お守りいろは
魔法を用いてブレスレットを完成させたイロハ。 未来の居所を知っていそうな二人の兄へ、自分を彼女の下まで連れて行って欲しいと頼むが、却下したのは彼らではなくその母だった。 とはいえ、イロハの真剣な訴えを無碍にしての事ではない。 パジャマ姿で出掛けない方がいいという、至極尤もな理由からである。 ついでに時間を考えれば、一時限目の授業が始まった頃。 用意が出来ても休み時間を待つ提案に、イロハは了承を示したのだった。
一方、授業中の未来はと言えば。
登校するまでは恥ずかしかったミニスカート姿。 けれども窓側の席についた途端、机の関係上、隠れる足下に普段の自分を取り戻した未来は、しゃんと背筋を伸ばし、真剣に授業に取り組んでいた。 一年前の彼女であればもう少し、特に午前中は初夏の陽ざしでぐったりしているところだろうが、今の未来にとってはこうするのが当たり前。 何せ、昨日執り行われるはずであった結婚式に至るまでの日々、彼女はそれはもうみっちりと、貴族に嫁ぐための教育を施されてきたのだから。 あっち側の上流階級の作法から、最低限知っておくべき国の歴史、趣味にするための裁縫等々。 しかも未来は、貴族の女があまり学ばない文字まで習おうとしたために、余計、教育係として配置された女官の闘志に油を注いでしまっていた。 あっち側の識字率の低さを知らなかった未来に対し、女官は感動した口振りでよく言っていたものである。 流石は救世主様、ゆくゆくはシェイベルム夫人になるお方、女の身にしてその向上心とは。どこぞの跡継ぎにでも聞かせたく存じます――とか何とか。 ちなみにその跡継ぎというのは、彼女の縁者だったらしい。 それは兎も角として。 何はともあれ、そんなこんなで必要以上に熱心に、時に厳しく躾けられてきた未来は、今の自分の姿が、あっち側の一年間を知らない、昨日までの自分とどう違うのか、全く分かっていなかった。 分かっているのは、彼女以外の全員。 特に、教壇から生徒を隈なく見る事の出来る教師は、何度か授業の手を止めて、その姿勢に魅入ってしまうほどである。 古参のこの教師はこれを暑さのせいと処理し、おもむろに未来を名指しで呼んだ。 「えー、狩谷君」 「はい」 「その、窓を開けてくれんかね。それと、小林君に雛川君も。少々、空気の通りを良くしよう」 教師の言葉を受け、未来と他二名が窓を開ける。 一人はものぐさに座ったまま開け、もう一人は面倒臭そうに立ち上がって開け。 当の未来は無駄な音を立てずに立ち上がると、丁寧な動きで窓の鍵を外し、半分ほど窓を開けた。 通り道を見出した小さな風が、長い黒髪を微かに揺らす。 これに少しだけ目を細めた未来は、再び席に着こうとし。 ……え、何? この注目のされっぷり。 男女関係なしに、自分の一挙手一投足が見つめられていたと知ったなら、スカート丈の短さも相まって、そそくさと席に戻った。 生まれてこの方、誰かに注目される事もなく、平々凡々に過ごして来た未来は、座っても尚ちらちら向けられる視線を感じ、見えない位置で口を大きく引き攣らせた。 ま、まさか……スカートの中が見えた、とか? 一応それなりに見えないよう対策を取ってはいるが、あくまでそれなりに、だ。 自分の所作が一々優雅に見えているなど夢にも思わない未来にとって、それしか注目される理由が浮かばず、黒い瞳にちょっぴり涙が滲みそうになった。 今更言うまでもないが、未来の容姿は可もなく不可もなく、要するに並だった。 家族の贔屓目で可愛いとはよく言われるものの、それが家族間だけの話だと未来はよく知っている。 本物の美人が三人ほど、贔屓する家族の中に混じっているために。 身体つきにしても、これと言って目を惹く部位は、成長した今もないのだから、スカートの中が見えてしまった疑惑は晴れないまま。 それでも数分後、授業にのみ集中出来る未来の姿は、あっち側の教育係の鬼のような猛特訓の賜物であろう。 注目を集めた緊張と引き換えては±0だが。 ともあれ、授業の合間に時折訪れる、黒板の書き写しの時間。 「…………?」 