いつもならばまだ寝腐っている早朝。
 ぱちっと目が覚めた瑪瑙は、次いで壁側、同じ寝台で眠る自称・夫の変態がいる方を向いた。
(……驚いた)
 これまたいつもならば抜け殻のそこに、何やらむにゃむにゃ絶え間なく口を動かしている美人がいる。
 思わず本物かと手を伸ばして頬をぺちぺち軽く叩けば、どういうわけだか顔を薄っすら紅潮させたこの男、瑪瑙の身体に緩く回していた腕を彼女ごと引き寄せてきた。
 大した抵抗もみせずにすっぽり身体を収めて密着させた瑪瑙は、かといって赤くなりもせずに自分の頬を掻いた。
「これは……拙いわね」
 全てがいつもと違う一日の始まり。
 指し示すところは――

* * *

 理の人である孔雀が持つ本来の感覚は、彼らを神と定める稀人のソレとは違う。
 けれど、一般の理の人とも少々趣を異にしている。
 ヒトの形に納まっている今、ある程度は稀人に近い感覚を有しているが、それだって平均的な彼らから見れば鈍いものだった。
 このため、目覚めた孔雀は最初それがどういう事なのか、さっぱり理解できなかった。
 ぼんやりしたライラックピンクが見つめる先には、真っ黒い腕。
 朝日の差し込む窓が作り上げた陰に、ひっそり隠れたようなその腕は、まどろみに片足をどっぷり浸からせた孔雀の意思でゆっくり持ち上がった。
「…………?」
 違和感に顰められる金の柳眉。
 力を抜けば、指を宙に滑らせる優雅な動きで腕が倒れた。
 ふかふかした寝台に弾む腕は、ゆっくり引っくり返ると敷布を指で掻き集める。
 思いっきり握り締めては離し。
「……冷たい」
 ぽつりと部屋に響く、寝起きの声。
 しばらくだらけきった様子で腕を観察していた孔雀は、次の瞬間。
「瑪瑙?――っ!」
 違和感の正体に気づいて身体を一気に起こした。
 つられて舞う自分の金髪を忌々しそうに払い飛ばし、そのまま寝台を降りた孔雀は、先程とは打って変わった焦りを瞳に宿して、広くもない部屋を見渡した。
 まるで塵一つ逃さないとでもいうように。
「瑪瑙っ……何処っ!?」
 からからに渇いた喉が、引っくり返った甲高い音を更に霞ませて、外へと吐き出した。
 しかし、孔雀以外誰もいない部屋に応えなぞ望めるはずもない。
「いやっ! 嫌だよ、瑪瑙!? 何故? いつもならば我の方が先に目覚めるはずであろう!?」
 両手で頭を抱え、ぐしゃぐしゃと掻き乱す。
 舞台女優を髣髴とさせる激しさで周囲を隅々まで凝視した孔雀は、閉じることを忘れた眼球を徐々に充血させ、歯を強く摺り合わせた。
「何処だ、瑪瑙……如何して、我を置いていった?」
 先程触れた敷布の位置には瑪瑙がいたはずなのに、冷え切った感触だけが手の平に残っていた。
 温もりさえあれば、いつもはまだ寝ている時間帯、瑪瑙は必ず部屋に、寝台に、孔雀の腕の中に帰って来てくれる。
 そう思っていられたなら、ここまで取り乱す事もなかったのに。
 裏切られたような気持ちで、嫌な感触だけを返す手を握り締めた。
 ――と。
「はあ……喰った喰った。ん? あら孔雀、起きたんだ。いつもながら貴方って早いのねぇ」
「…………瑪瑙」
 合図もなしに部屋に入って来たのは、それを必要としない部屋の主・瑪瑙。
 寝間着姿の彼女は、重苦しい黒い髪を梳かしも結わえもせずにボサボサのまま流し、爪楊枝を口の中につっ込んだ、食後を意識させる格好で扉を閉める。
 そのまま寝台へと足を向けた瑪瑙は、くず籠に使用済みの楊枝を投げ捨てると、恨みがましい視線をぶつけてくる孔雀の腕を気安く叩いた。
「どうしたの、そんな怖い顔して?」
「それは君がっ…………何処に、居た?」
 あまりにも呑気な言い草に激昂しかけた孔雀は、これをぐっと押し殺して瑪瑙に向き直ると、頬に掛かった彼女の髪を一束取った。
 いじけた素振りで黒い髪を長く繊細な指に絡ませ、小さく口を尖らせる。
「起きたら瑪瑙、隣にいないし。凄く、嫌だった。……ねえ瑪瑙? 今度から早く起きたなら、それが何時だったとしても起こしてよ。俺、俺さ――」
「うん。まあ、そんなにないだろうけど、今度からはお願いするわ。……自分で作っといて難だけど、アレは人間の喰いモンじゃねぇ」
「お願いって、おさんどん? いいけどさ。瑪瑙、少しは俺の話聞いてくれても」
「うーん。そうしてあげても良いかなって思うんだけど」
「……思うだけ?」
 妙に歯切れの悪い言い方をする瑪瑙へ、孔雀の眉が困惑に寄った。
 完全に毒気を抜かれた眼で見やれば、右半分の白く爛れた色は変わらず、左半分の顔が赤くなっている事に気が付いた。
 しかも左の黒目は何処か虚ろ。
 おもむろに孔雀へと伸ばされる瑪瑙の手。
 腕を掴んでは胸に擦り寄る頭に、普段、甘える事はあっても甘えられる事のない孔雀は思わず頬を染めた。
「瑪瑙」
 堪えきれない愛しさから熱い吐息混じりに彼女を呼ぶ。
 すると。
「もぉ、駄目だぁ」
「め、瑪瑙!?」
 いきなり後ろに仰け反った瑪瑙。
 咄嗟に支えても掛かる体重は重力任せに下を行く。
 ぐにゃりと膝を曲げた瑪瑙は、孔雀の服を縋るように握り締め、にへらと笑った。
「にゃは……後はよろしゅぅ」
「わっ、瑪瑙!!?」
 そしてそのまま意識を手放した瑪瑙に対し、状況を把握出来ていない孔雀は彼女を抱きかかえると、涙目になって視線を右へ左へ彷徨わせる。

