帰宅のいろは

 

 召喚された時、未来が身につけていたのは制服ではなく私服。

 あれでも殺さないよう手加減はしていた、と後で聞かされた暴力のせいで、今はもうどこの世界にもない服だが惜しむ気持ちはない。

 ――が、しかし。

「はあ。こんな事なら似たような服、作って貰っとけば良かったかも」

 二度と来る事はないと思っていた、召喚後すぐに粗雑に扱われた王宮にある塔の一角。

 白いチョークに似た粉で描かれた魔法陣の上に立つ未来は、ここへ来るまでに見繕ってきた侍女服を引っ張った。

 そもそも、イロハが来た時点で可笑しいと思うべきだったのだ。

 世界に悪評しか轟いていない彼は、未来の世間体を慮って、帰る方法が見つかるまで会わないと先に告げていた。

 にも関わらず未来は彼が来た時、結婚するから、としか考えていなかった。

 この世界における唯一の友人が、祝いの言葉を掛けに来たのだ、と。

 「この度はご結婚――」まで言われたのだから、幾らその先を自分で遮ったとはいえ、イロハが来た理由が他に思いつかなかった。

 まさか帰る方法が分かったからやって来た、なんて。

 そーいやイロハ、最初に「こんな時にお伝えするのも難ですが」って言ってたっけ。

 結婚=墓場の公式が罷り通っていた未来にとって、その言葉は祝いの言葉を吐くための前置きに過ぎず。

 何やら一生懸命手元の本と魔法陣を見比べ、ブツブツ何事か呟く眼前のイロハを責める気は毛頭ないが、結婚したくないと盛り上がっていた分、現状には脱力感が伴ってしまう。

 しかも、どさくさに紛れてとんでもない告白をした後なのだ。

 感情の昂りに合わせて言ってしまった事は、紛れもない本心ではあるのだが。

 は、恥ずかしい……。

 思い返せば紅潮していく頬に、未来は両手を当てて瞳を潤ませた。

 そのままの眼でイロハを見つめながら、思う。

 帰れるのは嬉しい。

 帰す魔法が難しいというのは、真剣なイロハの様子からも分かるが、不思議と不安はなかった。

 そんなイロハだからこそ、確実に送り届けてくれると信頼しているから。

 けれど。

 帰っちゃったら、もう、イロハには会えないんだ……

 唐突に切なさを感じた胸がチクリと痛んだ。

 ほんの少しの小さな痛み。

 なれど、この痛みが引き連れてきたのは、その程度でしか感じられなくなるほどの喪失感。

 失いたくないと叫ぶ心を抑えるように、未来は胸元に拳を作った。

 この世界で得た掛け替えのない関係は、けれど、あくまでこの世界のモノ。

 だから言ってはいけない。

 喉元まで出掛かっている言葉を唇を噛み締めて封じる。

 帰れるようになったと分かった途端、こんな風に思ってしまうのは卑怯だと自分を詰る。

 たとえ忌み嫌われる存在であろうとも、この世界で生きてきたイロハに対して、私と一緒に来て欲しいなど。

 絶対に、言ってはいけない言葉だった。

 特に召喚によって別世界からここへと降り立った未来には、言えない言葉だった。

 見知らぬ人々、見知らぬ国、見知らぬ大地、見知らぬ空気――

 在るモノ全てが、自分を異質だと糾弾する場所。

 イロハにとっては未来の本来在るべき場所こそが、そんな場所なのだ。

 ……それでも未来が言ったなら、イロハはきっと、何も言わずに一緒に来てくれるだろう。

 だから、言えない。

「未来さん? どこかお加減が悪いのですか?」

 同じ気持ちだと言ってくれたのに、別れ際でさえ変わらぬ優しさで接してくれる彼には。言う訳には、いかないのだ。

「ううん。ちょっと武者震い」

 準備が終わったのか、恐々問い掛けてきたイロハに未来はにこりと笑ってみせた。

 間近の別れならば、せめて言えぬ言葉の代わりに笑って別れよう。

