――私と仕事、どっちが大事だって言うのよ!! 貧相な声を上げて、テレビの中の女が恋人に向かって叫ぶ。 馬鹿じゃないの、と多分に意味を込めては鼻白む。 私、鈴野遙はドラマとはいえ、こういう女が大嫌いだった。 いいじゃないか別に、仕事が大事、結構なことだ。 大体、自分だって仕事してるくせに、甘っちょろいことを言うんじゃない。 ほら、男が困った顔をしてるでしょ? 仕事が大事でも、あんたの元に帰ってくるんだから……良いじゃないの。 過ぎった失恋の思い出に、チャンネルを変えようとリモコンへ手を延ばしかけては、上から声が聞こえて来た。 『…………なあ、はるか』 「んー?」 『私と仕事、どちらが大事だ?』 チャンネル変更を免れたテレビの中では、男が丁度、「勿論お前だ」と言いくさり、感極まった女と抱擁を交わしていた。
仕事
雑誌で、この後男の浮気が発覚、一騒動起きるのだと知ってる身としては、笑いの一つでも零したいところだったが…… 『…………無視、するのか?』 髪を弄くる“視線”といじけた声に、我に返る私。 ちょっとばかり、動揺してしまった。 「いや……何、突然?」 声が聞こえて来た虚空に向かって話しかける。 端から見れば頭のおかしい女だが、なんとこの声、他の人にも聞こえるのだ。 同僚の佐々木由美と会話してみせたのだから、間違いなかろう。 彼――かどうかは今もって判別し難いが、この低い声と“視線”の持ち主は、自身を部屋と名乗り、同棲してる風を装うこと、しばしば。 ……まあ、良いのだけれど。 うっかり部屋なんぞに惹かれちゃった、病んでる私としては、そこら辺はあまり関係ない。 困惑に眉を寄せていれば、 『……勿論、私だろう? なんたって、私ははるかの居住空間、憩いの場だからな!』 えっへんと胸を張っていそうな声。 内心では声の低さの割に幼い調子がおかしくて苦笑が漏れる。 けれど、私は肩を竦めてから、 「そんな訳ないでしょ? 部屋は代用が効くけど、仕事は離れると再就職難しいんだから。家具の一切ありゃ、部屋なんてどこでも――」 じぃーっと、いじましく見る“視線”を感じる。 ああ、駄目だ。またやってしまった。 ここは大人しく「そうね」とでも言ってやり過ごしときゃ良かったのに。 『……私より、仕事が大事なのか? 私は、ここにしかいないんだぞ? ほ、他の部屋の方が良いというのか?』 髪を質感ある“視線”で撫でつけ、どんどん気弱になっていく声に、今日はまた随分、重症なのだと知る。 幽霊ではないという部屋は、意識を得た時、住んでいた者に拒絶されたそうな。 普通はそうだろう、と私も思う。 その際、物を投げつけられた部屋は、傷ついたせいで意識以外の感覚を奪われ、たまたま私にその傷を修復されて、感覚を取り戻したわけだが…… 「あー……悪かったわよ。冗談よ、冗談。貴方が一番です、大事ですよぉ?」 上目遣いでどことも知れぬ箇所を見れば、声が呻き“視線”が腕を捉える。 『ほ、本当だな……? 私の方が大事だと、その言葉に偽りはないな? い、一番大事で良いんだな?』 うるさい、上に、しつこい。 半眼になりかける自分を抑えて、無理矢理笑顔を引っ張り出す。 完全な愛想笑い。 けれど声は満足したように、ほっと安堵の息を吐く。 拒絶された故か、この部屋は蔑ろにされる言を嫌う。 冗談でも通用せず、何気なくとも怯えたり怒ったり…… なんて面倒臭い。 内心のみでそう呟けば、点けっぱなしだったテレビの中で、浮気男が女に平手打ちを喰らっていた。
翌日の朝。 「んじゃ、行ってきます」 一応はおざなりに部屋に向かって挨拶。 さあて、今日も一日頑張りますか、そんな風に思って鍵を開けようとするが、 「……あれ?」 幾ら捻ってもビクともしない。 ちょっと待って、嘘でしょう!? 廃れたアパートとはいえ、繁華な街並みの一角にあるここからでは、駅まで徒歩五分。 だからこそ、いつも余裕をたっぷり持って出ていけるのに。 いつでも人を招けるくらいには綺麗な私の部屋より、ピカピカした鍵が開かないなんて。 しばらく物言わぬ鍵相手に格闘すれば、後ろから楽しげな声。 『鍵が開かないなら、今日は一日、私と過ごせば良いだろう?』 「はあ? 貴方、何言って――」 『だって私は、はるかの大事な部屋なんだから。仕事より大事、一番大事♪』 やけに明るい、妙な節がついてくる。 嫌な予感。 ぎくしゃく振り返りながら、ひきつる口からどうにか言葉を発する。 「……あ、貴方、もしかしてこの鍵……開かないように、したの?」 まさか、そんな、と思えば、 『ああ、そうだ。だが構わないだろう? 私は仕事より大事なんだから、鍵なんか開かなくたって。はるかには一番大事な私がいるのだし――』 「ぶぁ――――っ!!!」 こ、言葉が出てこない!!! 二の句も告げられず、何度かぱくぱく口の開閉を繰り返していると、“視線”が甘える素振りで絡み付いてきた。 『ほらほら、はるか! 今日は一杯お話しよう? いつも日中いないんだから、今日は私と飽きるまで――いいや、飽くことなくずっと、一緒にお話しよう!』 肯定しか返ってこないと、そう信じてる口振り。 電車が来るまであと七分ほどだろうか……? ぐいぐい部屋へ戻そうとする“視線”を無言で振り払う。 『? はるか、どうしたんだ? お話――』 「――っ! 貴方は馬鹿!?」 