帰宅のいろは

 

 彼の魔術師との出会いは少年――エリエルド・ラフテン・クエス・シェイベルムが、何をとち狂ったのか、未来に求婚し出す前の事だった。

 しかもたった一度だけ。

 なればこそ未来は、結婚式当日に現れたこの訪問者に目を丸くした。

 魔術師の名はイロハ。

 命名したのは未来であり、有名なくせにそれまで名前を持っていなかったというイロハは、その礼としてとある約束を彼女にしてくれたのだ。

 元の世界に戻る方法を探してくれる、と。

 未来にしてみれば、名前を聞いても「ない」と答えるだけの変人に、そのままでは呼びにくいからと“いろはにほへと……”を適当に付けただけなのだが、これを異様に気に入ったイロハは、腰の低い平社員のように自分の頭を自分の手で上げ下げさせながら未来に言った。

「えーっと。そうだ、この度はご結婚――」

「――はどうでも良いから。どうしたの、イロハ?」

「ど、どうでも良いって……結婚は人生の墓場であると同時に幸せの縮図でしてね」

「墓場にある幸せ、か。案外的を射てるかもしれないけど……で?」

「あ、あれ? 未来さん、あんまり嬉しくなさそうですね? お嫁さんって、女の子共通の夢じゃありませんでしたっけ?」

「その手前に好きな人の、が付いた場合のみよ、ソレ」

「ぅええ? エドさんに不服がお有りで? あの方、かなりの美人さんですし、未来さんの事、本当に愛していらっしゃるでしょうに」

 エド、というのはエリエルドが極親しい間柄に許す愛称だ。

 未来自身、彼から再三「エドと呼んで欲しい」と言われているが、一度も呼んだ事はない。

 イロハはエリエルドと親しくないどころか面識さえないのだが、彼自身の問題により愛称の方で呼んでいた。

 なんでも、イロハが本名で呼ぶとその気がなくても相手を呪ってしまうそうな。

 その点、未来はこの世界の人間ではないので、呪われる心配はないという。

 ちなみに、イロハ以外の人間は未来の事を「カリヤ」と呼ぶ。

 これは姓と名の順序が違うために起こった誤りなのだが、この世界に馴染むつもりのない未来は訂正を入れず、名字呼ばわり上等とそのままで経過している。

 もしも呼び名の欠点をあげろと言われたなら、親しげに名前で呼んでいるつもりの彼らを見て、思わず笑ってしまいそうになるところだろうか。

 唯一の例外であるイロハは、自己紹介の際に「どちらがお名前なのでしょうか?」と自分たちの常識に囚われず問い掛けてくれたので、未来という名で呼ぶ事を了承した。

 そんな風に思えるくらい、イロハは未来にとって安心できる相手なのだ。

 この世界で唯一人、心を許せる相手と評しても過言ではない。

 ……世間での評判はどうあれ。

 なので未来は、他には見せない年相応の表情で口を尖らせて言った。

「正直、イロハの方が私は好きよ」

「ぅええ!? そ、そんなっ、そんな事言われても僕、僕、僕……どうしたら!?」

「……どうもしなくて良いんじゃないの?」

「いやでも、未来さんは僕にとって大事な名付け親なわけですし」

「親って……私、自分より長生きしている人の親にだけはなりたくないんだけど」

 鼻まで隠れるフード付きの古ぼけた外套をすっぽり被った、輪郭だけ見ると二十歳前後のイロハだが、百年は軽く超える冗談染みた時間を生きている。

 たとえ小娘の軽口に真っ赤になってうろたえるような相手でも、ある程度は礼節を持って接するべきなのだろうが、彼を前にするとどうしても敬う気が萎えてしまう。

 当のイロハも形式ばかり畏まれるのは嫌だというので問題はない、とはいえ。

「そうだ! いっそ未来さんを攫ってしまいましょうか? 追っ手が怖いなら国ごと壊せば良いだけですし」

 さも妙案が思いついたように手を叩いては、にっこり笑顔で物騒を言うイロハ。

 何も言わずに気色ばむ未来に気づいたなら、途端に肩を落として人差し指をつんつん合わせた。

「だ、駄目でしょうか?」

「駄目に決まっているでしょ。別にこの国や世界に思うところなんてないけど、だからこそ私が原因で滅ぶなんてムカつくわ。私のせいで救われたってだけでも腹が立っているっていうのに」

