最初にその薄汚い布を見つけた時、彼女はゴミだと結論付けた。
 だから気にせず通り過ぎようとしたのだが、そのゴミは直前、視界の端で微かに動いた。
 すると今度は小動物が中身を漁っているのだと当たりをつけたのだが。
 ……妙に気になった。
 先を行こうとする身体を旋回させ、薄汚い布の膨らみの傍まで寄った彼女は、やはり何だか分からない物体に首を傾げて一言。
『「ジファ」』
 世に満ちるコトワリの力に働きかける言葉は、彼女の口を出るなりボロ布を糸の段階にまで解れさせていく。
 そうして徐々に現れ始める布の中身は――
『……子ども?』
 正真正銘、稀人の子どもが、ぐったりとした姿を彼女の前に晒していた。

* * *

 こくりこくり、漕ぐ船から目覚めたカァ子。
 久しぶりに懐かしい夢を見たと瞬いては、止まり木状の棒の上で羽を広げて伸びを一つ。
 続いて出てくる欠伸に小さく『クァ……』と鳴いた。
 首を左右に振り、尾羽をフリフリ。
 フンッと鼻を鳴らすと、どっしり構える要領で足を折り、ここ一週間ほど居る室内をぐるりと見渡した。
 部屋奥中央にいる彼女の前には純白の布に覆われた祭壇があり、その上には色取り取りの果物を盛り付けた軟玉の器と水の入った杯、小さな火の灯る燭台が置かれている。
 カァ子の部屋よりやや広い造りだが、祭壇から向こうにある扉までの左右に、宝物庫も斯くやというくらいの金銀財宝が並べられており、逆に狭さを感じてしまう。
 しかも白い壁の木枠に取り付けられた照明は、凝ったガラスの中で橙の光を輝かせているため、反射する煌びやかな世界は、はっきり言って目に優しくなかった。
 毎度毎度、目に届く光を鬱陶しがりながらカァ子が睨みつけるのは、扉の左右に一つずつ配置された窓。
 こちらの眩さゆえに見え難いそこから滲む人影に、カァ子は内心で仰々しい溜息をついた。
 光を遮断するべく目を閉じた中で思うのは、彼女を攫ってここに括りつけた稀人の考えと、それに賛同した頭のおかしい連中の事である。
(ったく。何だってこのあたしがこんな目に)
 思い返せば人助けをしたせいである。
 だからと助けない方が良かった、とは言わないが現状は芳しくない。
 恩人だ何だとどれだけ厚遇されようとも、それは相手の言い分。
 この部屋にある全てはカァ子への捧げ物だとのたまわれても、その思いは全く変わらなかった。
 何せカァ子が今一番欲しいのは、自由になる自分の身なのだから。
 けれども現在、彼女の足は金加工が施されている割に頑丈な足枷で棒に留められており、広げた風切羽も不恰好に寸断されている始末。
 加え、どういう経緯なのか彼女を利と見抜いた相手により、やはりどうやったのかは分からないが、コトワリの力も使用制限がかけられてしまっていた。
 使えるのは彼女を攫った相手・封の爪縞が許可した時だけ。
 齢300を数え、それなりの修羅場も乗り越えてきたはずのカァ子だが、此処まで徹底して捕らえられたのは初めての事だった。
 しかも相手は特殊な力を持たないはずの稀人。
 大きく分類すれば人間、劣ると嘲る心も稀人如きにと恥じる心も最初からないのだが、ゆえに未知である相手の出方が分からず、カァ子は表では堂々としつつも内心では未だに動揺していた。
 もしも彼女に希望が残されているのだとしたら、それは一日に数回訪れる爪縞との会話ではなく、昨夜窓越し、大声で「白い目ン玉の鴉!!?」と叫んだ男だろう。