 そして願うのだ。

 今度はこの世界の誰かが、彼の得難い半身と為ってくれる事を。

 帰ったなら普通の高校生に戻る未来と違い、イロハが共に歩んでくれる存在を見つけるのは難しいから。

 誰か、彼の傍にいてあげて。

 懇願に近い悲鳴にも似た思いで未来は何者かに祈ると、胸元の拳を解いて深呼吸を一つ。

 キッと前を向いては、元気そうな様子にほっとするイロハを見つめた。

「それでは帰還の魔法を――と、その前に」

「イロハー、いきなり出鼻挫かない!」

「あ、すみません」

 いよいよ帰る時が来たのだと気を張った未来は、やや大袈裟に傾ぐと恐縮するイロハを睨みつけた。

 どんな時でもマイペースを崩さない彼に苦笑を浮べる反面、未来は小さく息を吐き出した。

 もしかしたら私が思っているほど、イロハはこの別れを寂しいとは思っていないんじゃ?

 長い時を生きている彼にはこの別れさえ、簡単に過去へ変えていける代物なのかもしれない。

 少し悲しく思いつつも、それならそっちの方が良いと未来は思った。

 イロハにとっても――自分にとっても。

 引き摺るよりは思い出に変えてしまった方がずっと良い。

 もう一度、大きく息を吐いた未来は、姿勢を正すとイロハに先を進めるよう動作で示した。

 これに頭を掻きかき、照れくさそうにフード下で笑ったイロハは、気を取り直す形で唇を真一文字に引き結んだ。

「すみません。では、これから少しだけご説明させて頂きます。まず、未来さんがお戻りになるのは、未来さんが召喚されたすぐ後の世界です」

「……え?」

「つまり、こちらではだいぶ経っていますが、あちらではほんの数分ぐらいしか経っていない状態、ということですね」

「いや……ですね、って言われても」

 未来がこの世界に召喚されてから、一年以上は経っていたはず。

 思わず自分の両手を見下ろした未来に対し、この行動の意味を察したらしいイロハがすぐに頷いた。

「ええ。未来さんの仰りたい事は重々承知しております。ですがご安心を。確かにこちらの世界で過ごした時間は未来さんの身体を成長させていますが、あちらの世界ではその成長は無効となるのです。もし成長した時間があるとしたら、それは未来さんがいなくなった数分間しかありません」

「え、っと、物の数分で戻った事になるんだったら、成長していないのは嬉しいけど……何で?」

 一応、一年以上もこの世界にいた上、諦めて結婚しかけた未来は、この世界の魔法に関してそれなりの知識を持っている。

 このため、イロハがあっさりと言ってのけた魔法の効果には、ただただ首を傾げるしかなかった。

 物の数分で戻れる事は理解できる。

 未来を元の世界に戻すため、彼女の中に眠っているはずのその世界の記憶を使うからだろう。

 これはその昔、移動魔法を作った魔術師の失敗談の応用だった。

 何でもこの魔術師、久しぶりに以前行った場所へ魔法を使って移動しようとしたのだが、あまりに久しぶりだったため、現在の場所と過去の場所との相違が酷く、時間ごと移動してしまったらしい。

 この世界における魔法の原理は、大気中に存在するという不可視の精霊が関係している。

 彼らは魔術師が口にする、魔力の籠もった言葉を自分たちへのお願いとして解釈、実行に移すのだが、そこは人間と精霊という種族の差、炎を出して欲しいとそのまま言ったところで精霊は理解できず、また対象が不確定である場合には、願いを聞き入れた精霊の独断で事を進めてしまう。

 前者を解消するには呪文が、後者を解消するには明確な意思表示が必要であり、前述の空間移動は呪文条件を満たしていたにも関わらず、自身の記憶を目的地設定の媒体としたために、精霊が独断で時間ごと移動させてしまった、という次第である。

