暮れなずむ色彩の中、電車の揺れを引き摺ったまま、とぼとぼ私が帰ってきたのは、繁華街に面しているくせに、そのせいで増してボロボロに見える、白いアパート。 中央に設置された、申し訳程度にトタンの雨避けがある、錆付いた手摺り付階段を上がり、突き当りを右に曲がった一番奥の部屋が、私の城であり、憩いの場だ。 部屋の扉に着くと、買い物袋を肘に引っ掛けて、バッグから鍵を取り出した。 外装は古さを惜しげもなく晒したアパートだが、大家さんから渡されたこの鍵は、扉につけられた鍵穴部分同様、新品そのものの輝き。 その同じ銀色同士を再会させ、ぐっと回せば軽い音。 鍵が開いた事を知らせる、かしゃんっという金属音に合わせ、鍵を握る私の手から紐が落ちた。 その先に付いた鈴が、紐の長さで宙に弾めば、しゃんっと小さく鳴く。 「お」 なんともなしに声を上げた私は、引き抜いた鍵を持ち上げ、紐の先に付いた小さな鈴を眺める。 錦とでもいうのだろうか。 赤白金銀の糸にアクセントとして黒い糸を混じらせ、美しく編み込まれた紐。 鍵とは逆方向の位置で結ばれた鈴は二つで、それぞれ金と銀。 この中を明かりに透かしたなら、金には赤、銀には蒼の、小さい玉が入っているのが見える。 一見すると、丁寧な作りに感じられるこの根付、実際は百円均一で、三つ纏めて買うと百円、というコーナーにあった安価な代物。 買ったのは私ではなく、同僚で友人の佐々木由美だ。 何でも、そこにあった別の二種類のストラップに心奪われた彼女は、あともう一つ買えば百円だと、テキトーにこの根付を選んだそうで。 では何故、そんなテキトーな品が私の手にあるのかといえば、経緯を語った由美に根付をぎゅっと握らされた挙句、「遙を見た瞬間、似合うと思って」と言われたためである。 ……何? あんたにとって、私はそんなにテキトーな友達なの? ちょっぴりイラッと来たものの、基本、貰えるモノは貰っとく主義の私・鈴野遙は、今まで鍵に付けていたキーホルダーが千切れてしまった事もあり、渋々といった調子でこれを受け取った次第である。 「……にしても、あのキーホルダーお気に入りだったのに。いきなりチェーンからぶち切れるって。不吉通り越して何の嫌がらせよ」 鍵をバッグに仕舞いつつ、口を尖らせては文句をそこに乗せる。 重苦しい溜息を吐き出した私は、ドアノブをゆっくり回して言った。 人っ子一人いない部屋へ。 「ただいま」――と。
呼鈴 前編
『遅い』 間髪入れず、そんな返事が、夕日の陰に大半を浸食された部屋からやって来た。 と同時に、誰もいない部屋からいじけた“視線”が突き刺さり、もう一度盛大に溜息をついた私は、扉を閉めて鍵を閉め。 パンプスを脱いでは、はしたなくもストッキングを歩きながら脱ぎ、荷物を床に置き。 玄関背にした左側にある洗面所へ向かうと、電気を点けて風呂場へ直行。 スカートを脱いでは、下だけ下着姿という間抜けな格好で、乾いた浴槽の縁に腰掛け、むれた足へシャワーをかけた。 本当のところはどうだか知らないが、汚れと汗が落ちていく錯覚にほっと一息。 性別は女であっても、長時間、足を拘束する靴の呪いは計り知れない。 なるべく、匂いを意識しないよう、足を丁寧に、けれど肌が荒れない程度には手を抜いて洗う。 時折、指圧を混ぜながら、労わるように指を這わせ。 『……無視するのか?』 「わっ!」 肩に質感を伴う“視線”、耳元に囁く低い声を聞いたなら、必要もないのに驚いてしまった。 まさか泡に濡れた手で逸る胸を押さえるわけにも行かず、先にシャワーで手を洗えば、ひっつめたままの髪を撫でる“視線”が絡みついた。 ふわふわとした優しい触れ方とは裏腹に、続く声はどこまでも恨みがましく。 『早くお前に会いたいと、常々私は思っているのに、帰ってきたお前は鍵を開けても中々入ってこない。部屋である私には、透明な窓越しや扉が開いた時にしか、外の様子を窺い知ることは出来ないから、もしかしたらまた、泥棒がやってきたのかと思って。でも、開けた相手はお前……何故、扉前でまごついた? やはり、私が恐ろしいのか?』 「ちょ……す、ストップ。こんなトコでそれは卑怯」 後ろから抱き締めるような“視線”を受け、顔を真っ赤にした私はどことも知れぬ場所へ手の平を向けた。 先程から、私以外いないはずの部屋にこだまするこの声の主は、声自身が告げた通り、この部屋である。 ――とだけ言うと、私の頭が疑われてしまいそうだが、この声は他の人間にも聞こえている。 質感を伴う“視線”も同様に。 ただ一つ違うのは、私以外へ向けられる“視線”が、話で聞く限り、とてつもなく痛そう、という点だ。 他の人間と言いつつ、現在、しっかりこの部屋に意識がある事を知っているのは、私からもテキトーな友達と言っても差し障りがないであろう由美だけ。 なので、“視線”の被害にあった感想を述べられるのも彼女だけであり。 そんな由美によると、部屋の“視線”は、全身を針で貫かれるような気分に陥らせるくらい、威力があるそうな。 格闘に関しては有段者である由美をして青褪めさせた“視線”。 その実力は、以前に侵入してきた泥棒を、撃退した事からも分かる通りである。 が、声の主は私に対して、攻撃的な“視線”を向けてこない。 代わりとばかりに向けられる“視線”は、どこまでも慈しみに満ちたモノであり、暇さえあれば私に柔らかく触れてくる。 こうして触れる理由は、声は低くとも性別の判明しない彼(?)曰く、以前、ここに暮らしていた人間から拒絶されたので、同じように拒まれていないかを確認するため、だという。 まあ、声どころかこんな“視線”がオプションとしてついてくる部屋、普通に考えたら呪われた物件だろう。 拒絶するのは当たり前。 そこのところは否定しない。 否定しないが……ならば、そんな部屋と知っても尚、私が住み続けている理由は、といえば。 公言は声の主相手でも出来ない事だが、私の方に問題があるためだった。
つまり、自分でもビックリな事に、私はこの部屋に惹かれているのだ。
それも、愛着云々ではなく、生意気にも恋愛感情で。 これを病みと言わず、何を病みと言うのか――なんて、壮大な事は言わないにしても。 『卑怯? 私のどこが卑怯なんだ? なあ、はるか。こんなトコとは? どんな所で何をすれば、私はお前から卑怯と言われるのか、皆目検討が付かないのだが』 吐息を錯覚させるほど、耳朶によく馴染む低い声。 そこに滲む、意地の悪い笑みを感じた私は、けれど、姿のない相手に大した抵抗も出来ず。 「ど、どこって……と、とりあえず、足の泡を流しても良いかな?」 『……ああ、そういえばココは風呂場だったな』 必要もない了承を得ようとする言に、声の主は今思い出したとでも言うようにそう告げて。 「ひむっ……ふぇ、部屋っ、いきなり何して」 『ん? 私は何かした憶えもないが……何かあったか、はるか?』 「っ……な、何でもない」 『そうか? では、私は部屋に戻っているとしよう』 この部屋自体、彼の意識の大本であるため、妙な言い草だが、要は居間に来るまでは、私に構わないという事なのだろう。 そう勝手に解釈した私は足の泡を流しつつ、先程、大きな声を出しかけた声の主の行いに赤面する。 “視線”を対象へ這わせるだけの声の主には分からないだろうが、抱き締める手を降ろす要領で、身体の側面を“視線”に撫でられる身にもなって欲しい。 大抵が服越しのくせに、今日に限って滅多に出さない肌まで触れられて―― とまで思い。 「うっ」 泡が排水口に消えて行くのを見届けた私は、改めて今の自分の格好を知り、絶句した。 人間ではない、性別さえも分からない声の主が、どう思ったかは知らないし、知りたくもないけれど。 部屋に意識があるなんて知る前は、全くもって気にしなかったけれど。 み、見られちゃった…… たぶんというか、もう絶対、色々と手遅れなのだけれど、声の主の“視線”に晒された自分の今の姿に、私は羞恥からがっくりと項垂れてしまった。
質感はあっても実体がない“視線”は、私さえ意識しなければ、どれだけ触れてきても何かの障害になったりはしない。 そんな訳で、部屋に見られたところで今更なんだ! という、慰めにならない呪文を、赤面の取れない心の中で繰り返す私は、居間に戻った途端、楽しそうにペタペタ触れる“視線”を無視しつつ、晩ご飯の調理を開始する。 片や、材料を切ったり捏ねたり、冷蔵庫で解凍していたご飯を電子レンジでチンしたり。 片や、頬を突いたり髪を梳いたり、背中にひたり張り付いたり――。 ……何か、可笑しい。 「ねえ、部屋?」 今日のご飯はハンバーグ。 この齢になって喜ぶようなメニューでもないけど、焼き加減の按配を知るため、手にした竹串をタクトのように振りつつ、妙なリズムを取りながら問う。 「今日はどうしたの? 