お守りいろは
一年ぶりの登校、一年ぶりの通学路。 そして。 「よっ、おっはよう!」 「菅原美紀(すがわらみき)……でしったっけ?」 「は? 昨日会ったばっかだっていうのに、何言ってんの、あんた?」 「いや、うん、まあ……おはようございます」 「? 妙に固いわね? 何かあったの、あたしン家来てからさ」 一年前――正確には昨日、未来が家まで訪ねた友人・美紀は、しおらしい彼女の様子を訝しみ、顔を覗き込むようにして見つめてきた。 「ん? 顔、赤くない?」 「き、気にしないで。ていうか、一緒に行ってもいいですか?」 「いいですかって、いいですけどさ……どうしたの、改まって。大丈夫? 帰った方が良くない? それとも保健室直行する?」 「う、ううん……大丈夫、ですから」 「……そお?」 他にもちらほら通学途中の生徒が歩く一般道にて、固い接し方しか出来なくとも心強い友を得た未来は、内心で小さく溜息をついた。 うう……家出るまでは平気だったのに、どうして、どうしてっ。 ぐっと握り締めたのは前に置いた鞄の取っ手。
どうしてこんなにスカートの丈が短いのよっ!!
それが普通だから、と分かっていながらそんな事を胸内で絶叫した未来は、友人との感動の再会よりも膝を出す恥ずかしさに囚われっぱなし。 隣で美紀が話しても、テキトーに相槌を打つことしか出来ない。 英語の小テストやってらんねー、という言葉さえ「ねー」と素通りしてしまう始末。 ……ここは一つ、恥を忍んで聞いてみよう。 未来がそう思いついたのは、彼女を気遣ってか美紀が言葉少なになった時の事。 「あ、あのね、美紀」 「うん?」 「……す、スカートなんだけどさ」 「うん」 「く、くるぶしまでの長さってどう?」 「え、何? 昔のスケ番ってやつ? コスプレでもすんの、未来?」 「……ううん」 笑いを堪えるようにして確認を取ってくる美紀の姿に、やっぱそんな感じか……と未来は小さく溜息をついた。
話は少し前に遡るが。 扉向こうに消えてしまった未来を追おうとしたイロハだが、彼女の兄二人に取り押さえられてはままならず。 「いい加減、離しなさい! 確かに対象として捉える事は出来ませんでしたが、無差別ならば貴方がたを消し炭にする事も僕には可能なんですよ!?」 「そうかそうか。でもお前、やんねぇだろ、それ」 「そうそう。他の奴は知らんが、俺らは未来の家族だもんな。流石に手ぇ出したら嫌われちまうもんな、未来に」 「うっ……」 左右の頭上から図星を指され小さく呻いた。 だからとこのままで良いはずがない、そう思ったイロハは言い方を変える事にした。 「あ、兄だと仰るなら尚更離して下さい! み、未来さんが大変な事に――」 「「行ってこい」」 「おわっ!?」 途端にぱっと離される拘束。 つんのめりながらもサンダルに足をついたイロハは、手の平を返した背後を睨みつける事なく前に進むと扉を開き、狩谷家の敷地の外まで出。 「い、いない……どちらへ――」 「……あの?」 「は、はい!?」 いきなり掛けられた声に驚いてそちらを見やれば向かい側、丁度ゴミ出しに行くところだったのか、ラフな格好の中年の女が袋片手に、不審者を見る目つきでイロハをじろじろ眺めていた。 「あなた、狩谷さんトコの人?」 「い、いえ。ああいや、その、み――狩谷さんのところでお世話になっている者ですが」 他に何を言っていいのか分からず、顔半分を隠したタオルに手を当てて頭を下げるイロハ。 けれどもお向かいさんは警戒を解かず、かといって気味悪そうな顔もせず、怪訝に眉を顰めては言う。 「世話に、ねぇ? ならさ、格好考えて外に出なさいよ。そんなんで出歩いたら、不審者扱いで通報されちゃうわよ?」 「あっ! す、すみません。