お守りいろは
イロハと晴人と明人――この三人を乗せた車が、学校を出て次に向かったのは、街中にある洋服店。 これから共に暮らすイロハの衣料品を揃えるためである。 晴人と共に店の前で降ろされたイロハは、居辛そうに服を弄りながら、先を行く彼の背を追っていった。 「は、ハルさん、その、本当にいいんですか? お金とか、大丈夫なんですか? あの、僕でしたら、このままでも別に」 「ああ、気にすんな気にすんなって。ここ、明人んトコの傘下だし。それにお前の格好がそのまんまじゃ、約一名、烈火の如くにこやかにキレる奴がいるからさ」 「烈火の如く、にこやか?」 「未来だよ、未来。っつぅか、着替えたのアイツが学校に行った後で良かったわ、いやホント」 どういう怒り方なのか判明しないが、晴人の様子を見ると、あまり芳しくないのだろう。 未来に怒られる機会があまりなかったイロハは首を傾げつつも、そこまで変だろうかと、直前まで心許なくくしゃくしゃにしていた服を伸ばしつつ、近づく洋服店のショーウィンドウ越しに己の姿を見やった。 赤い帽子に黒いフードのパーカー、群青のジーンズに白が基調のスニーカー。 齢を数えるのを忘れて久しいイロハが着るにしては、若過ぎる格好だが、一番の問題はそこではない。 似合う、似合わない以前に、ほとんどの丈が大きいのである。 この格好を見た瞬間、狩谷兄弟とその母は、揃いも揃って「ランドセルに背負われている新一年生みたい」と、イロハには分からない喩えを用いて笑っていた。 「お前、服貸しても俺らより背ぇ小せぇからなあ。かといって、母さんや未来のじゃ、ケツとか胸とか生地余るだろうし、デザインがデザインだ。ヘタな女装になっちまうだろ」 「はあ……すみません」 「いや、謝れって訳じゃねぇから。俺らも標準よりそこそこデカイしよ。兎に角、とっとと見立てて貰え」 「わわっ」 隣に並べばとんっと押された背中。 自動で左右に開いたガラスのドアに目を丸くする暇もなく、ブラウンの玄関マットを踏めば、「いらっしゃいませ」と落ち着きある挨拶が、方々からほぼ同時に届いた。 思わず顔を上げて姿勢を正し、「どうも」と挨拶しかけたイロハ。 「きゃあっ! 誰かと思ったら、明人さんのお兄さんじゃないの! いらっしゃい、お久しぶりねぇ?」 その前に甲高くも掠れた黄色い声が鼓膜を揺さ振ったなら、イロハの顔がぽかんとした表情になってしまった。 親しげに近づいてくるその人物の容姿――特に頭を見つめて。 長い付け睫毛の三白眼にすらっとした鼻筋、薄く色づく微笑みを絶やさない唇。 真っ白いワイシャツの胸ポケットには、身分を示していると思しき写真付きの札が付けられており、黒いスラックスは脚線美を強調している。 程好く高い背は、ヒールの高いサンダルの為せる業か。 そしてそして、何よりもイロハの気を引いたその頭は、つるりとした綺麗な卵型を描いており。 はあー……髪がなくても隠さなくて良いとは。 つい先日までいたあちら側では、頭というのは魂の出入り口であり、髪はその扉を担っているとされていた。 このため、目の前の人物のように髪のない者は、何かで頭を覆うのが常識。 かく言うイロハも髪の毛は一切生えていない、所謂スキンヘッドだが、被り物をしている理由の大部分は容姿に関連している。 ともあれ、茫然とするばかりのイロハ、その帽子越しの視線を感じてだろう、晴人に声をかけて来た人物は、細く整えられた眉毛を怪訝に寄せた。 「あらちょっとなぁに、この、失敗したラッパーみたいな子。っていうか、失礼じゃない? 初対面でじろじろ見てくるなんて」 「あ、すみません。何ていうか、その、は、初めて見るものでして」 「ふぅん……ご挨拶ね? どこのおのぼりさんよ」 素直に告げれば、段々と不機嫌になっていく低い声。 わわっ! お、おのぼりさん、と仰るからには、このような頭はあまり珍しくないのかもしれません。 焦ったイロハは慌てて再度、「すみません」と謝罪を継ぎ足した。 「ぼ、僕の、ええと、じ、実家では、髪の毛のない方は被り物をする、という風習がありまして」 出掛かったあちら側の世界の事を何とか呑み込んだイロハは、どうすれば機嫌を直してもらえるだろうと、いつの間にか下がっていた視線を上げて人物を再度見やった。 しかし。 「え、と……?」 