それは部屋に意識があるなんて、全く知らなかった頃のお話。
都会とはいえご近所挨拶くらいしようかと、真下の部屋に粗品を持っていけば、空き部屋だというので教えてくれたその隣の住人に渡す。 今度は自分の隣の部屋へ。 やる気の感じられない女の応対を経て、開いた扉は数センチ。 チェーンが掛かっており、そこから寄越せと彼女は言う。 顔も見せずに品物だけ貰おうなんて見上げた根性に、私・鈴野遙は真っ向から勝負に挑む。 絶対入らないだろうと分かるその隙間へ、ぐいぐい粗品を押し込んでやったのだ。 かなり焦る声が扉の向こうから聞こえたが、知ったこっちゃない。 入れ切っては、罵倒する女の声へ爽やかに手を振って去っていった。
けれどあれだけ怒っていたくせに、女は結局、一度も私の前に姿を現さなかった。
隣人
休日、くつろぎにソファへ座れば、甘えてくる“視線”。 質感を伴うそれを払えば、「拒絶するのか?」とうるさいので放っておく。 テレビでも見ようかとリモコンに手を伸ばせば、甲を絡め、 『私とお話しよう。テレビなんて後で良いだろう?』 囁く低い声。 無下にしても無視してもうるさいので、 「はいはい、お話しましょうね」 半ば投げやりに、溜息混じりに言う私の顔は、声に反して少し赤かったりする。 馬鹿馬鹿しい話ではあるが、私はこの部屋の意識が向ける声と“視線”に惹かれている身。 まあ、人間を捨てたわけではないのだから、いつかは新しい部屋を見つけて出て行く気は満々なんだけど。 幽霊の類でもなく、他人にも知覚できる声は、私の答えに大満足の様子だ。 『ああ。今日は一日どこへも行かず、ずっと私と一緒にいてくれ』 「…………随分、嬉しそうね?」 『当たり前だ。休日は休むためにあるのに、お前と来たら私から離れて出かけてしまうじゃないか。……あの女と会うためだったり……新しい物件を探すためだったり』 なんでバレてるんだろう? 頬を擦る“視線”を受けながら、口の端が引きつる。 部屋が「あの女」と称するのは、私の職場の同僚にして友人の佐々木由美。 時折食事に誘われはするものの、買い物と偽って出かけているのに。 物件にしても買い物ついでに見に行ったくらいなのに。 実は身体のどこかに、盗聴器か何か仕掛けられているのかしら? 知らない内に。 相手は人ではないのだし、もしかしたら可能なことなのかも…… プライベートの侵害だっ! ――と訴えるのは今更な気がする。 侵害どころか、プライベートに興じるこの部屋こそが、声と“視線”の主の正体なのだから。 ……まあ、いいや。 溜息で、自分の不都合をてい良く払い。 「で? お話するって言ったからには、何か良い話のネタがあるんでしょう?」 宙へ向けて手を伸べ首を傾げたなら、手に擦り寄る“視線”がぴたりと止まった。 『……ネタ? それはお話に必要なのか? 今まで無かっただろう?』 おいおい。 いや、確かに無かったけどさ。 じゃあ一体何を話そうと言うのか。 そもそも、今まで何か話題を決めて話した記憶はあっただろうか? しばし黙考。 腕を組めば、私の返答を待つ“視線”が髪を撫でる。 ふと浮かんだのは、朗らかな微笑み。 遙、と馴れ馴れしく私を呼ぶ……優しい人。 優しかった、人。 大切だった、私の恋人。 ――今となっては心底憎いあんちくしょう。 「……あの顔で二股とか、詐欺だわ、本当」 今会ったら、絶対殴ってやるのに。 ドラマみたいなパーじゃなくて、グーで。 親指折らないように外に出して、すぐ引っ込めるんじゃなくて余韻が残るように留めて。 何故あの時私は、大人しく出て行ってしまったのだろう。 なんてしおらしかったのかしら。 ああ、可愛いな、私―― 『はるか? 大丈夫か?』 黙ったままの私に痺れを切らしてか、部屋が話しかけてきた。 ただし、その声音に含まれているのは気遣う響き。 ……どんな顔をしていたのかしら。 そっと両頬に手を当てれば、酷く強張った感触が返される。 まだまだ痛手は癒えず、それくらい深かったらしい。 苦笑したなら“視線”に頭を抱かれた。 『無理して笑う必要などない。私はこの部屋なのだから。はるかが泣きたい時に泣けば良いんだ。邪魔する権利は誰にもない。部屋たる私が保証する』 「……うん。