「お暇、ですか?」
自宅で泣き腫らす訳にもいかず、公園のベンチで泣いているところへ澄んだ声が届く。
女が顔を上げた先には見目麗しい少年――少女?
色素の薄い長い髪を後ろに一つ結った、首に包帯を巻く姿は、どこかの貴族に仕える従者染みたもの。
窺うように見つめる黒茶の瞳と顔立ちは、東洋人のようであって、どこか違う気がした。
答えもせず惚けていれば、性別不明の彼の者は、ふっと極上の笑みを浮かべる。
返事が欲しいのだと気付き、慌てて頷いた。
「それは良かった」
随分ほっとした物言いに、女は胸内に舞い戻ってきた熱に戸惑ってしまう。
これはナンパ……なのかしら?
俗とは縁遠そうな彼の者の風体では、決定できる要素は何一つ見つからず、けれど、もしそうならば――
「私、ね。寂しかったの。夫は帰って来てもすぐ寝てしまうし。息子たちは全然こっちの言うこと聞いてくれないし。だから一度だけって……でも、ずるずる引き摺っちゃって。今日、突然別れようって。勝手ね……私も、だけど」
「……では、今も寂しくて泣いてらっしゃった、と?」
不穏に彼の者の眼が煌いた気がして、馬鹿みたいに女は何度も頷く。
泣き伏せた顔には打算が見え隠れし、どう転んでも悦に入れそうな具合ににやけていた。
新しい彼――女はそう、彼の者を見定めて。
だが、伏せた頭の上から掛かる言葉は女が思っていたのとは違い、
「宜しければ、どうか私めの主と共に一夜をお過ごしにはなられませんか?」
「主……? 貴方でなくて?」
「え…………」
しまった、と女は思ったが、彼の者は困惑を隠して笑みを浮かべては、身を引いて広場を指し示す。
そこにいたのは女が夢にまで見た男の姿。
会ったことなど一度もない、それどころか現実にいるのかさえ分からぬような、人物。
「か、彼が――貴方の?」
「はい。主にございます」
恭しく差し出された手を取る。
左の薬指にピジョンブラッドの美しい輝きを目にしても、騒ぐ心は別に。
惚けた様子で女は彼の者に導かれ、男の元へ。
男が笑んで、女の手を取り口付ける。
「会いたかった、愛しい君よ」
「わ、私もですわ」
からからに乾いた喉で声を発する女。
声音はとろかすほど甘く、抱かれた肩は壊れ物でも触れるように優しく。
その視界から遠ざかって後、従者然とした彼の者は深い溜息を吐いた。
一夜のジョーカー
シガレットから細い煙を燻らせベンチに座る篠崎里璃は、もう一度、煙混じりの溜息をつく。
決して煙草の煙ではないその煙は、吐き出されたと同時に甘く馨しい香りを里璃の首元に纏わせ、合わせて包帯が歪な輝く文字を浮かび上がらせた。
従者の証であるチョーカーを邪魔だと無造作に引き千切ったものの、そのせいで従者の命とも言うべき人ならざる主から与えられた力が零れてしまう身の上。
これを助けるために主が直々に施した包帯とシガレットは里璃にとって必需品だ。
特にシガレットは包帯の隙間から漏れようとする力を封じるために、数時間に一度は呑まなければいけない。
外側で、内側で、首周りを修復していく煙。
煙草では害があるからと主人好みの香りをつけられた煙だが、里璃はあまり好きになれなかった。
異様に甘ったるいのである。
けれど呑まなければ自らの命に関わるどころか、横着を目ざとく見つけた主人が何を思うか知れたものではない。
包帯を指で数度撫で、空を仰いでは主の帰りを待つ。
寒空の下で待ち続けているというのに、里璃の唇は仄かに赤く色づいたまま。
列記とした未成年である里璃の喫煙姿は、煙草でないとはいえ補導されても仕方のないもの。
しかし、見回りにきた警官は懐中電灯をわざわざこちらに向けたにも関わらず、異常なしと去っていく。
自身が世界から完全に隔離された異形の身であると、改めて思い知らされる瞬間だ。
再度溜息。
短くなったシガレットを地に捨て足でぐりぐり踏むと、綺麗な火花を散らして消え去る。
頭でもがりがり掻いていれば、
「リリ」
と呼ばわる主の愛おしむ声。
「サトリです」
幾度となく行う訂正を物ともせず、女と共に消えたのと同じくらい静かに現れた主は、迎えるために立ち上がった里璃を抱き締める。
「終わったぞ」
「おかえりなさいませ。どうでした、彼女は?」
別段聞きたきゃないが。
そんな風に思いつつも従者の位置づけで尋ねた。
きっと女は今頃、陶酔しきった顔で自分の部屋で眠っているのだろう。
起きて夢だったと思うか、主人が残した跡につられるかは――里璃の関心の外だ。
髪を一撫で離れては、ふっと微笑がもれる。
「勿論、最高であった。女はどれも良いものだ」
「ああ、はい、そうですか。じゃ、帰りますかね」
毎度毎度吐かれるうっとりした声音に、面倒臭そうな応対で軽く手を叩く。
