次の日、ひよこ 4
小春に背を向けられ、庇うようでありながら、突き放された気分に陥った昨日。 今朝、目覚める直前に、全てが夢だったのではないかと疑い、先に小春がいたなら安堵して。 彼女が何も言わないのを良いことに、まだ実感が乏しいと、その後をついて回り姿を視界に留め。 呟かれた新しい家の話。 聞かされ、すっかり失念していた事に気付かされた。 小春さえいれば、他には何もいらない――などと。 囁いたなら甘く響く言葉だが、真実行ったなら、それは相手への負担以外の何者でもない。 人一人が背負えるモノなど、そう多くはないのだから。 もし仮に、多くを背負う事になったとしても、それは相手や他という支えがあって、初めて成り立つモノである。 どちらか一方が、どちらかに寄りかかるのは、あまりにも不自然。 双方、倒れるが必定であろう。 何より小春は、幾ら異性として認識しようとも、まだ少女の域を出ない身の上だ。 且つ、世話役としての己に誇りを持っている。 その身に余る期待を押し付けても、愚痴一つ言わず受け止めて、全て一人で抱え込み、やがてひっそり潰れていってしまう。 想像に難くない強盛な一面を思えば、久紫の内に生じるのは、苦笑。 次いで起こる、安らかな気持ち。 昨日、小春に想いを告げる過程で、名で呼んで欲しいと彼は言った。 そして彼女は今日、幾度となく己を呼んでくれた。 「久紫さん」と。 幻では在り得ない呼び方だ。 何せ久紫は「久紫」とだけ、彼女に呼んで欲しかったのだから。 敬称のない、近しい存在として認めて欲しいと。 けれどそれは小春の意思で却下されてしまった。 最初は「久紫様」、窘めれば「久紫さん」。 彼女が唯一、呼び捨てる相手を引き合いに出しても、あれはああいうものだから、とかなんとか、訳の分からない切り返しをされて。 結局、小春の意思は覆せず、さん付けで呼ばれる事を了承した久紫。 ならば今更、傍に居なければ不安などという思いを抱く必要はない。 「久紫さん」と呼ぶ彼女の意思があるのならば。 近くに居続ける必要はないのではないか。 ふと思った。 近くに居て、久紫の世話を甲斐甲斐しく焼く彼女に不満などないが、あれではいつか倒れてしまいそうだ。 そちらの方が、久紫には恐ろしい。 だが、小春は自身へ掛けられる心配には疎い面がある。 いや、疎むと表した方が正しいか。 慮られるを恥とする彼女を浮べたなら、久紫は急に、寂しい思いにかられてしまった。 久紫にとって、小春は小春でしかないのに、小春にとって久紫は、久紫であると同時に仕えるべき人形師なのだと、一線を引かれた気がして。 だから一度、現実にも線を引こうと思い立つ。 遠く離れて簡単に会えないような距離ではなく、人形師の家で毎日顔を会わせた時のように、適度な距離を保って。 身近に在り過ぎて、気を遣わせてしまうなど、息が詰まってしまう。
小春だけではない、久紫自身も。
そうして小春に別れを告げ、信貴の部屋に戻り、棚から拝借した本を戻し。 最中、慌てた様子で追いかけてきた彼女に、久紫は微かな期待を寄せた。 もしや、屋敷に居て欲しいと言ってくれるのではないかと思い――けれど。 小春が口にした事といえば、布団の在り様。 どこまでも世話役に勤しむ小春を、久紫は心の中で寂しく思うと同時に愛しく想う。 一生懸命な所がまた愛おしいと、自分自身に惚気た。 一方で、そんな自分に呆れて。 つい、意地悪な事を言ってしまった。 宿を探すと告げ、戸惑う小春へ。 肩の荷を降ろせ。 暗にそう伝えたかっただけなのだが。 ――俺の意見を尊重シタと思えば良い。 昨日、背を向けた小春に言われ、傷ついた言葉をつい、ぺろりと口にしてしまった。 ……俺も師匠に似てきたな。 喜久衛門が聞けば「人のせいにするでない!」と憤慨しそうな台詞を思い、亡き師を想い、信貴の部屋を後にした久紫は小さく笑う。
