お守りいろは
ふ……と仰ぎ見た天井の近さ。 それをじーっと眺めていた狩谷未来は、ああそうか、と一年前まではあまり硬いとは思わなかったベッドに、力の抜けた身体を沈めていく。 戻って、来たんだっけ。 寝て起きて、ようやく実感できた事柄に、片手を額まで寄せると甲を当てて目を閉じた。 昨日は色々、本当に色々あって、全く実感が沸かなかった。 墓場に行くような気持ちで異世界の結婚式に臨もうとすれば、帰れないと言われ続けていた自分の世界に戻ることが出来た。 しかもお土産に、異世界で邪悪とされる魔術師を持ち込んで。 世間の噂とは裏腹に馬鹿正直な彼は、未来の兄たちへ事の顛末を語り、その証明として魔法を行使。 けれど兄たちが知りたかったのは、魔術師がどうのこうのと言う話ではなく、妹と一緒にいる理由だった。 たぶん、事と次第によっては、彼を警察に突き出すつもりだったのだろう。 魔法云々抜きに。 勿論、誘拐に等しい方法でこちらの世界に連れ込まれた魔術師に、理由なぞ分かるはずがない。 そうして未来自身が、自分が攫って来たのだと正直に話せば、兄たちはすんなりと納得してくれた。 ――ばかりか、友人との食事から帰って来た母や、食事と風呂を経て缶ビールを開けるまで魔術師の存在をスルーし続けていた父までも、未来の説明に「未来だから」としみじみ頷く始末。 変な信用を得ていたお陰で魔術師に同情票が一家分集まり、路頭に迷わせる心配がなくなった点は良かったものの、今まで家族がどんな目で自分を見ていたのかを知り、未来としては複雑な気分を味わう。
さて、そんな家族の温かい応援を受け、彼の魔術師がどこで寝る事になったかと言えば。
ごろりと壁側へ身体の向きを変えた未来は、白いバスタオルを頭に巻いた縦縞のパジャマの広い背に、ぽんっと軽い調子で手を置いた。 途端、ビビビビクンッッと大袈裟に跳ねた背中は、真っ直ぐになった分を悔いるように小さく丸まっていく。 「イロハ、おはよ――」 「ひぃっ!? ぼ、ぼぼぼぼぼぼぼ僕は何もしていません!」 「……イロハ?」 あまりのうろたえっぷりに上半身を起こせば、擦れる掛け布団を怖れるように、更にイロハの身体が縮んでいった。 「ほ、本当に、何もしていません! ちゃんと、ずっと、壁側を向いていたんです! そ、それは勿論、寝相などの関係でついうっかり、出来心でも何でもなく、未来さんの寝顔を拝見してしまいましたが、け、けけけけけ決して、疚しい事は何もっ!!」 「イロハ? あんまり煩いと…………………………襲うわよ?」 「っ!!」 バスタオルに隠された耳に位置する部分へ、吐息を吹きかけるようにして言ってやったなら、息を呑む音と共に真一文字に引き結ばれる唇。 対し、未来の言葉を窘めるでもない身体は、何かを待つ素振りで緊張を保っていた。 この様子に、ちょっとからかい過ぎたかしら、と未来は反省する。
昨日、イロハを未来の部屋へ泊めようと言い出したのは、一般的に娘を嫁に出したがらないはずの父であった。 何でも、お前が連れて来たんだから最後までお前が面倒を見てやりなさい、という事らしい。 イロハはペットじゃない! と未来が叫ぶ暇もなく、次いで手を打った母が「あら素敵」と螺子が修理不可能なぐらいぶっ飛んだ事をのたまい、長兄・晴人は良いんじゃないか、次兄・明人は未来が良いならな、と言った。 家族間におけるイロハへの認識はどうあれ、彼を自室へ入れるという案には、未来もまた異論はなかった。 この中で唯一異議を唱えたのは、勝手に所在を決められてしまったイロハである。 彼は「いいですか、未来さんは列記とした年頃の娘さんなんですよ? 確かに、僕は枯れて久しいくらいの齢ですけれど、それでも成人した男です! な、何もないだなんて、絶対の保障は出来ないんですよ!?」と顔を真っ赤にしながら、言いだしっぺの父始め最後は未来に至るまで、情に訴えかけるような熱弁を振るっていた。 