帰宅のいろは
未来の二番目の兄・狩谷明人が妹を見つけた時、最初に思ったことと言えば「流石は俺の妹」であった。 何せ彼女は蹲って苦しんでいる誰かの背を優しく擦っていたのだ。 しかし、近づいてみるにしたがって、何やら可笑しいと気づいてしまう。 明人の記憶力は、来年受験を控えている妹より良い方だった。 学校から帰宅後、私服に着替えてゴロゴロしていた妹は、ふと思い立つと友人から借りていた物を返すため、そのままの格好で出かけて行ったはずだ。 兄が二人も家にいるのだから鍵は持っていかない、とまで言って。 返却しに行った友人の家はすぐ近く、心配する必要はない――なのに、いつまで経っても返ってこなかった妹は。 あいつ……何だってあんな格好しているんだ? どれだけ記憶を遡っても、妹が持っている服にあんなモノはなかった。 中世時代の侍女の洋装。 しかも随分地味系の色彩は妹よりももっと年上の、母親くらいの年齢の女が着た方が似合うだろう。 妹には荷の重い代物である。 もしかして別人? いや…… 背を向けている状態、加えて蹲っている人物に合わせてしゃがんでいる姿は、見ようによっては妹ではないとも思えるが、彼女がこの世に生を受けてからの付き合い、そう簡単に見間違えはしないだろう。 と、ここで明人はもう一人、蹲る人物にも不審の眼を向けた。 妹の優しさと奇異な格好に目を奪われていたものの、介抱相手もよく見てみれば珍妙な格好をしている。 というか、その領域は既に不審者以外の何者でもない。 ご丁寧に頭まで覆い隠している、随分と年季の入った外套。 黒い手袋に滲む紫の洒落た刺繍。 極端に露出の少ない見た目は、不審者然の男の雰囲気に合っている気もしたが、隣に妹がいる時点で色々アウトだった。 明人の脳裏に過ぎる、最近周辺で多発している不審人物の目撃情報。 ここは兄として妹を守るべきだろう。 とりあえず、共に妹を探しに出た兄の晴人へ連絡を取ってから、明人は妹に声を掛けた。 一刻も早く、この不審者から妹を遠ざけるために。
それがまさか、自宅にまで招く事になろうとは予想だにせず――
未来の兄たちの注目を受け、口を噤んだイロハ。 けれども一度言いかけた言葉を見逃してくれるほど、彼らは優しい性格をしていなかった。 これをよく知っている未来は助けられる船を捜して口を開こうとするのだが、何一つ名案が浮かばないためすぐに閉じてしまう。 結果、沈黙は重苦しくイロハの身に圧し掛かり。 程なく折れたイロハ、言葉を探すように逡巡しては一気に喋り抜く。 ヘタな誤魔化しには一切走らない、至極正しい、けれどもゆえに酷く場違いな話を。
未来が異世界に飛ばされ、自分が異世界の人間だと語り終えたイロハ。 馬鹿正直に告白するとは思っていなかったため、完全に聞き手回ってしまった未来が我を取り戻すその前に、兄弟の中で最初に動いたのは始終笑ったままの晴人だった。 「すまん……ソレ、信じろっテ?」 正気を疑う口振りから、笑っているのは顔だけで、中身はばっちり動揺ないし呆れているのだと分かる。 額に手を当てて項垂れる明人の様子も、似たような心情を表していた。 当然の反応だと思う。 一年前、召喚された未来でさえ似たような思いを抱いていたのだから、異世界を目の当たりにしたわけでもない兄たちが信じられる要素など、今の話のどこにあるというのだろうか。 だが、狩谷兄妹の反応を余所に、イロハはくすっと口元を笑みに歪め、手の平を宙に差し伸べる。 「ご心配なく。信じる必要はございません。ご覧頂ければ済む話ですので」 「ハあ? ご覧頂ければって何ヲ――――――ぅおっ!?」 瞬間、差し伸べられた手の平から立ち昇る火柱。 「い、イロハ……魔法、使えたんだ?」 魔法自体は異世界にいたせいで、随分馴染みの深いモノになっていたものの、魔法を幻想とするこの世界で目にしては、驚きよりもその特異さに息をごくりと呑み込んだ。 そんな未来を知ってか知らずか、火柱を起こしたまま彼女の方を見やったイロハは、口の端をくいっと上げて笑う。 「ええ、使えます。とは言っても、元の世界に関係のあるモノにしか効きませんが」 「う……」 何気ないイロハの言に、未来は別の意味で息を呑み込んだ。 未来にとっては異世界だったとしても、イロハにとってはあちら側こそ元の世界。 分かっていたはずなのに、するりと出てきた単語は今頃になって未来の胃を締め付けてきた。 そうよ……確かに私は、直前までイロハを連れてくる気なんてなかった。