お守りいろは

 

 目覚ましの仕組みを大まかに説明することで、イロハの腕から一応の解放を得た未来。

 けれどもそれは束の間の事で、用足しにトイレを紹介すれば流れる水に仰け反り、洗面所の蛇口を捻れば出てくる水に混乱。

 居間へ行けば昨日見たはずのテレビ画面に戸惑い、電子レンジを使えば冷めていた食材が温まる様をじっと見つめ、コンロに火が点いたなら仕切りに感動する。

 魔法を使えば同じ事が出来るだろうに、頭にバスタオルを巻いたままの縦縞パジャマの魔術師は、手を合わせて黒い指を絡め「凄い凄い凄いっ!」と朝からはしゃぐ始末。

 かといって、呆れた未来がそれらに触れようとしたなら、「危ないです!」と慌てて手首を取り抱き寄せてくる。

 二人きりの時でも恥ずかしい行為、家族のいる前では尚更止めて欲しいと思うのだが、文句を言おうにも睨みつけるべき相手の顔色が悪いのを見てしまったなら、未来に出来る事はなかった。

 未来より先に起きていた両親が特別な反応をみせくれれば、また違ったのかもしれないが。

「あらあら、仲良しさんね? でも、どうせなら居間にいて頂戴。朝ご飯の支度がまだだから」

「あぅ、す、すみません」

「ううん、気にしないで。そうだ、イロハさんは目玉焼き? それともスクランブルエッグ? お醤油が良いかしら? それともソース? ケチャップ? マヨネーズもあるけれど」