* * *

 わぁーんわぁーん、と泣く声が遠くに聞こえた。
 けたたましいそれに眉を顰めたカァ子は、小さく頭を振って溜息を一つ。
(やれやれ。また誰ぞに苛められたのかね)
 目を開ければ朝日の入る自室。
 どっこいしょ、と黒い足を伸ばしては、眠っていた身体を起こすようにぶるぶる全身を震わせる。
 羽を広げて数度空振り。
 準備万端――のその前に欠伸。
 『カァ……』と喉の奥から野太い音が小さく鳴った。
『よし。んじゃ、行くか』
 もう一度尾羽を震わせ、ぐっと沈めた身体で地を蹴る。
 朝特有の停滞した空気を掴んでカラス姿を浮かし、扉――ではなくその上の開けたままの窓から廊下へと移動。
 一向に泣き止まぬ声の主に、呆れ返った溜息をつく。
『はあ。稀人だったらイイ齢だってぇのに、ああも見境なく…………ん?』
 ここに来て、ようやく何かおかしい事に気づくカァ子。
 白い眼を通して見つめたのは、記憶にあるか弱い少年が凄まじいスピードで成長していく姿。
 最後に到達したのは、巌のような顔と筋骨隆々ぴっちりシャツの成人男性。
『……嫌だねぇ、あたしとした事が。どんな寝惚け方していたんだか』
 決して進行は止めずにカァ子は陰鬱な溜息を吐き出した。
 夢でも見ていたのだろうか?
 今はもう、一端に店主なんぞをやっている、昔拾って育てた子どもの夢でも……
(久しぶりに会いに行くのも良いかもしれないね)
 何ともなしにそう思いながら、視界に現れた部屋の扉、カァ子の部屋と同じく開いている上の窓へと飛んでいく。
『朝っぱらか騒がしい! 何事だい、孔雀!』
 移動の最中に検討をつけていた泣き声の主目掛け、野太い声が音波のように発せられた。
「ひっぐ、べどおぉ、眼ぇ開げでどぉ……わでをひどじにじだいでぇー……っぐ、う、う、う、うわあああああああああああああああっっ」
 しかし、腕の中でぐったりしている瑪瑙に意識を集中させている孔雀は、涙と鼻水と涎で綺麗な顔をぐちゃぐちゃにして泣き叫ぶばかり。
『ああもう喧しいっ! 人の話を聞かんか、このボケ!!』
 同居人である瑪瑙ならば兎も角、自身が属する利と敵対関係にある理の者へ、再び声を掛けてやるような優しさは持ち合わせていないカァ子。
 高い位置から急降下しては、孔雀の頭を容赦なく蹴りつけた。
「あぶっ!!?」
 これだけ近くにいながら、察せなかった衝撃に孔雀の上半身が思いっきり仰け反った。
 それでも瑪瑙を支える手は微動だにせず、彼女を支え続けている。
「……がぁござん?」
『……誰だい、そりゃ。あたしはカァ子だよ』
 ようやく白い目をした黒いカラスを涙で腫れた瞳に映した孔雀は、怒るでもなく腕の中の瑪瑙をカァ子へ向けた。
「べどうが、べどうが、うごがなぐなじゃっだどぉー……ど、どうじだらうごいでぐれりゅ?」
『聞きにくいったらありゃしないね。……にしても動かなくなったって? 機械でもなし、んなことあるわけないだろうが。ちったぁ落ち着け』
「ぇぐっ、で、でぼぉ〜」
『でもはイイから。まずは瑪瑙を寝台に運びな。そのまんまじゃ治るものも治らん』
「な、なおるの?」
『治る』
 すかさず断言してやれば、「ぐしゅっ……ヴン、ばがっだ」と鼻を啜る孔雀。
 混乱している割に丁寧な動作で瑪瑙の身体を寝台へと運ぶ。
『で、布団をちゃんと被せてやるんだよ。そうそう、肩までちゃんとね』
「ちゅ、ぎは?」
『お次は……そうさね、濡れ手拭でも用意しておやり。たぶん瑪瑙の事だから、清拭や飲食は先に済ませているはずだ。後は――』
「べどう、の、ごどだがら……んぐ、って?」
 瑪瑙の机に止まって指示を出すカァ子を不思議そうなライラックピンクが見つめた。
 カァ子は羽を広げて毛繕いすると、肩を鳴らすに似た動作で首を振った。
『ま、アンタが瑪瑙の夫だって今後も言い張るなら、知っといた方が良いかもね』
「? わではじゅっと、べどうの夫でゃよ?」
『……あー、悪いんだけど、話の前にその顔何とかしてくれないかい? アンタの気持ちはどうあれ、見た目がこうも酷いと話しにくい。受け答えの声もそれでちっとはマシになるだろうからさ』
「あい」
 自分でもそう思っていたのか、珍しくカァ子の言葉に素直に頷いた孔雀は、大急ぎで顔を洗いに行った。

