その…………貴女こそ」
「私、ですか? いえ、これでも、名のある氏族に在る娘としては、お恥ずかしい限りなのですが……私、こういう不穏な天気が大好きで、つい……あ、お義姉様、お手をどうぞ」
 問いに問いで返せば、さして不審を抱くでもなく、気軽に義妹は答える。
 一瞬、真珠の喉に浮かぶ、救いを求める言葉。
「…………ありがとう」
 だが真珠はこれを呑み込むと、差し出されたたおやかな手へ礼を述べるに留まった。
 もしかしたら、義妹ならば、自分を助けてくれるのではないか。
 そう思う反面、さすがに部屋は異なろうとも、同じ屋敷に住まう義妹が、追ってくる彼の行いを知らないとは言い切れない。
「やあ。ここにいたのかい、真珠」
「!」
「あら、お兄様」
 後ろから掛けられた声に立つ身体を強張らせたなら、義妹がいつもの声音で己の兄を呼んだ。
 雷鳴が遠く響く、暗い中を除けば、日常と変らないやり取り。
 ふと、ある可能性が真珠の中に生まれた。
 義妹の前なら、兄である彼は何もしないのではないか。
 肉親にまで秘すればこそ、彼の行いは闇に閉ざされたままなのでは?
 ほとんど確信に近い思いが、真珠の身体を彼へと向けさせた。
 そうだ、そうに違いない。義妹の居る前なら、安心して対峙できる。
 真珠は義妹の兄、背後にいる自身の夫を振り返り――

 丁度、近くを通り過ぎる雷鳴。
 この、白い稲光を背景に。
 剣をぞんざいに払う影が。
 笑みを携えて、其処に。

 夫――典の珊瑚の元に在り。

 怯えた真珠の眼を大粒の涙が覆う手前で、鮮血が走った。
「ひっ――――ぁあうっ!?」
 冷えた風を受け、まず真珠が感じたのは、義妹――紅玉の手を離したため、均衡を崩して壁に叩きつけられた身体の痛み。
 次いで、間を置かずに訪れる、心音と同じリズムで左腕に刻まれる鈍痛。
「っ、っ、っ」
 声にならない嗚咽が何度も喉をつき、上がらない声に悶える舌が、痛みに噛み締めた歯の隙間から涎を垂らす。
 今はもう、乱れた服にかまける余裕もなく、斬られた左腕を押さえては、流れる血に胸を上下させる。
 泣き濡れた拉げた瞳に、まただらりと剣先を下に向けては微笑む珊瑚と、きょとんとした顔の紅玉を映しながら、荒い呼気の向こうで二人の会話だけが鮮明に、真珠の耳に届く。

「お兄様……真珠お義姉様に飽きてしまわれましたの?」
「おや。酷い事を言うね、僕の妹は。そんなわけないだろ? 僕は今でも真珠を心から愛している」
「? では何故、殺めるような真似を? 今までは、新しい恋人が出来てからでしたのに」
「こらこら、人聞きの悪い事を言わないでおくれ? それでは僕がまるで、新しい恋人に乗り換えるため、愛しい妻を葬ってきたようじゃないか。いいかい、紅玉。僕は今でも彼女たちを一人一人、真剣に愛しているんだ。その証拠に、僕は御覧の通り、婚姻の代償を受けていない。けどさ、女は男ほど器用ではないから、どうしても相手に直接、嫉妬をぶつけたがるだろう? すると嫉妬をぶつける方もぶつけられた方も、それぞれ本当の自分を歪める事になってしまうんだ。僕はそれが嫌なんだよ。愛しい彼女たちには、そんな可哀相な目に合って欲しくないんだ」
「あぁ、はいはい。何度も聞きましてよ、そのお話」
「おや、そうだったかい? でもまあ、どうせなら最後まで聞いておくれ。だから僕は、愛情深い妻の方を先に手にかけるのさ。愛の育まれた時間が短い恋人を、その時点で送ってしまっては、相手に僕の愛が伝わらないからね。僕だって、大して愛着のない人間を殺めてしまった事を、一生背負うのは御免だ」
「はあ……お兄様の高尚なお考えは理解できませんわ」
「ふふふ……人それぞれ、考えが違う事は良いことだよ。とはいえ、今回は紅玉の疑問も尤もだ。確かに、これでは真珠に飽きてしまったと思われそうだな……うーん、まあ、なんていうか、これは一種の願掛けだよ」
「願掛け?」
「そう。まだ恋人にまで至らない……それどころか既婚者だけど、手に入れたい人がいてね」
「…………そ、それってまさかっ、あの女の!? しゅ、趣味が悪くなられましてよ、お兄様! お考え直し下さいませ!」
「ん? そうかな? でも紅玉、考えてもみなさい。僕が彼女を妻に迎えられたなら、君にも機会が巡って来るんだよ? 話で聞く限り、彼女以上に手強そうだけど……諦めてないんだろう?」
「ぅっ……だ、だからって私は、応援なんか致しませんわ!」
「そりゃ結構。妹に恋路を手伝って貰うなんて、兄としてこんなに情けない話はないからね。いや、でも……惹かれた理由も実に情けない話だからなぁ。お前と同じ年頃の、それもあんな顔の小娘風情に、口付けの一つで全部持っていかれようとは」
「お、お兄様、うらや――いいえっ、不潔ですわっ! わ、私なんて……あんな口付けをしてくる殿方がお相手ですのに……ううううう、今思い出しても怖気が走りますわ。ああ、孔雀様。あんなに綺麗なお姿で在らせられるのに、何故、貴方の口付けは、ああも情緒に欠けているのでしょう」
「ふ、くくくくくくく……幻覚剤を呑まされた事すら気づけなかった君の口付け、思い出す度に蕩けそうだよ。いや、空さえ飛べそうだ」