イロハにはこっちが異世界なんだって、だから一緒に行こうなんて言えないって考えていた。 死ぬ気だと知ったから、無理矢理連れて来てしまったのだけれど。 もしかしたらイロハはあの時、あのまま死を迎えてしまいたかったのではないか。 あちらで死ぬ事がイロハの望みだったのではないか。 巡る仮定の話に一人悶々と未来が悩めば、素知らぬ風体でイロハが先を続けた。 「この場合は僕ですね。僕の手の平を媒体にして精霊を呼び寄せ、炎を起こしたんです。異なる世界間の物質の移動は困難を極めますが、精霊は呼びかけさえあればどこにでも現れる事が可能……みたいです」 「み、みタイ?」 火柱の熱さから逃れるように背もたれにしがみ付いた明人が問えば、そちらへと顔の向きを変えたイロハが申し訳なさそうにフードの後ろを空いている手で掻いた。 「あ、はい、すみません。実際、僕もこちらで魔法が使えるとは思っていなかったんです。でも未来さんが」 「へ? わ、私?」 突然の指名を受けて三人の視線を集めた未来は、居心地が悪そうに身を捩った。 イロハは頷くと、今一度兄たちの方に向き直り。 「未来さんの喋る言葉が僕にも理解出来たので、もしかしたら、と思ったんです。こちらに来たら魔法の効果が切れると考えていましたが、精霊には世界の区切りがないのかもしれない、と。それで最初に言語解読の魔法を自分に掛けて、それから――――いえ、それは兎も角として」 「チョイ待ち。何で俺ヲ見た。デモって目を逸らシタ」 火柱を怖れつつもイロハの不審な行動に、背もたれにしがみ付くのを止めた明人が素早く問いただす。 躊躇するような沈黙を経て、イロハの口が戸惑い気味に開いた。 「ぅう……あ、あの、怒らないで下さいね? 僕が咳き込んでいた時、死角から近づいてくる人がいたんです。しかもいきなり未来さんに話かけて、未来さんも怖がっている様子でしたので、つい……影の魔法を飛ばしてしまいまして」 「……ツマリ何か? 俺に向けてコンナ物騒なモンを放ったって事カ?」 明人の早い理解におずおずイロハの首が縦に振られた。 「そ、そうです。でもそのお陰で、この世界における魔法の制限を知る事が出来たんです」 「フーン? チナミにどういうのをコイツに掛けヨウとしたンダ? 話を聞いている限りジャ、コノ火柱は影の魔法ってのには当て嵌まらナイだろう?」 火柱の影を眼鏡に映しながら晴人が問えば、イロハの口が真一文字に引き結ばれてしまう。 かなりの緊張を感じているようで、未来からは薄っすらと脂汗を滲ませる頬が見えた。 またしても集中する視線にイロハの肩が観念したように落ち、と同時に火柱が跡形もなく消え去った。 「ど、どういうのとはその…………………………………………………………対象の足下から実体化させた影を伸ばし捕縛、徐々に締め上げ最終的には、ええと、あの、その」 「殺すってワケか」 「ナっ……」 絶句する明人に晴人はただただ疲労を多分に含ませた溜息をついた。 がくっと背もたれに寄りかかる腕へ額をくっつけては、辛そうな声で感想を漏らした。 「あー……こんな話、普通に信じル奴がいたら見て見たいトコロだな。ケド……確かに見ちマッタもんな、俺ラ。コイツ自身が信用に値スルかドウカって事より先に、魔法ってのをサ」 「晴人はまだ良い方ダロ? 俺なんか、知らない内ニ殺されてたカモ知れないんダゼ?」 反応はそれぞれだが、兄たちはイロハの言葉を現実だと認める事にしたらしい。 これに未来は少しだけ驚いた。 場合によってはイロハが出した火柱でさえ、手品や立体映像といったモノに、多少強引にでも置き換える事が出来るのに。 「信じるんだ……?」 ポツリと呟いた言葉は、一年前、異世界に召喚されてからしばらくの間、周りの人間を拒否し続けていた自分を思っての事である。 あの時、異世界にいるという事実を、殊更魔法という不可思議な力への理解を拒み続けていた未来にとって、兄たちの柔軟な思考はそれこそ信じられない話だった。 それともこれは、自分たちの世界にいるという強みからくるものなのだろうか。 早い理解を喜ぶでもなく茫然とする妹に対し、二人の兄はゆっくりと首を振った。 「信じてはイナイ。タダ、認めたダケだ。でなけりゃ、一向に話が進まナイからな」 「ソウそう。ソイツが初対面の奴を殺そうトスル、ダイブ危ない思考の持ち主ってノハ分かったが、モット肝心な事がアルんだ」 「肝心な、事?」 