闇間に現れる黒塗りの馬車。
牽く獣は異形。
扉を開いては主を中へ誘導し、すぐさま閉め――
素早く伸びた手に腕を掴まれた。
「おいで」
「…………はい」
正直、外に座って得体の知れない化け物を引率する方が、どれだけ楽しいか。
けれど、仮にも里璃の主たる彼の手を払えるわけもなく、導かれるがまま中へと入る。
「冷えたのではないか?」
「いいえ」
外界から閉ざされた身に、気温の干渉など望めないと知ってるくせに。
内心で憤りつつ首を振るが、同席を求めた主は納得せず、里璃の身を己の方へ寄せた。
抗いもせず肩に頭を乗せれば暖めるように擦り始め、里璃の左手を取っては頬に寄せる。
薬指のルビーに口付けながら。
「お前も女であったなら、私も夜に限らずに済むというに」
ぞっと低く艶のある声が届く。
緊張が伝わりはしないかとはらはらしつつ、されるがままの里璃は不幸な身の上を思って泣きたい気分に陥った。
* * *
主の名を「夜」という。
それまで平凡な高校生業を務めていた里璃が、この「夜」と出会ったのは全て、遠い国に住んでいた今は亡き大叔母のせい。
生前から己を魔女と自称していた大叔母は、果たして確かに魔女であった。
ただし借金まみれの。
しかも借りは金に限らず、人ではない者たちから常人の身では決して得られぬ物をあるものを担保に譲り受け続けていた。
すなわち、己が一族の身を勝手に。
契約書の類には、誰のどの部分を上げるから、それこれ貰ったよ、的なことが書いてあったらしく、最初聞かされた時、里璃はおとぎ話のいかがわしい魔女を大叔母に重ねたものだ。
にも関わらず、担保として本当に差し出された身は一族の中では里璃だけ。
理由は簡単。
「夜」が全ての借金を肩代わりしたためだ。
大叔母とも通じていた「夜」が、たまたま彼女の家で里璃の写真を見て、従者にと望んだのが切っ掛けである。
その際の里璃の格好は母が嘆くような男物。
そして、「夜」と邂逅を果たした時の格好も似たような男物。
召還という得体の知れない法を用いて、強引に「夜」の下へ連れて来られた時、本来の性別通りに女物の服を着ていなくて良かったと里璃が実感したのは、大叔母からと「夜」から渡された手紙を見て後。
無尽の魔力を持つという「夜」ですら開けられなかった手紙には、謝罪と妙な一文が書かれていた。
“絶対、女と知られるな”という一文は、読み終えた途端に跡形もなく燃え尽きた。
何のことか分からず困惑する里璃へ「夜」は早速仕事を命じる。
女を一人、自分の下へ遣わせ、と。
そう言われてとりあえずは考えなしに、友人を軽い気持ちで紹介した訳だが……
現在、その友人は「夜」にぞっこんとなっている。
たまに与えられる休みに友人に出くわせば、熱っぽく「夜」に逢わせろというのだ。
――恋人のいない友人であったからまだマシ……?
とはいえ、後悔は付き纏う。
人間の女であれば見境なく夜を共にしたがる「夜」と知っては、大叔母の手紙の一文を固く守ろうと誓う里璃だが……
* * *
「リリ」
「サトリです」
いい加減名前くらい覚えろと思いつつ、揺れる馬車の中、目線を合わせれば仮面にはめ込まれた黒い双眸。
女が望む男へ変貌できる「夜」の姿はこちらが常である。
青白い細い左手が擦るのを止めては里璃の頭を抱きかかえるようにして右側の顎に這い、仮面が首元に近付く。
「い、痛いんですけど?」
解放された両手で顎を掴む手に触れれば、「夜」の右手が首の包帯に触れた。
すぐにひりひりと痛む感触が襲ってくる。
「吸ったか?」
「はい、ちゃんと吸ってます! だから離して貰えませんかね!?」
包帯に触れる手より、掴まれて無理矢理背けられた首が痛い。
けれど「夜」はそんな里璃に構わず呻く声。
「魔力の供給が不十分だ。シガレット程度ではまだ足りぬな」
丁度口の辺りを包帯に押し付ける。
無機質な仮面が口のように開き、中から牙と舌が覗く。
「だ、大丈夫です、駄目なら何本か後で吸いますから――!!」
顎を背ける手が離され、更に仮面が首へ寄せるように抱き締められて悲鳴を上げるが、
「案ずるな。男だろうと大切な従者を無碍にはせん」
「ひぁっ!?」
包帯越しで舐められる妙な感触に思わず手で制そうとすれば、右手は体に回された「夜」の左手に、左手は「夜」の右手に絡めとられ、身動きが取れない。
「ああ、リリよ。何故にお前は男なのか。女でないことが心底悔やまれてならぬ」
「さ、サトリですっ!――ぃ!」
言いつつ、実はもう女であるとバレているのではないか? と思う。
男を空気としてしか扱わない「夜」の、包帯への執拗な“魔力供給”は彼の屋敷に着くまで続けられた。
|