 異常だった。
 死の間際にいる真珠を前にして兄妹が呑気に語る、この状況、その内容。
 けれど真珠は彼らを不気味がらず、返って彼らの狂気が宿ったような光を、涙の乾いた黒い眼に宿した。
 痛みに引き攣る肺はそのままに、珊瑚を――夫の心を奪った相手へ、強い呪いの念を抱き、真珠は彼を睨みつける。
 正確には、彼の口が呼ぶであろう、女の名を。
 掠れそうになる意識の元、早く言ってと珊瑚にせがみながら。
 そんな真珠の事なぞ忘れた風体の珊瑚は、彼女の声が届いたわけでもなかろうに、うっとりした目でその名を紡いだ。
「今度はいつ、君に会えるだろうか……瑪瑙」

* * *

「ぶええっくしょいっっ!――ぬあ、ちっきしょーめぃっ」
「め、瑪瑙……もうちょっと、可愛らしくくしゃみして?」
 孔雀の戸惑う声を後ろに聞きつつ、渡されたちり紙で鼻を盛大にかむ瑪瑙。
「ぶはっ……何なの、いきなり。誰か、私の噂でもしてんのかしら?」
「……誰、それ。我の許可なく君の噂なぞ……申請されても無論、許しもせぬが」
「孔雀……人の口に戸は立てられないモンなんだから、変な独占欲ださないで。ちゃんと私はここにいるでしょう?」
「……うん」
 守るように腹へ回された腕を叩けば、元気のない頷きが髪に埋められた。
 あまりにも恥ずかしい状態の己を思い、口を尖らせた瑪瑙は続けて言う。
「まあ、どうせ私の噂って言ったら、悪口に決まってるし。貴方が心配する事なんて」
「悪口? どうして君の悪口を言う奴がいる? 許せない……今すぐ――」
「く、孔雀っ!? 何言っているの。貴方は今、コトワリの力を使えないくらい弱っているんでしょ?」
「あぅ……そ、そうだった…………じゃあ、回復してから」
「いい! しなくていいからっ!」
「で、でもでも、めってするくらいなら」
「めって……して、今、ここにいるんだけど。本当は嫌なのよ、私。こういう薄っぺらい箱モノに乗るの」
「ううう……ご、御免ね、瑪瑙」
 最後の部分は、決して孔雀が悪いわけではないのだが、これをこのまま口にすると面倒そうなので、瑪瑙は黙っておく事にした。
 オプションが何もつかなくても、孔雀には余り、本気で怒って欲しくはない。
 現在、瑪瑙たちがいるのは、佳枝の端までを走る、寝台列車の最上級客室の中。
 本当は、来た時同様コトワリの力か、路銀を稼ぎがてら帰ろうと思っていた瑪瑙。
 しかし三日前、典の屋敷で孔雀が妙な力の開放をしてしまったため、彼女の計画は脆くも崩れ去ってしまった。

