声は己を部屋だと名乗った。 一瞬思考が止まっては、背を預けていた壁から飛び退いて、床に降り立つ。 『……やはり恐ろしいか……』 「やー……恐ろしいっていうか、ねぇ?」 枕を抱えたまま頬を掻けば、殊更切ない声が上がった。 『……私を拒絶するのか……お前も』 「も?」 促せば座るよう言われ、大人しく座ってみせた。 逃げ出さなかったことに安堵の息がどこからか漏れる。
部屋と私 後編
声の言い分では、意識を得た直後、暮らしていた者に素気無く存在を拒絶されたそうな。 まあ、普通、そうだろう。 その際、投げつけられた物が壁を小さく穿ち、声の感覚の全てを奪った、らしい。 つまり、 「……私の前の住人って、全員、ずぼらだったのかしら?」 誰一人、壁の穴に気付かなかった事実に、ただただ呆れていれば、また背後からそっと、抱き締める気配。 身を捩れば耳元に声。 『恐ろしかった……感覚が取り戻されるまで、意識だけ、取り残されて……お願いだ、私を拒絶しないでくれ』 困ったことにこの声、かなり私好み。 背筋を這うようなときめきが気持ち悪くて、慌てて気配を振り払った。 「ちょっとタンマ! 待って、私、すっごい混乱してる」 どこにいるとも知れぬ、というかこの部屋自体が声の本体であるなら、どこに向けても同じと手の平を壁に向ける。 しばし、沈黙。 私は、休日。世間は、平日。 ならば―――― 「よし、病院に行こう」 『何故だ?』 「いやいや、きっとこれは耳の病気か、頭の病気。もしくは精神を病んでしまったのね」 『私の存在が嘘だと?信じてくれ、私は――』 言い募る声なぞ無視して着替えを開始、はた、と止まって、 「あ、貴方には性別あるの?」 『……存在を嘘だと決め付けるくせに気になるのか? 第一、私が感覚を取り戻してから幾日過ぎてると――』 「うああああああああああああ!!」 充分だ。 顔を真っ赤にしつつも、これは幻聴と言い聞かせて着替え、適当な物を見繕って部屋を後にする。 しっかり鍵はかけて。
結果・正常。 特に、精神科の医者へは幾度も、自分は本当に異常なしなのかと問えば、やっぱりダメかも、なんて当てにならない診断結果。 少し考えれば、あんなに詰め寄って、己を疑ってかかる輩など、果たして正常といえたものかどうか、私も分かるだろうに。 反省しても、もう遅い。 無駄に掛かったとしか思えない診察料が、給料日前の財布を直撃して終わったのだから。 けれどあの部屋にこのままノコノコ帰る気にもなれず、目に付いた霊能関係の怪しい看板。 良い案を思いつく。 馬鹿高い料金には手が出せずとも、ソレ系に過敏な奴がいたのだ。 確か、肝試しに廃工場なんぞに連れられたがために、今現在もソレ系に悩まされ、付き合った彼女まで被害をこうむっているという、曰くつきのが。
「よお」 呼べばすぐに来た男は、やたらと軽い印象を与える格好。 今も悩まされていると聞いていたから、もっと、こう、悲壮感漂う可哀想なのを想像していた。 「……あんたさ、本っっ当に、使えるの?」 「酷い言い様だな? こちとらお前の要望に応えるために、苦手分野へわざわざ首突っ込みに来たんだぜ?」 並んでは肩を抱かれ、これを払えば「ひでぇ」と笑う。 しくじったかなぁ…… コレを部屋に入れるのは、本来なら御免だが、非常事態、仕方ないこと。 鍵を開ける際にも、口笛を吹いたり、「雰囲気あるねぇ〜」と茶化したり。 こっちはマジなんですけど、そんな意味合いを含めつつ通せば、 「うわっ、すっげぇ……」 「え、やっぱり何か――」 連れてきた効果が早速、そう期待すると、 「女っぽい部屋だな……うん、好み」 何を考えているのか、じろじろ人の部屋を物色するように眺める。 頭痛を抑えて、一応客だと茶を入れる。 「あ、俺コーラ」 ……少しは遠慮しろっ! 内心で「使えない奴め」と毒づきながらも、コップへ注ぎ、勝手に陣取ったテーブルに置いてやった。 「で? どう?」 飲んだら帰れ! の勢いで半眼で聞くと、にやっと意味深な笑み。 おっ!? と好感触を期待すれば、 「いーや、全っ然、そんな感じはねぇよ」 ああ、そうですか。 半ばがっくりと項垂れ、最後の縋る所も尽きたなぁ、と背を向けた途端、ぐっと腕を乱暴に引かれた。 短い悲鳴を上げ、ソファに倒れ込み、何事かと目を開けばにやつく男の顔。 