帰宅のいろは
未来の予想通り、史実にある邪悪なる魔術師の所業は、全てがイロハの行いではない。 無論、人間の二親から生まれながら容姿の特異さゆえに放置され、魔物の気まぐれで拾われ育てられた彼が、魔物を敵とする人間に害を及ぼさなかったわけでもない。 それでも、殲滅の魔術師という通り名を持つに至ったあの日、彼は確かに人間たちの敵だったと自身を振り返る事が出来る。
助けるはずだった魔物たち。 助ける約束で作ったはずの、当初はただ対象を眠らせるだけだった呪い。 作成に必要な材料がそんな彼らで賄われていたと、完成後に知らされた彼は、直後呪う王よりも先に、己に対する苛立ちから崩れ落ち、床に爪を立てて血が滲むまで歯を食いしばった。 どこかで気づいても良いはずだった。 一口に魔物と言っても小動物然のか弱い彼ら、助ける事で頭が一杯になっていたとしても、可笑しいと思う事は出来たはずだ。 材料はこちらで揃えるという王の言葉を不審がる事も。 だというのに何故、完成するまで、交換だと呪いを込めた瓶を渡し嘲笑され一蹴されるまで、気づかなかったのだろう? 答えはすぐに出る。 まさか、と思っていたのだ。 まさか約束を反故にはしないだろう、と。 悪名高い魔術師との約束、それ以前に人間同士の約束だから。 だから彼は王に従った。 その気になりさえすれば、取引なぞせずとも魔物たちを助けられる力を持ちながら、劣勢続きの長い戦に疲れ果て、早い解決を望む王の訴えを聞いていたから。 けれど、約束は全て違えられた。 捕まった魔物たちの姿を取引の証拠として見せて後、すぐさま材料に加工した王は嗤う。 通信魔法の向こうで、先に渡せと言った瓶を掲げながら、打ちひしがれる彼へ。 「化け物の使い道なぞ、この瓶か……ほれ、お前が適当ぞ」 彼の王が最期に発した言葉は引き金となった。 永い生を与えられてから此の方、生存本能のみに従い惰性で生き続けてきた彼が、生も死も、個も世界も、放棄するための――
しかし、彼の復讐とも呼べる虚ろな思いは、一人の少女の出現によって終わりを迎えてしまう。
それまで何もなかった宙に、ぱっと現れたのは二つの影。 「ぃだっ!!」 「ふげっ」 態勢を正せぬまま、そこから落下した未来は衝撃に声を詰まらせたが、何かがクッションになってくれたらしく、顰めた視界に映るアスファルトの固さは免れた。 と安堵したのも束の間、不安定な柔らかさに尻を押さえて立ち上がれば、青白い街灯の下、照らされる姿があった。 折り曲げた両腕の先を頭の左右に置き、両足も両腕と似たような形で開いては、ひくひくと唯一露出する口の端を引きつらせている。 自分でした事ながら、しばらく茫然と眺めているだけだった未来。 「えーっと……お、おーい、生きてる?」 我に返っては傍に膝を落とし、倒れたままの肩を軽く揺すってみた。 反応は小さい咳を起こし、とりあえず死んではいないとほっとする。 「はあ、良かった。無事みた――」 「げほっ、ぐっ、がはっ」 安堵の声を合図にしたわけではなかろうに、激しくなる咳に併せて仰向けの身体が勢い良く跳ねた。 あまりの激しさに未来が上半身を逸らしたなら、飛び起きた身体が蹲って咳を続けた。 血でも吐きそうなほどの酷い咳に、戸惑いながらもその背を擦ってやる。 ……酔っ払いを介抱しているみたい。 口では「大丈夫?」と心配しつつ、場違いな事を思う。 たぶん、地へと落ちた時の衝撃のせいだろう。 彼の上に落ちてしまった未来でさえ息が詰まったのだから、落下したすぐ後に意図せず彼女を受け止めたダメージは計り知れない。 もしも頭を打っていたりしたらどうしよう、と過ぎる恐怖はあるものの、咳にやられている彼の手は口元だけを押さえている。 きっと大丈夫……なはず。 頼りない認識から一瞬、彼を見る目を逸らした未来は、いやでもあの場合仕方がなかったのよ! と小さく拳を握った。