 あの日、抱きつく瑪瑙を抱き返した孔雀は、安堵の息を吐くと同時に、ある言葉を吐いた。
“お、お腹空いて、もう、駄目ぇ。力も使えないよぉ”
 これへ過敏に反応したのは、いきなり力尽きた体重を乗っけられた瑪瑙ではなく、領収書の束の陰に隠れていた緑髄。
 真っ青な顔をしては、孔雀殺害を企てていた割に、迅速に食事を用意するよう扉の外へ叫びかけた。
 このまま帰るつもりだった瑪瑙は、孔雀の体重で声を潰しつつ、食事はいらない旨を告げる。
 が、緑髄は大慌てで首を振っては、瑪瑙へ貧相に訴えた。
“じょ、冗談じゃない! 瑪瑙殿は、我らの域を孔雀殿に食い潰させるおつもりか!?”
 大袈裟な言葉に緑髄の話を詳しく聞けば、心から十分な栄養を取れなかった孔雀、どうやら料理が出来るまでの時間も惜しいと、色んな食材を生で食べていたらしい。
 踊り食いはなかったというが、緑髄の恐れ方からして、身の危険を感じる食べ方だった様子。
 聞き終えた瑪瑙は、早速、孔雀へ食べたい物はあるかと問いかけ。
“瑪瑙!”
 間髪入れず、自分の名が挙がれば、連呼しようとする口へ溜息一つ、軽く口付ける。
 途端、孔雀が満腹を宣言、緑髄どころか紅玉までもが眼を剥いた。
 ともすれば、自分が口付けたシーンに、驚かれたような気まずさがあり、照れた熱を吐き出した瑪瑙は、再度緑髄へ辞去を申し立てた。
 けれど、緑髄はすっかり孔雀の奇異さに恐れを為してしまったらしい。
“ではせめて、帰りの足は私に御用意させて下さい。孔雀殿の……食事の在り様からすると、そちらの方が良いでしょうから”
 要するに、とっとと自分の敷地内、引いては住まう域から出て行けという話である。
 断るなと命ずる目に、申し出を辞退しかけた瑪瑙の口は閉じられた。
 こうして二人は、列車内とは思えない、高級宿を思わせる内装のこの客室へ放り込まれ、連泊を余儀なくされたのである。 (孔雀の食事の在り様……絶対、勘違いしていたわね、あのオヤジ)
 回想がてら、部屋の半分を埋め尽くす寝台を見やる瑪瑙。
 この認識から推察するに、宙から現れた場面には出くわさなかった緑髄、孔雀が稀人ではないと気づいたのだろう。
 だが、代わりにどんな勘違いをしくさりやがったのか。
 なんともなしに赤くなり、溜息を零せば、耳元へぞくりと艶めく声が掛けられた。
「まだ陽は高いけど……眠いのかい、瑪瑙?」
「ううん、全然」
「そっか……」
 きっぱり断言したなら、項垂れる孔雀。
 ――と思ったのも束の間、緩めていた襟元から覗く鎖骨へ、しっとりとした唇が落ちた。
「っ、く、孔雀っ!」
「ん……なぁに、瑪瑙」
 真っ赤になりつつ彼を呼べば、唇をそこに押し当てたまま、「んふふ」と笑い混じりに孔雀が答える。
 完全に遊ばれている自分を知るなり、瑪瑙はぺしり、回され続けている腕を叩いた。
「あんまりおいたが過ぎるなら、離れるわよ?」
 すると焦った様子で孔雀の唇が離れ、代わりに回された腕がしっかり瑪瑙を固定した。
「やっ、ご、御免。謝るから、まだこうしていて」
「……うん、まあ…………分かったならいいんだけど」
 言いつつ、いつまでこの格好でいなきゃならないんだろうと瑪瑙は頬を染めた。
 あれだけの領収書の束を一日で作っておきながら、一度も満腹感を得られなかったという孔雀。
 それゆえ、瑪瑙が近くにいる今でも、すぐに腹が減ったとのたまう男は、列車内に放り込まれてからの大半を、彼女に触れて過ごしていた。
 誰も見たくない、瑪瑙自身、誰にも見られたくない、膝の上に彼女を座らせた状態で。
 ちなみに寝台を勧めたがる理由は、瑪瑙ともっと密着できるから、らしい。
 完全抱き枕状態で、身動きできない苦しさを思えば、恥ずかしくともこちらの方が幾分マシではある。
「……ねえ、孔雀?」
「んー?」
 一種の拷問に近い状態から、己の意識を逸らした瑪瑙は、これで何度目になるか分からない問いをする。
「身体の具合、大丈夫?」
「うん、平気。瑪瑙が傍にいるから」
