次の日、ひよこ 

  

 起きて、いの一番に行うのは、洗顔。

 庭先にある井戸から桶へ水を入れ、掬っては顔に付けるを繰り返す。

 水気を拭き取り、さっぱりしたところで、着替えを行う。

 選ぶのは、動きやすい着慣れた山吹の着物。

「……あら? 少し背が伸びたのでしょうか? 丈が少し短いような……」

 くるりと自分の姿を見つめ、小首を傾げた。

 けれど、家事を行うのに不備があるわけでもなし。

 多少の変化は喜ばしいこととして受け止め、そう受け止める要因となった出来事を思い起しては、束の間頬を染めた。

「……っとと。いけないわ、小春。ここは幸乃家なのだから。物思いに耽っていては、あっという間に日が暮れてしまいます」

 軽く頬を張り、両の手をぎゅっと握った。

 次いで、手馴れた調子でたすき掛けをし、肩口まで伸びた髪は頭巾で覆い隠し。

 先に起きては朝餉の支度に取り掛かる、熟練の手伝いたちの下へ、小春は足早に向かった。

 

 ――――はずなのに。

 

 炊事場で小春を迎えた手伝いたちの顔は、一様に変だった。

 別に見知らぬ者が揃っていたわけではない。

 ただ、小春を見るなり、目で訴えかけるのである。

 どうされたのですか、と。

 しかし、思い違いかも知れぬ読みに困惑した小春は、自分のやるべきことを探して、土間へと降りようとし。

「あの……小春様?」

「はい?」

 手伝いたちの中でもどっしりした体格の女が、段差はあっても同じ高さの目線を上目遣いにして言った。

「その……宜しいのですか?」

「…………?」

 掛かる言葉の意を図りかね、小春はきょとんとするばかり。

 首まで仕舞いに傾けば、どっしりした女より背の低い女が、後を引き継いだ。

「小春様。人形師様のところへ、ご挨拶にはゆかれましたか?」

「え…………いえ、まだです……というより、まだお休みの時分ではありませんか?」

 答えつつ、ああなるほど、と小春は微笑んだ。

 きっと彼女たちは気を遣ってくれたのだろう。

 小春は一昨日帰ってきたばかりであり、昨日は昨日で、想い人だった人形師と通じ合う仲になったばかり。

 落ち着く暇のなかった小春へ、心優しい彼女らは、諸事情で一つ屋根の下にいることとなった彼を理由に、休めと言いたいのだ。

 ここは素直に好意を受け取っておくべきところである。

 が、小春という少女は、首を振って丁重に断りを入れてしまう、普通とは少々違った思考の持ち主だった。

「……お気持ちは有難いのですが、あまり手を休めていては、家事の仕方を忘れてしまいそうで」

「ああ。そういえば、本家では何もしなくても良いと言われて、本当に何もさせて頂けませんでしたね。お供の私らも、家事ったら専ら奥様や涼夏様の御世話ばかりで」

 これまた別の女が、少しばかり口を尖らせて言う。

 小春の姉である涼夏の療養目的で、この場にいる全員が春野宮の本家まで着いていったのだが、この女の言葉に一様に頷く彼女たちは、何も世話が嫌だったと言っているわけではなかった。

 小春の母や姉の世話以外、何もさせて貰えなかったのが不満なのである。

 料理にしても、買出しにしても、他の部屋の掃除にしても、本家勤めの手伝いたちからやんわりと断りを入れられてしまった。

 別段、本家の手伝いたちに嫌味な雰囲気はなかった。

 ただ、あくせく働く事が習慣づいていた彼女たちにとって、のんびり出来る本家での毎日は落ち着かず、ともすれば拷問に近い時間だったらしい。

 小春と春野宮志摩との縁談が消えて後、当事者よりも喜ぶ彼女たちの、口をついた本音の数々は、暇だった時間から解放される事に偏っていた。

 そんな彼女たちの頷きに、小春は苦笑だけを表し、己の手に視線を落とした。

「はい。あかぎれた手ではいけないと。ですが、わたくしはこうして家に戻ってきました。なればこそ、早くいつもの己に戻りたいのです。身も心も、以前と同じ様に」

 それが、春野宮という姓を一時でも背負いかけた、自分の愚かさを正す方法と信じて。

 自分自身を偽った挙句、大切な人たちに迷惑をかけるような真似は、もう二度としたくないから。

 口には出さず、決意を胸に抱けば。

「戻り過ぎて、恋仲まで忘れないでくださいよ?」

「っ! わ、忘れるなんて、そんな!? からかわないでくださいまし!」

 横から入る茶々に、小春の顔が真っ赤に染まった。

 音を立てる変化を経て、頬へ手を当てる彼女に、手伝いたちは一様に笑みを浮かべた。

 

