復讐の隠蔽 3

 

「…………私もですよ、とは……もう、言ってくれないのね?」

 枕元の柔和な光が薄暗い陰影を落す室内で、息も絶え絶えに吐かれた台詞へ、薄絹を纏い終えた男は答えず、小さく呟く。

『力の名・室の香・空虚なる風・空蝉の風韻・浚え・悦楽の回廊――』

 途端、男を中心に部屋に涼やかな風が巻き起こった。

 これを嫌って女が薄い夜具で体を包んだ。

 風が止み、ようやく振り返った男に、女は薄く笑う。

「嫌な男。久々に会って随分情熱的と思ったら……女でも出来たのかしら?」

 揺らめく橙の光を受けて、女の白い腕が男へ伸びる。

 手を取るよう促すでもなく、男の姿を宙で撫で付けては、酷薄な笑みを浮かべた。

「薄情者。そうまでして痕跡を消す相手なら、そっちに行っとけば良いのに」

 これに対し、男はおどけた仕草。

「ええ、勿論。可能であれば、全身全霊を込めてお相手願いたいところです。しかし――これが中々難しい方でしてね」

 女と接した時には吐かれなかった、熱い息が美しい声音と共に宙を舞う。

 嫉妬の情も湧かず、女は呆れた口調で首を傾げた。

「あらまあ、苦戦してらっしゃるのね? 貴方にそこまで言わせるなんて、どんな聖女様かしら? それとも悪女?」

「そうですねぇ……容姿は可憐にして繊細。しかして触れれば焦がれる前に毒されてしまう。気質は清楚であり淑徳の体現。ですが、こちらが幾ら愛を囁こうとも、決して酌んでは下さらない」

「ふふふ……貴方みたいね、その人。お似合いだわ」

 老若男女問わず魅了する詩よりも、高らかに謳い上げ陶酔する様を評せば、男は優雅に一礼をした。

「何よりの褒め言葉です。では――」

 素っ気なく背を向ける。

 一時でも類を見ない熱を注いだ相手に、些か冷た過ぎる反応だが、女の方とて言うほど縋る気はない。

 ただ、充足に欠ける言葉に拗ねた素振りで問う。

「ねえ? 一度だけ、言ってくれないかしら? 前みたいに、私も愛してます、って」

 心底呆れた溜息が男から零れ、再度振り返ったのを見て、女は悪戯っぽく笑った。

「ダメ?」

「……偽りの愛など、真実の愛を口にしては色褪せてしまうものです。もうその語り方さえ忘れてしまいましたよ」

「本当に貴方って、薄情で嫌な男ね?」

「それも、褒め言葉と受け取っておきましょう」

 露出する口元だけで微笑む男へ女は諦めて手を差し伸べた。

「私は、愛してるわ。貴方が誰を想っていても。刻んだ日々はあるから、いつでもおいでなさい?」

 艶めく誘いに男は応えなく軽い一礼。

 今度こそさよならと、去る背を見つめる女だったが、

 

「――――!!」

「べっ!!」

 

 勢い良く開かれた扉に男が顔面を打ちつけた。

 