 光の反射で陰すら見えはしなかったものの、あの声は明らかに黄晶のモノだった。
 そのまま感情任せに乗り込まなかった彼ならば、策を練ってカァ子を此処から助け出してくれるかもしれない。
 が、しかし、反面でカァ子が怖れているのも、黄晶が単身で助けに来る可能性だ。
 他の誰か――たとえば美人のくせに変態で得体の知れない夫を持つ、自身もかなり怪しい薬師である瑪瑙が助けてくれるなら、こんな焦燥感に駆られる事はなかった。
 寧ろ相手を同情したいくらいだ。
 だが黄晶は、どれだけ厳つかろうとも、あくまで稀人の常識に縛られた普通の子。
 居を構える虹蹟で、一氏族を敵に回して良いはずがない。
(頼むから、殴り込みなんて止めておくれ)
 姿形が変わろうとも性根の優しい黄晶を熟知しているカァ子は、恩ある彼女を救おうと躍起になる姿が簡単に想像出来て泣けてきた。
 いっそ見つからない方が良かったとまで思ったなら、そんな彼女を鼻で笑うようなタイミングで扉が開かれた。
 乗じ、眩さ以上に鬱陶しいと開いた目を細めたカァ子の眼前、扉からやって来た人物が、紫紺の両腕を大袈裟に広げて近寄ってくる。
「おおっ! 鴉巣様! お目覚めでしたか? 今日もご機嫌麗しゅう」
『…………』
 祭壇の前で膝を折っては、初対面の時、カァ子にぶっ刺された包帯巻きの右手を掲げる爪縞。
 これを無言で白い目に納めたカァ子に対し、優雅に微笑んでみせた爪縞は、くるり舞うように背を向けると祭壇に腰掛け、人差し指を無遠慮に伸ばしてきた。
 つつーっと嘴の下をなぞる指の感触。
 怖気の走る行為にそれでもカァ子が沈黙を保ったなら、その人差し指を自身の唇に置いた爪縞がくすりと小さく笑った。
「私の鴉巣様は今日も恥ずかしがり屋さんだなぁ。ほぉら、見てご覧? 今日もたくさん、お前のご利益目当てに色んな人たちが、色んなモノを置いていったよ」
 ぱちんっと爪縞が指を鳴らせば、扉から屈強そうな男たちが各々、様々なモノを持ってやってきた。
 はち切れんばかりの金貨が詰まった袋にゴテゴテした装飾品の数々。
 意匠のこらしてある小物入れや誰向けなのか分からない華美な衣、実践には向かない剣や斧といった飾り立てられた武器。
 そして猿轡を咬まされ拘束された娘、少年と――
「今日の一番はコレですね」
 言って爪縞が祭壇の上の物を蹴散らし無造作に置いたのは、干からびた赤子の死体。
 背後でこれを見た娘と少年が青褪める中、それでも冷めた視線しか返さないカァ子へ笑んだ爪縞は、愛おしそうに乾いた頭を撫でながら言った。
「といっても、別にコレは供物ではありません。……動かなくなったのはかなり前で、以来、ずっと真綿に包んで大切に“育てて”いたそうです。ある氏族の方、なんですけどね。鴉巣様の噂を聞きつけて、元に戻して欲しいとの事です。あくまで、生き返らせる、のではなく」
『…………』
「最初のお子さんだったそうですよ。とても元気に泣く子で。あまりに元気過ぎて煩かったから、とも仰っていましたっけ。……ふふ。ちなみに後ろのアレらはコレの弟妹で供物、ですって」
 ついと爪縞の黒い瞳が背後を見やれば、別々に拘束された娘と少年が首を振って後ずさろうとし、彼らを連れて来た男たちがその逃げを許さないと前へ突き飛ばす。
 床に叩きつけられた二人が猿轡の向こうで呻きを上げたなら、祭壇を降りた爪縞が結わえられた髪を崩すように娘の頭を踏みつけ、少年の髪を左手で無造作に持ち上げた。
 そうして今一度カァ子を振り向いては、包帯巻きの右手を軽やかに翻し、袖から小刀を取り出す。