ありがとう。御免ね、いきなり」 目を閉じて、息を吐き出す。 質感のある“視線”はないはずの温もりまで感じられて、それが優しくて、ちょっぴり泣けて。 じっと、“視線”が慰めるように髪を梳く感覚を受け入れる。 浮いた涙が零れることなく引っ込めば、胸のつかえが少しだけ溶けて、肩がだらけた。 これを見計らったように部屋は私に言う。 『謝る必要もない。……本当は、礼を言われる筋合いもないのだ。何せ私は意識があってもただの部屋。それに他の部屋であったなら、お前も気にせず大泣き出来るはずだ。……済まない。でも、礼だけは、受け取っても良いだろうか?』 「なんだか……変に殊勝ね? 貴方の方こそ大丈夫?」 ちょっと心配になる。 何せ相手は部屋。 具合を悪そうにされても、対処する術はないのだ。 もし、部屋が病気みたいなものになってしまったら―― ……改築したら、良くなったりするのかな? 塗装なんかも意外と…… 『? 夏なのに……今一瞬、妙に寒くなったな?』 「…………」 私の頭の中で、壁紙がカラフルな色になった途端、そんなことを言い出す部屋。 行動は把握されても、心の中を読まれた記憶はないのだけれど。 もしかして、何かを感じ取った? 何だか……人間みたい。 知らず知らず口元が緩めば。 『はるか? 何を楽しそうにしている? 私にも教えてくれ』 頬を突っつく“視線”。 これを払うように、笑いながら手を振っても、部屋は止めることなく。 仕舞いには、いじけた素振りの“視線”が頬をむにっと抓む。 「!」 初めての感覚に驚き、頬に手を押し当てた。 瞬きを数度繰り返す。 だが、この反応はあまり宜しくなかったらしい。 『あ……す、済まない。そんな、強く触れるつもりはなかったのだが。い、痛いか? 痛むのか?』 酷く慌てた調子で、部屋が頬を押さえる手の甲を擦る。 それでも、まだ抓まれたという驚きから回復しない私は何も言えず、更に部屋は“視線”を方々へ散らばせた。 腕やら頭やら髪やら肩やら、宥めるように、ぺたぺたぺたぺた…… 「――っ!? う、鬱陶しいから、止めっ!!」 段々恥ずかしさが勝り、両手両足を投げ出して、全身で抗議の姿勢。 すると、“視線”がビクッと跳ね、怯えたように感覚が消えていった。 宥める“視線”が止まったのは良いが、いつまで経ってもどこにも触れず。 この部屋は最初に意識を得た時、住んでいた人から拒絶された経験があるため、拒まれることに神経質なきらいがある。 だからこそ、よく私に“視線”を送っては、拒まれない安堵を得ていた。 ――のに。 「……部屋?」 両手両足を回収し、恐る恐る部屋を呼ぶ。 しかし、触れてくる“視線”はどこにも在らず。 代わりに、 「ぎゃっ」 「!?」 玄関が勝手に開き、そこから一人、見知らぬ女が倒れこんできた。
なんでも、100万円の束は、1cmの高さだそうで。 それが景気良く、ぽぽぽんっと三つ、安価で買った良品の白いテーブルの上に乗った。 実に見栄えのしない光景だ。 「こ、ここここここれでっ!」 「……はあ」 「こ、ここここここの部屋、売って!」 「…………はあ?」 ニワトリも斯くやというような上擦りまくった声で喋るのは、テーブルを挟んだ向かい、勝手に陣取り座った女。 しかも、目深の帽子に大きいサングラス、白いマスク、秋までもう少し掛かる時分に暑苦しい事この上ないベージュのコートと怪しさ大放出の格好で。 どっからどう見ても変質者だが、流れる赤み掛かった黒髪はしっとりした美しさがあり、それだけが唯一、私が警察を呼ばない理由になっている―― なんてことはなく。 「……ええと、お隣さん?」 部屋に突入してきた女は、私と顔を合わせるなり自分は隣の者だと名乗っていた。 マスクから漏れるくぐもった声が、いつぞや聞いた隣人の声と酷似していたので、すんなり納得してしまったものの。 入れたのは、早まった行為だったかも。 いやいや、招いた覚えはないし。 ただ、雪崩れ込んだ勢いのまま、この隣人が懐から札束を出しただけで。 どうも最近、珍客を招きやすい体質になってるなぁ、とあらぬ方向を見つつ内心でぼやいたなら、いきなり両手を掴まれた。 ぎょっとして見やれば、件の隣人がサングラスとマスクの顔を至近に寄せている。 