「はあ……そう言われると、元凶の僕としては申し訳ない限りですが」

 少し傾いで項垂れるイロハに、未来はヴェール越しで苦笑を浮べた。

「元凶って言ったって、全部が全部、貴方のせいってわけじゃないじゃない。そんなに自分を責めないで?」

「ですが、僕があんな呪いを発生させなければ、未来さんはこの世界に召喚されることも、酷い目に合う事もなかったんですよ?」

 魔法において匹敵するモノのいない彼が発生させたのは、全人類を破滅させる呪いであり、その解呪にはこの世界の魔法が効かない異世界の血が必要――イロハの言う通り、そんな背景の下で未来は召喚された。

 お陰で今では救世主扱いされていたりするのだが、未来には何一つ有難い事などなかった。

 そのせいで、本来であれば凡人の未来と貴族のエリエルドの結婚、反対する親族連中がいても良いところを逆にそんな救世主様をゲット出来た、流石は我が家の出、などという始末。

 未来にはただただ迷惑な、それでいて何の役にも立たない後援者を思えば、げっそりした溜息が口をつく。

 これをどう捉えたのか、未来より少し高い背を更に縮めて萎縮する魔術師。

 ゆっくり立ち上がった未来はブーケを鏡台の上に放ると、白い手袋に包まれた手で禍々しい紋様を描く黒い手袋の手を取った。

 一度外せば相手の生命力を根こそぎ奪う、という呪われた手と知りながら躊躇いなく握る。

 イロハの方が身じろいでも構う事なく。

「でも私、貴方が悪いなんて思ってないわ。取引を持ちかけた馬鹿は貴方の大切なお友達を人質にとって、無理矢理貴方に呪いを作らせたんだから。まあ、そのせいで真っ先に滅んじゃった国の王、笑う気もないけど」

「人質……彼らは決して人では」

「いいのいいの、言葉のアヤなの! 兎に角、私が嫌いなのは人を助ける名目で、只の女の子を寄ってたかって殴ったり蹴ったりした奴らの方! 幾らこの世界を永きに渡り蹂躙し続けている邪な魔術師って言ったって、イロハはいきなり酷い事してこなかったでしょう?」

「そ、それはまあ、いきなりではなかったですけど……」

「ううん、逆にイロハの方が怖がってて」

「み、未来さん、それは言わないお約束ってヤツですよ?」

 完全にペースを盗られたイロハは、手を取られた状態で情けない声を上げた。

 けれどその顔にあるのは困ったような笑い。

 つられて微笑んだ未来は、何を思ったのか顔を上向かせると目を瞑り。

「ん」

「え、あの、未来さん?」

 ヴェール越しに突きつけられた紅い唇にイロハが慄けば、目を開いた未来が不貞腐れた表情で彼を睨みつけた。

 化粧とは違う朱を頬に混じらせつつ。

「死出の餞別、頂戴」

「死出って……いえ、ですから未来さんは今日から花嫁さんで人妻で」

「だから何? いいじゃない別に。軽い気持ちで良いのよ? ほら、あの時みたいに軽ーくで」

「あ、あれは、ですから、その……」

 未来の申し出に、ゴニョゴニョ言葉を濁すイロハ。

 

 

 一度きりの邂逅。

 王宮の庭に突然現れ、自身が全ての元凶だと包み隠さず話し謝罪してきた彼に、最初から憎悪を抱かない、なんて事はなかったが、顔を明かさぬ点を除くと彼はこれまで未来が出会った誰よりも誠実だった。