今度はきちんと顔を捉えたイロハの視線だが、人物の表情には先程まで滲み出ていた機嫌の悪さはなく、ただただ呆気に取られたような色が浮かんでいた。 「髪……って、そこぉ? もっとさあ、こう、一目見て、あ、この人違う! ってとこがあるでしょお?」 「え? え、えと……あっ、僕、人間でこんなに細い方、初めて見ました!」 黒い手袋で覆われた両手をぐっと握り締めて言ったなら、人物が益々困惑を強めてしまう。 「いや、まあ、これでも努力はしているから、そう言われて悪い気はしないんだけど……もしかして、からかわれているのかしら、私?」 「ぅええっ!? そ、そこでもないんですか!? そ、それじゃあ、えーっと、えーっと……ああっ! び、美人さんですね!」 これで正解だろう、と言わんばかりに、びしっと人差し指を突きつけてみる。 と同時に、指を差す無作法に気づいたイロハは、帽子下の顔色を青くさせながら、もう一方の空いている手で、人差し指が伸びたままの手を回収した。 「……ぶふっ」 するとここで、今まで二人のやり取りを傍観していた晴人が、口元を押さえて顔を背けた。 「は、ハルさん?」 噴出すその音にイロハがそちらを見たなら、手の平をこちらに見せて先を制した晴人は、クツクツ喉を揺らしつつ、イロハの最後の宣言に固まったままの人物を親指で指差す。 「あのな、コイツが言いたいのは、そういう事じゃねぇんだよ。ああ、そういや紹介まだだったな。コイツの名前は胡蝶。本名は真鍋胡桃(まなべ くるみ)。でもって列記とした男で、男好きだ」 最早笑いを隠すつもりもないのだろう、腹を押さえて晴人が笑えば、胡蝶と紹介された人物が顔を真っ赤にして怒り始めた。 「ちょっと、失礼ね! 人を見境ないみたいに。私にだって、選ぶ権利はあるわよ、っていうか、何、さらっと本名ばらしてんの!!」 胡蝶がキーッと威嚇の声を上げつつ、自分より背の高い晴人に噛み付く。 と、その後ろ、店側から見知った姿がやって来た。 気づいた店員たちが姿勢を正して頭を下げるのも構わず、悠然とした足取りで近づいてきた男は、落ちた影に胡蝶が振り向こうとした瞬間を狙って、その後頭部にぺたっと大きな手を貼り付けた。 「それは勿論、イロハがお前をちゃんと呼べるように、だ。何せコイツはこんな為りでも、相手の本名を言うだけで呪えるっていうシャーマンだからな」 「あ、明人さん……」 「やあ、胡蝶。相変わらず触り心地の良い頭しているな、お前」 問答無用で置いた手をぐりぐり回す明人に対し、胡蝶はされるがまま、首をがくがく揺らしながら、ぽーっと頬を染めて彼を見つめる。 雑に可愛がる飼い主とそのペットのような図を展開する二人から、すすっと離れたイロハは、笑いから一転、呆れた顔で彼らを見つめる晴人の横へ。 「ハルさん、ハルさん。しゃあまん、って何でしょう?」 「ああ。呪術師の事だよ。……ん? あれ? お前って確か、魔法で言葉には困らないようになったんじゃなかったっけ?」 「えと、はい、そうですけど……言葉の意味が色々混じっていると、上手く解読出来ないんです。アキさんが言ったしゃあまんという単語は、どうやら酷く抽象的みたいですし」 「ニュアンスの違いって奴か……」 「あ、でも、教えて頂けたので、もう大丈夫です。シャーマンは呪術師。これで――って、ぅええっ!? じゅ、呪術師って、こちらにも魔法が存在するのですか!?」 「おまっ!? 声がデカイって!」 「ぅあ、す、すみません……」 晴人がぎょっとして、声を潜めつつ叫べば、思わず大声を出してしまったイロハは、急いで自分の口を塞いだ。 しかし漏れてしまった大声は、胡蝶どころか店奥の店員にまで届いてしまい、「魔法?」という訝しむ声が、あちらこちらから聞こえ始める。 この世界に魔法は存在しないと未来から聞いていたイロハは、周りの反応に彼女の言葉は正しかったのだと身を持って知った。 呪術師と称される者は、いるとしても。 ぅわわわわっ、そ、そういえば未来さん、絶対とは言い切れないけどって付け足した後に、でも魔法の事を素で言ったら変な目で見られるよ、とも言ってらっしゃいましたっけ。 遅れて思い出した言葉に、イロハの背中を嫌な汗が流れていく。 これまで散々、本当に散々、数えるのが馬鹿らしくなるほど、忌み嫌う視線を理由の有無関係なしに他人から受け続けてきたが、それとは違う奇異な眼は、注目される恥ずかしさをイロハに押し付けてきた。 