 娘が後ろから抱きすくめられている格好を眼前にして、おっとりとした母は全く気にせずイロハへ問う。

 未来にしてみれば一年ぶりの親子の再会だが、母にしてみればいつも通りの朝。

 感動も何もあったものではない対面に、この母なら本当に一年ぶりでも、きっと同じような会話をするに違いないと思ってしまう。

 ……それ以前に馴染み過ぎでしょ、お母さん。

 昨日の時点では、混乱のし過ぎでイロハの存在を普通に流してしまったかもしれないが、一夜明けても変わらないこの応対っぷりは如何なものか。

 イロハが未来の家族に危害を加えない事は保障できるが、金品目当てで忍び込んできた泥棒にまで同じような接し方をしそうな母は怖かった。

 泥棒相手にお茶を振舞いがてら、「おかえり」と迎えてくれる、そんな母の画をうっかり浮べた未来は、内心で深々と溜息をつく。

 次いで頭痛を堪えるように額へ手を当てたなら、ぴたりと寄り添うイロハの吐息が耳に掛かった。

「み、未来さん、すくらんぶるえっぐって何ですか? おしょーゆもよく分からないんですけど」

 耳朶を擽る風に赤くなる顔色を抑えきれず、それでも困り果てたイロハを無碍に払えない未来は、異世界で振舞われた料理を思い返して頷いた。

「そっか。あっち側には目玉焼きとかソースとかケチャップとか、マヨネーズに似たのは在ったもんね」

「はあ。翻訳し切れないモノがあると、こういう時困るんですね」

 自身の記憶に似たモノがない場合、言語解読の魔法は上手く作用してくれない。

 今のイロハと同じ経験を先に経てきた未来は、彼の戸惑いに一瞬優越感を得たものの、自分が元凶だったと思い出しては、そんな風に浸ってしまった己に幻滅しつつ。

「うんと、スクランブルエッグは味付けした玉子を炒った料理で、お醤油は調味料のことね。あ、お母さん、私はスクランブルエッグの醤油がいいな」

「あ、それじゃあ僕も。……というか朝食、ご馳走になっても宜しいのですか?」

 未来の説明に納得したイロハは、ここに来て自分の分の朝食がある事に気づいたらしい。

 やや緊張した面持ちで問う彼に対し、未来の母は何処までもおっとりとした調子で頷いた。

「ええ、勿論。だってイロハさんは未来の…………………………えーっと被害者ですから」

「ちょっとお母さん、被害者だなんて。本当の事だけど、人聞き悪いわよ?」

 自分で大々的に宣言した手前、否定のしようもない事なれど、親からの加害者呼ばわりに良い気はしなかった。

 そんな娘の訴えに困った表情を浮かべた母は、未来とイロハの関係を探るように、二人の姿を上下に眺め。

「なら、恋人で良いだろ」

 玄関から新聞を取ってきた未来の父が、紙面に目を走らせながら水を飲みに来たついでにそんな言葉を落としていく。

 基本、母と、子どもとのコミュニケーション以外、仕事にしか興味がない父にとって、イロハの存在や立場は重要ではない様子。

「あらまあ、そうなの? 素敵だわ」

 親密な関係を発した割に味気ない父の声へ、答えを見つけた母は両手を軽く打ち合わせて喜んだ。

 一般家庭と比較して確実にズレている両親の姿に、一年ぶりだった事も相まって未来が溜息を零せば、彼女の腹に回した腕が少しだけ力を入れて反応する。

「こ、恋人!? ぼ、僕と未来さんが、ですか? そ、そんな恐れ多い――」

「じゃあ君は、どんな女の子に対してもそうやっているのかい?」

「えっ!? そうやって、とは何の……わわっ!? 未来さん、す、すみません!」

 新聞から顔を上げた父の言葉を受け、今の今まで未来を抱き締めていたのだと今頃認識したイロハが、大慌てで彼女に回していた両腕をぱっと上げた。

 急に涼しくなった身体よりも、そんなイロハの仕草に何となく面白くない気持ちを抱いた未来は、彼に向き直ろうとして振り返り。

「ぃだっ!?」

「い、イロハ、大丈夫?」

 腕を除けるついでに後ろに退いたらしい後頭部が棚に当たったなら、不満をぶつける事を忘れて、頭を抱える彼の両頬に手を伸ばす。

 再び身体を密着させる二人の様子を見つめ、ふふっと笑った母は朝食の準備に戻り、父は何事もなかったかのように再び紙面へ目を向けると、そのまま食卓の定位置に座った。

 

 

 

 まだ寝ている兄二人を除き、親と子と+αで始まる朝食。

 ふわふわの玉子を白いご飯の上に、それはそれは宝物のように大切に乗せた未来は、くぅ〜と声を漏らしてから早速口に運び。

「白いご飯……お醤油の香ばしい味わい…………もう二度と味わえないと思っていた食生活が、今ここに!」

「ふふ。大袈裟ねぇ、未来は」

 のほほんとした母の言葉を隣に、一口一口を堪能しつつ感動の声を上げる。

 漬物におひたし、味噌汁など食卓に並ぶ全てに手をつけた未来は、そこで顔を上げては真正面でおっかなびっくり箸を運ぶイロハを見やった。

「イロハ、箸の使い方上手……」

「えっ――――わわっ!?」

 ぽつりと呟いた途端、ぽろっと落ちる白菜漬け。

 イロハはこれを空中で、もう一度箸に納めてほっと息をつき。

「すご……」

「これでも一応、あの国の建国前から生きている身ですから、色んな風習は一通り知っているんです。この箸の使い方もその時に習得したものでして」

 空中キャッチに惚ける未来を、箸使いの延長で感心しているだけだと思っているのだろう。

 照れくさそうにバスタオルの頭を掻いたイロハは、何事もなかったかのように食事へ戻っていく。

「でも、未来さんのお母様が作る料理には、見た事のないモノや知らない味があって面白いです。あ、勿論、美味しいです、け、ど…………えっと皆さん? どうかなさいましたか?」

