佳枝の端に着く頃、孔雀の身体は全快となっていた。
なので次の交通手段を考えあぐねていた瑪瑙は悩みを放り投げ、コトワリの力を使用する事を孔雀に強要。
けれど調子を取り戻した孔雀は意地悪く笑うと、自分の唇を指して言う。
「ココにチュウしてくれたら――い、痛いっ! 瑪瑙、髪引っ張らない、れっ!?」
駅前、通り過ぎる人の眼もある中、孔雀の長い金髪を引っ張った瑪瑙は涙を浮かべる唇へ己のソレを重ねた。
まさかこんなところで、あっさりされるとは思わなかったのだろう。
顔を真っ赤にした孔雀は、ちょっぴり悔しそうに眉を顰めた。
「うう……こんな、公衆の面前で…………見せ付けなくたっていいのに」
「何言ってんの。ほら、したんだからさっさと帰る!」
「瑪瑙ぅ……君は女の子なんだから、もう少し、雰囲気とか大事にしようよ。せめて、照れたり恥らったり」
「孔雀相手に、んなこと一々してたら時間の無駄よ」
「…………なんだろう。して貰えて嬉しいけど、ちょっぴり切ない気分」
「はいはい。愚痴だったら後で!」
ばしっと孔雀の背中を叩いた瑪瑙は、口付けの恥ずかしさを今更感じた風体で誰もいない場所へ孔雀を引っ張っていく。
その実、コトワリの力の使用を他の稀人に見られては面倒臭い事になると考えた。
「この辺でいいかな?」
言って歩みを止めたのは、駅の横にあった物置小屋の陰。
孔雀に向き直った瑪瑙は、複雑な表情を浮かべる彼をぎゅっと抱き締めた。
「め、瑪瑙?」
恐る恐る、背中に回される腕。
これにより、更にしっかり抱きついた瑪瑙をどう思ったのか、孔雀はきゅっと彼女を抱き締めると、その黒い髪に頬ずりを始める。
「……孔雀、何しているの?」
「え、何って」
「早く移動して。家に帰りましょう?」
「あ……これってそういう…………うん、分かった」
幾分、肩を落とした孔雀。
陰鬱な溜息まで吐き出した彼は、気分を切り替えることなく小さく言を紡ぐ。
「『リィゥド』」
「ぅ……」
途端に以前感じた気分の悪さが襲ってくる。
込み上げる胃の腑の不快を歯噛みして押し留め、孔雀の服を引き千切るくらいの力で強く握った。
体感時間も、実際に掛かる時間も短いが、乱用する移動方法ではないと自然に目を瞑った瑪瑙は思う。
「はい、到着〜」
「っと」
一瞬の浮遊を経て迎えた足場は、典の屋敷の上空に現れた時とは違い、しっかりとした土の感触を足裏に返してきた。
ゆっくり目を開きつつふらつけば、孔雀に身体を引かれて寄り添う形に落ち着く。
「瑪瑙、平気?」
「ん……」
気遣う孔雀の声音に小さく頷いた瑪瑙は、しばらく彼の胸に頭を預け、辺りを見渡した。
眼前に広がる光景は先程の駅とは程遠い、小鳥の囀りや木々のざわめきが柔らかく紡がれる見知った森。
そしてこれらを背景とする、カァ子の家。
陽のある内だと紅の色彩を基調としているため毒々しく見える家は、瑪瑙の心を不思議と安堵まで導く。
「帰って来たんだ……」
特にこれといって感慨があるわけでもないが、なんとなくポツリと呟いた。
次いで孔雀からあっさり離れた瑪瑙は家の戸を叩くと、躊躇いなく横に滑らせる。
「ただいまぁ」
「……おかえり」
告げれば出迎える黒い姿――は良いのだが。
「え、と……カァ子さん?」
後ろに続いた孔雀が戸を閉める音を耳に、瑪瑙の左目が真ん丸くなった。
続き、相対した孔雀でさえも、
「……どうしたの?」
カァ子の姿を見るなり目を丸くする。
理の人同様、この世界に元からいる利の容姿は稀人のように一定してはいない。
一見すると獣でも、中身は人間なんて事はざらにある。
眼だけが白いカラス姿のカァ子はその良い例だろうが、今現在、彼女は瑪瑙より少し低い背丈の、可愛らしい人型の少女になっていた。