書き終えた事で一旦、集中力の切れた未来は、開けた事で風以外のモノが入ってくる窓に、少しだけ身体を傾けた。 あ、これってもしかして、次の英語の……? 隣のクラスからだろうか、微かに聞こえて来る男の声に次の時間、英語の小テストがある事を思い出した未来。 げっそりしつつも、何とも為しに目を向けたのは前方、クラス一の秀才と名高い眼鏡の少女・岩城千尋(いわしろちひろ)だ。 彼女もまた、未来同様平凡な容姿の持ち主だったが、勝気の際立つ未来とは違い、守ってあげたいと思わせる雰囲気がある。 ――が、別段、そういう思いに駆られて見やった訳では、勿論ない。 岩城さん、今回はどうなんだろう? 大概のテストならば、小も関係なしに上位に食い込む岩城。 けれど英語の小テストだけは、何故かいつも十点中、良くて五点止まり。 酷い時は一つも答えられずに涙ぐむ始末である。 心ない女生徒はこれを、人気のある英語教師の気を惹きたい為だと罵るものの、未来の眼には、普通に泣いているようにしか見えなかった。 一度、英語教師が酷い点数について相談に乗るという場面に出くわした事があり、真っ赤になりつつも岩城がこれを振り払ったのを目撃しているなら、尚更に。 それともあの場面すら岩城の計算だったのか――と、ほぼどうでもいいと思いながらも、未来が考えを巡らせた、その時。 「ん?……あれ?」 隣のクラスから届く英語教師の声が、少しだけ大きく通って聞こえて来た。 小テストの最初や途中、あの教師は自作らしい英文を朗々と読み上げては問題とするため、最初は聞き流していたものの。 ……そっか。言語解読の魔法って、英語にも使えるんだ。 どこまで言っても日本語で語られていく文章を耳にした未来は、小テストが有利になると嬉しそうな顔をするでもなく、気のない瞳で再度、岩城を静かに見つめた。 口内で小さく、舌打ちしながら。
授業が終わり、休み時間。 眉間に皺を寄せた未来が席を立てば、ほぼ同時に掛かる声があった。 「未来」 続いてどよめく教室内。 大半の女子が顔を赤らめていく中、軽く目を見張った未来は、自分の名を呼んだ男を教室前方の扉に認めた。 さらりとした漆黒の短い髪に、切れ長の涼しげな黒い双眸。 通る鼻梁は中性的なれど、輪郭に柔和さはなく、閉じた口元からは冷淡な性格さえ垣間見える。 きっちり着こなされた濃紺の背広にしても、高い背丈も相まって威圧的な印象を与えてくる。 それでも顔とバランスの取れた細い身体は、ただ冷たいだけではない、ミステリアスな魅力を彼に与えていた。 そんな男に対し、駆け寄った未来が掛けた第一声は。 「アキ兄ちゃん、どうしたの? ってか、グッドタイミング」 「ん? 何かあったのか?」 瞳を輝かせて歓迎する妹を目にしてか、迎えた明人の顔が俄かに微笑みに緩む――と。 「きゃあっ……!」 背にした教室から届く、悲鳴のような黄色い感嘆詞。 徐々に大きくなるそれに併せ、今いる場所を思い出した未来は、ここでは話しにくいからと、休憩時間内に戻れる場所まで明人を案内していく。 夕ヶ岡の卒業生である明人は、連れて行かれたのが特別教室ばかりの、普段は人通りの少ない場所だと知っているため、それだけで未来が内緒の話を持ちかけてくると分かったらしい。 辿り着くなり壁に背を預けた彼は、自分の用件を後回しに、未来の「グッドタイミング」の理由を促した。 「で? 何がグッドタイミングだったんだ?」 「うん、あのね……アキ兄ちゃん、レコーダー持ってない? なるべく小型の、録音できるヤツ」 「生憎と。盗聴器ならあるが」 「え……何で?」 思わず尋ねたなら、口の端だけをくいっと持ち上げた明人は、「企業秘密だ」と答えになっていない答えを述べた。 次いで「冗談だ」と未来の頭に軽く触れ、問題の盗聴器らしき万年筆を渡しながら、その正体を説明する。 「会社の通信機だよ。何処でも届くという曰く付きのな。だから向こう側へ言いさえすれば、録音もしてくれる。勿論、俺の権限で守秘義務も問題なし。ほらな? 使い方次第では盗聴器にもなるだろ?」 「ふぅん……っていうか、どうして万年筆? カモフラージュする意味あんの?」 