元の世界に戻るための魔法が完成した直後。 イロハの微笑を見た未来は思った。 死ぬ気だ、と。 長い時を生きてきたとはいえ、外傷を与えれば彼は死ねる。 どれだけ人間離れしたプロフィールを持つイロハであっても、彼はやはり人間で、生ある者は死ぬ者でもあるから。 なればこそ、普段用いぬ挑発的な態度でエリエルドと対峙していたのだろう。 理由は、分からない。 タイミングだけを考えるならば、未来がいなくなるせいとも思えたが、彼女は自分がそこまで彼に影響を及ぼす存在だとは信じていなかった。 イロハに対する未来の想いは本物だが、イロハの想いは違う。 そう見えていたなら、それはただ単に未来の想いにイロハが合わせてくれただけ。 悪く言えば、未来に流されていただけだ。 一度きりだった邂逅にしてもそうだ。 未来にとってイロハは、慣れない世界で初めて真に望むモノを与えてくれた人。 帰りたいという彼女に、手を差し伸べてくれた唯一の人だ。 一方で、イロハにとっての未来の存在なぞたかが知れている。 名付け親になったとはいえ、帰るための魔法を作り上げてくれたのだから、未来に恩義を感じる必要はない。 長い時を生きてきた彼が、あの邂逅を未来ほど喜んだとは到底思えなかった。 しかし、その理由は分からずとも、死ぬつもりである事は明白。 となると未来の足は自然、魔法を完成させたばかりの魔法陣を避けながら、彼に向かって駆け出していた。 移動の準備か宙に浮いてもなお、腕だけはイロハへと伸ばされていく。 魔法陣から出てはいけない――先刻のイロハの注意が頭を過ぎったものの、完全に出さえしなければ大丈夫、なはず。 何せ未来をけしかけたのは、この魔法陣を発動させている精霊自身。 魔法が失敗することはない、でしょ、たぶん、だといいなぁ……。 そんな頼りない確信の元、魔法陣から肩から上を出した未来は、エリエルドの刀身が煌いたのを見るなり、イロハが振り返る間もなく、彼の両肩を抱き締めて自分の方へと引き寄せた。 直後、一陣の風が未来の袖を切り裂き、辺りから数瞬後れでどよめきが走った。 ここに来て未来はエリエルドの後ろ、扉を埋め尽くす形で兵士たちが群がっているのを知り。 “み、未来さん……” 精霊とは違うイロハの茫然とした声を聞いたなら、思わぬ注視に真っ白になった頭が勝手に口を開いた。 「帰れる事になったから帰ります。でもこのまま大人しく帰るのも癪なので、コイツを手土産に貰っていきます。それでは皆様さようなら」 ――皆さんの事は何が何でも忘れます。積もりに積もった恨み辛みも全て、これからの私には不要ですから。 後半部分のドス黒い感情は胸の中だけで吐き出した。 綺麗に別れたいとは毛ほども思わないが、これ以上、彼らの中に自分を残して置きたくなかった。 たとえ、悪感情だったとしても。 一息に言い終えた未来は誰とも視線を合わさずイロハを見下ろすと、にたり、嗤ってみせた。 鏡で確認していないため、それがどんな嗤い方だったかは知らないものの。 魔法陣の中に引き摺り込む直前に見たイロハの顔は、あからさまに怯えを示していて。 ククッと金色の光の中で喉を鳴らした未来は、下がった溜飲に瞼を下ろした。 絶対放してやるもんか、と腕の拘束を強めながら。
そんなこんなで着地点、未だ咳き込むイロハの背を擦りさすり、他人事のように呟く。 「うーん。これってやっぱり、誘拐なのかな?」 返事を待っていない視線は、一年前まで見慣れていた、夜間の閑静な住宅街をぐるりと巡っていた。 記憶違いでなければ、未来はこの場所で異世界に召喚されてしまったのだ。 確か、まだ明るい夕方の時分に。 「えーっと……あの時って私、どうして外に出ていたんだっけ?」 思い返せば召喚時、未来が身につけていたのは衣服だけで、財布や携帯電話も持っていなかった。 かといって、召喚された時に落とした、という記憶もない。 ここから未来の家までは二、三分の距離だが、鍵すら持っていなかったと思い出せたなら、未来の顔色が一気に青くなっていった。 「や、ヤバい……早く帰らないと!」 「ホオ? 何がヤバいってんダ? 未来チャン」 「!!」 イロハではない声が背後から未来の肩に手を置いた。 あまりの驚きに口を開閉するしかない未来は、恐る恐るゆっくり後ろを振り返る。 正直、見知らぬ人間だったら、どれほど良かっただろうか。 けれども未来が視界に納めた人物は、家を出た時とは違う格好をしている彼女の名を、背中を向けた状態だったにも関わらず見事に当てて見せたのだ。 確実に未来の知り合い、且つ―― 「あ、アキ兄ちゃん……」 青筋を立ててにっこり笑う兄・明人(あきと)の姿を目の当たりにした未来は、一年ぶりの再会よりも先に、ようやく呼吸を整えたイロハをどう説明したものか迷ってしまった。