* * *

 目を腫らし鼻を赤くしながらも、比較的綺麗な顔で帰って来た孔雀。
 ついでに持ってきた、水を張った桶と手拭を瑪瑙が眠る寝台の脇に置くと、改めてカァ子の方を向く。
 両膝を床につけ、両手を腿の上で軽く握り締めたその姿勢は、教えを乞う者の礼儀を表しているようだが、孔雀にそれをやられるとカァ子はとても居心地が悪い。
 利と理の者、この二つの種には物心がついてから今日に至るまで、この地に誕生した者の名と姿を自身の中に記憶する特殊能力がある。
 勿論、利であり齢三百を生きるカァ子もこの能力を有しているため、数多の名を知っているのだが、その中に孔雀と同じ名はあっても同じ姿はない。
 ゆえに、どれだけちゃらんぽらんに見えても、普段気軽にどついたり暴言を吐いたりしても、孔雀はカァ子より年上ということになるのだ。
 そんな相手が自分の前で膝を折る。
 稀人なら愚かしくも優越感に浸れるのだろうが、生きてきた長さがそのまま万物を動かすコトワリの力の強さに比例する利や理の者にとっては、歓迎し難い状況だった。
 加えてカァ子の性格上、誰かに畏まられても煩わしいだけ。
 このため。
『「ディド」』
 コトワリの力を用いて机の椅子を孔雀の下へ移動させたカァ子は、惚ける彼に座るよう嘴で指示。
 寝台の瑪瑙を看るにも丁度良いソレへ恐る恐る座った孔雀は、椅子の正面を壁に向け、瑪瑙を視界に留めた状態でカァ子へ視線を送る。
「それでカァ子さん。瑪瑙は?」
『安心しな。一日か二日、長くても三日寝てりゃ治る。ただ単に、疲れがどっと出ただけだからさ』
「疲れ?」
 きょとんとした表情を浮かべ、孔雀の顔が瑪瑙の方を向く。
 額に濡れ手拭を置いた赤い顔は発熱した病人だが、呼吸は静かに流れており、苦しそうな様子はなかった。
『そう、疲れだ。慣れない旅、慣れない人付き合い、慣れない環境。そんな中で人一倍、根気を必要とする薬の調合をしていたんだ。疲れるのは当たり前だろう』
「でも……我の前では変わらなかったのに。我も瑪瑙の負担だったの?」
 些か気落ちした様子で孔雀の肩が下がった。
 それでも瑪瑙の顔に掛かった髪を除ける手は、柔らかく彼女の頬をなぞっていく。
 恨めしそうな声の割に優しい仕草。
 内心で微笑ましいと笑ったカァ子は、表では皮肉を貼り付けて笑う。
『うん? 負担になっているって自覚はあったのかい?』
「……ない、訳じゃない」
 珍しく気弱な発言を耳にして、カァ子の眼がパチパチ瞬いた。
 今更ながらに知る、瑪瑙ありきの孔雀の想いに、ちょっぴり言い過ぎたかと反省を兼ねて羽先で頬を掻きかき。
 かといって聞き出したものをわざわざフォローしてやるつもりはない。
 落ち込む孔雀を放り、カァ子は先を続けた。
『とまあ、そんな旅から帰って来て身体が元の生活に馴染んだ結果が、今の瑪瑙の状態さ。んで、さっき言った瑪瑙の事だからってのはね、この子ったら、満足に動けなくなる手前で妙な行動を起すんだ』
「妙な行動?」