「……そう」
「うん……」
 擦り付けられる額の返事に、瑪瑙はほっとした表情で、自分を抱く腕を優しく撫でた。
 今の問いは、別段、この状態から早く解放されたい、という理由で為されたものではない。
 ……もちろん、早い解放は瑪瑙が真実、望んでいることでもあるが。
 問い掛けた本当の理由は、言葉そのままに、孔雀の具合を心配してのことである。
 理の人の中でも特殊とされる、心で摂取する栄養は、他を摂取することで得られる栄養と、似て非なる作用をもたらす。
 どちらも栄養という面では相違ないのだが、他から摂取する栄養素が、偏りはあってもさほどブレないのに対し、心から摂取する栄養素は、その時々で満ち欠けを引き起こす、曖昧な代物であるという。
 このため、食事の多くを偏りのない、満ち足りた心で摂って来た孔雀の身体は、瑪瑙不在により余儀なくされた他からの摂取で、得られる栄養素を上手く処理できず、結果、体調不良を起こしてしまっていた。
 しかも、瑪瑙が緑髄へ辞去を述べた際、置いてゆかれると勘違いしてしまった孔雀は、そのせいで、彼女が傍にいる今でも離れてゆくのではないかという不安から、取り戻したはずの心の栄養を欠けた状態に陥らせていた。
(でもなぁ……充足に必要なのが、私からの接触って…………詐欺っぽくない?)
 孔雀の腕を撫でつつ、そんな事を思う瑪瑙。
 座席へ身を沈めるのに似た動作で孔雀にくっつくと、早鐘を打つわけでもない、ゆったりとした脈に眼を閉じた。
 闇の中、脳裏に浮かぶのは、列車内に放り込まれてから一度だけ、鬱陶しいと孔雀を引っぺがした光景。
 最初はいつものようにめそめそしていた孔雀。
 けれど次第に、座ることさえ出来なくなり、寝台に伏しては熱まで出して、苦しそうに喘ぎ出した。
 構って欲しいが為の芝居と思っていた瑪瑙は、そこでようやく、彼から栄養の話を聞き、今こうして傍にいる。
 す……と瑪瑙の視界に光が入る。
 細めるでもなくこれを受け入れ、顔を後方、斜め上に傾けたなら、何かに気づいて潤むライラックピンクの瞳に出逢った。
 そっと身を乗り出せば、震える睫毛がゆっくり閉じられる。
 葉の先から垂れる水滴を受けるように、瑪瑙の唇が孔雀と重なった。
 辛い体勢をそのまま変えた瑪瑙は、孔雀の腿を跨いでは座席に膝をつき、逆に自分が彼を覆う形で、向かい合った頭を抱いた。
 腹から離された腕がおずおず背に添えられると、更に深く、瑪瑙は孔雀を求める。
 離れて震える呼気は孔雀から。
 瑪瑙はそんな暇すら惜しむように、何度も重ねては貪る。
「……っ…………ぁ………………め、のう……も、お願い……ね?」
 軽く背を叩かれ、そこでようやく惜しむように孔雀から唇を引き離した瑪瑙は、至近で複雑な色を浮かべる、腕の中の孔雀へくすりと笑いかけた。
「変な孔雀。私からこうされるの、そんなに嫌い?」
「ち、違う……嬉しいよ? だけど、瑪瑙がこうしてくれるのって、俺が具合悪いからでしょう? 俺の具合が良かったら、絶対してくれない……だから本当は、そんな理由で瑪瑙に何かして貰いたくないんだ。求められるなら、純粋に、瑪瑙の心から普段の俺を求められたくて」
「だから、栄養の話も具合悪くなるまでしなかった、と」
 指通りの良い孔雀の髪を撫でながら問えば、本格的に寝込むまで具合が悪くなった理由を語らなかった彼は、いじけた様子で眼を逸らした。
「だって……卑怯っぽいじゃないか。まるで、瑪瑙の善意に付け込むみたいで」
「でも、原因があるなら、早く言って欲しかったわよ? どうにか出来る代物なら、尚の事」
 諭すようにそう言えば、孔雀はぽつりと口を尖らせて呟く。
「だって……でも、やっぱり嫌だ。俺はそういう事したくないんだ。……稀人の中でしか通用しない地位のせいで、抵抗も満足に出来ない君へ、勝手に口付けしたあの男みたいな事、俺はしたくないから」
 ふいに戻ってくるライラックピンク。
 併せ、今度は瑪瑙が視線を少しばかり逸らして泳がせた。
