復讐の隠蔽 1
「見つけたぞ、アルト=パウム!この性悪詩人め!!」
びしっと人差し指を突きつける白衣の老人が、次に何かを口にする、その前。 蒼と白の薄絹を幾重にも重ねた衣から、高々と上がった足が、老人の顔面に沈んだ。 容赦なく、そのまま地に叩きつけては、薄絹から長い白髪が零れる。 「アルト?」 「どうかしましたか、イシェル?」 首から提げた小瓶を愛おしそうに、細やかな紋様の蒼い刺青が彫られた右手で撫でながら、何事もなかったかのように通り過ぎる。 一度だけ、ぐりっ、と詰る靴音が響いた。 頭から背にかけて覆う、衣と同色の薄絹は、うっとりと笑む男の眼元を隠してはいたが、間違いなく嘲笑が浮かんでいる。 しゃらん……とアルト=パウムの心情を如実に表す、刺青と同じ紋様の銀糸の腕輪が、老人の存在を無視して軽やかに鳴った。 「良いのかしら、あの人……」 「ふふふ……イシェルはお優しい。ああいう輩は一度構うと癖になってしまいますからね。あれくらいが丁度良いんです」 美しい涼やかな声音で、さらりと私論を吐いては、小瓶を優しく持ち上げ、更に絡みつく熱情を注いで撫でる。 林道には馬車や他の旅人もちらほら行き交うというのに、まるで自分と小瓶の内でこちらに首を傾げる妖精しかこの場にいない様子。 薄絹の縁を飾る金銀の飾りが、増長させるように音もなく揺れ続けている。 アルト=パウム以外には全く通用のしない、利己に満ち溢れた言葉に、碧の四肢と妖精の中でも殊更薄い翅を持つイシェルは、素直にこくんと頷いた。 「人間同士って、なんだか色々と難しいのね?」 結い上げた波打つ金糸の髪を揺らして、頬に手を当て考える素振りのイシェル。 深い青をたたえた瞳が、気難しい表情を浮かべてアルト=パウムを見つめれば、彼の綺麗な輪郭の中で口元がだらしなく緩む。 「ええ。ですがイシェル? ご心配には及びません。私にとっては日常茶飯事ですから。なにせ、自分で言うのも心苦しいですが、私は吟遊詩人の中でも特に有能。故に妬み嫉みとは切っても切れない節があるのですよ」 「そうなんだ……アルトって大変ね。私、応援しか出来ないけど……負けないでね!」 ぐっと握り拳を作り、白い衣を纏う愛らしい少女の姿に、ぴしり固まり立ち止まっては、熱い息を吐いた。 アルト=パウムは頬ずりする勢いで瓶に顔を近づけ、 「ああ、愛おしいイシェル! 貴女の存在全てが、私に勝利をもたらしてくれます!! そんな貴女の応援を受けて、何故負けなどありえましょうか!!!」 ハアハアと荒い息混じりの声音が、老若男女問わず魅了するモノでなければ、林道を通る者全てに不審者扱いされることなど構わず、熱に浮かされ喘ぎ囁く。 「私のイシェル。愛しています」 「有難う、私も貴方が好きよ」
「…………あのぉ、アルト=パウムの師匠?」
瓶を舐める勢いで絶頂まで到達したアルト=パウムの狂気を、一気に急降下させたのは、ずっと二人の後ろを歩いていた魔物、ジェスク・クルーグ。 アルト=パウムによって、半分の背丈になってしまった、人型の犬と表すのが妥当な彼は黒い瞳に困惑を浮かべ、 「さっきのジジイが、これを師匠に渡せって」 「うるさい犬ですね? はっ、手紙? 冗談は顔だけにしてください。何が哀しくて、みすぼらしい老爺の遺書など読まねばならないのです?」 「犬じゃありませんて……しかもあのジジイ、まだ生きてますよ?」 ジェスクが差し出した封蝋の手紙を押し返し、興ざめだと胸元に戻した瓶を撫でつつ、歩みを再開する。 しかし、肝心のイシェルがジェスクの方を気にしている様を認め、忌々しげに深々と溜息を吐き出してから、呼ぶ。 「どう……されました、イシェル?」 けれど効果はさほどなく、アルト=パウムを顧みずにイシェルはジェスクへ、 「ねえ、ジェスク? その手紙には、どんなことが書かれてるの? 私、手紙って初めて見るわ?」 「そうなんすか? や、でもこれ、師匠宛だし、おいらが勝手に開けちゃ不味いっすよ」 「でもアルトはいらないって……良いのじゃないかしら。ねえ、読んで?」 好奇心で輝く深く青い瞳は、ジェスクへ熱心に催促する。 