瑪瑙と孔雀の視線を集め、短くも艶やかな黒髪を携えた黒装束の少女は、二重に巻いた腕の装飾品を弄りながら気まずそうに目を逸らした。
遠い佳枝からこの虹蹟までを一気に移動したのと同じ、コトワリの力を使用して為る変身はカァ子の苦手分野だ。
通常であれば数十秒で元のカラス姿に戻ってしまうのだが、彼女が腕にしている、細い金細工に黒い石を一つ吊るした装飾品には、これを持続させる効果があった。
けれどカァ子は元来、カラス姿の方が気楽で良いというタイプ。
わざわざ変身を持続させる必要はないはず。
このため、純粋に出迎えの姿がいつもと違う事に驚いているだけの孔雀とは違い、内実を理解している付き合いの長い瑪瑙は眉根を寄せて首を傾げた。
「カァ子さん……何かあったの?」
「いや別に。ただ――い、田舎に行きたいなー、と思ってさ。買出し、こっちの方が何かと便利だろ? あんたらはまだ帰って来ないと踏んでたから……」
「…………」
家は遠くに構えていても、定期的に田舎の実家には帰っているカァ子。
しかも大概は手ぶらである。
無言でじっと見つめたなら、鳴りを潜めたカラス時の野太い声に変わり、アルト寄りのソプラノが喉にぐっと詰まった。
益々怪しい。
――が。
小さく溜息をついた瑪瑙は肩を竦めて言う。
「ま、いいけどね。出掛ける時は教えて頂戴」
「あ、ああ」
気にはなるが深く詮索するつもりはない。
共に暮らしてはいても、カァ子にはカァ子の領域がある。
彼女の人となりを知っている瑪瑙ならば、増して問い質すつもりはなかった。
頼るべき時には頼ってくれる人だから、その判断は信用に値する。
一人で何もかも抱え込んで潰れるような人ではないから、安心できる。
カァ子もそんな瑪瑙を知っているためか、横を通り過ぎても何も言わなかった。
だがしかし、瑪瑙は失念していた。
カァ子にある領域、それは瑪瑙にもあるモノで、けれどコレを鑑みずにズカズカ土足で入ってくる奴がいる事を。
「で、カァ子さん。どうしてそんな格好しているの?」
「……孔雀」
能天気な声を後ろに聞き、頭痛を堪える面持ちで瑪瑙が振り返った。
と、黒い嘴も鉤爪もない少女姿ならば勝てるとでも思っているのか、何やら優越感に浸っている顔の孔雀が、カァ子の頭を気安くポンポン叩いていた。
対し、完全な子ども扱いに、カァ子は軽く俯いた表情の中で歯をギリッと軋ませている。
(……ヤバい)
頬を強張らせた瑪瑙は慌てて孔雀に駆け寄ると、調子に乗っているその左耳を思いっきり引っ張った。
「いっ、痛い、痛い、痛いぃ」
途端、カァ子を見下していたライラックピンクの瞳が涙目に変わるが瑪瑙は構いもせず、いっそこんな耳取れてしまえ、という半ば暴力的な思考に走りながら、自分の進行方向へと耳に付随してきた身体を追いやった。
「えっと、カァ子さん……。じゃあ、ね?」
「……ああ」
低い声の頷きに冷や汗を感じつつ、孔雀の背をぐいぐい押していく瑪瑙。
痛む耳を押さえた孔雀は抗議するが、瑪瑙はこれを無視。
つっかえる足があれば体当たりを食らわせて先を行く。
* * *
乱暴に自室の部屋の戸を開け放った瑪瑙は、孔雀を突き飛ばして床に転がした。
「あうぅ……ひ、酷いよ、瑪瑙ぅ〜」
「黙れ」
散らばる金の長い髪と艶かしく作られたしな。
ちょっぴり犯罪者気分を味わいながら後ろ手に戸を閉めた瑪瑙は、孔雀を迂回して椅子に座り、机に肘を置いて頬杖の姿勢。
陰鬱そのものの息を吐いては、窓から見える緑に癒しを求めた。
「め、瑪瑙?」
程なくご機嫌伺いの声が届き、そちらを見やった瑪瑙は胸の前で手をもじもじ、こちらを上目遣いに見つめる孔雀に出会った。
再度息を吐き出し気分を入れ替えた瑪瑙は、ビクつく孔雀の情けない様子に眉をハの字にする。