が、たった一人で数の暴力に打ち克つのは難しい。 イロハの必死の説得はほろ酔い加減の父の耳を素通り、代わりに母の目についてしまった古ぼけた外套が風呂行きを決定させる。 それでも諦めず未来との相部屋を拒むイロハに業を煮やした母は、兄たちへ彼を風呂に入れるよう指示。 いきなりその場で脱がされる動きになると思っていなかったため、フードに隠れていたイロハの姿がいとも容易く室内灯の下に晒されてしまう。 強張るイロハ、庇い遅れて瞠目する未来。 一瞬遅れた家族の反応は―― 外套を受け取った母は、いつの間にか用意していた洗濯ネットへこれを入れ、兄たちは追剥染みた行為を続行。 父は珍味を噛みつつ、新しい缶ビールを求めて席を立つ。 非日常が間近にあるというのに、狩谷家の日常に変わりはないらしい。 すると今度は上半分を脱がされてしまったイロハが我に返り、大慌てで身を捩った。 手袋を外そうとする動きには、危険だから止めて欲しいと訴え難を逃れたものの、下に至ってはあっさりと脱がされてしまう。 イロハの肉体年齢は二十前後で止まっているようで、思ったより引き締まっている身体つきに、父や兄たちの風呂上りのだらしない格好に慣れていたはずの未来は、助けを呼ぶ声に答える事も出来ず視線を逸らした。 これがショックだったのか、急に大人しくなったイロハは風呂場に連行され、兄二人から大型犬を洗う要領で入浴させられた、らしい。 ……イイ齢した成人男性が三人、狭い浴室で裸のお付き合いをしている場面は、あんまり想像したくないモノだったが。 ともあれ次に入浴した未来は、新品のパジャマを着た放心状態のイロハを自室へ引っ張り込むと、疲労困憊の自分を優先して彼を自分のベッド奥へと押しやり、我に返る前に就寝する。
本当に、怒涛の一日であった。
若干現実逃避しつつ実感したのは、自分の家族の寛大さというか、いい加減さだ。 起きてすっきりした後では、幾ら眠いとはいえベッドに男を連れ込んだ自分の行動に頭痛を感じるものの、増して謎なのは易々とイロハを受け入れた家族の考え。 過保護は元より放任で育てられた憶えもないのに、正体不明の怪しい格好をした男を、娘の部屋でなくとも自宅に泊める精神が理解できなかった。 とはいえ、誘拐犯を自称する未来に彼らが納得したように、未来もまた、彼らがそーいう連中だとは前々から知っている。 彼らは彼らで思うところが各各あるのだろう。 その思惑はどうあれ、早い段階でイロハを路頭に迷わせる心配がなくなったのは、喜ぶべき事柄だ。 ――本人の意思を差っ引けば、の話ではあるが。 依然としてこちらに背を向けたまま、小動物よろしくプルプル震えるイロハ。 未来は困惑しつつも、そういえばと視線を反対側の壁際にある机へ向けた。 机上、異世界にはなかった時を知らせる文字盤の数字を見やり。 起床時間まであと一時間……こんなに早く起きちゃうなんて。 けれど、ぐっすり眠れたとは思う。 あの一年間、どれだけ自分が気を張って眠っていたのか分かるほどに。 なんとも為しにくすりと笑みを刻んだ未来は、次いで視線をもう一度イロハに向けては、再びベッドに寝そべり、丸まった背中へ手の平と額を押し当てた。 緊張し仰け反る動きを感じながらも、心を込めて未来は言った。 「ありがとう、イロハ。昨日は言えなかったけど、本当にありがとう。帰してくれて」 「未来さん……」 決して振り向きはしないが、おずおず向こう側からやって来る黒い手袋に、もう一方の手の指を絡める。 軽く握り返された事に息をつき、背中へ顔を埋めるようにして更に未来は言った。 ともすれば寝入ってしまいそうな心地良さの中で、同じ場所に在る異なる香りの主へ。 「それと……御免。本当に御免なさい。貴方を連れて来てしまって」 「……未来さん?」 緩やかに動く背中を知って少しだけ離れたなら、鼻から上をすっぽりバスタオルで覆った身体がこちらを向いた。 