 カァ子を狙う切っ先は宙を辿り、荒い息をつく少年の鎖骨の間に置かれた。
 上下する胸に併せて小さく皮膚を裂く小刀。
 流れる血をせせら笑う爪縞は、目の端に涙を浮かべた少年へ憐憫を象った声をかけた。
「さて? 供物というからには鴉巣様が食べやすいよう、細切れにしなければなりません。でもその前に血抜きをしなくては。ねえ坊や? どこが良いですか? 首を切って噴出させましょうか。それとも腹を裂いて臓腑を掻き出しながら一緒に済ませましょうか。足を切り落とすのも如何でしょう。針を刺してゆっくり滴らせるのは?」
「…………!」
 夢見るように語られる話に首を振ることさえ出来ず涙を流す少年。
 これを見てくすくす笑う爪縞は、一転、顔を顰めては少年を突き飛ばして自身もそこから離れた。
 口元を覆い柳眉を顰めた瞳が下を向いたなら、少年が膝立ちしていた位置に出来た水たまりが娘の衣服に染みついていく様。
 立ち込める臭いに爪縞が一歩下がると、それまで沈黙を保っていたカァ子が『カカカ』と野太くも妙な笑い声を上げた。
 臭う水に浸かっても身動き一つしなかった娘と、股を濡らした少年が、そんなカァ子の声に目を見開く。
 袖を当てた爪縞が忌々しそうに振り返れば、カァ子はカラス姿でも分かるにたりとした笑みを浮かべた。
『コイツはとんだしっぺ返しだ。大変だねぇ、封の坊や。自らの行いで降り掛かった災難、まさかそこの子どもに贖わせるわけにもいくまい? 同様、二次被害を受けてるそこの娘にも、さ? それじゃああんまりにも品がない。学がない。ま、やりたきゃおやりよ。アンタがどんな事をしようともあたしにゃ関係ないし。ただあたしは思うだけさ。イイ齢して餓鬼に八つ当たりなんざみっともない、ってね』
「……そこの少年を連れて行きなさい。もちろん、これ以上汚されては敵いませんので下は脱がしてね。それと乾いた布を。汚水を拭き取らねばなりません」
 それまでとは打って変わり、表情の一切を消した爪縞は男たちに指示すると、裾をたくし上げて娘の頭を再度踏みつけた。
「弟の不始末はお前が処理なさい。手の縄は解いて差し上げますから」
 後ろ手に縛られていた娘が爪縞の小刀で解放を得ても、起き上がる事を許さない冷淡な目は踏み躙る彼女を見つめたまま。
「衣服はお脱ぎなさい。ああ、でも勘違いしないで下さいね? お前みたいに文字通り、小便臭い小娘の裸なんて興味の範囲外です。男衆でもそんなの相手に欲情するのは御免でしょう」
「…………っ」
「おや、何か言いたげですね?……ああ私とした事が気づかずすみません。確かに猿轡をしては喋れませんし、何より吸い上げられた汚水を口にしてしまいますものね」
 言うなり今度は轡を切る小刀。
 けれども依然、娘の頭を踏み続ける爪縞は、迷うように揺らした小刀の刀身をその襟首に引っ掛けた。
『何を』
 どんな事があっても傍観するつもりだったカァ子が思わず訝しむ声を上げたなら、臭気に顰めていた眉を緩ませ、爪縞はふっと小さく息を吐き出した。
「無論、脱ぐ手間を省いてやろうというのですよ。濡れた服ほど厄介なモノはありませんからね。けれどご安心を、鴉巣様。優しい御身の事、この者は只の娘と嘆かれていらっしゃるのでしょうが……ご覧あれ」
 小刀が軽い音を立てて布に刃を埋めたなら、あとは容易く裂かれて、露わになる娘の背中。
 しかし、そこに在ったのは柔肌というには些か業の過ぎる彫り物と――