 あまりのタイミングに女は呆気に取られ、一転、体を折って笑う。

「な、何、その犬っころ! 貴方の連れ!?」

 ひひひと笑う女に忌々しいと歪む口元を見せ、纏わりつく小柄な茶色の魔物を蹴りつける男。

 顔を押さえるにかなり痛かったらしい。

 けれど人型の犬姿の魔物は転がされようとも構わず、必死に男の薄絹を掴む。

 更に蹴ろうとする男に対し、女は気付いて止めた。

「ちょっと待って。とりあえず、その魔物の封じを解いて上げなさいよ。手足、血塗れじゃない」

「……ああ、今、気付きました」

 それでも蹴って転がし、血がべったり付着した薄絹に嘆息、指を一つ立てて短呪を唱えた。

 途端、起き上がった魔物が声を取り戻した。

「ううう……酷いっすよ、師匠。娼館巡ってもいないし……普通、同じ宿にはいないもんでしょう?」

「だから、どうだというのです? 大体、その様は何ですか? 緊縛の術を掛けておいたはずなのに……何故その程度で済んでいるのか、説明して頂きましょうか?」

「貴方……ここは術解いてまで、捜しに来た理由を問うべきでしょうが」

 女の言葉に、男は鼻を鳴らして魔物の言を急く。

「で?」

「そ、そうだ、大変です、アルト=パウムの師匠! イシェルの姐さんぐぁあ!?」

「い、イシェル!? イシェルに何があったというのです!?」

 男は名に素早く反応し、魔物の胸倉を掴み上げて、がくがく揺さぶり出した。

 今度ばかりは掛ける言葉も見当たらず、女は驚愕のまま男を見やる。

 こうして会うのは一度や二度のことではないが、男がここまで切羽詰るのを見るのは初めて。

 大抵、果てた女の回復も待たず、用が終われば柔和な笑みを携え去るのに慣れていたため、こんな人間臭い一面が在ったのかと、衝撃的な場面に興味が湧いてきた。

 この男をしてここまで至らしめる女とは、どんな人物なのか、と。

「ねえ、アルト=パウム、離してやんなさいよ。それじゃあ喋れないわ」

「あ……わ、私としたことが」

 女の声に少しは我を取り戻した男だが、咳き込む魔物の回復を待ちきれず、結局肩を揺すり始めた。

「それで!? イシェルがどうされたのですか? 早く喋りなさい、この犬!」

「い、犬じゃなくてジェスク――はこの際いいや。大変なんす、イシェルの姐さんが、昼間のジジイに攫われて」

「なっ!? そ、それでお前は黙って見ていたというのですか!?」

「無茶言わないでください。師匠の術、人間にしちゃ解くの滅茶苦茶難しいんですよ?」

「そんなもの、気合と根性で素早くなさい!」

 ビシッと指を突きつけて魔物を罵倒する姿に、女は艶めく紫の目を剥いた。

 気合と根性――口にするのさえ、ここまで似合わない輩がいようとは。

 そんな女の感想を他所に男はうろうろ動き始める。

「あの老爺……まさかアレを受けて生きているとは……見くびり過ぎましたか。ああ、しかしイシェル! 何故貴女が狙われねばならないのです?」

「そりゃあ、アルト=パウムの師匠の大事なお人だからでしょう?」

 応えが返れば、男はこれを蹴り飛ばした。

 緩めず足蹴にしながら、

「大事と分かっているならば呑気に構えてないで、捜そうとは思わないのですか!?」

「し、師匠だって、おいらに構ってないで、捜したらどうです?」

 幾ら蹴られても、呻きも痛がりもしない魔物の言葉に、男ははっとして固まった。

 逡巡数秒――のち。

「エリザ! 捜し物、頼めますか?」

「やれやれ、今度は身体じゃなくて能力目当て?」

「悠長に言葉遊びしている時間はありません! 一刻も早くイシェルを変態から救わねば!」

 燃え滾るのは結構だが、変態はどっちだ、と半眼で睨みつつ、銀の髪をかき上げてはもう片方の手の平を上に突き出す。

 一呼吸をすれば、意を酌み現れる水晶。

 髪に触れた手を口元に翳し、「イシェル」と吐息混じりに告げれば、透明な風がその指に絡みつく。

 内心で目を見張り、これを水晶に撫でつけた。

「……でも、アルト=パウム? 貴方の術で飛んだ方が早くない?」

 手は絶え間なく探索の場を映す水晶を滑り、範囲を宿から町に延ばす。

 丹念に探す中、男は首を振って、

「駄目です。彼女の小瓶が反応する可能性が高い。あれは非常にデリケートですから。だからこそ、遠く離れてはいけない。……どちらにせよ、離れる気も放す気もありませんけど」

 聞かせないためなのか、低くトーンを落とした最後は、きっちり女の耳に残った。

 これには女が一度、身を震わせた。

 己に向けられればどんなに甘く響くか分からない声だが、対象でない者にとってはおぞましい呪術めいたソレ。

 と、水晶を滑る指に何かが引っかかった。

 示されたのは、この町の北東の古宿が立ち並ぶ一角。

 ここからだと真逆の位置だ。

 そのまま伝えれば、男は懐から重い袋を投げて寄越した。

 中を覗けば金貨は勿論、宝石や女のような占術師には打ってつけの品々。

 顔を上げると男は最早居ず、蹴られ続けていた魔物もいない。

 閉められた部屋で残された女は、遅れてやってきた寂寥感に吐息を零して、水晶を数度撫でる。

 その度拡大される古宿、内部。

 映し出された姿は、小瓶に入った愛らしい容姿の妖精と、薄汚い白衣と根暗な黒衣。

「ふぅん? これが、イシェル?」

 相手が人間でないのには驚いたが、妙に納得してしまう。

 あの男が好くのに生半な人間では釣り合いが取れないだろう。

 彼を受け入れる側には、それなりのリスクが伴うのだ。

 だからこそ、女を満足させられるとも言えるが……

 もう一度撫でて拡大し、現れた妖精の顔をもっとよく眺めるべく、女が顔を寄せた。

 あそこまで男から想われる相手に、女は艶めいた微笑みを浮かべ、水晶越しにその頬を舐める。

「んふ、可愛い」

 呟き、次は口付けでも、と寄せた目に、妖精の目が重なった。

 きょとんとした表情。

 別のどこかを見ているとも考えるが、それにしては真っ直ぐ射抜く藍の瞳。

 虚を衝かれて見つめるだけに留めていれば、こちらへ首を傾げ、唇が動いた。

 ――あなた、だれ?

