次の日、ひよこ 

 

 その日の昼餉を終えた頃。

「ねえ小春さん?」

 朝餉には起きず、昼餉間近に床を離れ、ご飯ご飯と催促した姉は、食器を片付け終えた妹へ尋ねる。

「鬱陶しくないの、アレ?」

 くいっと品のない親指で示されたのは、後方、炊事場入り口の壁を背にして座り、本を読む久紫の姿。

 黒髪黒目、片眼鏡越しの冷ややかな相貌は、手伝いの手を時折止めるほど整った顔立ちをしており、信貴の薄茶の着物を纏った体躯は、胡坐をかいても均整を崩さず。

 どこに居ても絵になる外見だが、この久紫、先程から妙な行動を取っていた。

 正確には、朝餉を終えてから、ずっと。

 流石に憚りまではないが、ひょこひょこと、小春が移動する度、その後ろを付いて歩くのだ。

 さながら、親の後に続く、ひよこそのものの様子で。

 けれど小春、意味を理解しかねるといった表情を浮かべ、涼夏へ言う。

「? いいえ。鬱陶しいなど……幾ら姉様でも、口にして良い言葉と悪い言葉がございます」

 眉を顰めて否定を為せば、妹から窘めを受けた涼夏が口を尖らせた。

「へーへー。そうですかそうですか。そうよねぇ、人形師様は小春さんの想い人だもんねぇ、ずーっと一緒に居られたら、そりゃ、嬉しいわよねぇ」

「あ……」

 いじけたようにしゃがみ、床へのの字を書く涼夏。

 しまったと思った小春は、同じ目線の高さまで座り。

「あの……その……」

 何か喋らなくてはと思っても、良い言葉が見当たらなかった。

 突拍子もない発言をする割に、失恋のせいでずっと心を病んでいた涼夏である。

 無闇に傷つけてしまった――そう思った矢先。

「!」

 ぺち、と額を軽く叩かれる。

 目を見張ると、立ち上がってこちらを見下ろす涼夏の顔に、苦笑が浮かび。

「何思ったのか想像付くけど、違うから。こっちはからかってんの。小春さん、勘繰るの癖になってない? 折角、良い目を持ってるんだから、ちゃんと相手を見なさい」

 後を追う形で小春が立てば、つ……と人差し指が顎下に添えられ、柔らかな涼夏の微笑が至近を彩る。

 まるで、口付けでもするような妖艶さが漂ったなら、周囲の手伝いたちが呆気に取られて動きを止めた。

 これを端に見た小春、溜息をつき。

「……姉様、お止め下さい。久紫さんをからかわれるのは」

「あ、誰をからかってるかバレちゃった?」

 途端、ケタケタ笑う涼夏は、離した手で小春の背を軽く小突いた。

 よろけて数歩たたらを踏めば、ぽふん、と誰かの身体に軽く受け止められた。

 見ずとも分かる相手に顔を上げたなら、怪訝な顔つきが小春の後方、涼夏を見つめており。

「久紫さん、怒らないであげてください。姉様はああいう方なので、いちいち反応してはこちらが損をしてしまいます。それでなくとも、調子に乗りやすい――」

「……小春さん。私が床に伏している間で、随分、性格がよろしくなってしまわれたようね?」

 背中をひんやり差す怒気。

 小春の幼馴染で涼夏の子分をしている伸介がこれを受ければ、確実に震え上がる場面だが、小春はにっこりと振り返り。

「お褒めに預かり光栄です。わたくしとしては、変わったつもりなぞ、全くなかったのですが、姉様がそう仰るのでしたら、きっとそうなのでしょうね」

 これへ怯んだのは、最初に絡んできた涼夏と、やり取りを見ていた手伝いたち。

 涼夏は頬を小さく掻きつ、伺うような声音で。

「えっと、小春さん? もしかして……もしかしなくても、ちょっぴりご立腹中?」

「まさか。姉様の憎まれ口は、今に始まったことではありませんもの。いちいち立腹していたら、胃の腑に穴が開いてしまいます」

「……やっぱり、怒ってるんじゃない」

 ぞんざいに整えた、寝癖混じりの頭を掻く涼夏。

 小さく口を尖らせては更に愚痴った。

「笑顔でってのがえげつないわよね。お止めなさいな、小春さん。その怒り方、母様そっく、げっ」

「姉様?」

 不可解な言葉尻に首を傾げた小春。

 わななく瞳と口の先を追い、視線を久紫の背後、廊下へと続く通路に向ける。

「……母様」

 そこで会う、にっこり笑う絹江の姿。

 物々しい未来を思った小春、久紫の袖を軽く引き、静かに避難を促した。

 

 

 

 

 