 そして、一方的に話し掛けてくる彼を無視し続けている自分の方が極悪人のようだと思うくらい、頼りなくもあった。

 なればこそ彼女は彼に名を尋ね、ないと知れば彼に名を与え、彼はそれにいたく感動して、彼女のため元に戻る方法を探すと約束する。

 この時、未来はこの世界に来て初めて、感情任せに涙を流した。

 戻るのは難しいと聞かされ、だからといって誰一人、未来が元の世界に戻るための方法など探してくれなかった。

 だというのに初対面のイロハは、誰もが口々に「諦めて」と未来へ訴える中で、初めて彼女を帰すべく動いてくれると言う。

 名を尋ねる前、萎縮するばかりのイロハに居た堪れなくなり、つい呪いを発生させた動機を聞いていた事も彼女の涙に拍車を掛けていた。

 決壊した涙は堪えていた分だけ留まることを知らず、慌てたイロハは迷った末に手品をしてみせた。

 悪評で有名な魔術師が彼女を慰めるため、魔法を用いず行った手品は酷く陳腐なものだったが、未来にとっては何よりも嬉しかった。

 イロハ自身はきっと、本当にただ、一生懸命だっただけなのだろう。

 魔法を使った方がもっと凄い事が出来るのに、それすら思いつかずに手品しか浮かばなかったイロハ。

 未来はそんな彼に温かな気持ちを抱き始める事になる。

 しかしその時、悪戯な風がイロハのフードを捲ってしまう。

 現れたのは凡そ人の区切りとは言い難い容姿。

 未来は一瞬目を丸くし、イロハは顔を強張らせた。

 急ぎ、被り直したフードに隠される直前の顔は、今にも泣き出しそうで。

 要らぬ謝罪と共に、外套を翻して背を向けるイロハを追ったのは未来の方。

 不躾にフードを取る真似はせず、イロハの行動の意味も分かっていながら「どうして逃げるの」と問うた。

 自嘲に彩られて嗤い出したイロハは、未来に向き直ると自分からそのフードを取り、「分かっているはずでしょう?」と彼女の両肩を捕らえて顔を近づけた。

 拒まれるはずの唇。

 けれどイロハの素顔を直前まで直視していた未来は、目を瞑ると彼のソレを受け入れた。

 

 ――ほっぺたに。

 

 以来、イロハは未来に持たなくても良い罪悪感を抱いている。

 引き留めた未来へ試すような真似をした事。

 奇異な容姿を置いても、一番分かりやすく拒絶されるはずだったキスを本当にしてしまった事。

 他にも何やら色々罪悪感の素はある様子だが、そもそも、何故よりにもよってキスだったのかと、した後で土下座ばりに謝る辺り、とてもイロハらしいと未来は感心したものだ。

 当の未来と言えば、唇にされるとばかり思っていたため、少々肩透かしを喰らった気分なのだが。

 どうせならあの時、ちゃんとして貰えば良かったとさえ未来は思う。

 何が哀しゅうて、好きでもない奴にファーストキスを奪われなければならないのか。

 それくらい未来はイロハを好ましく思い――エリエルドをどこまでも蔑ろにしていた。

 だからこそ未来は俯く彼から手を離すと、自分でヴェールを後ろに追いやり、覗き込むようにしてその唇――ではなく頬へ口付けを施す。

 これくらいなら二度目なんだし構わないだろう、そう考えての事だったのだが。

「!!? ふわっ、み、未来さん何を――うっ!?」

 途端にフード下を真っ赤に染め上げたイロハは、未来の何十倍も生きているとは思えないほど狼狽し、背にしていた扉へ思いっきり頭を打ちつけた。

「だ、大丈夫?」

 かなりのイイ音をさせて蹲ったイロハの横にしゃがみ込む。

 彼が押さえる頭を手で擦っては、申し訳なさそうに言った。

「ご、御免なさい。そこまで嫌だったなんて」

「ぅええ!? ち、違います、誤解です! 僕は全然、嫌がったわけじゃなくて!」

 がばっと顔を上げたイロハだが、至近に未来の心配そうな顔があると知るなり、今度は尻を打ち付けて痛がった。

「な、情けない……」

 穴があったら入りたい心境なのだろう。

 痛む箇所を擦るでもなく、フードを両手で下に引っ張って項垂れる魔術師。

 困惑する未来は「嫌がったわけじゃなくて」というイロハの言葉を頼りに、床へ膝をつくと彼の頬をゆっくり両手で包み込んだ。

「み、未来さん? あの、ドレスが汚れてしまいますよ?」

 自然と扉を背にするイロハを押し倒す格好になりつつある未来は、少しだけ己を見つめ直すと肩を竦める。

「どうでも良いわ。それでシェイベルム閣下が幻滅してくれるっていうなら」

「名字に閣下って……嫌がられませんか?」

「うん。だから使っているの。私はあの男を喜ばせる気、全くないから」

「だ、断言しちゃうんですか?」

「うん。……ううん。違うわね。あの男に限らず、この世界の人間は全員よ。イロハ、貴方以外は」

「……光栄です。人間、の規格でまだ見て貰えるなんて」

 惑うだけの頬が自嘲に歪む。

 これに眉を顰めた未来は頬から手を離すと、イロハの肩に頭を押し付け身を寄せた。

 手だけは抱き締める形を取らずに床へ置いたまま。

「気、悪くした?」

「いいえ。未来さんだけですから。僕を人間扱いしてくれたのは、どれだけ永く生きていても貴方だけだった。親が与えなかった名前も貴方が付けてくれて」

「ソレに関しては、実はちょっぴり後悔している。もっと良い名前を考えとけばって」

「そんな事ありません! 貴方の国にある手習い歌の冒頭、最初の言葉。終わりしか謳われなかった僕には、得がたい名です」

「うーん。イロハが凄く喜んでくれるのは嬉しいけど、やっぱりその分、心苦しいのよね」

「何故?」

「ほらあの時、結構いい加減に付けてたでしょ? だから――」

「それでも僕は嬉しかった。いい加減でも何でも、貴方が僕を呼ぶために付けてくれた名だから。未来さん、僕が良いって言ってるんだから、後悔なんかしなくて良いんですよ?」