朝から自室に向かって叫ばねばならないとは。 頭の痛い思いに駆られながら、怒鳴られた意味が理解出来ずに、“視線”がおどおど纏わりつくが、これも無碍に払ってやる。 『は、はるか? どうしたんだ、一体。今日は私と一緒に――』 「出来るわけないでしょう!? 平日よ、出勤日なのよ!? なんで呑気に貴方と喋ってなきゃいけないのよ!?」 『え……? だ、だが昨日確かに言ってたじゃないか、私の方が仕事より大事だと。だから私は――』 「アヤよ、アヤ! あれは言葉のアヤなの! ああでも言わないと貴方、グチグチいつまでもうるさいじゃない! 私は仕事が一番大事! お分かり!?」 『そ、そんな……』 伸ばされる“視線”を振り切って、扉をぶち破る勢いで蹴る。 スカートなぞこの際構ってられるか! 「分かったらコレ、早く開けなさいよね!!」 応じるまでガスガス蹴りつける気でいれば、“視線”が急に遠退く気配。 不審に思って部屋を振り返る。 『嫌だ……今日はるかは、私とお話するんだ……そう、決めたんだから』 「はあ!?」 『いいや、今日だけじゃなくて、この先ずっと、私と一緒に居てもらわなければ……お前に拒絶されたら私は……』 そっと、抱き締める“視線”。 縋りつくソレは無碍に出来ず、黙って受け入れる。 けれど私には、休むなんて選択肢は最初からない。遅刻も同様。 大仰な溜息を一つだけ吐けば、“視線”がびくりと揺れた。 それでも放さないのを知っては苦笑が一つ漏れる。 『……はるか?』 「良いわ。今日は一緒にいてあげる。ううん、何日でも」 『本当か!?』 途端嬉しがる声に、打って変わって、ふっと視線を逸らして自嘲気に笑い、 「でも知らなかったわ。貴方がそんなに私を嫌ってたなんて」 『……へ?』 虚を衝かれた声に、かかった! と内心ほくそ笑む。 「だってそうでしょう? 仕事しなくちゃ、私はお金無くなるし? ここ、追い出されちゃうわね、確実に。そうすれば世間的に駄目女として、一生過ごすことになるんだわ。どう? 満足かしら。あーあ、私は貴方のこと気に入ってたのに、残念ね?」 投げやりに、苦笑混じりに、部屋に視線を投じてやれば、慌てる気配が後に続く。 『ち、違う、私はそういうつもりで――』 「あら変なこと言うのね? 今は私の部屋でも、所詮は賃貸。ここを借り続けるための、大事な仕事だったのに」 『借り続ける、ための……大事な……仕事……?』 いや、本当は仕事が大事ってだけなんだけどね! 部屋に“惹かれてる”なんて病みを治したい身としては、その内出て行くつもりなのだから。 決してこれは口に出さず、部屋の反応を窺う。 ……電車が来るまであと三分ほど。 ヒールの低いパンプスだから、走ればまだ間に合うはずだ。 早く開けなさい! と言いたいのをぐっと堪えて、待つ。 恐る恐るといった感じで、髪を撫でる“視線”。 『……つまりそれは……やはり私が一番大事という意味か?……仕事が一番大事なのは、私とずっと一緒にいるために必要だから……そうなのか?』 よくもまあ、そこまで自分に都合良く解釈できるものね? 答えは避けて、歪な笑みだけ、視線を横にして浮かべてやる。 まるで、「ええ、そういう意味だったのよ」とでも言うように。 ふふふ……後でこれがただの方便だったと気付いても、勝手に察したのはそっちなんだから、責められる謂れはないわよ? ずっと嘘つきと非難され荒んだ心でそんな風に思っていれば、そっと、触れる“視線”。 『……すまない。お前の気持ちも分からなかった、私を許してくれ』 …………うわあ……い。 鍵の開く小さな音が後ろから聞こえても、身動き一つ出来ない私。 愛おしいと全身を包み込む柔らかな“視線”に言葉も失くしてしまう。 端から見る己はなんて間の抜けた姿だろう、と想像しなければ、策を講じた通勤さえ断念してしまいそうだ。 『許して、くれるか?』 「も、勿論」 耳元で吐かれる台詞に喘ぎに似た声音で応える。 ほっとした息が一つ漏れ、そっと離された。 自分の熱でくらくらしていれば、 『……では、今日も私は待つとしよう。なにせ、お前とずっと一緒にいるために必要な仕事なんだから』 髪を撫でる“視線”に柔和な声が重なる。 が、働かない頭で時計を見れば、電車はとっくに過ぎ去った時間。 「……駄目だ。遅刻確定だ」 『へ?』 「あーあ……社に電話しなきゃ……給料に響かなきゃいいけど」 がしがし頭を掻きながら、熱を逃がすつもりで部屋に戻る。 『わ、私のせいか? す、すまない、はるか。今度からは絶対、こんなことはしないから、許してくれ』 一生懸命繕う声と“視線”が後を追ってくる。 だけど、なんだか妙に嬉しそうな響きが含まれていて―― 結局、次の電車が来るまでの十分間、部屋の望み通り、私は退屈だろうからとお話とやらに付き合わされた。 “視線”はずっと、触れたまま。
見送る声に、少しだけ睨んで言ってやる。 「……今度こんな目に合わせたら、絶対出てってやるんだから」 『そ、そんな…………』
こいつ……実はもう一回くらいやろうとか考えてたの!? |
あとがき
「部屋」は頭が悪いのではなく、純粋。
だからといって「私」が一枚上手、というわけでもなかったり。
2009/1/30 かなぶん
修正 2009/5/13
Copyright(c)2009-2017 kanabun All Rights Reserved.