 奥に好奇心を携えた眼に、慌てて女は水晶を手の平から消す。

 知らず上がる息に胸を押さえれば脈が速い。

「あれが……イシェル……凄い……流石はアルト=パウム、お眼が高いわ」

 一つ大きな伸びをし、女は柔らかなベッドに仰向けになった。

 男の魔法により、湿っぽさも温もりも、残り香さえも失くしたベッドだが、それでも心地良い疲労感に女はくすくす笑う。

「でも、大変。貴方以上に厄介だわ、彼女。……“祖の果”…手綱を握るには、貴方はまだまだ軽い」

 ごろりと横を向いては、男が居た場所を慈しみ撫でる。

「愉しみだわ……貴方が全身全霊を込めても、果たして彼女は貴方の想い通りに動いてくれるかしら?」

 笑みを深め、撫でた箇所に唇を落す。

「――私“たち”みたいに貴方を望むかしら?」

 うっとりと何度も唇を寄せ、最後は少女のように笑って、女はまどろむ。

 

 

 

 薄絹を重ねた走る背へ、ジェスクは少しだけ、言い様のない不快を浮べた。

「師匠……あの女、占術師っすよね?」

「……イシェル、待っていてください。ああ、私のイシェル!!」

 全くこちらに耳を貸さないのへ、そっと溜息を吐き出す。

 アルト=パウムの緊縛の術を無理矢理解いた傷は、魔物の治癒力によって薄皮一枚まで回復している。

 これを眺め、背を眺め、もう一度息を漏らした。

「……素人って訳じゃないでしょうが……そっち方面の玄人ってのも違うよな……」

 占術師を営む者の中には、アルト=パウムとエリザのような関係を金銭を絡ませ行っている者もあると聞くが。

「師匠、付かぬ事をお聞きしますが、一体幾人、ああいう女がいるんです?」

 イシェルがアルト=パウムと行動を共にする前から、弟子入りを志願してきたジェスクは、度々彼のそういう行動を目撃していた。

 邪魔する趣味はないし、覗くような興味もないが、小瓶をぶら下げてからの頻度は増す一方で、よく尽きないものだと思っていた。

 けれどアルト=パウムは動揺すらなく、叫ぶ。

「愛しいイシェル、今行きます!」

 完全に酔った口調。

 つい先程まで一緒にいた女の影など微塵も感じさせないソレ。

 ここでぼそり、ジェスクは囁いた。

「……答えてくれないなら、イシェルの姐さんにバラ――ととっ!」

 急に立ち止まっては間髪入れず、繰り出された足を避ける。

 盛大に舌打ちする様へ、

「聞こえてるんじゃないですか」

「……で? この忙しい時に何を聞きたいと言いましたかね、犬」

 非難を鼻で払って、また走り出す背を慌てて追い、

「師匠って選り好みありますよね? 誰でも良いって訳じゃないんでしょう? でなけりゃ普通、あんなに魔力の強い女、分かってて誘いません。自殺行為じゃないっすか」

「……伊達に長くは生きてない、ということですか」

 嘆息混じりの返答を受け、ジェスクは眉を寄せた。

 幾らアルト=パウムの術の腕が尋常ならざるものとはいえ、拮抗とはいかずとも魔力の強い、それも己の先を知覚できる占術師の相手など、弱味を握られる可能性が高い。

 他種の意味合いを含め、じっと背に視線を送る。

「一体、幾人、ああいう女がいるんです?」

 同じ質問をし、待っていれば、再度嘆息が漏れてくる。

「質問の多い犬ですね。でもまあそうですね、選り好み、勿論ありますとも。でなければ、誰があのように我の強い女性たちを相手にしますか」

「え……? 師匠から口説いた訳じゃないんすか?」

 てっきりお得意の詩でも用いて、引っかかったのを言葉巧みに誘っていたのだと思っていたジェスクへ、アルト=パウムは困惑を背に漂わせた。

「私が口説いているのはイシェルだけですよ? 応えてというから応える時もありましたが……」

「じゃあ、選り好みの基準って?」

「私にとって有益か無益か、だけです。その都度手を出してみなさい、これが生娘でもあったなら、考えるだけで恐ろしいでしょうが。打算と駆け引きが出来るこすい女性しか、私は相手にしませんよ」

 ここで一つ、物憂げな息を零し、

「尤も、イシェルに関しては、私が初めてであって欲しいと切に願いますが」

 それ依然に想いが欠片も伝わっていない現状を嘆け。

 本心はぐっと堪え、ジェスクは、では、と問う。

「じゃあ、あの手の女は幾人もいない?」

「……数、ですか……そうですね……私とイシェルが他に邪魔されず暮らすためには、誰人も――魔物すら知らない未踏の地が必要、ですかね?」

「……………………………………………………………………………………………………」

 察するに、種の分別なくエリザと同じ関係を持っているのか、この男は。

 しかも数すら数えられぬほど、多くと。

 だからこそ、年端もいかぬとはいえ、師事するに値しようものだが――

 

 走る速度はそのままに、ジェスクは少しだけ言葉を失ってしまった。

 

 


UP 2008/3/24 かなぶん

修正 2008/7/2

 

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