「まあ、孔雀は知らなかったんだものね……。でも、今度からは絶対、あの姿のカァ子さんに絡まないで。じゃなきゃ私、命が幾つあっても足りないから」
「? どういう事? 絡んだ俺じゃなくて瑪瑙が危ないの?」
「……経緯を話すと長くなるから端折るけど、カァ子さんって我を忘れると見境ないのよ」
「う、うん。御免ね、瑪瑙」
脅すように告げれば、神妙な顔をして頷く孔雀。
ふと、人差し指で顎を支えては首を傾げた。
「……それにしてもカァ子さん、結局あの格好、何だったのかなぁ?」
「懲りてねぇし……」
舌の根も乾かない内に話を戻して悩める孔雀に、瑪瑙の頭ががくっと下がった。
このままカァ子が家に居続けたなら、この能天気男は必ずもう一度、同じ事を問うだろう。
しかも十中八九瑪瑙の忠告を無視して、侮った態度でカァ子と接するはずだ。
これはもう、コイツの思考を別に持っていくしかない。
脱力する一方の手を拳に変え、何か良い案はないかと模索する瑪瑙。
三つ編みにしても重たい黒髪が、はらりと解れて頬に落ちた。
黙考する事しばらく。
瑪瑙と似たような顔つきで悩む孔雀を一瞥――しようとして、
「ぁいたっ!?」
「瑪瑙!?」
少しばかり顔を上げた矢先、目玉に髪の毛が当たった。
咄嗟に動いた左手により視界を完全に閉ざされた瑪瑙は、滲む涙の熱を左目に感じつつ思った。
(そーいや、まともにお風呂入ったの、いつだったっけ?)
着いてすぐ調合に専念したため、典の屋敷では簡単な清拭しかしていない。
比較的快適だった列車の旅にはシャワー室も完備されていたが、一回に使用できる湯の量は決まっており、重苦しい髪はきちんと洗えていなかった。
つまりは見た目の軽さを置いても、瑪瑙と同じくらい長い金髪の孔雀も似たようなもの。
(って、ちょっと待って? 孔雀、ウチに来てからお風呂とか入って……)
自分の髪を切っ掛けに、かなり危険な思い出を漁る。
そうして出てきた答えはいつかの日、「出てくから」と言って森の中の泉へ向かい、ずぶ濡れで帰って来た姿。
以来、孔雀がお湯や水を使った記憶は料理を除いて一切なかった。
遅れての気づきは瑪瑙の顔から血の気を引かせた。
「く、孔雀!」
「は、はい!」
そして勢いのままに彼を呼んだ瑪瑙は、心配する面持ちを捨て去り元気な返事と共に両手を揃えて直立する孔雀へ言う。
またしても勢いのまま。
「服を脱げ!」
「はい!…………………………は、ぃ……? め、瑪瑙、それって」
一旦静止して後、ぽっと頬を赤らめるともじもじし始める孔雀。
服の端を掴んでは揉み合わせ、身体をくねらせながら上目遣いで瑪瑙を捉える。
近くの長身がやると不気味に映る動作は、瑪瑙の心を少しだけ怯ませた。
「えっと……その、う、嬉しいんだけどね!? 俺……ぷ、ぷらとにっくじゃないと瑪瑙が危ないし。はっ!? そ、それとも、すとりっぷしろとかそういう――」
「あーもうっ! 何言ってんのかさっぱりだわ! こうなったら私が直々に身包み剥いでやる」
「ぎゃーっ!? ちょ、止めてぇっ!!?」
要領の得ない孔雀の話に業を煮やした瑪瑙は、逃げる服の裾を捕らえると腰を入れて引っ張った。
併せ「きゃあ!?」と成人男性らしからぬ可愛らしい声を上げて倒れる孔雀だったが、往生際も悪く四つん這いで逃げて行こうとする。
「させるか!」
瑪瑙は追う手を伸ばして腰紐に手を掛け、しゅるりとこれを解いた。
「いやぁっ! ぬ、脱がすのは好きだけど、脱がされるのは嫌っ!」
「仕様もない事叫ぶな! よし、まずは下から」
「ひぃいいいっ!? め、瑪瑙、何か眼の色違うよ!?」
「ふふふふふ……そうね孔雀、脱がすの好きだったものね。今、思い出したわ。……あの時の恨み、ここで晴らしてやる!」
瑪瑙の頭に浮かぶ、忌々しい桃色の記憶。