為れない好奇の視線に晒され、イロハが硬直を続けていると、胡蝶から手を離した明人が小さく息を吐き出した。 それだけでイロハへ向けられていた意識はどこへやら、一気に引き締まる店内の雰囲気。 羞恥を引き摺りつつ、イロハがぽかんと明人を見上げたなら、胡蝶と店員を畏まらせた彼は、顎で店奥を指し示した。 「ここで長話も難だ。奥へ移動する。胡蝶、お前はコイツの服を見立ててやってくれ。他の者は店を頼む」 「「「はい、会長」」」 「……会長?」 イロハが首を傾げたなら、隣の晴人が面白そうな顔で口笛を一つ。 「兄貴、行儀が悪いぞ。イロハ、後で説明するから、今はコイツについて行ってくれ」 眉を顰めて晴人を諌めた後、イロハへ微笑む明人。 年下を見る目つきには、少しだけ居心地の悪さを感じたものの、衣料品を揃えるという本来の目的を思い出したイロハは小さく頷いた。
英語の小テストを終えて、昼休み。 明人から借りた万年筆型の通信機を、他の筆記用具と一緒に片付けた未来は、ほくほくした顔で机の上に弁当を置いた。 ただしその肌は、明るい表情に反してやや青い。 ちょっと喰らいはしたけど。……ククク。まあいいわ。どうせこれで最後なんだから。 未来は鬱々とした笑いで肩が揺れるのをギリギリで留めると、弁当袋を鷲掴んで席を立ち、かけ。 「……れ?」 いきなり机に落ちた影を知っては、その動きをぴたりと止めた。 嫌な予感に恐る恐る顔を上げたなら、待っていましたとばかりに、きらっきらした瞳の同級生の少女たちが矢継ぎ早に声を掛けて来た。 「休み時間に来た人、狩谷さんのお兄さんって本当!?」 「いやー、久々に良いもん生で見させて貰いましたよ」 「ねね、お兄さんって、フリー? 年下ってどう?」 「キレーな人だったよねー。あれは犯罪級だよー」 「未来ちゃん、私、未来ちゃんとは前々からお友達になりたかったの!」 「あ、あたしもあたしも! 未来、あたしたち親友よね!?」 「抜け駆けはしない! 狩谷未来さん、同い年の姉ってどう思います?」 うっわー……ちょー既視感。 未来が何も言わない内から、キャーキャー勝手に盛り上がる少女たち。 この姿に中学時代、今日と同じく明人が来た後に起こった、質問攻めを思い出した。 となると、この次に来る質問は――お父さんかお母さんもあんな感じなんでしょ、かな? どちらか一方が兄と同じ美人かと問う姿勢は、彼女らが未来の容姿をどう思っているのかがよく分かる質問でもあった。 貶されれば立つ腹はあるものの、相手があの兄では、仕方がないとさえ言える。 そして案の定、その質問は訪れた。 「ねーねー、お兄さん、お父さん似? お母さん似?」 けれど全く同じかと言えば、そうでもなく。 「あ、そういえば狩谷さん、もう一人お兄さんいたよね?」 「えっ、ウソ、マジで!? じゃあさ、じゃあさ、そっちのお兄さんはどうなの? さっきのお兄さん似?」 げげっ……何で面識ないはずのハル兄ちゃんが、話題に上ってくんのよ? 話した覚えもない家族構成に未来が若干引き攣り身を引いた。 と、その視界の端を掠める、教室を出て行く人影。 逃げ場を求めた訳でもなく見やったなら、弁当を一緒に食べようと思っていた美紀が、にへらと愛想笑いをしつつ、手を縦にして「すまん」とジェスチャー。 出所はあんたか!……ってことは、アキ兄ちゃんと出てった後ね、きっと。そう考えたら仕方ないかも。 たぶん美紀は、授業の合間の貴重な休み時間を、未来の友人というだけで、机を取り囲む少女たちの一部に潰されてしまったのだろう。 しかもこの、少女たちの壁の閉塞感と、期待という名の圧力相手では、屈しない方が寧ろ難しい。 「気にすんな」とこちらもジェスチャーで小さく手を振って返せば、「検討を祈る」と拳を握ってみせる美紀。 「応よ」と答えるべく親指を着きたてようとしたなら、未来の視線の先が自分たちからずれているとようやく気づいた少女の一人が、美紀との間にずずいっと割り込んできた。 未来が思わず仰け反れば、その分を詰めて近づいた彼女は、尋問よろしく「で?」と鬼気迫る促しを図ってくる。 「そ、そうねぇ……」 時間稼ぎのようにそう口にした未来。 何かを思い出す素振りで斜め上へそれとなく視線をずらしては、頭の中で家族の姿を再生させていく。 