* * *

「……礼は、言わんぞ」
 静かな声を受け、再び目を閉じていたカァ子は視線をそちらへ流した。
 祭壇の左側、“鴉巣様”への贈り物に混じって、衣服を裂かれたはずの娘が、連れて行かれたはずの少年の頭を膝にカァ子を睨みつけていた。
 否、睨みつけているのではなく、元からそういう顔つきなのだろう。
 にっこり笑えば花が綻びそうなものを、ゆえに残念に思うカァ子は、爪縞相手では簡単に開かない口をあっさり開いて言った。
『言わんで結構。あたしゃ自分のやりたいようにやっただけだからね』
 おどけの口調ながら、その白い瞳が見つめるのは、粗相をしたとは思えないほど安らかに眠る少年の表情。
 娘がこれを遮るように腕を回せば、ククッとカァ子の喉が笑いに震えた。

 カァ子の言う通り、彼女がした事は全部自分のためだった。

 爪縞にコトワリの力の使用を持ちかけたのも、自分でやった方が部屋が綺麗になると思っての事。
 娘と少年をこの場に留まらせたのも、彼らが自分への供物だったからに過ぎない。
 無論、供物でもないあの死体は丁重に弔うよう下げさせたが、爪縞がアレを実際どう扱うかまでは感心がなかった。
 それもよりも気になったのは、洗ったとはいえ背中の覚束ない娘の衣服。
 己の神とカァ子を崇める爪縞を追っ払い、窓を隠させては供物の中にある服に着替えるよう娘に促す。
 最初は躊躇いをみせた娘だったが、何やら諦めた風体で服を脱ぐと、飾り気がない分上質な男物の青い服に着替え――

 そして今、結果的に彼らを無事な姿で留め置いたカァ子に対し、訝しむ娘は彼女へ問う。
「ならば……何が目的だ。何のつもりで我らを助ける?」
 更に鋭く細められる黒い眼。
 これを勘違いせずに困惑と受け取ったカァ子は、『カカカ』と嘴を打ち鳴らして笑った。
『助ける、ね。正直なところ、アンタらは助かっちゃいないんだよ。あたしも同じくね』
「……この待遇でか?」
 ちらりと娘の目が部屋を埋め尽くす、極彩色の供物へ向けられた。
 薄く嘲笑う顔は、間違いなく今の彼女の心境そのもの。
『この待遇でね』
 カァ子はそんな娘の皮肉に、鎖に繋がれた足と不恰好に切られた羽を広げ見せる事で対抗した。
『アンタらにとってどんなに価値があるモンでも、あたしにとっちゃ自由に飛び交える方が魅力的なのさ』
「カラスは光り物が好きだと聞くが?」
『ふん。限度って言葉を知っているかい? アンタはどうだい、こんな部屋に四六時中缶詰にされたい?』
「……すまん」
 服装に合わせて団子状に纏められた娘の黒髪が素直に下がった。
 途端、爪縞に踏まれていた状況を思い出し、カァ子の目が苦みに顰められた。
 顔つきや背中にいわくがあっても、純粋らしい娘の後悔は底が知れない。
 このままでは嫌な思いばかり抱いてしまうと思ったカァ子、翼を閉まって足を降ろすと、ふざけた調子で首を振ってみせた。
『でもま、二人ともあたし好みの黒髪黒目。そういう意味ならこの待遇も悪かないさね』
「!」
 がばっと上がる娘の顔。
 畏まられるよりは警戒致し方なし。
 そう思ってカァ子が鼻で笑うように娘を見下ろしたなら。
『……? ちょっとアンタ、大丈夫かい? 顔赤いけど熱でもあるんじゃない?』
「ないっ! し、心配無用だ」
 依然、眠る少年を守るようにして抱いたまま、娘の顔が横に逸らされてしまう。
 コトワリの力で大量の水を呼び出し、室内のあらゆるモノを洗ったため、風邪でも引いてしまったのかと思ったのだが、水滴の一切は払っていたはずだ。
 ここは娘の言葉を信用する事にしよう。
 でなければ、訴えたところであの爪縞の事、どんな結末が娘を待っているのか知れたものではない。
 何せここに監禁された初日、彼はあるモノを五つ、祭壇の上に晒してきたのだ。
 カァ子は知らない、けれども爪縞との繋がりを作ったに等しい、あの時彼を拉致した女主人と彼をゴミの中に捨てた男たち。