「な、何? 何もないんでしょ、帰っていいわよ、有り難う!!」 「なんだよつれない。どうせ口実だろ? 家に幽霊いるかもしれないから、怖くて帰れないの、一緒に来て、なんて、可愛い手使いやがって」 待て、この、どういうつもりだ!? 問うより早く、 「俺もさ、随分前からあんたのこと狙ってたんだよ。だから今日は嬉しかったぜぇ? そんな親しくもなかったのに、いきなり部屋に呼んでもらってよ」 「か、勘違いよ、勘違い!! 私そんなつもり――」 「照れるな照れるな。俺はあんたなら大歓迎だぜ。任せろ」 暴れても気にしない体。 衣が裂ける音。 一瞬過ぎったのは、涼しい財布が更に涼しくなる予感。 いや、違う、ここはそんな場面じゃない! 「や、だ、助けて! 誰か――!!」 「まーたそんなこと言ってくれちゃって、可愛いった……ら…………?」 素肌を弄る手が止まる。 涙に歪む視界、何事かと男の顔を睨めば、青白く、固まっていた。 がちがち歯が鳴る。 「な、待て、嘘だろ、おい、本当、か? だって……さっきまで何も……」 ぎこちない動きで右――男からだと左――を向く。 「ぎゃあああああ!?」 上から飛び退いて壁に身を捩る男。 肌蹴た上着を掻き集め、乱れたスカートも整えながら、尚も男が涙目で見る先を追う。
…………………………………………………………………………………………………何もない。
けれど男はずっと「許してくれ許してくれ悪気はなかったんだ」と、何か相手に懺悔し続けている。 視線が動く。 何かが近付いているかのように。 「わ、るか……ひぃっ!!!」 気を失う直前の酷い動揺を抱えたまま、男は数度壁に激突しながら出て行った。 一体何だったのか、助かった実感も大してなく、 「え……へ、部屋?」 『……大丈夫か?』 労わる声が響く。 茫然とした面持ちのまま、 「っと……アレは貴方が……?」 『…………雲行きが怪しかったから、奴を追ってきた気配を招いただけだ』 物凄く不機嫌な答えが帰ってきた。 それでも「助けてくれて有り難う」と感情も籠めずに発すれば、深い溜息。 頭を撫でる“視線”。 『私の存在を否定したい気持ちは――悲しいが、分かる。しかし、だからといって容易くあのような者を招くものではない』 「…………うん、御免」 ぼたり、大粒の涙が絨毯に染みる。 慌てる気配に、謝り続け礼を続けながら、馬鹿みたいに泣いた。
そうして問題は何一つ解決せず……いや、かなり悪化した状態で、ずるずると今に至る――
『大体お前、私というものがありながら、他の部屋を探すなど』 「もう、分かったって。テレビの音が聞こえない!」 『……普段はこんな番組見ないだろう』 確かにそうだが、毎度毎度の愚痴を、どうして大人しく聞いていられようか。 空になった皿の先、画面のコメディアンが笑いを誘うのを見ては、溜息しか漏れず。 「ねえ、本当、御免なさい。だからもう許してよ」 虚空に心底反省した風を装い、多分に媚を含ませる。 すると声は急に威力を弱めた。 『本当だな……もう、他の部屋は探すな。お前には私がいるんだから』 髪の先をくすぐる感覚。 彼氏気取りの声に、内心では苦笑しつつも、顔は真摯に、 「勿論よ。もう探さないわ」 しれっと嘘を付く。 声はその後も何度も何度も、しつこく尋ね、その度、私は殊勝に応え――――
「だーかーら!!! 探さないってば、もう!」 『本っっっ当か? 本当に? そう言ってまた探す気だろ?』 「うわ、うるさっ! あんまりうるさいから、やっぱり探そうかしら!?」 『っ!!! ほら見ろ、やっぱり探す気なんじゃないか! 私がいるのに!!』
悲壮な嘆きと縋りつく“視線”の感覚に、心の奥底で、深い吐息が漏らされる。
だって仕方ないじゃない? 貴方の“視線”と声を受け入れてから、治らない病があるのよ。 新しい部屋を探さなくちゃ、私、ずっと病んだままだわ。
ねえ、部屋に心底“惹かれる”女なんて、病み以外の何ものでもない、でしょう? |
あとがき
これも甘いと言えるのか否か。
思いの他設定ツボったので、オムニバスで展開していきます。
いやあ、イタイです。
2008/1/19 かなぶん
修正 2008/4/23
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