「イロハって……時々とっても強引」

「嫌、でしたか?」

「ううん」

 フードを掴んでいた手が未来の背中を捉える。

 未来がほっと力を抜いたなら更に強まる腕の力。

 床の汚れを払い、イロハの肩に手を置く。

 流れるのは静かな時間。

「……イロハ、時間に細工したの?」

「ええ。僕が普通に来ちゃったら、皆さん警戒して大変そうですし」

「そっか。イロハはこんなにも優しいのにね」

「そんな事言うのは未来さんくらいですよ」

 その気にさえなれば、誰にも気づかれる事なく世界を滅ぼせる魔術師は、無駄な混乱を避けるため魔法で時の進行を歪めていた。

 異世界の少女に会いに行く、ただそれだけのために。

「この期に及んで、かもしれないけど、思うんだ。結婚の相手、イロハだったら良かったのにって」

「僕は……永く生きられる事と引き換えに、残し継ぐ力を失っていますから。子どもが欲しいという未来さんの望みは叶えられない」

「うん、分かってる。それに、結婚の相手はイロハじゃ絶対駄目だって事も。だって相手がイロハじゃ、私、子どもだけに愛情を注げないもの」

「何だか愛の告白みたいですね」

「あ、気づいた? うん、そうなんだ。これって告白。でも、恋とか愛とかそういうんじゃなくて」

「得難い半身への誓いの言葉」

「うん、そんな感じ。まあ、イロハから見たら胎児未満の私、半分補えるかなって思うけど」

「十分過ぎるくらいですよ。これまで生きてきた中で、これほど近しい人は誰もいませんでしたから」

「お友達は、たくさんいたのにね」

「ええ。全員、呪いの完成前に殺されていましたが。元より人間が彼らを捕らえ続けるのは無理だったでしょう。魔物など、人間にとっては害悪以外の何者でもありませんから」

「分かって、いたんだね。それなのに呪い、作ったんだ」

「ええ。分かっていました。それでも信じていたかったんです。人間を。呪いさえ完成させれば彼らを解放してくれるという言葉を。結果として、貴方を苦しめてしまいましたが」

「でもそれは――」

「だけどやっぱり謝らせて下さい、未来さん」

 貴方のせいじゃないと続けられる言葉を人差し指で押し留めたイロハは、思わず身を起こした未来の背を宥めるように撫でていく。

「不謹慎かもしれませんけど、僕は貴方が召喚されて良かったと思っているんです。酷い目にあって、誰も信用できない状態にまで追い込まれて、良かったって」

「イロハ……」

「だからすみません、未来さん」

「……ううん。貴方にそう言って貰えるなら嬉しいわ。つまりは私に出会えて良かったって事でしょう? 多少なりとも、貴方も私と同じ気持ちでいてくれるって事よね?」

「ええ。……少なくとも、エドさんよりは貴方を想っているつもりです」

 イロハがそう言えばどちらともなく零れる笑い。

 未来は身体を離すと、支えるために手を添えるイロハへ少し寂しそうに微笑んだ。

「ねえ、私がそうしたように、貴方にも名付け親になって欲しいの。私が生む、私だけの子に」

「……僕は世界に仇為す存在ですよ?」

「私はこれでも一応、救世主だもの。丁度良いんじゃない? 善悪両方で相殺されて、蓋を開けたらビックリ普通の子って」

「貴族社会はそんなに甘くないでしょうに」

「そーでもないみたいだけどね。私、貴方が王宮に来た後で貴方が誰なのか知りたくて色んな人に聞いてみたの。そうしたらしばらくの間、だぁれも進んで話しかけてこなかったし、私が何か頼んだら即行で全部叶えてくれたわ。どうやら貴方に関わった者ってだけで、畏怖の対象になるみたいなの。いやー、あの時は快適だったなぁ」