 ――その、苦悶に満ちた死に顔を。

* * *

 稀人の子どもの家族は旅芸人だった。
 戦を避けて域を渡り、旅を続けながら技を披露する彼らの世界は一見すると華やかで自由かもしれない。
 けれども客の入りと人気で左右されるため、一芸も磨けない者の末路は悲惨の一言に尽きる。
 そんな旅芸人の中にあって、子どもははっきり言って将来性がなかった。
 花形スターの二親を持つせいか、顔立ちだけは誰よりも人の眼を惹いたのだが、可憐で儚げな容姿はそのまま子どもの身体にも影響を及ぼしていた。
 練習して大怪我をする、それさえ望めない虚弱体質。
 幸い、大病を患う事はなかったが、伏せては治るを繰り返すだけの身体は、旅をする者にとって荷物以外の何者でもない。
 通常であれば、どこかの町に置き去りにされる子どもの身柄、しかしてその麗しい見目ゆえか旅芸人たちは別の選択を下す。
 はぐれた人生には苦しか残らぬだろう、と。
 こうも身体が弱くては逃げることもまま為らないだろう、と。 

 愛しいから――と。

 病み上がりにも関わらず、外套に身を包んだ子どもが降ろされたのは深い夜の森。
 月さえ隠れたその日、松明の火もないそこで、大人たちのすすり泣く声を耳にした子どもは、次の瞬間、背に受けた衝撃でつんのめる。
 草の上に手を付けば、ぬるりと腕を伝う液体。
 次いで訪れる数瞬遅れの激痛、じくじくと脈打つ背中。
 痛みに詰まった肺は喉を揺らさず、代わりに立ち上がった子どもは滲む涙を拭いもせずに走り出した。
 追う者はなかった。
 追う声があった。
 かわいそうに、かわいそうに、かわいそうに……
 延々続くその声は、生きようとする子どもの死を確信していた。