極上の笑顔を向けるイシェルに、ジェスクは黒い爪で茶の毛並みに隠れた頬を掻きながら、手紙の封を切ろうとし――取り上げられた。 抗議もしない魔物の上がった視線の先には、不機嫌にひん曲がった口元。 踵を返してはにんまり笑って歩き出した。 ジェスクから奪い取った手紙をイシェルにひらひら振って見せれば、容易く彼女の視線はアルト=パウムへ戻ってきた。 「イシェル、興味がおありなら最初からそう仰ってください。貴女の願いならば、私が叶えますから」 「私が」を強調して微笑めば、イシェルは首を傾げて眉を寄せた。 「だってアルトは読みたくないって言ったわ? それじゃあ迷惑をかけてしまうもの」 「ああ、イシェル。貴女の願いを叶えられぬことこそ、我が不幸。死に損ないの手紙一つで、貴女の心を留めて置けるなら、生欠伸の百程度、苦になろうはずがありません」 「? 有難う、アルト」 長台詞の意味はよく分からないが、読んでくれるらしいことに礼を述べるイシェル。 にこり微笑む妖精に小躍りしそうな気持ちを抑えつつ、鼻歌混じりに封をぴっと切ったアルト=パウムだったが。 「ジェスク」 「…………え……あ、はい、お、おいらっすか!?」 出会ってから初めて呼ばれた名に驚くジェスクが、蹴躓きながらも駆け寄った。 無表情で隣まで来た魔物に手紙を渡し、 「しばらく、そのまま動かずじっとしてなさい」 「は、はあ……?」 言われた通り妙な格好で止まったジェスクを認め、次にアルト=パウムは全速力で走り出した。 「アルト!?」 「師匠?」 胸元の困惑を右手で押さえ込み、後ろの惚けた疑問を完全に無視して走り続ける。
ボンッ!
低くも大きな爆発音と爆風が、背後からもたらされて、ようやくアルト=パウムは立ち止まって振り返った。 舗装された道の片隅で、抉られた地から土埃がもくもくと漂っている。 幸い林道を行き交う人馬には被害がなかった模様。 「ほぉ……ただの薄汚い老爺と侮ってましたが……どうやら中々の術遣いだったようですね」 「ア、アルト? ジェスクは……?」 震える声に瓶に目を落せば、イシェルが怯えたようにジェスクの姿を探している。 内心で歯噛みしたい思いを半分、もう半分には邪魔が取っ払われた喜悦を巡らせつつ、表面には無表情を貼りつけた。 「ジェスク……そうですね、運が良ければ足くらいは残ってますかね?」 「……あ、足……? 魔物は足だけでも生きていられるの?」 涙に沈む瞳がアルト=パウムを見つめて問う。 その姿すら生唾を呑むほどだが、見つめる先が己であろうと涙の相手がジェスクでは、段々苛立ちが募ってきた。 幾ら世間知らずなイシェルとはいえ、足だけで生き続けられる生命などいないと、何故理解できないのか。 酷く傷付けるだろうが、ここはしっかり現実を刻んでやらねばならない。 でなければ、イシェルはいつまでもあの魔物を探してしまいそうだ。 務めて無感情に、無知を窘めるつもりで口を開く。 「まさか。足だけで生きるなど、魔物とて無理な話です。中にはそこから再生を果たす者もいるでしょうが、ジェスクはその類ではありませんよ」 一度切っては、ぽろりと流された涙に息が詰まった。 苛立ちと焦りでどうにかなってしまいそうな己を叱咤しつつ、 「イシェル……泣いても亡くなった者は還ってなどきません。本当に彼らのことをお思いなら、安らかなることを祈って進みましょう。大丈夫。貴女には私がいるのですから」 「アルト……」 揺れる瞳から幾度となく零れる雫を見つめては、小さな頬を舐め取りたい衝動に駆られる変態が、抑制した微笑みを浮べる。 安堵させるようなそれに、しかし、イシェルは眉根を寄せた。 「――彼“ら”って、誰のこと?」 「それは勿論、あの老爺のことですよ。実は手紙を開けた際に少し細工を施しましてね。極端な短呪故に致死とまではいきませんが、放って置いても死にそうな相手。自動的にジェスクの仇は討たれてしまうことでしょう」 これで心残りはないだろう、そんな意味合いを込めて笑めば、流石におかしいと感じたイシェルが怒った表情で、 「ねえ……じゃあもしかして、アルトは全部知っててジェスクに手紙を渡したの? アルトほどの術遣いなら、本当はあの手紙をきちんと処理できたのではないの?」 