宿まで続くと思われた久紫の楽しげな様子は、玄関の土間へ下りる直前で終わりを告げた。 「よっ」 気軽に掛けられた、よく知る男の声によって。 「……伸介カ」 「……なんだよ。その、物凄く嫌そうな顔は」 思わず浮べてしまった久紫の顔を受け、ざく切り頭の男は、人懐っこい笑みと挙げた手を引っ込め、似た表情となった。 素直に謝罪を入れても良いところを、久紫は溜息でもって迎え、陰鬱なそれに当てられた伸介は、軽快に開けた戸を後ろ手に重々しく閉めた。 「何だ何だぁ? 俺が来たのが、そんなに気に入らねぇって? そいつぁ、酷くありませんかね、久紫の旦那」 「……誰に用ダ? 小春か、スズカ殿か、それともキヌエ殿か?」 因縁をつける伸介の柄の悪さを無視した久紫は、大して興味もなく尋ねる。 と、気落ちしたように伸介の肩が下がった。 ついでにやれやれと肩を竦められたなら、久紫の片眉が煩わしそうにピクリと動いた。 これに気付いているのかいないのか、「けっ」と悪態をついて伸介はじとりと久紫を睨みつける。 「あのな、小春や涼の姐さんはともかく、なんだって俺が今更、絹江様を訪ねなきゃならねぇんだよ」 「ソレは、ただ単に、この屋敷内で俺の知っている名前を挙げたダケだからな。深い意味はないが……今更?」 「うぐっ……痛い所を」 大袈裟に胸を押さえて顔を顰める伸介へ、言ってみただけの久紫は瞬き数度、別の引っ掛かりを口にした。 「それにスズのアネサンとはナンだ? スズカ殿のコトか?」 「ん? なぁに、人形師様。呼んだ?」 「「ぬぉっ!?」」 間髪入れず、気配もなく、ひょっこり顔を現した涼夏を前に、場所は違えど一様に飛び退いた男二人。 タイミングの良さに、逆に驚いた涼夏は、すぐさま顔を顰めて口を尖らせた。 「あによ、その反応。私が自分の家に居ちゃ駄目なのかしら?――って、あら、伸介。居たの、貴方」 「へぇ、こりゃどぉも。いや、それより居たのって、最初っから分かってたでしょう、涼の姐さん。久紫相手にしちゃ、口調が砕け過ぎてるし」 「んっまっ! 伸介のくせに生意気ねぇ。きっちり当てに来ている点からして、もっと生意気だわ」 言う割に、涼夏の目と口元は笑っている。 対する伸介も、頭に手を乗せて涼夏へ会釈しつつ、よく似た小狡い笑いを顔に乗せる。 気安い応酬に爪弾きを喰らった久紫は、己の行動を考えあぐね。 「――て、あれ? 人形師様、小春は?」 途方に暮れた久紫を認めたわけではないだろうが、伸介から周りに目を向けた涼夏は、妹の姿をきょろきょろ探して問うた。 「アア。小春ならまだ、信貴殿の部屋だろう。布団の片付けか掃除をしているのデハないか?」 半身をずらし、後ろを見やって小春の居場所を示す。 仕事熱心な彼女の事、宿へ行くと告げた久紫を見送る可能性もあるが、それなら広くとも限られた屋敷内、すでに追いついて良い頃合だ。 なのに廊下は、遠くで物音をさせるばかり。 些か切ない気分に陥るが、それはそれで良い兆候だと久紫は思った。 世話役ではなく、小春として、家事に手を付けたのだから。 欲を言えば、見送りに来ない理由が、久紫を引き留めてしまうのを恐れて、ならば良い。 仕える相手を尊重する、世話役の意識も含まれるだろうが、そこには久紫を引き留めたいという葛藤もあるはずだ。 ……俺も随分と、底意地の悪い考えを持つようになったものだ。 自分の事なのに、他人事のようにくすりと笑った久紫は、視線を伸介らへと戻し。 彼らが繰り返し、こそこそ話し合い、ちらりとこちらを見る行動を目にしては面食らった。 ひっそり喉が鳴ったなら、顔を合わせつつ各々袖で口元を隠したまま、伸介と涼夏が好き勝手な事を言う。 「ちょいと聞いたかい、伸介ちゃん。この人形師様、今は父様の部屋を使ってるんだけどさ。この真っ昼間にお布団ですってよ?」 「あらま。そうなんですか、涼の姐さん。しかも小春で掃除……これはやっぱり、ねぇ?」 「そうねぇ。だってぇのに、人形師様ったら、涼しい顔して玄関先にいらっしゃる。小春さんお一人、部屋に残して」 「後始末させてるんでしょう? とんだ鬼畜ですね、アタシ、見損なったわ」 「あらそお? 私は見直したところだけれど」 「…………ソコの二人。果てしナク誤解を招きそうな言動は止めろ」 頭痛を堪えるように額を手を当てる久紫。 迎えた二人は似通った笑みをにやりと浮かべ、おほほほほと袖に手を当てて笑った。 涼夏は兎も角、伸介がやると気持ち悪い事この上ない仕草に、気疲れした溜息を吐く。 