珍しく色んなトコに絡んできて」 いつもは髪なら髪、肩なら肩と、決まった箇所に軽く触れるだけなのだが、今日に限っては何というか…… エ――じゃない、しつこいというか、鬱陶しいというか……兎に角、妙なのだ。 こうして問う今も、肩を撫でては腕を伝い。 『絡んで……私はちんぴらとかいう輩ではないぞ?』 「いや、そうじゃなくて」 何故だろう、金平牛蒡の略称・金ぴらが、一瞬私の脳裏を過ぎってしまった。 音は一緒だけど、お腹が空き過ぎているせい? とはいえ、声の主の情報源は専ら、この部屋に置いてあるテレビやラジオに偏っている。 要するに、文字はあんまり好きじゃないらしい。 読めないってわけでもないけど、お喋りが大好きな声の主にとって、黙って文字を追う事は苦痛だそうで。 なので、意味をきちんと理解していない言葉は、こちらにも不可思議な音として届くのだ。 だから私の名を呼ぶ時も、「遙」ではなく―― 『……はるか』 「んー?」 自分の考えを声の主にどう伝えようか悩みがてら、ハンバーグの出来具合いを覗く私へ、神妙な音色が問う。 聞く私は、最初に質問したのはこっちなのになぁ、とぼんやり思いながら。 『お前……変なニオイがするぞ?』 「ん…………は、ええっ!? に、ニオイ!?」 『いや、そういう意味ではなくてな』 途端、自分の身体の匂いを嗅いで回る私に対し、上手く伝えられなかった様子で困惑する声の主。 丸っきり立場が逆になってしまったけれど、今の私にとって、それは些細な問題だった。 何せ、部屋に意識があると分かってから今日まで、彼が突っ込んできた匂いは煙草と、いつかの飲み会帰りに染み付いたお酒だけ。 情報源はテレビやラジオのくせして、どうも考えが古臭い彼は、これらの匂いから私に男が出来たと邪推してきやがる。 部屋に惹かれている真っ最中の私には、まったくもって迷惑な話だ。 でも、幾ら問い詰められても、想いを告げるつもりは更々ない。 こんな私でも、人間を捨てた憶えはないのだから。 ちなみに私は、酒は呑んでも煙草は吸わないタイプ。 それなのに酒の匂いまで指摘されるのは、私自身が若干呑んでいようとも、それが移り香だと分かるためらしい。 意外に――本当にあるかは知らないけれど――鼻がいい。 だけど、今日の私はそんな場面に出くわしていない。 匂い持ちの人とすれ違う事はあったかもしれないけれど、そこまで声の主は煩いわけでもなく。 とすると、出てくる結論は、今まで何も言われなかった、私の体臭に問題があるという話。 確かに季節は発汗を促す暑さの夏。 足を洗っただけの身体はまだ臭いかもしれない……自分で言って難だけど、変な表現だ。 ――それは兎も角として。 外観はボロっちくとも、エアコンなんか完備されている室内は、声の主が私の帰りに合わせて温度を調節してくれるお陰で過ごしやすい。 だから乾いてしまった汗の匂いも、私からはよく分からず…… 「や、やっぱり先にお風呂、入って来ようかな」 もうすぐハンバーグが完成するところだけど、変なニオイと評されて平気な顔は出来ない。 部屋相手とはいえ、恋する女の私には、ご飯より身だしなみが大切で。 しかし。 ぐぅううう…… そんな私の心とは裏腹に、身体は正直とでもいうのか、タイミング良く、お腹が鳴ってしまった。 これはこれで恥ずかしい状況にお腹を押さえたなら、ひっつめたままの髪に“視線”がぽんぽん触れた。 『ご飯を先にした方が良いのではないか?』 「う……」 それはそれは馨しい誘惑。 けれど次いで言われた言葉は、慰めでもなんでもなく。 『それにこのニオイ、洗ったところで取れはしないだろう……』 「…………」 それはそれは小さい声で、淡々と。 もしかしたら、私に聞こえないよう、声の主なりに気を使ってくれたのかもしれない。 でも、普段は滅多に聞かない真面目な声で、そんな事を言われたら、うっかり聞いてしまった私は? しかも彼の声は、今まで私が聞いてきた、どんな声よりも魅惑的なのに。 変なニオイ=臭い、と言われてしまった私は、追い討ちをかけるような、洗っても無理、という結論を出され。 「…………ご飯、先に食べるわ」 落ち込んだり泣きたいところをぐっと我慢し、丁度良い焼け具合となったハンバーグを盛り付けに掛かる。 |
2009/8/11 かなぶん
修正 2009/8/12
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