急いでいたものでしたから」 イロハはここに来てようやく、自分の格好がパジャマのままだったと知り、再度お向かいさんに頭を下げた。 すると幾らか警戒を緩めたお向かいさん、分かればよろしいという風体で「次からは気をつけてね」と手を振り、ゴミを出しに去っていった。 顔を上げたイロハは遅ればせながらの照れに頬を掻きかき。 はっとしては未来を探して辺りを見渡すものの、やはり何も見つけらない。 どうしましょう。未来さんはあちらにいた分、少なからず魔法の影響を受けてくれると思うのですが、こんなところで使うわけにはいきませんし。 一度家に戻るしかないと結論付けたイロハは、サンダルで来た道を駆け戻った。
未来が大変だと言えば、即行でイロハを解放した兄たちだが、成果も上げずに帰って来てしまった魔術師を迎えた彼らは、「間に合わなかったかぁ」と言っただけで、晴人は二階へ続く階段、明人は一階の居間へと行ってしまう。 もっとこう、「未来の何が大変だっていうんだっ!」のような、胸倉を掴まれて揺さ振られるぐらいの熱い詮索を期待、もとい、想像していたイロハは、淡白な二人の兄の様子に急いでいた気持ちを少しだけしょげさせた。 大変だと言った時はあんなにも熱心でしたのに。……もしかして、僕だから真面目には取り上げて貰えなかったのでしょうか? 望むと望まざるとに関わらず、邪悪なる魔術師として幅を利かせてきたイロハは、どんな交渉のテーブルについても、裏がある、反故するつもりだ、などと疑われ続けてきた経験がある。 このため、サンダルを脱いで上がりつつ、両頬に黒い手袋を置いては、哀しげに溜息をつき。 「いいえっ! ですがここで落ち込んでいてはいけません! 僕しか未来さんの大変さが分からない以上、僕だけでも頑張らないと!」 頬に当てていた両手をぎゅっと握り締めたイロハ。 俄然やる気を取り戻した彼は、勝手知ったるとはまだ言えないまでも、それなりに慣れた足取りで居間に向かい、朝食を取る明人を横目に、台所にいる未来の母へ声を掛けた。 「未来さんのお母様!」 「あら、イロハさん。未来さんのお母様、なんて他人行儀だわ。呼ぶのなら、お義母さんって気軽に呼んで下さいな」 「ね?」とのほほんと告げられ、「はあ」と頭を掻くイロハ。 元々人付き合いとは縁遠い生活をしていた彼には、未来の母が言った「お義母さん」の、若干のニュアンスの違いが分からなかった。 ゆえに改め「お義母さん」とイロハが呼んだなら、「まあ素敵」と穏やかに微笑んだ未来の母は、可愛らしく小首を傾げて「何かしら?」と問うた。 ……未来さんはお義母さん似、なんですかね? 真っ直ぐ自分を見つめる黒い瞳に、母より勝気な少女の姿を重ね合わせたイロハは、うっかり照れてしまった頭に手を回すと、視線を外し気味に用件を告げる。 「その、魔法の使用許可を頂きたいのです。あ、勿論危ない真似をするからではなくてですね、なにぶん不慣れな場所ですので、ある程度広さのある居間を使わせて頂けると、大変助かるのですが」 魔法の知識がない未来の母に、どう言えば伝わるだろうと四苦八苦するイロハに対し、当の母はにっこりと笑って両手の平で居間を示した。 「どうぞどうぞ。あ、でも一つお聞きしたいのだけれど」 「な、何でしょうか?」 思った以上にすんなり事が運び、逆にイロハが戸惑えば、両手を合わせた未来の母が若干上目遣いに目線一つ背の高い彼を見つめる。 この時ばかりはのんびりな母ではなく、悪戯っ気たっぷりに。 「魔法って、見られていたりすると使い辛いのかしら?」 「いえ、そういう事は決して」 「それじゃあ……見ててもいい?」 「は、はい。どうぞ」 きらきら目を輝かせる未来の母の申し出に頷いたイロハは、やはり未来さんはお義母さん似だと頬に朱を混じらせた。 ついでに未来が母と同じ年齢になった姿を浮かべたなら、それもまた可愛いのだろうと緩む頬を手で押さえつつ。