「…………流石は私のイシェル。愛くるしい顔して、中々どうして……怒った顔もそそりますねぇ。ああ、今すぐ食べちゃいたい」 ぼそり呟く不穏はイシェルには届かず、尚も顔を怒らせたままの小瓶の妖精を宥めるように、優しく撫でる。 「知って……はいましたが、解呪出来るかと問われれば、難しかったでしょうね。ジェスクに渡したのは……彼の方が私より丈夫でしたし」 しれっと答えた中に、嘘はない。 ただ、解呪も面倒だし、丁度良いから邪魔者一匹消えてくれないかな、と考えただけで。 イシェルに対してはどうも嘘の吐けない、いつもは詐欺師紛いのアルト=パウム。 野暮な本心をひた隠しに、頭を下げた。 「申し訳ありません、イシェル。本来の標的は私であったのに……私が、あの手紙を離さなければ、ジェスクは死ななかったかも知れません」 「……アルト……でも、それじゃあ貴方は? 私はこの瓶のお陰で守られるけれど」 答えず、哀しそうな微笑だけを返せば、イシェルが何かに勘付いて動揺し目を伏せた。 「私の方こそ御免なさい。……ジェスクには生きてて欲しかったけど、それじゃあ貴方が死んでしまう……酷い、無神経なことを言ってしまったわ」 「いいえ、愛しいイシェル。貴女が謝る必要はありません。全て私が悪い――」 「違うわ、アルトは何も悪くないもの。私が悪いの……私が手紙を読んで、なんて言わなければ……それなのに貴方に酷いこと言って…………御免なさい」 また涙を流し始めるイシェル。 けれどこれは、ジェスクのためではなく、アルト=パウムへの謝罪のため。 「…………犬、最期の最期で役に立ちましたね。褒めてやります」 低く口中で呟き、顔を覆って泣く妖精には見えないのを良いことに、陰惨な笑みを浮かべて、宥めるように優しく瓶を撫で付けた。 顔はそのまま、声音だけでイシェルを包み、苛む響きで、 『良いのです、イシェル。貴女がずっと、私と共に在り続けてさえくだされば。貴女が私をどう扱おうとも、私だけに心を捧げてくだされば、他に望むべくも――』 嗤い鳴りそうになる喉を必死に堪え、言葉の裏に巧妙に魔力を乗せる。 イシェルが一度でも頷けば、彼女をアルト=パウムへ縛り付ける、魔性の呪術が小瓶を妖しく色めかせる。 顔を伏せ、哀情に駆られるイシェルは、その変化に気付かない。 『――ありません。ねえ、私の愛おしいイシェル? 私に貴女の心を全て、くださいますか?』 「アルト……」 掲げた小瓶の中で、妖精が顔を上げた。 頷く雰囲気充分な様に、最早堪えきれずぺろりと唇を舐めた。 そんな獲物を待ち構える様子など、歪む視界のイシェルに捉えられるはずもなく、頷き――かけ、
「ぐっ、げ、けほっ、ひ、酷いっすよ、師匠ぉ」
納まった土埃の中から、走ってくる小柄なジェスクは、毛先が若干焦げた程度。 「ジェスク!!!」 アルト=パウムへの謝罪などすっかり忘れたイシェルが、喜びに涙を浮かべ、茶色い姿を迎えた。 「ちっ、犬はどこまでも犬ですか……使えないにもほどがあります。褒め損ではありませんか」 これを受けてアルト=パウムは、練りに練り込んだ術が瓶から剥がれ、宙に分散するのを憎々しく見つめては、思いつきに一つ、右手の指を立てて回す。 言葉もない中、刺青が蒼く発光し、分散した術が別の術へと変化した。 ぴたりと指の動きを止め、後ろへ一度引いては、軽く投げるように前へ投じた。 おどろおどろしい、情念混じりの術は、ジェスクの上を通り過ぎていった。 鼻で笑って、魔物が着く前に最初の進行方向へ歩を進めれば、 「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああ――……」 「な、何!?」 「何すか!?」 後方からの凄まじい悲鳴に、妖精と魔物が飛び跳ねた。 びくびく怯える小瓶を優しく撫でて、 「さあ、何でしょうかね? 品のない……」
アルト=パウムは昏く、くすくす――嗤う。 |
UP 2008/2/11 かなぶん
修正 2008/7/2
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