そうしてまず、はっきりとした輪郭を持ったのは会ったばかりの明人。 続いて未来よりも少しだけ背の低い母・深雪が表れた。 良くも悪くも普通の体型に、朗らかな微笑みを称えたやっぱり普通の顔立ち。 若い頃、腰まであったという濡羽色の髪はショートで、名前の中に雪がある割に、春を思わせる暖色系のスカートとエプロンを好んで着用している。 「えーっと、うん。お母さん似は私だけ、かな? あ、でも、髪質は兄妹みんな同じだわ」 「へぇ〜? そういや未来の髪って、そんだけ長いのに、あんまり重たい黒じゃないよね。綺麗綺麗……で? という事は、お兄さんたちはお父さん似?」 ついでのような髪への褒め言葉には溜息を堪えつつ、今度は父・蔵人が頭の中で、母の隣を当然のように占拠した。 「そう、だね。うん、兄ちゃんたちはお父さん似かな。あ、でも、完璧似てるのはさっき来てた兄ちゃんの方だね」 ブラウンの光沢を持つ短い髪は兎も角、冷たい印象を抱かせる父の美貌は明人とほぼ同じ。 いや、父だと冷酷と評した方が正しいかもしれない。 家族にさえ――「最愛の人」と呼ぶ母の前でさえ、感情をあまり顔に出さない父には、愛用している細く四角い銀フーレムの眼鏡のように冷たい、作り物めいた美しさがあった。 似合わないと母に断じられるまで、伸ばしていた髭も、父に人間味を持たせる事は出来なかったほどである。 「ふぅん? じゃあ、もう一人のお兄さんは?」 「もう一人はねぇ……」 最後に描かれた晴人は、茶色い肩口まである長髪を首の後ろで一つに括り、円いフレームの眼鏡の奥で、切れ長の黒い瞳を悪戯っぽく光らせていた。 しかも何故か、ほぼ同じ高身長を誇る明人と父がスーツ姿なのに対し、羽根突き帽とドデカイ登山用のリュックを背負った、陽気な登山者スタイルで。 今にも「やっほー♪」と暢気な叫び声を上げそうな彼は、反面で穏やかな雰囲気を纏っている。 「容姿はお父さん、雰囲気はお母さんに似てるね。けど、性格は誰にも似てないかな。明るくて楽しくて、でも、いざという時はとっても頼りになるよ」 喋っている内に段々調子付いてきた未来は、にっこり笑って締めくくる。 少女たちは依然、未来の机を囲ったまま、思い思いに「そうなんだ」と頷いた。 未来はそんな彼女らを見るともなしに見つめながら、自身が語った最後の言葉をなぞっていった。 いざという時は頼りに……うん、そうなんだよね。うん、うんっ! 一年のブランクはあるけど、大丈夫。私はちゃんと分かってる、憶えている。 何気なくスカートのポケットに忍び込んだ手が、明人経由で渡された、イロハのブレスレットを握り締めた。 このブレスレットを受け取ってからというもの、それまで確かに存在していた、得体の知れない不安は為りを潜めており、触れればその効果が更に高められる気がした。 ちゃんと答えられたのは……これのお陰かもしれないけど。 実は家族の姿を再生する時、一抹の不安を未来は感じていた。 あっち側の世界にいた一年が邪魔をして、姿形は表せても、思い出はすっかり色褪せ、中身がなくなっているのではないか、と。 でも、思い出せた。思い描けた。これもイロハのお陰、だよね、やっぱり。 彼の魔術師を想い、ほんのり温かくなった胸を無意識に押さえた未来。 今頃、何しているかなー。 そう巡らせた矢先。 「で、狩谷さんっ!」 「は、はい?」 現実からやって来るいきなりの「で」。 未来が目を丸くしながら返事をすると、いつの間にかまたこちらへ戻っていた少女たちの目が、血に飢えた獣のように爛爛と輝いた。 柄にもなく怯え、ごくりと未来の喉がなったなら、最初の迫力を殺さず生かし続ける彼女らが、ぐぐっと近寄ってきた。 次いで声を揃え、同じ言葉を発してくる。 「「「お兄さんたちのお仕事は!?」」」 「え……し、仕事?」 「「「差し支えなければ年収も!!」」」 「ね、年収って……あんたら」 「「「ご趣味は!」」」 「っつーか、矢継ぎ早に訊かないで! 答えて欲しいなら順番にっ!」 私は興信所か!?、と心の中で最後に付け加えつつ。 未来は答えられる範囲で、少女たちの質問に応えていった。 |
UP 2010/10/9 かなぶん
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