「ううん、何でもない」

 空中キャッチに驚いたのは、未来だけでなく両親も同じだった。

 そんな彼らの注視に遅れて気づいたイロハが戸惑いうろたえたなら、未来が代表して声を出し、これを合図に視線が各々の食事に向かう。

 だからとイロハが納得するには無理があり、何か間違った事をしたのだろうかと青褪める肌へ、何と言ったモノか考えた未来ははたと気づいた。

「そういえばこっちの言葉、もうちゃんと聞こえてる……」

 異世界から帰って来たばかりの昨日は、言語解読の魔法のせいでところどころ変な風に聞こえていた家族の声。

 しばらくはそのままだとイロハから聞かされていた分、本来の喋り方に戻っている事に安心した未来だが、眼前の魔術師はこの安堵に箸を休めてしまう。

「どうかしたの、イロハ?」

 この様子に未来は小首を傾げ、イロハは小さく唸った。

「昨日の今日で? 幾ら何でも順応が早過ぎませんか? それとも言語解読の魔法の効果が切れて……いやしかし、彼らが施した魔法は半永久的に続くはずですし。もしかしてこちらへ移動する時に綻びが生じていた? けれど、それなら着いて早々異変が生じているのが普通――」

 ブツブツ一人の世界に入るイロハ。

 置いてけぼりを食らった風体で未来の眉がますます寄ったなら、「ご馳走様」という声が斜め向かいの父から発せられた。

 食器を洗い場へ持っていこうとする父をやんわり母が留め、歯磨きに父が席を立ったなら、母も食器を片付けるために席を立つ。

 特別なところはどこにもないのに、仲睦まじく見える両親のやり取りを目の当たりにした未来、何ともなしに思い出すのはあっちでの家庭事情。

 たぶん、貴族だとか王族だとか、そういう地位にいる者たちだけだろうが、そんな地位としか接せなかった未来にとって、その関係は血生臭いの一言に尽きる。

 家庭よりも地位を優先させる父親に正妻と妾による後継者争い。

 兄を引き摺り降ろす弟、弟の出世を潰す兄。

 政の道具として扱われ続けた恨みから、初婚だった相手の寝首を掻く花嫁。

 どれも未来の周辺より遠い話ではあったが、ゴシップ染みたこれらの話は全て真実。

 本当に、とんでもない世界に身を置いていたのだと再認識したなら、視線は自ずと向かいで考え続けるイロハを見つめる。

 元凶の、けれどもこうして元の世界に戻してくれた、そのせいで今ここにいる人。

「イロハ」

「……はい?」

 呼べば数瞬遅れて上がる顔。

 続く言葉を探す前に身を乗り出して手を伸ばした未来は、イロハの口周りについていたご飯粒を拾い上げては自分の口に入れ。

「ご飯、つけたまんまだったよ」

「え、と。あ、ありがとうござ……いぃっ!?」

 にっこり微笑めば惚けた礼が、真っ赤に染まって口元を手で覆った。

 未来自身、自分の行動に薄っすら羞恥が浮かんだものの、イロハが隙だらけなのが悪いと心の中で責任転換をしてやる。

 お陰でイロハより先に冷静さを取り戻した未来は、最後の一口を食べ終えると食器を手早く片付けていった。

 

 

 

 食後、テレビに釘付けとなったイロハを置き去り、歯磨きのため洗面所へ赴いた未来は、コップに水を張り歯ブラシに歯磨き粉をつけてから、鏡に自分の姿を見て動きを止めた。

「あれ? 何か……」

 惚けた声を上げ空いている手で頬を擦る。

 剃る髭もないだろうに、剃り残しを探るほど丹念に見つめていれば鏡越し、シャツ一枚、トランクスの中に片手をつっ込んだ状態で現れた長兄・晴人が、野獣もかくやの長い茶髪をかき上げながら、寝起き特有の間延びした声を掛けてきた。