「さあ? 大方、作ったヤツの趣味じゃないのか? 俺はただ、持ち運びに便利な、あまり目立たないデザインにしてくれって言っただけだからな」 「ふぅん……変なの。でも、ありがとう」 「お前の役に立てるなら何よりだ」 にっこり笑って未来が礼を言ったなら、妖艶な美貌をふんわりと和ませて明人が笑う。 理由を何も聞かずにせがまれるがまま、犯罪に転びそうな道具を妹へ渡した兄は、「ああそうだ」と何かを思い出した様子で、ポケットの中を探ってみせる。 万年筆の仕組みを眺めていた未来が、何だろうと首を傾げたなら、出てきた握り拳がずいっと目の前に差し出された。 反射で上に向けた手の平を出せば、その上にぽとりと落とされるブレスレット。 「……アキ兄ちゃん? ウチの学校、見えるところの装飾品は、時計以外アウトじゃなかったっけ?」 「……そういやそうだったな」 一年前の記憶を頼りに未来が尋ねると、数年前の記憶を手繰って明人が頬を掻いた。 白と黒に編まれたブレスレットに目を落とした未来は、その中央、支えもなく浮かぶ蒼い玉を見つめた。 中心に深い藍が込められた玉。 「もしかして、これ作ったのイロハ?」 「よく分かったな?」 感心したような明人の声を受け、未来の表情が僅かに綻ぶ。 どういう経緯で作られたブレスレットなのかは、皆目検討も付かないが、彼の魔術師の陰を感じただけで、未来の心はほんのりと温かくなった。 明人は未来の空気に感化された様子で、しばし目を細めていたが、顔を上げて何かに気づくと妹の頭に軽く手を置いた。 「そろそろ休憩時間も終わるな」 「わっ、やば!」 「とりあえず、ブレスレットはポケットの中にでも仕舞っとけ。万年筆はクリップの付け根を押して上にスライドさせれば、それで向こうに届く」 「うん、ありがとう」 言われた通りブレスレットを仕舞い、万年筆の動作を確認した未来は、顔を上げると満面の笑みを明人へ向けた。 「それじゃ、アキ兄ちゃん、行って来ます!」 「ああ。転ばないように気をつけるんだぞ?」 「分かってる!」 走ってはいけない廊下を走って手を振る未来に、怪我の心配だけを口にする明人。 兄妹のこの不審なやり取りを聞く者は、人通りの少ない廊下にいるはずもなく。 兄の助力と思わぬお守りを手にした未来は、何とか間に合った教室内で、万年筆を片手に不敵な笑みを浮べた。
塀の向こうから届く、人工的な鐘の音を耳にしたイロハは、大袈裟に身体を震えさせると、幾度となく口にした質問をもう一度、左隣に座る晴人へ掛けた。 「あ、あの、未来さんのところに――」 「落ち着け、イロハ。心配するな。行かなくても大丈夫だ。今のは次の授業が始まったっていう合図だからよ。凶暴な化け物が上げた咆哮でもなんでもないぞ」 「そ、それは流石に、分かりましたけれども……」 言いつつ、目深に被った帽子の下で、薄っすら頬を染めるイロハ。 ツバを引っ張り、顔を隠すようにしては、軽く唇を尖らせた。 授業の前後で鳴るこの音を最初に聞いたのは、明人が車を出て行ってから数分後の事。 その間にも未来の心配ばかりをしていたイロハは、突如鳴った音に我を失くし、未来の下へ向かおうとした挙句、後部座席で共に座っていた晴人に羽交い絞めされてしまう。 補助魔法無しでは敵わない相手に、それでも無我夢中で抵抗を試みれば、あれは授業の開始と終了を告げるチャイムだと教わり、恐慌状態からは脱せた――のだが。 生まれてこの方、数える事さえ忘れて久しい時を過ごして来ましたのに……あの程度の事でこんな若い方に迷惑をかけてしまうなんて。 しかも、二度も大差ない反応をしてしまった。 恥ずかしくして仕方ないとイロハが更に帽子を下へ引っ張ったなら、晴人が「あっ」と短い声を上げた。 「明人のヤツが帰って来たぞ。……けど、何だ、アイツ?」 訝しむ晴人の様子に、イロハは帽子のツバを元の位置に戻す。 どの道、顔の大部分は隠れたままなのだが、隠された目で寸分違わず晴人と同じ人物を認めたイロハは、晴人と同じように小首を傾げた。 「? アキさん、口にお怪我でもされたのでしょうか?」 