唯一露出する口元に困惑を浮べて、戸惑い伸ばされた黒い手の平が、おっかなびっくり未来の片頬を包み込む。 これに自分の手の平を未来が重ねたなら、同じ枕に沈む頭が僅かに傾いだ。 「後悔、していらっしゃるのですか? 僕をこの世界に招いた事」 「ううん。違う。そうじゃないの。だけど……イロハの世界はここではないでしょう?」 「…………」 明言を避けるようにして閉ざされた口。 その逡巡にちくりと胸を痛めながら、目を伏せた未来は一気に吐き出す。 「私ね、本当はイロハを連れて行こうとは思ってなかったの。異世界では散々な目に合ってきたから、イロハも同じ目に合わせたくない、イロハとはここでお別れしようって」 「……それならどうして直前になって僕を?」 「そ、それはその」 「その?」 しどろもどろになった未来、視線を逸らそうとしても頬に添えられた手がこれを許さず。 往生際の悪い様子に揺さ振りでもかけるつもりなのか、先程とは打って変わって、ぐぐっとイロハが顔を近づけて来たなら、今更ながらに未来は意識してしまった。 恋愛の対象となる異性が同じ寝台にいるという事を。 「〜〜〜〜っ」 途端に赤く染まる身体、詰まる息に耐え切れず、焦った未来は愛想笑いを浮かべて言う。 勢いに任せて。 「の、ノリで」 「……の、ノリ?」 完全に肩透かしを喰らった風体のイロハが、がくっと肩を落とす代わりに枕から頭を落とした。 続き、未来の頬から離れた黒い手が枕を掴んだなら、その陰で「はあ」と深々溜息がつかれてしまう。 イロハのこの様子がなくとも、かなり酷い事を言ったという自覚はある。 しかし、死にそうな気がしたから、というのも口にして良いものかどうか。 現にイロハはこうして生きて、此処にいる。 ……そーいやあの精霊、生きていくつもりがない、って言ってたわよね? 死ぬつもりだ、じゃなくて。 記憶を探る未来の眉が寄っていく。 時間がないと言いつつ、婉曲な表現を用いた理由。 行き当たればサーッと血の気が引いていった。 も、もしかして、死ぬつもりじゃなかった……? では何故、精霊は止めようとしたのか――それ自体は未来にとって大して意味を為さないため考えるのを放棄し、改めて枕の陰で項垂れるイロハを見つめた彼女は、すっきりした目覚めでも寝起き、上手く回らない思考を混乱でぐるぐる回す。 そうして、はっと思い当たったなら、イロハの近くへ這って移動した。 「み、未来さん?」 顔の代わりに置かれた手を取り、枕を押し退け、至近距離で顔を付き合わせると、透き通るほど白い肌に薄っすら紅が滲む。 「え、えっとね、イロハ」 「は、はい」 「……か、帰る事って出来るんでしょう?」 「……はい?」 「だから、イロハなら自力で、あっち側に帰れるんでしょう?」 「え………………と……」 善悪の方向性はどうあれ、異世界では魔術師として高名なイロハ。 勘違いで連れて来てしまったかも知れないが、彼さえその気になればいつでも帰れるはず。 そんな可能性に掛けて問う未来に対し、表情を強張らせたイロハは、何も言わずに身を起こした。 追うようにして未来も起き上がったなら、少しだけ顔を俯かせてポツリと言った。 「すみません。無理です」 「……マジ?」 「はい、マジです。昨日も申しました通り、魔法が効くのはあちらの世界に関わるモノだけなので、ここで魔法陣を書いてもただの落書きになってしまうんです。……それに」 「それに?」 「魔法陣があっても今現在、僕の魔力はほとんどないので使えません」 「……もしかして、私をこっちに移動させたから? で、でも、兄ちゃんたちの前で魔法使ったよね?」 「あれは……そう強いモノでもありませんから」 「…………」 仮にも一年間、異世界で暮らす羽目になった未来は知っている。 強いモノではない、とイロハが言い切った魔法は中の上クラスの強さだと。 しかも詠唱なしであの威力。 