以前、孔雀が勝手につけた巨大な蝶々結びを振り払うように頭を振った瑪瑙は、嫌がる孔雀の腰に手を引っ掛けると、緩めた服を一気に剥ぎ取った。
「ひゃあっ!?」
涙目で振り返る孔雀へにやりと笑った瑪瑙、服を後方に投げ捨てては優々たる足取りで彼に近づく。
すっかり恐れた様相の孔雀はそのまま身を捻って瑪瑙と向かい合い、手と足を掻いて更なる逃げを図った。
しかし、尻を引き摺ったところで先にあるのは硬い壁。
軽く頭と背を打った孔雀は、それでも壁に縋って身体を縮ませた。
「め、瑪瑙、落ち着いて? 君ってば未通女でしょう!? お、男の裸なんて」
「……なんて事叫びやがる、この春頭。でもまあ残念ね、孔雀。職業柄、老若男女問わず裸なんて見飽きるほど見てきたから。生きているのも死んでいるのも、ね。今更、貴方の裸見た程度で赤らむ顔はないの」
「ふうっ!? そ、そんな……それじゃあ俺の瑪瑙開拓計画は!? 初心な君に手取り足取り胸取り腰取り!!」
「……いっそ、切っちゃいますか?」
「!!!」
両手でチョキチョキ、カニのポーズ。
可愛らしく首を傾げて見せても慰めは在らず、声も出ない悲鳴が孔雀の喉を衝いた。
そうして存分に孔雀を脅した後で、両手を腰に当てた瑪瑙は仰々しい溜息をつく。
ビクッと震える孔雀を胡乱げに見つめながら、
「まあ、私も痴女になりたいわけじゃないから。お遊びはこのくらいにして」
「あ、遊ばれてたの、俺!?」
「ううん。途中までは結構本気」
「ひっ!?……と、途中ってどこまでが――」
「兎も角」
恐る恐る訊ねる孔雀の言葉を遮るように足を一歩踏み鳴らす。
「脱がせようとした後で説明ってのも難だけど……お風呂に入って、孔雀」
「え、お風呂?……一緒に?」
どことなく嬉そうな笑みが怯えた表情の陰に映る。
「違う」
これを心底嫌そうな顔で叩き落した瑪瑙は孔雀を指差し、それを扉へ向けて移動させた。
「一人で、行け」
「そんな命令口調で言わなくても。大体それならそれで、早く言ってくれれば」
ブチブチ文句を言いながら立ち上がった孔雀は、おもむろに上着へ手を掛けると一気にこれを脱いだ。
「いっ!?」
突然の行動に目を剥く瑪瑙。
長い裾に阻まれていたせいで分からなかったが、あれほど嫌がっていたくせに、孔雀は下穿きをきちんと身につけていた。
が、瑪瑙の眼を引いたのは其処ではない。
もちろん、孔雀の半裸に今頃羞恥を覚えた訳でもなかった。
まあ、孔雀の身体が思いのほか男性的に整っていた事は、少なからず心を動かされたものの。
「いれ、ずみ……?」
孔雀の身体に脈打つ黒の図柄。
文字のようにも見えるソレは左半身を覆う程の広範囲に渡り、瑪瑙の驚きに気づかない孔雀が剥ぎ取られていた衣を取り戻すため移動したなら、背中まで続いているのが分かった。
否、腕や下穿きから覗く足に至るまで、ほぼ全身に同じ模様が描かれている。
「よし……って、瑪瑙?」
思わず孔雀に近寄っては長い金髪を掻き分け、背中の刺青を指でなぞる。
「どうしたの、これ……」
模様を辿って指を滑らせれば、一度はこちらを向いた顔が前を見据え、小さく息を吐いた。
「どうしたのって、最初からこんなだけど」
「で、でも私、全然知らなくて……」
刺青自体を見たのは始めてではない。
だが、孔雀のソレは瑪瑙の目に酷く異質に映った。
まるで、拘束具か何かのように孔雀の動きを封じていると。
動揺から来る罪悪感に苛まれたなら、向き直った孔雀が瑪瑙の手を取り、黒い瞳の横にゆっくりと口付ける。
落ち着かせようとするその意を汲み、震えから逃れるべく孔雀の手を握れば、身体を引き寄せられ抱き締められる。
初めて直に触れる、男のくせに甘い肌。
普通なら心をときめかせたり何だりする場面なのだろうが、瑪瑙は逆に安堵の息をついた。