いつまでも未来さんのお兄さんたちでは面倒だ、と名前を覚えさせられたイロハ。 それでも何となく未来を呼ぶのと同じように呼ぶ事は憚られ、未来の呼び方から「兄ちゃん」を引いた呼称を用いている。 憚られる理由は勿論、正しく呼んだが最期、未来の兄たちを呪ってしまうのではないかと怖れたため。 違う世界なのだから、名前を普通に呼んでも問題ないとは知りつつも、長年の習慣はそう簡単に変えられるものではなかった。 未来相手ならば、そういう不安も生まれないのだが。 ともあれ、そんなイロハの視界の中、口元を右手で覆ったまま、俯き加減で車のドアを開けた明人は、運転席に着くなりハンドルに腕を置いて突っ伏してしまう。 「アキさん、大丈夫ですか?」 「大丈夫か、明人?」 イロハに続き、晴人までもが弟の様子に案じの声を掛けると、ゆっくり顔を上げた明人は恍惚の光を宿して、熱っぽく呟いた。 「駄目だ、俺。もう、本当に、ヤバい……四回、四回だぞ。あー、死ぬなら今がいい」 「ぅええ!!? ちょっ、本当に大丈夫ですか!?」 「……ああ、はいはい。そういう事デスカ。ったく、これだから重度のシスコン野郎は」 「し、しすこん? 重度って!? アキさん、病気か何かに」 「うんうん、落ち着こうな、イロハ? 大丈夫大丈夫、確かに病気ではあるが、重度でも死にはしない」 イロハが明人と晴人を交互に見やってうろたえれば、黒い帽子に手を置いた兄は、言葉とは裏腹に、弟はすでに手遅れなんです、と言わんばかりの様相で首を振ってきた。 これをバックミラーで咎め見た明人は、後ろを振り返って再度晴人を睨みつけると、威張る口調で応戦する。 「シスコンで何が悪い。可愛い妹を大事に思ってはいけないのか?」 「いやあ? 悪いとは言ってねぇよ? それもお前の個性だ。ついでに言っちまえば、俺も軽度のシスコンではある。けどよ、未来の一挙手一投足に、そこまで過剰に反応する事はねぇだろう? 妹が未来でなきゃ、絶対引かれてんぞ、お前」 「当たり前だ。未来以外に妹なんかいるわけがない。浮気する甲斐性は父さんにはないし、母さんにしても、可能性は父さんが根こそぎ潰しているんだぞ」 「……そういう意味じゃねぇって。はあ。なあ、イロハ? どう思うよ、コイツ」 「え? どうって……えと、その、み、未来さんは僕も可愛いと思います」 「お前もか!」 「イロハは分かっているな。しかもあんな笑顔、四回も見せられた日には。あぁ、未来の兄で良かった……」 「はい、未来さんの笑顔は素敵です」 「だから……そういう意味じゃねぇって。もうヤダ、コイツら」 ぐったりした風体で座席に背中をもたれさせた晴人は、この世の終わりを嘆くように両手で顔を覆い隠した。 イロハは、何か間違った事を言ってしまっただろうかとおろおろしつつも、再び前方に戻った明人の目を鏡越しに覗く。 「あ、あの、アキさん? それで未来さんには」 「ん、渡した。けど、悪い、失念してた。ああいう装飾品、校内じゃ身につけられないんだ。校則で決まってて」 「あ、いえ、大丈夫です。身につけなくても、持っていてさえ下されば」 「そうか。ならいいが……なあ、イロハ? 結局あのブレスレットには、どういう効果があるんだ? それに今朝方言っていた、未来が危険ってのは? 登校なんていつもの事だし、一年のブランクがあっても、どうって事ないと思ったんだが」 返される鏡越しの質問。 困惑と、今になっての不安が入り混じった視線を受け、イロハも似た表情を帽子の下に形作った。 「ブレスレットには、未来さんの精神を一年前の基準で安定させる効果と、最低限の護りが編み込まれています。未来さんが危険だ、と僕が言ったのは、この内の前者に関連しています」 「一年前の基準、というヤツか?」 「はい、そうです。先程アキさんは一年のブランク、と仰っていましたが、未来さんが実際に感じていらっしゃるのは、それ以上の開きになってしまうんです」 「行った所が異世界だから?」 「いえ。含まれているかもしれませんが、大本の原因は違います。……未来さんが結婚するところだった、というお話は昨日しましたよね」 イロハが視線を落とし、膝の上で組んだ両手を見つめたなら、死角の明人から零れる深い溜息。 