村一つ充分滅ぼせる魔法を目の当たりにして、そう強いモノではない、と断言出来るのは世界広しと言えども彼くらいのもの。 とはいえ、未来の沈黙はイロハのケタ外れの力量を思い知ったからではなかった。 そこまで無茶苦茶な魔法を自分のために使わせたばかりか、独断で巻き込んでしまった……。 押し寄せる後悔の波に空気を重くさせたなら、何を勘違いしたのかイロハがこんな事を言った。 「すみません。帰る事が出来なくて」 「! 違う! そういうつもりで聞いたんじゃないの! ただ私は……」 ぐっと敷布を握り締めた未来は、浅はかな自分の行動に歯を食いしばり、イロハに謝罪させたことを悔いる。 泣きそうにもなったが、本当に泣きたいのはイロハの方だとこれを呑み込み、それでも鼻を啜っては、項垂れるイロハの両手を掬い取った。 驚くイロハの様子にもめげず、黒い瞳に力を入れて訴える。 「イロハ、結婚しよう!」 「……………………………………………………………………………………………………ぅええ!? な、ど、ぅええ?」 ぐっと包んだ黒い手を握り締めたなら、遅い理解にイロハの肌がみるみる赤く染まっていく。 うろたえて倒れかけ壁に背中を預ける形となった彼へ、未来は更に畳み掛けるべく膝を詰めてにじり寄った。 「ま、待って下さい、未来さん。今の流れでどうしてそんな話に――」 「責任取るから。いいえ、取らせてください。私のせいで此処に連れてきちゃったんだもの。せめて、せめてイロハがいいなって思う子が出来るまで、私にイロハの面倒を見させて?……って事は、結婚じゃ駄目なのかな?」 自問自答にそれまでの勢いを消して未来は腰を下ろし、手だけ解放されないイロハはギクシャクとした動きで身を起こすと、顔を覗き込むようにして未来を見やった。 「未来さん、本気……ですか?」 「うん。割と」 「わ、割と? そんな簡単に決めちゃって良いんですか? 貴方はまだ若いんですよ?」 「んーでもさ、イロハと比べたら、百歳越えのご長寿さんだって、まだまだまだまだ若いって事にならない?」 「そ、そういう問題では」 「そういう問題でしょ? 大丈夫。何たって私は好きでもない奴と結婚しようとしていたぐらいなんだから」 「…………」 笑いながら自虐ネタに走れば、返事に窮した様子でイロハが目を逸らした。 痛ましいと伝わるイロハの気配に、軽い調子で頷いて欲しかった未来は笑みを引っ込め、握ったままの彼の手を眺めた。 結婚云々は確かに言い過ぎだったかもしれない。 引かれちゃったかな……イロハから見れば私は子どもで誘拐犯で、しかも好意を押し付けて来るんだもの。 自分に重なる、在りし日の某元・結婚相手。 イロハに暴力を揮った憶えはなくとも、ほとんど同じ事をしていると思えば、未来の気持ちはどんどん下降していった。 しかも帰れないイロハに提示した結婚は、未来自身が王に勧められるまで頑なに拒んでいた行為。 何が大丈夫よ。イロハにしてみれば墓場じゃないの。 底辺までどっぷり落ちた思考が、己の言葉に非難を浴びせ始める。 ――と。 ジリリリリリリ――! 「ひゃあっ!? な、何、何ですか!!?」 「あ、時間だ」 持ち主が経験した一年間を知らない目覚まし時計が、机の上で時を告げるべく鳴り響く。 暗い気分を一時保留とし、さっさと止めるべく未来がベッドから降りようとしたなら、突然両脇から伸びてきた腕が彼女の身体を後ろへと抱き寄せた。 「わっ、イロハ?」 驚いて見やれば顔面蒼白のイロハがブンブン首を振り。 「き、危険です、未来さん! この破壊的な音が鳴り止むまで、僕の傍を離れてはいけません!」 「え、えーっと……」 けたたましいベル音を横に、異様な怯え方をするイロハへ未来は考えを改めた。
具体的な事を決めるよりもまず、この世界の事を知ってもらう方が先決だ、と。 |
UP 2010/5/8 かなぶん
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