イロハの思考の危険さに関しては、あれだけ褒め称えてきた未来にも異論はなかった。 事ある毎に、この世界を滅ぼしてしまいましょうか? と「今日の晩ご飯は何が良い?」と聞くノリで尋ねてくる相手なのだから。 眉根を寄せて困惑する未来に併せ、イロハも戸惑いを示して身を縮ませていく。 対面する二人の様子を見比べるようにたっぷり時間を置いた晴人は、おもむろに移動すると明人の隣へ腰掛けて問う。 眼鏡奥の切れ長の瞳を細めながら。 「そう、アンタの目的だ」 「「え? 目的って」」 異口同音。 今度は未来とイロハが揃って声を上げ互いに顔を見合わせたなら、眉を顰めた明人がテーブルを叩いて二人の視線を自分に集める。 「未来、お前は黙ってロ。俺たちが聞いてんノハ、コイツであってお前デハ――」 「いや、でもアキ兄ちゃん、イロハに聞いても答えられないと思うんだけど」 「……いろは?」 「何だ? 異世界ってのはソウイウ名前が流行っているトコロなのカ?」 不思議そうな声音で問い掛ける兄二人へ、ぐっと詰まった未来とは対照的に、ここに来てイロハが自信満々に胸を張った。 「ええ、そうです。ずっと名前のなかった僕に、未来さんが名付けて下さったんです」 「「未来……」」 「…………」 大方、何て名前を付けやがる、と言いたいのだろう。 名前を呼ばれただけで言いたい事を察せるなんて、一年のブランクがあっても兄妹の絆は強いのねぇー、とあらぬ方向を見つめた。 ぴしぴし顔に当たる非難の視線を逸らしに逸らす未来へ、二人の兄は仰々しく溜息をつくとほぼ同時に項垂れてしまった。 どうやらイロハという名前に関してつっ込むのを止めたらしい。 未来の隣でなおも誇らしげにしているイロハが、居た堪れなくなったのかもしれない。 が、これで引き下がるという話でもなく、顔を上げた兄たちはそれぞれ未来に向かって口を開いた。 「で? どうしてコイツに聞いても答えられナイんだ?」 「コイツが目的を答えられナイってコトはツマリ……原因はお前、カ?」 ほぼ確信に近い響きで伝わる問い掛け。 話のついでに出てきた名前よりも重要度の高い目的への疑問符は、決して引き下がらずに未来へと絡みついたまま。 やがて観念した未来は小さく息をつくと、まずは自分を指差し。 「誘拐犯」 次にイロハを指差し。 「被害者」 と端的に言った。 無論、これだけで納得出来るはずがない。 渋い顔をした兄の様子に焦った未来は、先程のイロハの説明では出てこなかった、帰るまでの経緯を簡単に説明する。 「えーっとね。実は私、あっちで結婚しかけてて」 「「ハ? 誰と?」」 言いつつ兄たちがイロハを見やったなら、今までの自信を忘れて魔術師は首と手を激しく横に振った。 本気で嫌がっているようにも取れる動作にはちょっぴり傷つきながらも、未来は先を続ける。 「相手は召喚初日に私が意識を失うまで、殴る蹴るの暴力を振るっていた奴で」 実際にはエリエルドから振るわれた暴力なぞなかったが、傍観し続けていたのだから同罪。 否、止められる権限があった分、未来にとってはエリエルドこそが諸悪の根源であった。 しかして兄二人の関心は可哀相な妹よりも、別のところに向けられてしまったようで。 「「……お前、まぞだったノカ?」」 つっ込みどころが違う。 年が三つ離れているくせに、双子の如くユニゾンする兄どもへ、未来は半眼の胡乱げな視線を送った。 当事者でないとはいえ、言っていい事と悪い事がある。 「誰が好き好んで。こっちにはこっちの事情ってモンがあったのよ」 「「ツマリ、美人だったんだナ?」」 「あ、はい、それは間違いなく」 「イロハ!?」 唯一事情を知っているはずのイロハが兄たちに同調したなら、味方を失った気分の未来が正気を疑う声を上げた。 すると魔術師、ビクッと身体を震わせて、叱られた子どものように未来を見やった。 「で、ですが、エドさんは美人さんだと思います。未来さんも、そこに異論はないでしょう?」 「…………………………………………………………………………………………………………まあ、それは兎も角」 「「オ、濁したナ」」 「あのね。人の話、聞く気ないのかしら?」 「イヤイヤ」 「何の何ノ」 一々茶々を入れる兄たちは、妹の険悪な雰囲気にそれぞれ愛想笑いを浮かべた。 これを溜息で振り払った未来、仕切り直しとばかりにわざとらしい咳を一つ。 「で、そこにイロハが来たわけよ。こっちに帰れるっていうから帰して貰おうと思って。