“此処にては彼方の地。集え、道を知る友よ。遊戯の場は広がれり――” 居間にあるソファを背に、テレビを前にし、胡坐をかいたイロハがそれぞれの膝の上に両手の甲を置けば、風もなかった空間に巻き起こる変化。 「まあ、凄いわー」 「ほお。昨日の火柱よりもこっちの方が凄いな」 「迫力に関しては昨日の方があったけどな」 その左右、野次馬と化した未来の母と兄たちは、イロハを中心にして起きた風にきゃっきゃとはしゃいでいた。 通常、魔法の行使には集中力が必要不可欠であるため、こういう野次馬の存在は術師にとって迷惑以外の何者でもないのだが、これを許可したイロハは気にする素振りなく、淡々と不思議な声音で続けていく。 “記憶せよ、この場、この時。自由は常に友に共にあり。根ざせば探れ。今一度、我が最愛なる宿敵を、その輝石、軌跡を――” 「宿敵?」 「敵なのに最愛?」 「ってことは、向こうで救世主だったっていう未来の事か」 「まあ。そういえばイロハさん、邪悪なる魔術師だったんですものねぇ」 「ああ、そうだったそうだった。……しかし、邪悪なる、か。頭にタオル巻いたパジャマ姿で聞かされてもな」 「説得力ないってーか、そもそもイロハに邪悪って勤まるのか?」 今度は精霊に働きかける“声”の内容を皮切りに、イロハの評価を好き勝手に語る野次馬。 それでも一向に構わないイロハは、周りがどれだけ煩くしようとも、精霊がもたらす情報を的確に掬い上げていく。 否、魔法を行使し始めた時にはすでに、彼の感覚から野次馬の存在は完全に消失していた。 あるのはただ、己が身に宿る精霊の力と、派生した魔法の動きのみ。 ちなみに今現在無防備に見えるイロハだが、行使前に「近づかないで下さい」とわざわざ未来の母と兄たちに注意した通り、身体には充分過ぎるほどの防御結界が張られている。 膜のように張り巡らされているそれは、無色透明ながら、彼に触れようとした途端、絶命するまで対象を破壊するという凶暴性を兼ね備えていた。 しかもこの防御結界、イロハの中にいる精霊が勝手に作り出した、いわばオプションのようなモノ。 ゆえに傷つけたくない相手が傍にいるなら、警告と併せて、誰も近づけさせない魔法を発動させるべきなのだろうが、イロハの魔法は未来の探索だけに用いられていた。 決して、未来の母と兄たちは近づかないだろう、という信頼からではない。 ただ単に、そこまで気が回らなかっただけの話である。 それほどまでに彼の心配は、未来へと注がれていた。 タオル越しの視界の中で、あっち側から呼んだ精霊が未来を探る動きを追う。 けれど目に映るのは、精霊の視点ではなく、不可思議な無数の光。 色彩豊かなそれは大小もまたさまざまで、その位置も上であったり下であったりと一定していない。 ……いた。 そんな中でぴたり、ある一つの光に視線を据えたイロハ。 柔らかな光は、その身に幾つもの小さな極彩色の光を巡らせているのだが、中でも彼がタオルに隠れた目を細めたのは、一つだけ他の光と逆に回る黒い輝き。 相変わらず、醜い――ですが。 単体ではおぞましく見えるその黒。 しかし中心にある柔らかな光はそれが近づくと、他の光がどう動こうともお構いなしに受け止めて外殻を滑らせ、と思えばぴょんっと跳ねていくのを見送りつつ、また寄り添うのを楽しんでいた。 未来さん相手ではその醜さも通用しませんね。 自嘲を浮べようとした頬が、柔らかな光と黒い輝きの戯れに自然と綻んでいく。 この柔らかな光、実は未来を示しており、巡る極彩色の光はあっち側で彼女が掛けられた魔法の残滓、黒い輝きはイロハが掛けた魔法の残滓をそれぞれ表していた。 