「なんだー、未来。高校生にして、もうお肌の曲がり角かー?」

「ハル兄ちゃん……別にどんな格好でも構わないけど、パンツん中に手ぇ突っ込んで現れないでよ。どこぞの変態かと思うじゃない」

「んー」

 振り返り、思う存分眉を顰めてやれば、トランクスからは手を取り出した晴人。

 すかさず腿の後ろをその手で掻き始めた。

「ったく。だらしないなぁ、もう。モテるのにそんなんじゃ、ボロが出ちゃうわよ?」

「ん、うん……ああっ!? あー、あ?……あれ? えー、何が……何か言ったか、未来」

「……立ちっぱで寝んな」

 先程よりかはマシになった焦げ茶の目に、冷ややかな視線を送った未来は再度鏡に向うと、待ちぼうけていた歯ブラシを口に突っ込んだ。

 しゃかしゃか軽快な音を立てて何往復かしたなら、それをなんともなしに見ていた晴人が思い出したように問うてくる。

「……で、さっきは何してたんだ? 心配しなくても女子高生のお肌はぴちぴちだぞ?」

 女子高生……なんかハル兄ちゃんが言うと卑猥だ。

 ぅぐっと喉を詰まらせた未来、程好く失礼な事を実兄に思った。

 寝惚け眼の時と違い、律儀に返事を待つ兄を背後にしつつ、歯磨きを終えるまで待たせた未来は、口元を軽く拭うと鏡の中の自分を指差した。

「いや、なんかさ、随分若いなー、と思って」

「は? 若いも何も、お前は充分若いぞ? ちゃんと小娘しているだろ?」

「小娘……表現がおっさん臭いよ、ハル兄ちゃん――じゃなくて。ほら、私ってその……い、一応、あっち側から帰ってきたじゃない?」

 昨日までいた世界を示すにあたり、未来の中に変な羞恥心が生まれていく。

 一年間のブランクはどこへやら、あれほど戻りたいと願った日常は、戻った途端に単なる日常に様変わり、異世界にいたという実感は薄れていくばかり。

 そんな中で異世界の話を持ち出すのは、自分の事ながら可笑しな話をしている気分になってくる。

 大体、兄ちゃんたちにとって私がいなかったのって、一年じゃなくて数時間だもんね。

 今更ながら感じた大いなるズレに未来が惑えば、聞き手の晴人は腕を組み、茶化すでもなく「で?」と短く先を促した。

 話を聞いてくれる真摯な態度には感動する反面、シャツ一枚トランクス一枚じゃなければもっと良かったのにと未来はひっそり残念がった。

「ほら、あっち側で一年間いた感じだって言ってたでしょ? だから、一年で顔って随分変わるんだなーって」

「……どんな風に?」

「うーん、なんていうかさ、頬もふっくらしているし、目の輝きも十割り増しって感じだし、薄く居ついてた隈も見当たらないしさ。肌の調子もパサついてなくて、血色も良好。あれだけ濁って荒んだ目してたくせに、すっかり綺麗になっちゃって。何だか若さに執着する人の気持ちが分かって」

「来なくていい。まだ分からんでいいから。……昨日は悪かったな」

「へ? 何が?」

 向かい合う鏡の中でぺたぺたと顔に指を這わせたなら、晴人が不機嫌な顔をして謝ってきた。

 家族以外では怒っていると思うところを、本気の謝罪だと正しく解した未来は眉根を寄せた。

 異世界からの帰還以外、昨日は特に何もなかったはず。

 けれども鏡越し、首を振った晴人は大きな溜息を吐く。

「昨日茶化しただろ、お前の事。異世界ってのは、まあ、そう簡単に信じられるモノじゃねぇけどよ。それにしたって訳アリの結婚とか言ってたってのに、嫌そうな顔だってしてたのに、勝手な事ばっか言ってさ。マジで悪ぃ」