『ああ。……と言っても、常人に当て嵌めれば規則正しいと評すべきなのかも知れんがね。早く起きて、てきぱき誰の手を煩わせる事なく寝込む準備をする。顔を洗ってご飯を食べて歯を磨いて身体を拭いて新しい寝間着に着替えて――って具合に』
「……だから目覚めた時いなかったのか」
 惚けた声音で納得をしてみせる孔雀。
 彼の泣き声で起こされたカァ子は、それ以前の彼の行動など知る由も無いが、どこかほっとした様子には自然と苦笑を零した。
『さて。だからって寝込んじまったら瑪瑙も易々動けない。いつもならあたしが面倒を看るところだが、今回からはお前が看てくれるんだろう、孔雀?』
「もちろん! 我は瑪瑙の夫だもんっ! カァ子さんなんかに任せて上げないんだから!」
 一転、元気になった孔雀は、途端に生意気な口を聞き始めた。
 大の男の可愛い子振る口調に、多少なりともイラッとしたカァ子だが、寝込む瑪瑙の手前これをぐっと押し留める。
『言うじゃないか。それじゃあ、お手並み拝見だね。精々、一人で頑張りな』
「えっ!? て、手伝ってくれないの?」
『……は?』
 またも転じて、今度は弱々しい表情を浮かべる孔雀。
 不安満載の瞳に縋られたカァ子は、相手が敵対する理の者である事を忘れて戸惑った。
 てっきり孔雀の事だから、瑪瑙の嫌がりそうな事まで全部やると思っていたのに。
 孔雀の無茶が余程の事でない限り、傍観に徹するつもりだったため、この申し出は正に寝耳に水。
 白い目をぱちぱち瞬かせたなら、カァ子の方を見て腰を若干浮かした孔雀が焦りながら言った。
「お、俺、看病ってした事なくて、どうすれば良いのか分からないんだ。本当は全部、俺一人でやりたいけど」
『アンタ……今し方、任せて上げないって言ったじゃないか』
「そ、それは、売り言葉に買い言葉っていうか……。と、とにかく!―― 一緒に看病して下さい」
 最後は椅子から立ち上がり、そのまま頭を下げる。
 あまりにも殊勝なその態度に眉根を寄せたカァ子は、孔雀が座っていた椅子の背もたれまで飛ぶと、そこから俯く彼の顔を覗き見た。
『孔雀、アンタ……大丈夫? 顔色酷いよ?』
「うん……ううん。駄目かも。せめて、瑪瑙の眼が覚めるまではカァ子さん、一緒にいてくれないかな?」
 甘える上目遣いを覗いた上に見、ぞわっとした気持ち悪さを感じるカァ子。
 羽が隅々まで逆立てば、ちらりと視線を逸らし、孔雀が口の先を用いて呟いた。
「利が傍にいるなら、適度な緊張保って普通でいられるし」
『……そういう事か。ま、そっちの方があたしも気が楽だけど』
 孔雀共々視線が寝込む瑪瑙へと向けられる。

 同じ人間に分類されながら敵対する二つの種。
 これを一所に留め置く娘は、夢でも見ているのか、目を閉じたままくすりと笑った。

 

 


あとがき
孔雀、初めての看病物語。
単独であるため、長旅について詳しく書いてはいません。

UP 2010/1/21 かなぶん

修正 2018/4/18

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