と、またもコロリ、同時に表情を変えた二人、同じ様に首を傾げた。 「「で?」」 「デ、とは……?」 「人形師様はこれからどちらへ?」 「久紫はどこに行くんだ?」 「…………」 別々の口、異なる言葉で、同じ意を問われた。 段々面倒臭い奴らだと思い始めた久紫は、その心情を隠さず、おざなりに頭を掻いて溜息を付いた。 小春の姉である涼夏に対し、こういう態度で接するのは好ましくないが、小春より伸介に似た雰囲気相手、畏まる方が難しい。 とりあえず、彼らの問いに答えるより先に、久紫は自身の疑問を解消しようと顔を上げる。 「ソノ前に……アンタたちの関係を聞いても良いカ? どうもさっきカラ話を聞いていると、他人のように思えナイのだが?」 眉根を寄せて見やると、伸介と涼夏は顔を見合わせ、しばし沈黙。 のち、「「ああ。記憶がないのか」」と各々を指差せば、伸介の指が涼夏にばしっと叩き落された。 容赦のなさに加え、予期せぬ速さに久紫の眼がぎょっとなる。 「伸介。私に指を差すなんてイイ度胸しているわねぇ?」 挑発的な涼夏の言に、張られた手を振る伸介は、眉を寄せて抗議の口調。 「ってぇ……す、涼の姐さん、寝込んで更に凶暴化してません? 病み上がりの平手じゃねぇよ、今の」 「おほほほほほほ。実質、起きられるようになって、だいぶ経っているもの。その間、この私が何もしなかったとでも? 毎日毎夜、監視の目を潜り抜け、己を鍛えていたに決まっているじゃない。お陰で、技のキレも良くなったわ。隠密行動もドンと来いよ!」 「涼の姐さん……隠密って、一体何を目指しているんですか?」 呆れる伸介の声を受け、久紫も同じ思いを抱きつつ、だから先程は気配を感じられなかったのだと納得した。 納得したが……結局、二人の関係はよく分からないまま。 困惑し、緩く首を傾げたなら、気付いた涼夏が頭の後ろを掻き掻き、その親指で伸介をおざなりに示した。 「あーっと、コレとの関係でしたわね。コレ、昔は私の子分をしていたんです。使いっぱしりと言いますか。一言で表すなら……下っ端?」 「ひ、酷いっ! あれだけ尽したのに! せめて一番弟子ぐらいにしてくださいよ!」 「あーはいはい、今度ね」 暑苦しく訴える伸介へ、しっしっと手を払う涼夏。 前に一度だけ伸介から殴られた経験のある久紫は、そんな彼をして弟子と呼んで欲しいと言われている涼夏に眉根を寄せた。 ついでに、女という性別へ疑問を抱いたなら、一段上の少し上目線から、縋る伸介の額を手で押さえた涼夏は呆れ混じりに言う。 「やれやれ。昔はもっと凛々しかったのにねぇ。ひょうきんさだけが際立ってしまうなんて。どこで育て方間違っちゃったかしら?」 「育て? イヤ、そんなことより……凛々しい、とは誰の事ダ?」 「……あら、言われちゃってるわよ、伸介。良いお友達を持ったわね。お姐さん、嬉しくて欠伸が出そうよ」 言った傍からふわぁ……と、呑気な欠伸をしてみせる涼夏。 噛み締め、もごもご口を動かしては、「凛々しい」発言を真剣に考える久紫へ、もう一度「で?」と問う。 「人形師様、玄関にいらっしゃるってことは、お出かけになられるのでしょう? どちらへ行かれるおつもりです? まさか花街――」 「お、じゃあ俺も」 「黙れ妻帯者」 押さえた手を返した涼夏は、伸介の頭をぐーで殴った。 よく響いた鈍い音の通り、呻き声を上げてしゃがみ込んだ伸介に驚きつつ、久紫は静かに首を振った。 「イイヤ。今宵の宿を探しに、な。……ココに居ては、小春にいらん気ばかり使わせてしまいそうデ」 「ああ、なるほど。……えっ! なに、もしかして、もしかしなくても、私の言葉を気負ってじゃないですよね!?」 伸介を無碍に扱ってきた涼夏の顔が、さっと青褪めたのを見て、その変化には不思議を示しながら久紫は薄く笑った。 「イヤ、違うぞ? あるいは、きっかけはソウであったやも知れぬガ……全ては俺の意思。小春は自分の家で、もう少し寛いでも良いハズだ」 「はあ……さいで」 小さく胸を撫で下ろした涼夏に頷いた久紫、今度はまだ痛がっている伸介を見て言う。 「ソレと、伸介。俺は今、お前と一緒にいたくナイ」 「おおっ、何その意味深発言!?」 