 言葉で聞くと軽い調子だが、面持ち・雰囲気はどこまでも暗い。

 何をどう感じて今頃の謝罪に繋がったのか、いまいち理解が及ばなかった未来は、それでも明るく手と首を振ってみせた。

「いいよ、別に。喉元過ぎれば何とやらってね。てか逆に、傍若無人なハル兄ちゃんに謝られた方が気持ち悪い。すっごい裏ありそうで」

「未来……真顔で気味悪がるな。寧ろ有難がれ。貴重だぞー? この俺が誰かに謝るなんて」

 すぐさまいつもの調子を取り戻した晴人。

 これを「調子に乗んな」と手を振って退けさせた未来だが、晴人を通り過ぎて立ち止まっては、おざなりに纏めた頭を掻きつつ振り返り。

「ハル兄ちゃん。さっきの話、アキ兄ちゃんには」

「分かってる。黙っといてやるさ。明人は俺よりちゃんとした兄ちゃんしているからな」

「ん。ありがと」

 晴人の謝罪の意味をきちんと理解した訳ではないが、この兄をしての落ち込みようを、彼より妹を大切に思っているもう一人の兄・明人が被った場合、どうなる事か。

 晴人より繊細な明人の反応を想像した未来は、傍目では面白い、当事者では心配するしかない状況にやれやれと首を振った。

 

 

 

 

 

 父を見送った母へ登校の旨を告げつつすれ違い、階段を上がってすぐ右手、自分の部屋へ入ろうとした未来は、ドタバタした足音を聞きつけて、ドアノブに掛けていた手を止めた。

「み、未来さん、だ、大丈夫、ですか……?」

「……何が?」

 余程急いでいたのだろう、階段を上がり切るなりぜーはー荒い息を繰り返すイロハ。

 絶え絶えの息で問われた事柄に未来が首を傾げたなら、膝に手をついた彼は苦しそうに言った。

「ど、どち、らへ?」

「部屋、だけど……そろそろ着替えようと思って」

「あ……そ、そうでしたか。そうですよね。す、済みません。僕は――」

「一緒に着替える?」

「いぃえっ!! め、めめめ滅相もない!」

「……冗談よ」

 何を急いでいるのか、そう聞くところをからかいに転じたなら、目一杯拒否されて何となくムッとした。

 かといって本気にされても自分が困るだけだと分かっているので、それ以上は何も言わずに部屋へ入っていく。

 扉を閉めて最初に目に付いたのは、一人で寝る時とさほど変わらない乱れ具合のベッド。

 悶々とした気持ちを払うように深呼吸した未来は、これをほどほどに整えると、開けたカーテンをもう一度閉め直してから、制服へと着替えにかかった。

 未来が通う夕ヶ岡高等学校の制服は紺のブレザー。

 クローゼットを開けて約一年ぶりに対面した制服に、思わず感動を覚えてしまう未来。

 そそくさとパジャマを脱いでは白いブラウスに腕を通し、紺のプリーツスカートを穿いては夏服指定だった事を思い出し、ブレザーは放って薄手のベストを着る。

 次いで机横の鏡の前まで移動し、長い黒髪を後ろに除けると、襟元に赤いリボンを作った。

 裾を払って姿勢を正し、裏表を確認。

「……おお。女子高生っぽい」

 現役ながらそんな感想を零した未来、異世界では長い裾ばかりだったせいか、翻るスカートに意味なく小躍りしつつカーテンを開けた。

 机のフックに引っ掛けてある鞄を取って中身を確認し、自室を出たならそのまま階下へ向かって靴を履きかけ。

「未来さん」

「おはよう、未来。もう登校か?」

「イロハ――に、おはよう、アキ兄ちゃん」

 一年ぶりの学校に気持ちが向かっていた未来は、笑顔で後ろを振り返った。

 そこには胸の前で両手を組んだパジャマ姿のイロハと、寝起きであるにも関わらずきちんと服を着ている明人の姿があり。

「ど、どちらへ?」

 イロハが不安を前面に押し出した声で問うたなら、答えはまた別の人物から訪れる。

「学校だろ。よお、イロハに明人、おはよう。未来、行って来い」

「言われなくたって」

 しゃきっとした命令口調で玄関の向こうを指差す晴人だが、その格好は相変わらずの下着姿。

 その腕を引っ張ってご近所の晒しモノにしてやろうかと、偉そうな態度を取られたせいで行きにくくなった未来は思い、イロハがおずおず前にやって来たのを見ては、履きかけだった靴を履いてくるりと向き直った。