「え、えと、それってつまり、僕が名付け親になった子どもには、そうそう危害を加えられなくなる?」

「うん、たぶんね。私からもたっぷり脅しとけば良いでしょ。貴方とそれなりに話せた相手なんて片手で足りるくらいだから、本当は攻撃的じゃないって知らないだろうし」

「ええ、まあ……それなりに話せたと言っても、ほとんどが通信魔法越しでしたからね」

「それに上手くゆけば離婚出来るし、そうなったら子どもごと貴方のところに転がり込んでも!」

「へ?」

「あ……御免なさい、勝手な事ばかり言って」

 ぽかんと口を開けたイロハを見て項垂れる未来。

 拍子にヴェールが落ちたなら、額を軽く手の甲で叩いた。

「しかも全部が全部、貴方を利用する事ばかり。本当に御免なさい」

「いえ……ぅええ? えっと、あの、未来さん?」

「何?」

「その……違っていたら申し訳ないんですけど、話を聞いている限りだと、どうも僕にその、子どもの父親になれって言っているように」

「うん。ように、じゃなくて本気で。ぶっちゃけさ、貴方の方が閣下より良い父親に為れると思うの。私からの愛情は貴方に回る分、確かに減っちゃうけど、両親の仲が一方通行より遥かにマシかな〜って。イロハ、結構子ども好きそうだし」

「それはまあ、好きは好きですけど……あ、勿論子どもを食べるって意味ではなくてですね」

「? 当たり前じゃない」

「いや……世間ではそういう話もちらほらとありまして」

「ふ〜ん。よっぽど見る目がないのね、世間て」

「……未来さんに言われると形無しですね」

「そうかしら? だって仕方ないじゃない、イロハったら本当に素敵な人なんだもの」

「ぁう……」

 心底不思議そうな顔で返せば、赤面した顔が黒い手袋に隠される。

 イロハ曰く、彼は褒められる事全般に慣れていないらしい。

 この世界の人間が思う事など、結婚を迎えたところでどうでも良い未来にとっては、イロハを貶す言葉の方が見つけ難いのだが。

 あんまり賞賛し過ぎても、逆に苛めている気になってしまうので、未来は一旦口を閉ざすと立ち上がった。

「ま、これは名付け親になって貰いたい、って言ってから思いついた願望だからさ。イロハが気負う必要はないけど……頭の片隅ぐらいには置いといて欲しいな。それくらいの希望がないと正直やってらんないから……」

「未来さん……」

 イロハが隣に並んでも俯いたままの未来は、陰鬱そのものの溜息を思う存分吐き出した。

「分かっているんだ、本当は。シェイベルムは私を愛してくれているし、周りの皆も祝福してくれている。そしてきっと、私は……どれだけ跳ね除けてもいつかきっと、彼らが望む“私”になってしまう」

「未来――」

「怖いよ、イロハ……どうしたら私は変わらずにいられる? どうしたら彼らを憎んだままでいられるの――ううん、彼らを憎むのさえもう……疲れたよ。全部全部、疲れちゃったんだ」

 ヴェールが邪魔で覆う事は出来ない顔。

 震える手が翳されたその表情は、不安で彩られていた。

 否、初めから不安しかなかった。

 この世界で未来が真実安らげた時など、たかが知れている。

 そう仕向けたのは他の誰でもない自分自身だというのに、未来はイロハ以外の前で感情を自由に出せなくなっていた。

 寄る辺のない彼女は、彼らに嫌われない努力をしなければならなかったから。

 彼らが望む自分を演じなければいけない。

 感情を露わにして避けられてはいけない。

 植えつけられた不信感は今も尚、未来の中に息づいている。

 そんな自分を未来は恐ろしいと思う。

 おぞましいと悩む。

 イロハの前でこうして感情を露わに出来るのも、結局は彼が離れないと知っているためだ。

 彼が未来へ謝罪したように、未来もまた、彼が世界から悪と決め付けられている事を良かったと思っている。

 彼とまともに話せるのは自分だけ――その位置に安らぎを見出し、同時にこれを醜いと嫌悪する。

「なのに、この状態で誰かの想いを受け入れたら……私、どうなっちゃうんだろう?」

 仮初の自分と本当の自分。

 線引きがされていたからこそ辛うじて保たれていた関係は、それらが交わる事によって新たな歪みを生むだろう。

 最悪、仮初の姿だから受け入れられていた、などと結論が出てしまったなら――

 いつしか止まった震え。

 未来は途方に暮れた顔で静止した手を見つめた。

 ……違う。

 本当に怖いのはソレじゃない。

 本当に、真実、一番恐ろしい事は……

「……あのぉ、未来さん?」

 掛かる声は、慟哭にも似た少女の思いを聞いていなかったような呑気さ。

 おもむろに上がる視線は感情が失せた色。

 けれどイロハは怯むどころか、気恥ずかしそうに頭を掻いて笑う。

「そんなに嫌なら、元の世界に帰っちゃいますか?」

「…………………………………………………………………………………………………………は?」

 

 


UP 2010/2/24 かなぶん

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