「どうよ! この山! 足りない? 足りないってなら、500、500でどう!?」 「え……と、あの?」 「駄目!? これでも駄目!? なんてがめついの、アンタ!!」 「いえ、あの?」 力一杯非難されては、ほぼ初対面の相手に罵倒される筋合いはない! と抗議する気力さえ奪われていく。 物理的にも押す隣人に対し、対処しきれない私の身体はどんどん床に近づき。 こ、この人、結構力が強い……細いのに、背が高いから迫力もあるし。 完全に背中が床につけば、隣人は更に顔を近づけた。 「なら、1000でどうかしら、一千万! アンタの安月給の三年分以上でしょう!?」 「や、安月給って、ほっといて下さいよ!」 流石にカチッと来た私は、掴まれた手を振り払い、隣人の肩を思いっきり押した。 「きゃっ」 思いの外あっさり後ろへ仰け反った隣人は、そのまま尻餅をつく。 これを見ながら起き上がり、同時にじりじり後退。 打った箇所を擦る隣人はひとしきり痛がった後に、サングラスの向こうから私を睨みつけてきた。 「何すんのよ!?」 「何って……それはこちらの台詞です! 突然押しかけて、理由もなしにこの部屋を売れって」 「じゃあ、理由を話したら売ってくれんの!?」 ぺたりと座ったまま、身を乗り出す隣人。 鼻息の荒さにちょっぴり及び腰になりつつも、姿勢を正した私は深く息を吐いてから。 言った。 「売りません」 「っ」 隣人が息を呑んだ。 それから少し遅れて…………
苛々をぶつけるように蛇口を捻る。 冷たい水を張った洗面器へタオルを浸し、力任せにギッチリ絞っては解して柔らかくして。 『は、はるか……大丈夫か?』 隣人が去ってからようやく話しかけてきた部屋へ、タオルを自分の頬に当てた私は溜息をついた。 「……平気」 嘘だ。 全然平気じゃない。 部屋を売るのを断った途端、何の前触れもなく頬を叩かれたのだ。 しかも、思いっきり。 混乱の最中、律儀に金だけは持っていき、「諦めないわよ!」と地獄の言葉を残していった隣人は、サングラスの向こうでちょっぴり涙目になっていたけれど。 本当に泣きたいのはこっちだ。 別に、叩かれた頬が痛みと共に、痺れと熱を持ったからじゃない。 ……いや、確かにそれも、理由の内には含まれるかも知れないが。 恐々、述べられる“視線”はべしんと払う。 欲しいのは、そんな労わりではない。 「……どういう、つもり? ドアには鍵が掛かってたはずなのに、開くなんて。どうして、あの人を入れたの?」 間取は大して変わらない隣人の要求を考えるに、たぶん、彼女は知っている。 この部屋に意識があることを。 でなければ、理由がないのだ。 一千万もぽんっと出せる勢いの彼女をして、この部屋に執着する理由が。 もし、向こう隣の住人と何かトラブルがあるというなら、別のところへ移れば良いだけの話。 なんたって彼女には、あれだけの大金をすぐ用意出来る財力があるのだから。 そしてたぶん、部屋も、彼女のことを知っているはずだ。 でなきゃ、あのタイミングで招きはしないだろう。 私が、部屋を拒絶したタイミングで、部屋を欲する隣人を招きは…… じっと、返事のない虚空を睨みつける。 とっとと吐け。 そういう気迫を入り交え。 何だか……浮気現場を目撃した彼女みたい。 内にぽっと生じた、自分への感想。 フラッシュバックするのは、急に仕事が入ったと言われ、一人で買い物に行った矢先の光景。 見知った男と見知らぬ女の仲睦まじい―― これがずっしり肩に圧し掛かり、私の身体をソファへ誘い、横に倒した。 痛む右頬を下にし、休日だからと纏めなかった長い黒髪の広がりを、なんともなしに眺めた。 お隣さん……綺麗な髪、していたな。 押し倒される形になった時、顔に触れた髪質はとてもサラサラしていた。 “視線”とはいえ、部屋もああいう髪が良いのだろうかといじければ、当の“視線”が髪に絡んだ。 やけに優しい感覚が苛立たしく、鬱陶しく――――哀しくて。 「……触らないで」 低く唸り、ぱしりとコレを払う。 言いたいことがあるなら、さっさと言えばイイのに。 実物を見せる前に。 あっちが良いのだと。 私ではなく、他の奴が良いと……言って、くれたら―― 「――ぁたたたたたたたっ!?」 