 とはいえ、玄関に下りたため、いつもより一段上にあるイロハの姿は妙に落ち着かない。

 ついつい下がろうと足が動いたなら、これを止める素振りでイロハの黒い手袋が未来の両肩を掴んだ。

「もしや、外に出られるのですか?」

「う、うん。それは勿論。学校は外にあるんだし」

「そ、そんな軽装で? 足までそんなに晒してしまって」

「ああ、これ? こっちじゃ普通だよ?」

「普通って……いえそうだとしても外には、引く馬のない馬車がそれ以上のスピードで走っているのですよ? キャナトの群れに飛び込むようなものでしょうに!」

「「きゃなと?」」

 聞き慣れない言葉にイロハの背景と化した兄二人が首を傾げる。

 これを逃げ道のように捉えた未来は、イロハから視線を外すと二重の疑問符に答えを提示した。

「平たく言うとモンスター。象並みに大きい楕円形の身体しててね、短い四つ足なんだけど、跳躍が凄くて超低空飛行さながらの――」

「未来さん!」

 叱り付ける声音を耳にし、肩を竦めた未来は恐々イロハを見上げた。

 怒りよりも尚悪い、案じる表情を認めたなら、少しばかり地に落ちた瞳が愛想笑いを思い出してイロハへにっこり取り繕う。

「そ、それにしても車の事、よく分かったわね? 昨日の今日で、まだ一回も見てないでしょうに」

「ええ。先程、居間でてれびという物を見せて頂きましたから」

「お? ってことは定番のアレはやったか?」

「アレ……?」

 晴人が茶化す声を掛けたなら、イロハの意識がそちらへ向けられた。

 と、陰で明人が手を振るのを見た未来は、注意を引き付けるから行け、という兄たちの連携プレーを知って、親指をぐっと突きたてた。

 無論、イロハには察せない位置で。

「何ですか、アレ、というのは?」

「それは勿論アレだよ。時代錯誤の侍・騎士然り、別次元からの闖入者然り。な、明人」

「ああ、アレか……定番だよな、アレ」

「定番?」

 どうやらイロハの注意は完全に兄たちに向かったらしい。

 肩から浮いた手を知り、ゆっくりしゃがんだ未来は、自分の家だというのに泥棒宜しく、こそこそ扉まで移動する。

 そうして彼女の手がドアノブに掛かったなら、もったいぶっていた兄たちが顔を見合わせてにやっと笑った。

 意地の悪いその顔つきに、あちらでは邪悪と評判だった魔術師が怯めば、三歳差を感じさせないシンクロ率の高さで同時に言った。

「「箱の中に人が入っているとは面妖な〜、って」」

 対し、構えていた分ぐらついたイロハは、呆れた風体の溜息を一つ。

「仕組みも用途も違いますが、あちらの世界にも似たような機器はありますからね。水晶玉、という単語はこちらでも通用しますか?」

「「ああ、なるほど」」

「……あんたらが感心してどうすんのよ」

 ぽんっと手を打ち感心する兄二人。

 ついげっそりと口に出して言ってしまった未来は、途端に彼女の不在を知って「未来さん!?」と声を荒げるイロハを残し、大慌てでドアノブを引いて外に出て行った。

 

 閉める間際、兄たちに取り押さえられた魔術師へ「じゃ、行って来ます」と告げる事だけは忘れずに。

 

 


UP 2010/6/30 かなぶん

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