んでもって――魔法の完成と同時にイロハを持って来た次第です」 手を打ち接客スマイルで「ちゃんちゃん♪」と締めたなら、兄弟どころかイロハまでもがあんぐりと口を開けてこちらを見ていた。 明らかに不平不満が満載の顔つきである。 特にイロハを引き摺り込んだ理由について、何も触れていないのが良くなかった。 けど、仕方ないじゃない? まさか本人前にして、死にそうな気がしたから攫ってきた、なんて言えないもの。 全ては未来の独断。 理由を吐露したとて、その事実に変わりはしまい。 だから未来はそれ以上の口を噤み――兄たちは一転、ソファの背もたれに身を投げ出した。 「ナルホドな。確かに誘拐だ、ソリャ」 と明人が言えば、 「自分が帰るダケと見せかケテ、引き摺り込まれたンジャなぁ。あんたも災難ダ」 と晴人が憐憫の情を込めてイロハを見やった。 先程とは打って変わって流れる同情ムードに、当のイロハだけがうろたえ、挙動不審に狩谷兄妹間を行ったり来たり。 「ぅええ!? そ、それで納得しちゃうんですか!?」 「んー? ダッテ、なあ? 未来ダシ」 「アア。思い出すなぁ、昔。幼稚園の時だったカ? ウサちゃんのヌイグルみ」 「うわっ、すっごい昔の話じゃん」 「デモ、本質的には何も変わってナイだろ、お前。お気に入りダカラってズット離さなくテサ。幼稚園にまで持って行っちマッテ」 「クラスの園児と取り合いにナッタ挙句、耳と足が取れテ。先生縫ってクレルってのに、綿の一つも残さず家までソノマンマ持ち帰って来たダロ?」 「ソウソう。俺ら二人掛かりで取り押さえてサ。ソノ間に母さんが縫って、父さんが横から見えないヨウにお前の頭押さえツケテ」 「アノ時から体格差はアッタんだがなぁ。ガキは手加減しねぇから、二人掛かりでも結構大変だったゼ」 「あ、あはははは。その節は、大変お世話になりまして」 記憶違いのない、自分でもしっかり覚えている過去に未来が笑えば、兄たちはイロハを同時に見つめてこう言った。 「「良かったナ。何処ももげてナクて」」 「…………」 冗談めかした響きのないソレに沈黙を返したイロハ。 けれどもその頬が少しだけ引き攣っているのを見つけた未来は、過ぎ去った事は仕方がないと、これからの事を探して目を逸らした。 |
UP 2010/4/24 かなぶん
修正 2010/10/9
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あとがき
中途半端なところですが「帰宅のいろは」はここで締めです。
なのであとがきなんぞを少々。
この話を作成するきっかけは些細な事でした。
異世界恋愛モノって現実にはどうよ?、と。
王道に喧嘩を売っているとしか思えない発想ですが、まあそんな事を思ったわけです。
”好きな人と結婚”は良いとしても、それだけを理由に元の世界を切り捨てられるか?
特に召喚などという、不誠実極まりない方法で問答無用に連れて来られた場合は?、等々。
まあ、切り捨て御免な生活を送っていたやら召喚したくせに戻れないってどうよやら、そんなオプション付は別としましても。
実際、平凡な暮らしの生活水準出で、帰れるよと言われたらどうするのだろう、と考え。
で、出てきたのが結婚してようが何しようが、とっとと故郷に帰る、という選択肢でした。
ってなわけで最初は、異世界召喚、結婚、ドタキャン、平凡な生活に戻った数日後、向こうから元・花婿が追いかけてくる、という感じの短編のつもりでした、魔術師のいろは。
それが現在の形になってしまったのは偏に、じゃあ誰が元の世界に戻すか、と考えた時に出てきた魔術師の彼が、なかなかどうして書いてて楽しくなってしまったせいです。
主視点は未来なのに、題名が「魔術師のいろは」なったのは、そんな経緯からだったりします。
あとは肉付けしていく内に、元の世界へ戻ることは決定事項だったため、コイツを攫っちまおうという所謂逆トリップが発生した訳でございます。
今回帰ってきたので、次回から狩谷家での日常が始まります。
一応、平凡な少女のつもりで書いている未来ですが、その家族ははっきり言って変です。
けれどもそこはそれ、変じゃなければイロハの身の置き場がないという話ですので。
なにはともあれ、帰宅のいろは、少しでも楽しんで頂けたなら幸いです。
UP 2010/4/24 かなぶん
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