ところで、妙なイントネーションで喋る兄だが、これは別に彼の個性ではない。 一年前までは普通に会話していたのを未来はきちんと憶えていた。 すると原因は、異世界にあると推測される。 この推測を兄の眼を盗んでイロハへぶつけてみたところ、異世界で掛けられた言語解読の魔法により、未来の耳が可笑しくなっているせいだ、との答えが返ってきた。 ある程度時が経てば直るので、放っておいても問題はないらしい。 ちなみに、彼女の話す言葉は普通に聞こえるらしく、イロハ共々連行された自宅の居間で、早速兄から説教を喰らう羽目になってしまった未来は、不公平だと内心で愚痴った。 召喚という不可抗力で帰りが遅くなった事は兎も角、未来の身を案じて説かれる正論がまともに聞こえないのは勘弁して貰いたい。 毎日であれば嫌気の差すところ、一年ぶりならばしっかり拝聴しようと思うのに、聞けば聞くほど笑いたくなる。 これを隠すべく視線を下げる未来であったが、堪えきれない笑いは肩まで揺らす始末。 だがしかし、そんな未来の様子は正しく伝わらず、周りの男たちには泣いているように見えてしまったらしい。 同じソファーに腰掛けさせられたイロハはおろおろし、説教をしていた明人に至っては、面を食らった表情になってしまう。 「あーア、明人。未来ちゃん、泣かせちゃったネェ。親父、怒るんじゃナイカ?」 そこへ掛かる、もう一人の声。 明人と共に帰りの遅い未来を探し回り、見つかったと連絡を受けては先に家に帰っていた、長兄の晴人(はると)である。 「う、煩い! 兄貴は黙ってロ! って、未来も泣くナヨー」 明人に窘められた晴人は、困り果てた弟を小馬鹿にした態度で肩を竦めて、掛けていた眼鏡を押し上げる。 「泣きたくもなるヨナー? 帰って早々、一方的に説教食らわされてんだカラ。マズは未来の言い分も聞いてヤレ、明人」 ぽんっと気安く弟の頭を叩いた晴人に対し、これを払い敵意剥き出しの眼で睨みつけた明人、打って変わっては未来へ静かに問い掛ける。 「デ、未来。何があったんダ? そんでもって……コイツは?」 「アト、お前らのソノ格好も、ナ。どっからどう見てもコスプレだゾ、ソレ」 「うっ」 テーブルを挟んで向かいのソファに座る明人と、その斜め後ろで背もたれに寄りかかる晴人。 二人の兄の視線を一身に浴びた未来は、コスプレと評されても仕方のない自身の格好を改めて見つめる。 一年というブランクは、未来が思っている以上に長かったようだ。 帰るために選んだ服は、異世界で見る分には普通だったにも関わらず、自分と同じ黒髪黒目の兄たちの装いを見た後では、どっからどう見ても舞台衣装にしか見えない。 「えーっと……に、似合わない?」 感想を聞いたところでどうしようもないだろうに、引き攣った愛想笑いを浮かべる未来にはそれくらいしか言葉が思い当たらなかった。 と、ここで何故か顔を見合わせる兄が二人。 コクッと首を縦に振っては一言。 「「ドウせならもっとカジュアルなメイド服にシロ」」 「この兄どもは……」 異口同音。 先程までのからかいからかわれの関係はどこへやら、息ピッタリに指を差してきた兄たちに、笑みを忘れた未来は頭痛を堪える素振りで頭を押さえた。 「イヤ、そっちの方が絶対似合うと思うゾ、俺ハ」 「ソウソウ。お前が着るニハえれがんと過ぎル。年を考えろ、年ヲ」 「……その台詞、使いどころ間違ってない?」 他にも言いたい事は多々あれど、徐々に自分の家族がどういう人間だったか思い出してきた未来は、ぐったりしたていでソファーに深く腰掛けた。 次いでちらり、姿勢も正しく座っているイロハの姿を視界に入れた。 コスプレと言われても遜色ない未来とは違い、イロハの格好は自宅にあっても変には見えなかった。 欲目がないとは言い切れないが、室内であっても脱がない古ぼけた外套を羽織った姿は、なかなかどうして堂々としたものである。 そんな未来の視線を感じたのか、ふいに顔だけ未来の方へ向けたイロハは、本当に自分が見つめられているとは知らなかった様子で、少しだけ戸惑いを表情に宿した。 けれども一瞬の事。 転じて安心させるように口元を笑みに象り頷いてみせた彼は。 「あの」 「「ン? 何ダ?」」 「……い、いえその、あの…………やっぱり何でもないです」 「「……はア?」」 息の合った兄弟の注目が自分に集まるのを怖れ、早々に膝に置いた両手へと視線を落としてしまった。 |
UP 2010/4/5 かなぶん
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