「……ああ。乗る気ではなかったともな」 「はい。でも、彼女は結婚を選びました。元の世界に戻れない、それを事実として受け入れた後で」 「つまり、未来は覚悟を決めていたって訳だ。しかも話を聞く限りじゃ大層なご身分。とくりゃあ、結婚までに色んなあっちの都合を叩き込まれたんだろ?」 嘆きを終わらせた晴人が話に参加する。 口調は飄々としたものだが、端々に滲む怒気は、イロハの口元に何故か笑みを刻ませていた。 「ええ、たぶん。僕も彼らの行動の全てを知る訳ではありませんが、地位ある者との婚姻ならば、間違いなく。だからこそ、未来さんの精神は今、非常に不安定なんです。ご本人は気づいていないかもしれませんが」 「覚悟を決め、一から教養を身につける。たった一年でそれを終えるのは、生半可な事ではない。一年以上先を見据えていたのか、未来は」 「だってぇのに、いきなり元通りの生活。そりゃ確かに開きも尋常じゃないだろう。そーいやイロハ、言っていたよな? 未来の制服姿が軽装だー、とか何とか」 「ええ。あちらの世界では、足を晒す事は、ただそれだけではしたない行為でしたから。きっと未来さんはあの後、嫌な気分を味わったのではないでしょうか。……一年前なら普通に出来た事も、今ではその一つ一つに何かしらの違和感を抱いてしまって」 「で? 行き着く先は自分のせい、か?」 「え……」 前方、明人から呆れたような声が届く。 惚けて顔を上げれば、これを待っていたタイミングで横から伸びた手の平が、水平を保った状態で前からイロハを打った。 「あだっ!? は、ハルさん?」 「あー、やめやめ。そういうしけた話は無しにしようや。この際だからはっきり言っちまうと、お前の気持ちなんて俺ら、どうでもいいワケよ。何がどう未来に作用して、お前のせいだろうとも、未来自身がお前を歓迎しているんだ。だからそんな、挑発的な笑い方をする必要もなし! お前としちゃ、一発殴られた方がスッキリするかもしれんが、俺らはやらん、以上!」 どきっぱりとイロハの心情を読んだように言い切った晴人。 座席を弾ませ、どっかり座る振動が届けば、イロハへ向けた以上の呆れを伴い、明人がそんな兄へ言った。 「晴人……お前の口上には俺も似たような気持ちだが。イロハ、大丈夫か? さっきので目、打ったんじゃないか?」 「い、いえ、大丈夫です。ちゃんと聞こえていましたから」 「げげっ!? って事は、やっぱり目に当たったって事じゃねぇか! お前、なんでそんな目深に被ってんだよ? 大丈夫か、目?」 「目深に被っている理由は知っているだろうが。忘れていたお前が悪い。……よし、これは是非とも未来に報告してやろう」 「ちょおっ!? 明人、お前、裏切るつもりか!?」 「元より同盟を組んだ覚えはない。それに自分の身より、イロハを心配したらどうだ? 我が身可愛さで蔑ろにした、とも付け加えてやるぞ」 「くぅ、卑怯だぞ、このシスコン!」 「黙れシスコン。兄のクセに妹が怖いとは情けない」 「お、お前だって」 「俺はそもそも、未来に嫌われるような事をあまりしないからな。それに……」 「それに?」 「俺に向かって、怒ったり泣いたりする未来もまた、捨て難い」 「……これだから重度は」 徐々に緩和していく目の痛みの中、暗闇の外で言い合う未来の兄たち。 晴人が捨て台詞のように「重度」と吐いたなら、乗じて掛かるエンジン音が出発を告げる。 これらを聞いてイロハに分かった事と言えば、殴りはせずとも彼らにはイロハに対して憤りを感じている部分がある事と、ひっくるめてイロハの存在を受け入れてくれるのだという事、そして――
薄々勘付いてはいましたが……しすこん、とは悪口か、それに準ずる言葉のようですね。
この世界の新たな知識を習得したイロハは、まだまだ知らねばならぬ事があるのだと、ようやく痛みの引いた顔を上げる。 |
UP 2010/9/14 かなぶん
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