 居間に腰を落ち着かせ、本を読む久紫の前に茶を置いた小春。

 自身は向かいに座り、ほぅ……と茶を一口、息を零した。

 つい先程まで、姉と母の攻防が繰り広げられていたと思しき騒音は、断末魔のような姉の叫びを最後にぴたりと止んでいた。

 その際、ぎょっとした顔つきで小春を見た久紫は、「お気になさらず」と苦笑する彼女の様子を受け、逡巡しつつも、本へと視線を戻している。

 肉親ながら異様なやり取りをしていると判別はつくものの、涼夏が目覚めてから、日常茶飯事となっている事柄。

 最初の頃こそ驚きはすれど、双方、大した怪我もないのだから、続くじゃれ合いに、今ではすっかり慣れてしまっていた。

 それでも時折、涼夏が倒れる前もあんなやり取りをしていただろうかと、頭を悩ませる事がしばしばあり。

「小春」

 なので、久紫が己を呼ぶ声に気付くまで、数秒を要し。

「……はい?」

 お茶の余韻をたっぷり味わった後で、湯呑みを置き、姿勢を正して小首を傾げたなら、ぐっと息を詰める音が届く。

 思いつめた久紫の表情が俯けば、微かに眉が寄った。

 如何されたのでしょうか?

 すぐに返事をしなかったせいで、気分を害したのだろうか。

 半年も傍を離れていたため、すっかり抜け落ちてしまっていたが、久紫は少々偏屈なきらいがある。

 元より彼は、他では易く発揮される、小春の目利きの利かぬ人。

 思い悩む気持ちすら汲めぬ自身を、情けないと恥じた小春は、久紫が思いつめるに至る事柄をあれこれ考える。

 と、程なく現れたのは、焼失してしまった彼の家。

 まさかあの場所で日々を過ごす訳もなく、宿屋で寝泊りしていたという久紫は、客の線引きがなければ他者と接するのを厭う、極度の人見知りである。

 このため、今こうして、顔見知りの多い幸乃の家で過ごす事は、久紫にとって宿よりも気楽なはず。

 だがそれは、比べるべき場所があるからこそ成り立つ話だ。

 幾ら、幸乃家の娘である小春と想い合う仲になったとはいえ、手伝いの女たちが入れ替わり立ち代わり、忙しなく働くこの屋敷。

 一人ないし少人数で暮らしてきた様子の久紫が、心から落ち着ける環境ではないのかもしれない。

 なれば、小春が抱く結論は唯一つ。

「今日中にでも、手配をして置いた方が良いかもしれませんね」

「? 何の話ダ?」

 短い沈黙を破って一人ごつ小春へ、顔を上げた久紫。

 不思議そうな面持ちを認め、小春は微笑んで提案する。

「久紫さんの新しいお家のことです」

「俺の……?」

「はい。棟梁に頼めば、比較的早く、新しいお家が建てられるかと。職人気質、とでも申しましょうか。口にこそされませんが、棟梁は久紫さんの人形師としての腕を気に入っておいででしたから。何より、人口が限られている幽藍では、家一軒丸ごと建てる機会はそうありませんので、腕の見せ所だと張り切って下さるに違いありません」

 小春は、くすりと袖に笑みを零した。

 彼女の脳裏に浮かぶのは、熊を髣髴とさせる毛深い棟梁の、発注に際しては厳しい顔、反面、子どものように輝く瞳。

 久紫も気兼ねなく暮らせ、棟梁も喜ぶ、一挙両得の名案を味わいつつ、湯呑みへ口を付けようとし。

「ヤハリ……迷惑だったナ」

「は?」

 苦渋を示す声が正面から届いた。

 湯呑みを持ったまま、顔をそちらへ向けたなら、微かに笑んだ久紫がいる。

 ただその笑みは少し歪で、小春の胸をざわりと逆撫でた。

 嫌な感覚に息を呑み込むと、久紫は視線を逸らし、小さく謝罪を口にした。

「スマナい」

「何が……」

「分かってはいるのダガ……心の中では理解しているツモリ、だったのだが」

「ですから何を?」

「……情けナイ、な」

 目を閉じ、上向いた唇が溜息を漏らした。

 久紫の言いたい事が判断出来ず、戸惑うばかりの小春は、要領を得ない言葉の羅列に少しだけムッとし、先程より強めの問いかけをすべく息を吸い。

 これが開く前に、久紫は小さく零す。

「不安、なんだ。小春が傍にイナイと」

「っ!」

 途端、ぼっと火がついたように赤くなる小春。

 不機嫌から移り変わる嬉しさと気恥ずかしさに煽られ、意味なくわたわたと動いては、とりあえず中身が入ったままの湯呑みを卓へ置いた。

 次いで、手持ち無沙汰の落ち着きない両手を頬に当て、小春の様子を見もしない閉じた相貌を食い入るように見つめた。

「小春を見つけタのは一昨日で、ちゃんト確認したのは昨日。想いが通じて、ダイブ時が経過したヨウに思えてモ、実際はソレくらい。行き場のナイ想いを抱えていた間カラすれば、本当に短い時間……だから」