涼夏の面白がる顔を視界の隅に置き、こちらへ訝しむ視線を向けてきた相手へ、久紫は苦笑してみせた。 「マダ、な。この半年、世話を焼いてくれたお前にハ感謝しているが……小春の、幸乃の人間がいない所でお前に会うと、ドウも不安になってしまう。まだ、アノ時のままなのではナイかと」 「…………そっか」 応対した時、無愛想だった久紫の意を知ったのだろう、痛みに顰めた顔で頭を擦った伸介は、次の瞬間には明るく破顔してみせた。 「ま、そういう事なら仕方ねぇな。花街巡りは次の機会にでも」 「だから妻帯者だろうが、お前は!」 「のおっ!? す、涼の姐さん! そいつは洒落にならんて、色んな意味で!!」 伸介の軽口へ、近くにある壷を掲げた涼夏。 押し留め、宥める伸介に、久紫は目の前のやり取りも見ない、惚けた様子でぽつりと漏らす。 「花街巡り……? 何ヲ言ってイルんだ、伸介。小春が居るのに行く必要も無かロウ。資料目当てに行くとしても、太夫の所で酒を呑めば事足りる…………む?」 淡々と述べた久紫、何やら親分子分の注視を受ける自身を知り、眉根を思いっきり寄せた。 「何だ、二人とも?」 「いえ…………人形師様、行かれないんですか、花街」 代表して、壷を掲げたままの涼夏が問う。 これに久紫は気難しい表情を浮かべた。 「行って……何をシロと? 伸介を妻帯者と留め置いて、スズカ殿は妹御を慕う俺に花街へ行けと? もしや、小春との仲を疑っているのカ?」 「え、いや……そーいうわけじゃないですけど。け、健全な殿方として、それはどーなのかなー……と」 「? 問題がアルのか?」 要領を得ない、歯に物を挟んだ涼夏の語り口に、久紫の眉が益々寄った。 目を逸らしつつ、手と首を振った涼夏に対し、今度は伸介が頬を掻いて問うてくる。 「問題は、俺が言うのもなんだが、ないだろ。けどよ……お前、幾ら慕い合う仲になったとはいえ、昨日の今日で、しかも相手はあの小春。道のりの険しさもさることながら、久紫よ。お前、言ってる意味、分かってるか? その言い様だと、花街の事柄全部、小春にやって貰うという話で」 「何を今更。当たり前ダロウ? 勿論、小春ニいきなり全てを強いる気はナイが、小春以外の女に感けるグライなら、想いを告げたりはせん」 きっぱり言えば、伸介どころか涼夏までも、薄っすら頬を染めてあらぬ方を見。 「そ、そうか……じゃあ、最初は酌とかさせるんだな? あれなら、茶を淹れるのと同じ要領だし」 「! しゃ、酌っ!? こ、小春にカ?」 「ぅえ? 話の流れじゃそうだろう……てか、何だ、その反応は? さっきまで普通に」 訝しむ二対の視線を感じつつも、己の口元を片手で覆い隠した久紫の脳裏に現れるのは、隣に座して銚子を傾ける小春の姿。 商売っ気のない動きはたどたどしく、仕草一つ一つに恥じらいなんかもあったりして。 とんでもなく、刺激的であった。 音が出そうなほど顔を真っ赤にさせた久紫を見て、言葉を失くし顔を合わせた伸介と涼夏は、次の瞬間、からかう目付きでにやりと笑った。 「あら、人形師様。想像力豊かな事で」 「いやんっ、久紫ちゃんったら、ふ・け・つぅ。なぁに想像してんだか」 「っ! か、構うナ!」 指摘されたら、指摘された分だけ、顔の熱が上がっていく。 冷める気配のない熱と、探る笑みに気圧された久紫は、「じゃあな」と半ば投げやりに挨拶を二人へ残し、土間に並ぶ自分の下駄を探す。 ――と。
「異人さんっ!」
よりにもよって、呼ばれたくない呼称で人を呼ぶ、先程まで脳裏にしかいなかった少女の声が響いた。 今当に、屋敷を出るという、こんな時に。 伸介たちにからかわれた事も相まり、些か苛立った面を背後へ向けた久紫だが。 「こは――――のわっ!!?」 少女の名を口にした途端、背中に衝撃を受けた。 ぶれた上体を直すべく、宙を掻く事、数度。 突撃した勢いのまま背中へ縋る手を支えるのは、幾ら彼女が華奢な身体付きであっても、一苦労。 それでも久紫は、自分一人なら兎も角、共に土間へ落ちるわけには行かぬと、必死でバランスを取った。 |
2009/9/16 かなぶん
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