 ――子どもを拾った彼女は後に、そんな経緯を彼自身から聞かされた。

* * *

 また落ちていた眠り、懐かしい夢。
 目覚めたカァ子は胸糞の悪くなる独白の記憶に身震い一つ。
 どうせならもっと楽しい夢を視たいと思い、前を見ては夢の再来かと思う光景にどきりとした。
 細い背に走る、右上から左下へ流れる刀傷の痕。
 いや違う。あの子の背にあったのは左から右にかけての傷。それに今は兎も角、昔のあの子の背にこんな彫り物はない。
 背中を覆い尽くさんとする、緑の鱗など。
『……着替えなら、もう少し恥じらいってもんを持ちな。わざわざ人の前でやるんじゃないよ』
「っ! お、起きていたのか。い、いつから?」
 声を掛ければ、元より着るつもりだったのだろう、娘が慌てた様子で上着を羽織る。
 昼も夜もない密室、時間の感覚は掴み辛いものの、娘の着替えから一日か半日の経過を知った。
 惨たらしく引き攣れた刀傷を隠され、柄にもなくほっとしたカァ子は、そんな自分を誤魔化す素振りで羽を広げると嘴で繕いつつ。
『つい今し方、さ。全く……夢の続きかと思って身構えちまったじゃないか』
「夢……?」
 帯を締めた娘が振り返り、相変わらず愛想のない顔で眉を顰めたなら、白い瞳をついと逸らしたカァ子は、寝入るまで彼女が抱いていた少年を一瞥する。
『なに、大した夢じゃないさ。昔、そこにいるアンタの弟より、もっと小さい子どもを拾ってね。その時の事をちょいと視ていただけ』
「……だからか?」
『ん? 何がだい?』
 今現在、その子がどんな大男に変貌を遂げたか、気まぐれに語ろうとしたカァ子は、娘の言葉に首を傾げた。
 何か重大な事を告げようとしている素振りを知り、姿勢を正せばキッと睨みつけるようにして娘は続ける。
「良王(りょうおう)がその子どもとやらを思い出させたから、我らを助けてくれた、のか?」
『うん……?』
 結果として無事なだけでまだ助かったわけではない、と似た問いに伝えたはずだが、再度尋ねてきた娘の様子がどうもおかしい。
 頷けばそれで済みそうな問い掛けだというのに、その瞳が望むのはどう見ても否定だった。
 まるで、少年だけが理由だったらどうしよう、と言うような。
(……よく分からんが、この娘の反応、いつかの黄晶そっくりだね。あの時は確か、黒髪黒目がどうとかで、茶化すつもりで頷いたら――ああ不味い)
 黄晶と交わした会話の内容は覚えていないものの、あの日を境に彼が横道に逸れたのは間違いない。
 薬種店を開いたかと思いきや、姿形まで変わってしまっていたのだから、この目のこの問いには首を横に振るべきだとカァ子は思い。
 ――首を縦に振った。
 途端に顔を青褪めさせた娘へ口でも肯定を語る。
『あるいはそうかもね。その子が似ていたからかも、ね。……けど、それだけじゃないさ。若い娘の肌を野郎の目に、むざむざ晒しておける訳ないだろう?』
「! わ、私、私の肌なんて、そんな……そんな良いモノでは」
『? 何言ってんだい。確かにまっさらとはいかないが、アンタの肌は綺麗だよ。もっと自信を持ちな。直に見たあたしが保障してやるからさ』
「…………」
 器用に片眼を瞑ってやれば、耳まで赤くして押し黙る娘。
 何か間違った事を言ってしまっただろうかと、カァ子は羽先で頭を掻いた。
 それでも囚われの身、黄晶のような暴走はしないと思ったなら、恐る恐るといったていで顔を上げた娘がもう一度尋ねてきた。
「今更聞くのも難だが……貴方は本当に神、なのか?」
『ん? いいや違うさ。これでもアンタらと同じ、列記とした人間だよ』
「そ、そうなのか……そうか、やっぱり……それなら、これも間違った反応ではないな」
『…………?』
 自己完結して嬉しそうに娘が頷いた。
 取り残されたカァ子はどうしたもんかと首を傾げ、これに気づいてか、はっとした様子の娘は取り繕うように背筋を伸ばすと、深々お辞儀を一つ。
「済まない。申し遅れたが、先に言った通りそこで寝こけているのは私の弟の良王。そして私は翡翠と言う」
『おやまあ、コイツはご丁寧に。ならこっちも改めまして。あたしはカァ子って名だ』
 翡翠の名乗りを真似て、ほとんど身体ごと頭を下げるカァ子。
 この仕草を恐れ多いと跪いた翡翠は、妙に熱っぽい眼差しでカァ子を仰いだ。
「カコ様……」
『…………ん?』
 伸ばしを短縮されたカァ子は白い瞳をぱちくりさせたものの、訂正させるほどの間違いではないと小さく息をつく。
 そうして程なく爪縞が来るまで、虚空を仰いでは件の子ども・黄晶の安否に思いを馳せる。

 ――その間にも向けられる翡翠の奇妙な視線が、どういう意味を持つのか、全く知る由もなく。

 

 


UP 2010/6/23 かなぶん

修正 2018/4/18

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