 まさか、珊瑚にされていた事を知っていたとは、今の今まで気づかなかった。
 動揺する気を取り直すべく、愛想笑いを浮かべ、孔雀へ。
「か、勝手に口付けが嫌って、孔雀も散々していた気がするんだけどぉ……」
「うん。でも、瑪瑙は抵抗出来たでしょ? 理の人でも、君は容赦ないし」
「…………」
 儚げな微笑みを向けられても、瑪瑙には答えられる言葉がなかった。
 何を告げたところで、最終的には孔雀を受け入れていた自分、反面、孔雀へ感情をぶつけていた自分は、確かにいたのだ。
 気まずさを誤魔化す素振りで、孔雀の頭を胸に抱いた瑪瑙は、赤らんだ顔を見られたくない一心で、擦り寄る彼の頭に顔を埋めた。
 花のある容姿に似合わず、澄んだ水、清らかな風を思わせる、涼やかな孔雀の香りを肺に送る。
 典の屋敷にいた際、度々嗅ぐ羽目に陥った珊瑚の体臭は、孔雀と比べると女心を擽る存在感があった。
 その腕に抱かれて眠ったなら、どんな夢でも叶いそうな、そんな力強い包容力を感じた。
 だがしかし。
(私はやっぱり、こっちの方が好きだな……控え目だけど、私をありのまま、見つめさせてくれる)
 珊瑚のように強引に、従うよう強制する匂いではなく。
 許しを与えてくれるような、孔雀の香りが――
(孔雀が、好き……)
 口には出さずとも、恥ずかしさを増す胸内の吐露に、孔雀を抱く力が強まった。
 決して、苦しませる動きのないソレを受けた孔雀は、満足げな吐息を瑪瑙の胸に柔らかく落とした。
 と、孔雀の髪に絡められた己の指を見て、瑪瑙の頭に似た光景が現れる。
 互いをきつく抱き締める、孔雀と紅玉の――
「口付け……そういえば孔雀、紅玉とは結局どうだったのかしら?」
「へ!? め、瑪瑙、アレ、見てたの!?」
 言葉にするつもりはなかったのだが、つい零してしまった言葉に、孔雀が過剰な反応を示す。
 引っくり返った声音に、抱いたままの孔雀を下に見た瑪瑙は、狼狽する彼へ瞬き数度。
「うわっ、あ、危なかった…………良かったぁ。手、出して置かなくて」
「……孔雀?」
 あまりに俗すぎる言葉を聞き、瑪瑙の眼が丸くなった。
 これが普通の恋人であったなら絞め殺すところだが、長い間、自分にべたべた甘え続ける孔雀相手では、妙な違和感が生じてしまう。
 言葉をそのまま取ったモノかどうか迷い、じっと孔雀を見つめたなら、こちらの視線に気づいた彼は、焦りに焦った様子で首を勢い良く横へ振る。
「ち、違うからっ! そりゃ、お腹もすっごく空いてたけど! 舌の柔らかさとかに涎も出たけど! 大丈夫っ! ちゃんと食べてないよ――あ、でも、唇はちょっと齧っちゃったかも。なんか、血が滴ってそうな赤さだったから、誘惑に勝てなくて」
「…………」
「け、けど、安心して、瑪瑙! 君の方が、絶対美味しいから!!」
 何となく理解する、孔雀が紅玉と交わした口付けの、その過剰な熱烈さ。
 今にして思えば、回された彼女の手は、怯えに震えていなかっただろうか。
 捕食される直前の、小動物のように。
 全てを悟った瑪瑙。
 そうとは知らず、瑪瑙を食の対象として熱く語る、腕の中の変態。
 同じ人間の括りであっても、月とスッポンくらい差のある、理の人と稀人。
 稀人の血肉を喰らう理の人の話を知ればこそ、孔雀を黙らせるべく、瑪瑙はぺちっとその額を叩いた。
 途端、べそをかく、大の男らしからぬ孔雀。
 次いで「瑪瑙〜、御免なさいぃ」という、とても彼らしい謝罪を受けた瑪瑙は、孔雀の膝の上に腰を下ろすと、溜息一つ。
 御機嫌取りに近づいた唇を、掠めるように軽く、素早く奪った。

 頭の端に、私よりも孔雀の方が数倍、美味しくて甘い、と呆れ含みの評価を下しつつ。

 

 


UP 2009/10/2 かなぶん

修正 2018/4/18

目次 013

Copyright(c) 2009-2018 kanabun All Rights Reserved.

inserted by FC2 system