他、彼女と同じ大きさで散らばる周囲の光も、個々の人物を示したモノである。 さてと。それでは……の前に。 光を見つめる視点はそのまま、イロハの両手が指だけ胸の前で合わさった。 “興じよ。数を喰らいて競い、一を残して捧げ” それまでより幾らか低い“声”が、にたりと口の端を吊り上げたイロハの喉を通る。 途端に柔らかな光と戯れていた黒い輝きが四方に伸び、巡っていた極彩色の光を全て突き刺した。 これにより動きを止めた光が段々とその色を失くせば、反対に大きくなる黒い輝き。 完全に光らぬ白となれば、黒い輝きの尖端が引き抜かれ、極彩色の光だった残滓は跡形もなく消え去っていく。 残された黒い輝きは元の形に一旦収縮すると、大きくなった分を下方に集め始める。 黒い輝きが顔の小さな雪だるま状になれば、更に下から黒い糸が紡ぎ出されていった。 紡がれた糸はしゅるりと音を立ててイロハを目指し、糸が伸びれば伸びるほど、黒い雪だるまの胴体はスリムになっていく。 そうして、現実では知覚できない糸が伸べられたイロハの指に絡みつく頃、黒い雪だるまの胴体はなくなっており、元通りの姿になった黒い輝きからは、胴体の名残である糸が垂れ下がっていた。 試しにくいっと引っ張ってみたイロハ。 空気の抜けた風船のような黒い輝きは、頼りない大きさに反してビクともせず、彼に苦笑をもたらした。 強固な繋がりは願ったりかなったりですが……後々、厄介な事になりそうですね。 未来が遠い場合は有利に働く残滓の、好ましくない結末。 思い、振り払うように、糸が絡みついていない手の平を上に向けた。 “寄り選り縒る。結びの珠は呪。叶い適う宴の縁” イロハの“声”に合わせて、開かれた手の平に白い糸が現れ、指に絡みついていた黒い糸がこれに伸びていく。 白と黒の糸は、絡みついたかと思えば交互に編まれ、ある程度の長さに到達すると輪を形作る。 端と端が届く手前で小さく透明な玉が間に出現すれば、未来から伸びる黒い糸をつけたままブレスレットが完成。 瞬間、視界を狩谷家の居間に戻したイロハは、反動で眩む不快を物ともせず、黒い糸から解放された親指を口元に持っていった。 ガリッ、と人より鋭い犬歯で手袋ごと皮膚を裂いたなら、人差し指で手袋に滲む血を増やし、ブレスレットの透明な玉へそれを押し付ける。 すると、水の中に赤いインクを落としたように、透明な玉が血の色に霞み、と思えば中心に深みのある藍を抱く、鮮やかな蒼い玉へと変貌を遂げた。 “澄み住まう。揺れ熟れ出でよ。薙ぎ凪ぐまで” 仕舞いに今一度“声”を発せば、呼応した玉が中心の藍を金色に波立たせた。 まるで、水中から見上げた太陽の如き煌めきに、笑みを刻んだイロハの口から息が零れた。 「ふう。こんなものでしょうかね。本調子ではないので、少し不安は残りますが」 ブレスレットの出来を確かめるべく、窓に玉を透かしてみるイロハ。 黒と白の輪の端を繋ぐようでありながら、空間を開けて存在する不可思議な玉は、けれども変わらぬ蒼を携えるばかり。 それでもこれに成功を見出したイロハは力強く頷き。 「イロハ」 「あ、終わりましたよ。ええと、未来さんのお兄さ――んだだだだぁっ!!?」 いきなり左手首を捻り取られ、イロハの肩が床についた。 予想だにしなかった状況、軽くパニックに陥りながらもイロハが思った事といえば、手順を踏んだ魔法を見せた事で、彼らの認識が変わってしまったのではないか、だった。 無論、悪い方に。 そうして、未来の家族ならば無条件で自分を受け入れてくれると、そう勘違いしていた自分に気づかされては愕然とし。 「晴人、もう少し力加減を考えろ。腕を取るだけでいいのに、何だって捻りを加えるんだ? それじゃあ指より肩の方が不味い事になるだろうが」 「え? いや、何となく。