 一旦切り、目を開けた久紫だが、見つめる先には本しか在らず。

「ふと我に返ると……そこに小春の姿がナイと、イルと分かっているのに思ってしまう。全部夢で、俺の願望が見せた幻デ。本当は……小春は、まだ――す、スマン」

「…………」

 ようやくこちらへ目を向けた久紫から頭を下げられても、熱を冷ます以上の凍てつく目を宿した小春は、無言でその後頭部を眺めるばかり。

 近くにいなければ不安を抱くほど、久紫が己を望んでいる――。

 言葉にされて、嬉しくないはずはないのだが、最後の部分は頂けなかった。

 まだ、と続く言葉には本島、ひいてはここ、幽藍島を所有する春野宮本家の三男坊・志摩の傍に、小春が居なくてはならないという話であり。

 彼を心底嫌っている小春は、忌々しいと肺に溜まった空気を吐き出した。

 すると久紫は気まずそうに小春を見やり、姿勢を正して後、陰鬱な息をついた。

「すまナイ。だが、だからコソ、つい、小春の気も考えず、無意識に後を追ってしまう。小春はちゃんとココに、幽藍にいるのダと自分を納得させたくて」

「久紫さん……」

 弱気な発言を受け、小春の肩が小さく落ちた。

 共に過ごさなかった空白の半年間は、久紫をこうまで変えてしまったのだろうか。

 小春の記憶にある彼は、無口で怒りっぽく、愛想もあまりないがその代わり愚痴を言わない人で。

 なのに、今、小春の目の前にいる久紫はといえば、吹けば容易く倒れてしまいそうなほど頼りなく、己に自信もなく。

 そうして考える、小春の立ち位置。

 自覚する、久紫の中の己。

 近しいせいだと、気付いた。

 世話役よりも慕い合う仲は近しく、信頼されているからだと。

 だから、久紫も簡単に胸内の弱音を吐ける。

 弱音を吐いても、決して小春が離れないと知っているから。

 思い至ったなら、久紫の弱い部分を受け止めきれるだろうかと迷う。

 まだまだ未熟な己が、本当なら世話役が無くとも生きてはいける人を、そんな人が見せる弱さを、受け止めてゆけるのか、と。

 と同時に現れる、面映い温かな想い。

 喜久衛門という、半ば反面教師染みた人を師と仰いだせいか、人形造り以外にも、一通り家事がこなせる久紫。

 仕事も出来て、私生活もさして困ることがない人――だというのに、小春が傍にいないのは不安だと告げられて。

 小春に、受け止めるだけの度量があるかないかは、分からないけれど。

 せめて、久紫が倒れぬよう支えるだけの事はしたいと思った。

 再び舞い戻る、頬の微かな熱。

 対し、久紫の表情は未だ暗く。

「しかし……コレ以上、迷惑を掛けル訳にもいくまい」

「めい、わく?」

 久紫の話がとんと見えない小春は、鸚鵡返しに問う。

 が、久紫は安心させる笑みを浮かべるばかりで。

 おもむろに本を閉じては小脇に抱え、立ち上がる。

「さて。ソウと決まれば用意をせねば」

「久紫、さん……? どちらへ?」

 覚える胸のざわめきに、小春まで立ち上がったなら、数歩進めていた久紫が、廊下に続く襖の取っ手に手を掛けて振り返った。

 少しばかり、驚いたような顔つきをし。

「ドコに…………そうだな。フム。考えていなかった。ドコが良いだろうか?」

 黒い右眼と片眼鏡の左を上に傾け彷徨わせ、久紫は思案げに顎を擦る。

 その間、距離を縮めて近づいた小春は、幼子のように久紫の袖を引いた。

「久紫さん、お帰りは――」

「ン? ああ、頼む」

 優しい微笑が向けられ、ほっとした小春の頭に、久紫の大きくもしなやかな手が伸びた。

 くしゃり、宥めるように撫でられ、無意識に子ども扱いされていると分かっても、されるがままの小春は目を細め。

「家の手配、頼んだゾ、小春。金銭に糸目はつけないガ、出来るだけ普通の家がイイ。なんだったラ、以前と同じ造りでも良い。アレは住みやすい家だった。他、事細かな部分は明日にでも決めるトしよう」

「はい。あ、金銭に関しましては、お招きしたのはこちらですし、負担も…………え? 明日、とは?」

 別に今日でも良いのでは?

 手が下がり、問う視線を久紫へ送る。

 しかし、彼は口に当てた手の中で、ブツブツ考えを練るばかり。

 そのままの状態で襖を開けた久紫。

 まるで追うなとでも言うように、小春の眼前で、彼女を見もしない彼の手で、ぴしゃり、襖が閉ざされる。

 

 


UP 2009/7/16 かなぶん

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