 しかも彼は、元の時に至る前にこの世を去ってしまう。

 死因は老衰だった。

 空間移動の捩れによって時間移動を可能とした精霊ではあるが、身体に流れてしまった時間の面倒までは見てくれないらしい。

 彼らが個々人単位で干渉できるのは、あくまで現在流れている時間だけ。

 空間を歪められる事は出来ても、野菜の鮮度を取り戻す事は出来ないのが、精霊という存在であり、この世界における魔法の原則だった。

 ゆえに一年をこちらで過ごした未来は、訳が分からないと首を捻るのだが、イロハは何でもないというようにケロリとした顔で言う。

「簡単な話です。確かに未来さんはこちらで過ごされましたけど、向こうでは未来さんの時の流れは止まったままなんです。勿論、帰る時間にもよりますが記憶を頼りに戻るため、その心配はないでしょう」

「え、えーっと、御免。整理するから。うんと、それって要するに、仮に、本当に仮にだけど、元の世界に戻った私がもう一度この世界に来た場合、その齢から一年加算された姿になっているって事?」

 軽く手を上げながら本職の生徒を気取る未来に、教師役のイロハは少し違うと首を振った。

「時間移動は言わずもがなですが、他空間同士の移動の法則にも、独特のモノがあるんです。未来さんが挙げた例ですと、未来さんはこの先、この世界のどの時間に来たとしても、この世界で過ごした姿、つまり現在の姿で現れることになります。百年前の過去であっても、百年先の未来であっても」

「何か……面倒な話ね」

「あはははは。では、こう考えて頂くのはどうでしょう。元の世界では、その世界で流れた時間に応じて未来さんの姿が変わってしまいますが、こちらの世界では、こちらの世界で最後に過ごした時の姿で、それも過去未来関係なく移動ができる、と。勿論、どちらの場合でもそれぞれで経過した時間は、未来さんの中に蓄積されていくわけですが」

「ふーん? 何だかこっちの世界の方が良いって言われている感じ。ちょっと癪に障るわ」

 心底嫌そうな表情を浮かべて舌を出したなら、口元に手を当ててイロハが笑う。

 上品な仕草でひとしきり笑ったイロハ、気分を変えるように首を振っては、「兎も角」と続けた。

「兎も角、未来さんが元の世界に帰った時、不都合を感じるとすれば、未来さんは一年ぶりのつもりなのに、相手にとっては数分しか経っていない、という事です」

「……あー、そう言われるとすっごく実感できた。何だか大変そうね。うぅーん。知人程度だったら軽く三十人くらい、顔と名前が一致しなさそうだわ」

 果たして帰れないと言われ続けたこの一年、新たに記憶してきた人間たちは、向こうでの知人の顔をどのくらい消しているだろうか。

 周囲との思わぬブランクに未来が頭を抱えて蹲れば、宥めるようにイロハが両手の平を振ってみせる。

「まあまあ、未来さん、若いんですから大丈夫ですよ」

「……イロハに言われると説得力ない」

「ぅええ!? ひ、酷い。僕だってこれでも色々頑張っているのに」

 両頬に手を当て、くすんと鼻を鳴らすイロハ。

 芝居がかったソレには半眼を返しつつも、立ち上がった未来は腰に手を置き背中を伸ばしながら苦笑する。

「違う違う。そうじゃなくて。イロハって、私より長生きしているけど、私が生まれてくる前の事まで覚えているじゃない? 記憶力抜群なんだなーと思ってさ。それに比べて私は…………………………ああっ!!?」

「はいっ!? ど、どうされましたか、未来さん!?」

 唐突に声を上げれば、つられてイロハの身体がビクッと震えた。

 しかして未来に構っている余裕はなく。

「ど、どどどどどうしようっ!」

「な、なななななにが!?」

「テスト、テストテストテスト!! 一年前っていったら、次の日に英語の小テストがある日なのよ!!」

「ぐえっ……ちょ、未来さ、苦しっ」

 魔法陣を避け不用意に近づいたイロハの胸倉を掴んだ未来。

 血走った眼は魔術師のローブが激しく揺れても在らぬ場所を見、思いのままにその身体をガクガク揺さ振っていく。

「み、みぐっ、さんっ……ふ、踏む、踏んじゃいます! ま、魔法陣、魔法陣が――ああっ!!」

「きゃっ。え? イロハ?」

 下から掬い上げるように手を払われ、ようやく未来が我に返ったなら、地面にしゃがみ込むイロハの姿があった。

 何やら不味い事をしてしまったらしい。

 未来も一緒になってしゃがんだなら、描かれていた魔法陣が少しだけ崩れているのが見えた。

「うわ、御免」

 魔法陣を壊したと理解し謝罪を述べる未来に、当のイロハは修復に勤しむばかりで沈黙しか返してくれず。

 お、怒らせちゃったのかな? やっぱり怒るよね? 最後の最後でコレとか……うあー、どうしよう!?