髪が撫でられれば、空いていた手を孔雀の胸に置いて頬を摺り寄せる。
「瑪瑙。君が知らないのは当然。だって俺、君の前でこんな風に脱いだの初めてなんだから。驚かせちゃって御免ね? でもこれは別に、俺を苦しめているわけじゃない」
「どうして……」
「うん? どうして君の動揺の理由が分かったのかって? そこはそれ、愛の力――じゃなくて、君の言動を見てたら分かるよ。我は何時如何なる時でも君を見つめている。君の微々たる変化さえ逃したくはない、と」
ゆっくり離され、触れる唇。
知った甘さは、それでも慣れない熱を束の間、瑪瑙に吹き込んだ。
離れては更に寄り添う身体。
解放を得た手が孔雀の背中に伸びたなら、回された腕が瑪瑙を持ち上げるように抱く。
「内緒にした覚えはないから言っちゃうとね。この刺青が俺をこの形に維持しとくためのモノなんだ。ほら、カァ子さんが着けてた装飾品あるでしょ? アレみたいなモノなの」
ここでぎゅーっと瑪瑙を抱き締め、身体を折った孔雀は喘ぐ耳元へ囁いた。
「だから気にしないの。君が俺を思ってくれるのは嬉しいけど、どうせなら笑って欲しい。そして、もっと深く我を知っておくれ。何せ君は我の――」
「孔雀、汚い」
話の途中、為すがままだった瑪瑙はそう言うと孔雀の胸を押した。
「そう、きたな……へ? め、瑪瑙? って、痛っ!?」
漂っていた空気を惨い単語で払われた孔雀は、無造作に腕から何かを引き千切られて呻く。
「痛い……って、そんなはずないでしょう? こんなボロ切れ。というか、何よ、この赤茶けた部分」
「そ、それは、瑪瑙が出る前に手当てしてくれた包帯で」
「……は? それってカァ子さんに突かれた時のアレ?」
典の屋敷へ向かう前に、家主であるカァ子へ外出の旨を伝えに行った孔雀。
許可は得たものの、合図もなしにカァ子の部屋へ入ったとかで、手痛いお仕置きを額に喰らっていた。
これを手当てしたのは確かに瑪瑙ではあるが、てっきり捨てたとばかり思っていたのに。
不審がる瑪瑙に対し、返して欲しそうな目で包帯を見る孔雀は釈明然で言った。
「あ、あのね、傷自体はあの屋敷に着いた時に治ってるって分かってたんだけど、瑪瑙、傍にいなかったでしょ? だから、せめてこれだけでもって。そ、それに……瑪瑙が初めて手当てしてくれた記念品でしょ? だから――って、ああっ!?」
たどたどしい訴えを退けるように、くず籠の中へ包帯を投げ捨てる。
追い飛び掛ろうとする孔雀の手より早くこれを抱え上げた瑪瑙は、床に飛び込んで倒れる男を冷たい眼で見据えた。
「これは没収。いい加減、お風呂に入って頂戴。ああそれと、剥いだ私が言う台詞じゃないけど、その格好でうろつかないで。カァ子さんが嫌がるだろうから。それじゃあ、私は離れにいるわね。終わったら教えて。私もお風呂入りたいの」
殊更冷たく言い放った瑪瑙は、後を追ってこようとしつつも言われた通り律儀に服を着直す孔雀を置き去り、自室を後にする。
最中、包帯しか入っていないくず籠を覗き込んでは、大人げない自分の行動に若干の罪悪感を感じつつ、苛立ちを吐き出した。
「……私には何もなかったのに孔雀にはあったなんて、不公平だわ」
思い出すのは、典の屋敷で孔雀と引き離されてから、次々消えていった彼の痕跡。
てっきり孔雀も同じだと思っていただけに、何か裏切られたような気がして。
理不尽な怒りとは重々承知しているものの、瑪瑙の機嫌はそれからしばらく悪いまま。
とはいえ、瑪瑙を宥めるのに必死になった孔雀が、カァ子への追求を忘れてくれた事は、怪我の功名だったかも知れない。
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