その時、マイナス思考一直線だった私の頬が、思いっきり抓まれた。 引っ張り上げられる感覚に、身体が起される。 放されたなら、張られた頬とは別の痛みに涙が滲んできた。 これを払うべく、キッと部屋の隅を睨みつけ。 「何を」 『私を拒絶するからだ』 妬ましいと響く声の暗さに思わず文句を呑み込んだ。 迂闊に口を開けば怖い目をみるような気がして。 ごくり、喉を鳴らすと、身体に回される“視線”を感じた。 一瞬、本当にちょっぴり身が竦む。 するとコレを責めるように“視線”の拘束が強まる。 そのくせ、抓られた頬と張られた頬を押さえる甲は、柔らかく撫でられ。 『私だって怒る時くらいある。謝っているのに、鬱陶しいと言われたなら、本当に鬱陶しい者をぶつけたくなったりもする』 「……鬱陶しい? あのお隣さんが?」 不思議な顔で、どこを見ても変わらないのに上を見つめた私。 少しだけ緩んだ拘束の下、髪がするりと“視線”に梳かれた。 『ああ。あの女、どうやら隣室の風呂場で、私とお前の会話を聞いていたらしい。それから、お前のいない間に一回侵入してきて』 「え!?」 聞いていない、という声は上げるに至らず、手のように口元を包む“視線”で押し留められた。 『しつこく、私に話しかけて来るんだ。応じる気はないというのに』 溜息混じりの部屋に対し、私は目を丸くした。 この部屋は毎度毎度、私に会話を要求してくるのだ。 それなのに、自分から話し掛けてきた相手に応じないなんて。 どうして……? 問いたい言葉は塞がれた質感で声にならず。 『その後、勝手に入れないよう頑張っていたのだが、あの女は諦めず、扉に張り付いたりなんだりと。まるで今流行りのストーカーのようだったぞ』 いや、流行ってないし。てか、言葉のアヤでも勝手に流行らせちゃ駄目でしょ。 『だから私はお前に負担を掛けぬよう、独りの時はなるべく静かにしていたのに』 ……なるべく? 非常に気になる箇所である。 が、段々愚痴に入り始めた部屋は気にせず、先を続け。 『それなのに、お前は私を鬱陶しいというから……だが、済まなかった。まさか、あの女が叩くなどと。……しかも、また抓ってしまったな。痛むか?』 尋ねる声と同時に、抱き締められる感触はそのまま、口が解放を得た。 伺うような“視線”を感じ、私は、 「……うん。すっごく痛かった」 『そ、そうか……済まん』 しゅんと項垂れる調子の声に、顰めた顔の内でほっとする。 実際、痛かったのは頬よりも心なのだが、これを素直に言う気はない。 ある日の部屋のように、自分にとても都合良く解釈したなら、部屋の言い分は私が一番大事、ということだろう。 やっぱり私……病んでるわ。 これに喜んでいる自分を知って、苦笑が漏れてしまった。 つられたように浮かれた声が部屋からやって来る。 『だが……嬉しいこともあったな。お前が売らないときっぱり断言してくれて。これからも、ずっと一緒にお前とお話が出来るんだから』 「…………」 更に拘束の弱まった“視線”から、ふんわり抱き締められた。 人間を止めたつもりはないと出て行く計画は練るものの。 この感覚を忘れない限り、選ぶ部屋のハードルは高くなるばかり。 比例して、理想の男性像も欲深くなり、困ってしまう。 ……まあ、 『……はるか? な、何故返事をしない!? ずっと一緒にお話してくれないのか? 他の部屋を探すつもりなのか?』 すぐうろたえる、鬱陶しい欠点はあるけれど。
つまるところ私は、この部屋が好きなのだ。 それも、恋愛感情の好きで――愛している。
告白なんて意地でもしないけど、ね。 |
あとがき
これを書いている最中、まるで打ち切りになった連載の最終話みたいだなー、とか思っておりました。
こんな終わり方ですが、まだまだ続きます。
…って、これじゃあもう少しで終わる言い回しだ;
でも、書きたい人物ストックは片手で足りないほどおりますので、続くのは本当です。
今回出てきた隣人さんやら、脳内彼氏と疑われそうな話だけの元・恋人やら等々。
2010/1/27 かなぶん
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