 傍目には地面にぐりぐりと、難解なお絵かきをしているようにしか見えないが、魔法陣の精製にはかなりの集中力と膨大な知識、線に絡める一定量の魔力が必要となる。

 一度使えば最後に使用した時から一定期間、その場所に魔法陣が記録されるため神経質になる必要もないのだが、今現在、イロハが作り上げているのはこの場所にはなかった魔法陣。

 とするならば、掛かる労力はどれほどのものか。

 加えての破壊は、もういっそこのまま送ってしまえ、と投げ出されても仕方がないくらい、魔術師の神経を逆撫でする行為だった。

「…………」

 無言を貫き黙々と魔法陣を描いていくイロハの横で、未来はおろおろするしかなく。

「ふぅ。どうにか修復出来ました。それでは未来さ――どわっ、わわわわわ!?」

 どれだけ集中していたのだろう、隣でしゃがむ未来に今頃気づいた様子のイロハは仰け反ると、不安定になってしまったバランスを取るべく、宙をじたばた手で掻いた。

「い、イロハ!?」

 イロハの驚く姿に驚き、反応が遅れてしまった未来は、慌てて立ち上がると彼の手を掴んで引っ張った。

 全体重を乗せればイロハの身体が起き上がり、今度は未来の方が倒れかけるものの、背中に回された腕によって、何とか魔法陣の破壊を食い止めることが出来た。

 ――けれど。

「……イロハ?」

 抱き寄せる腕が一向に解けないのを知って、怪訝な表情が未来に浮かんだ。

 肩越しに部屋の扉が見える、未来より少しだけ高い背の持ち主は、そのまま未来の肩に頭を乗せてくる。

 魔法陣を描くのに疲れてしまったのだろうか?

 そう思った未来は自分からもイロハの背中に腕を回し、頭に手を這わせては、少しでも楽になるようにと願いつつ撫でていった。

 すると肩口に掛かる吐息。

「大丈夫。大丈夫ですから。……そうだ、未来さん。言い忘れていましたけど、空間移動って結構魔力を喰うんです。だから、この魔法陣を使うに当たっては、今使っている魔法を全部キャンセルしなければなりません。そうなると、式場に貴方がいないという事が分かるし、僕が現れたという事も分かってしまうんです」

「それって……すぐに此処がバレちゃうって事?」

 咀嚼するように問い掛けたなら、ゆっくり離れたイロハが同じくらいゆっくりと頷いてみせた。

「はい。ですから……絶対に、この魔法陣からは出ないで下さいね? この魔法陣の要は貴方。貴方の記憶の中にある貴方の世界なんです。キャンセルと同時に発動させますから……」

 ふらりと傾ぐように未来から離れていったイロハは、魔法陣の外、部屋の扉の前まで歩くと、こちらを振り返って両手を宙に向かって軽く伸ばした。

 瞬間、どこからともなく現れた、透明な水晶玉を宙に頂く、古びた杖がイロハの両手に納まる。

 すかさず杖の先端で、魔法陣から伸びる線の一つを突いては、杖の自立と同時に止まっていた時が動き出す。

 静から動へ。

 水晶が風を巻き起こせば黒い手袋が翳される。

 そして――。

“此方と彼方、交わりし一の言の葉、為せる意のままに――遊ぶがよい、踊るがよい、設けし場はそなたらに与えられん”

 魔術師独特の発声法により響く“声”。

 高圧的なそれに呼応する形で、イロハのフード下の唇が傲慢に笑えば、禍々しく歪な笑い声が高らかに、歌うように部屋中に満ちていった。

 

 


UP 2010/3/2 かなぶん

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