自傷する奴にはこれくらいした方が効果的だと思って」 「お前な……いいからとりあえず解放してやれ。どっからどう見ても暴漢に襲われてるって図だぞ?」 「酷っ! 言うに事欠いて暴漢かよ、俺」 兄弟が何事か言葉を交わせば、イロハに掛けられていた圧が弱まった。 これにイロハが反応を示す直前、晴人が尚も掴む左手に別の手が添えられる。 見れば隣に腰を下ろした未来の母が、呆れた顔で息子たちに首を振る姿があった。 「全く。絆創膏を取りに行っただけでこの騒ぎは何? イロハさん、御免なさいね? この子たちったら乱暴で」 「は? 乱暴なのは晴人だけだろ? 何で俺まで」 「見ているだけも充分乱暴です。それともヘタレって言われたい? ちゃんとお兄ちゃんの手綱握っていないと駄目でしょ、明人」 「ちょ、母さん。俺の手綱って」 「だって晴人より明人の方がしっかりしているじゃないの。それなのに……ふふ、困った子たちだわ」 おっとり口調を崩さず、ずけずけ物を言う未来の母。 それぞれに対応した単語で兄たちが項垂れたなら、未来の母はくすくす笑い、やり取りにぽかんとするイロハの、手袋越しの指に絆創膏を貼っていく。 少し破れた程度では、相手の生命力を奪う手の効力は発揮されないため、イロハは未来の母の為すがまま。 「手袋をした指を噛み切るから驚いたわ。魔法に血って必要不可欠?」 「へ? い、いいえ。先程の魔法には必要だっただけで、決してそういう訳ではありませんが」 「じゃあ、魔法に必要な血を出すには噛み切らなきゃ駄目?」 「いえ、そういう訳でも」 「それなら今度はちゃんとした道具を使いましょうか。血を出すだけならそっちの方が効率良いものね」 「……ぅええ?」 穏やかな笑みはそのままに、未来の母は妙に物騒な言葉を紡いだ。 これには流石に未来の姿を重ねられず、イロハは解放された指と共に若干引いた。 だが、微笑む母の話は続き。 「はい、どうぞ」 差し出されたのは、何かを隠し持ったグーの手。 どうぞと言うからには、その下に手の平を差し出さねばならないのだろう。 何とも為しにイロハの喉がごくりと鳴った。 恐る恐る、絆創膏の目立つ左手をグーへと伸ばす。 真下に配置が完了したなら、パーに変化した手から何かが零れ落ちた。 小さくとも硬質な感触を受け、ビクッと震えたイロハは、自分の下へ引き寄せた手の平を見るなり、困惑に首を傾けた。 「これは……指輪?」 そこに在ったのはイロハの言う通り、不思議な模様を描く凝った造形ではあるものの、構えるほどではない幅広のシルバーリング。 どういう物なのか伺うようにイロハが未来の母を見やれば、くすりと笑った彼女は渡したばかりの指輪を取ると、左手の甲を見せながら中指に嵌め 指を折り曲げつつもう一方の手で指輪の下半分を抓んだ。 「見ててね」 ふふ、と茶目っ気たっぷりに笑った未来の母。 イロハが頷いたり首を傾げたりする間もなく、抓む指が下半分をくるりと回転させた。 これにより不思議でしかなかった模様が、銀の薔薇を浮かび上がらせたなら―― 「ね? これなら簡単に血が出せるでしょう? バレたら不味いけど、回さなければただの指輪ですもの」 「…………」 指輪の中央に現れた、小さくも鋭い針。 本来の用途は何なのか。 それ以前に何故、こんな物をこんなに優しく微笑む人が持っているのか。 気になる事は山ほどあれど、結局イロハは何も言えないまま、もう一度指輪を手渡されては、緩慢な動きでこれを左手の人差し指につけた。
通す際、被さった絆創膏には、自分はちゃんと受け入れられていたのだと実感しつつ。 |
UP 2010/7/27 かなぶん
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