 

 ある程度まで朝餉の支度を終えたなら、手伝いの一人が久紫を起すよう小春を促してきた。

 これへ小春は照れもせず、まだ盛り付けが出来ていないと抗議。

 すると殊更真面目な顔つきが手伝いに宿り。

「人形師様は大変な人見知りでいらっしゃるのに、親しくもない我らを向かわせて、何かあったらどう責任を取るおつもりですか?」

 面と向かって言われた“責任”のニ文字は、一昨日、再開した久紫の物理的な重さを思い起こさせた。

 小春の後姿を見つけ、何をしても忘れられなかった我を忘れた――という告白から推測するに、あれこそが、取らされた責任の重さだったのだろう。

 本気で潰されると焦ったあの時の感触に、ぶるりと身体が震える。

 次いで、現在の空腹から、強いられた夕餉抜きも思い出し、ちょっぴり苛立った。

 いかに好く相手であろうとも、食べ物の恨みは別口に用意されているようだ。

 だがそれも、すぐさま消え去ってしまう。

 夕餉抜きも込みで“責任”だとしたら、今、小春が久紫の下へ行かねば、目前の朝餉を失う危険性が高いのだ。

 過去より今、である。

 そんなこんなで、渋々了承した小春。

 久紫の下へ向かい――

 

 

 了承は渋々だったにも拘らず、徐々に蒸気していった小春の頬は、現在、火が吹きそうなほど真っ赤に染まっていた。

 これを落ち着かせようと、彼が眠っている父の書斎兼寝室の前で、すーはー、深呼吸を数度繰り返す。

 陽が中庭の瓦屋根から覗きそうな時刻の空気は、少しばかり温まっていて、冷静さを取り戻すには至らないが、幾分、落ち着いてきた。

 次いで、小春は心の中で、呼ぶべき名を練習する。

 久紫さん、久紫さん、久紫さん、久紫さん、久紫さん…………

 間違っても、異人さん、と慣れ親しんでしまった呼称で呼ばぬように。

 異人さんでは遠い――そう言った彼の淋しそうな顔は、一夜経った今でも、小春の胸を苦しくさせた。

 否、一夜経ったからこそ思い知る、そうとは知らず紡いだ呼称の数。

 払拭するためにも、上回る数、彼の名を呼ぼうと心に決め。

 ……問題は、慣れるまでの照れでしょうか。

 名を呼び続けた結果、訪れる胸の高鳴り。

 折角落ち着かせた分を、増して騒がせる厄介さには辟易しつつ、このままこうしているわけにもいかないと、軽く握った手を襖へ向けた。

 目を閉じ、籠もる熱を吐き出すように溜息一つ。

 軽く、襖を叩き。

「ぃっ……く、久紫さん? 朝餉の準備が整いました」

 いきなり呼びそうになった呼称をぐっと丸呑み、小春はもつれる舌で用件を伝える。

 それですぐ、返事があれば良いのだが。

「……久紫さん?」

 また襖を軽く叩き、名を呼ぶ小春。

 しかし、待っても一向に返事が来ない。

「久紫、さん……?」

 もう一度、襖を叩き、名を呼んでみた。

 けれどやはり、襖へ耳をつけてみても、久紫からの返事は来ない。

 まだ寝ているのか。

 それとも……

 後者の予感に、小春の顔が強張った。

 思い出すのは昨日、小春と久紫の門出を祝うと開かれた宴が、お開きになって後のこと。

 

 

 伸介とさつきを見送ったなら、次いで出て行こうとする久紫。

 止めたのは、恋仲になったばかりの小春ではなく、母・絹江だった。

 この家に泊まれば良いと言う絹江に対し、久紫は迷惑が掛かると苦笑を示す。

 幽藍の噂は、女ばかりのこの家に泊まった自分のみならず、住まう者全てに仕様もない尾ひれを付けたがると言って。

 絹江はこれに嘲笑を加え、冷ややかな笑みで他方にぼそりと告げた。

 そんなもの、こちらでどうにでも出来ますから、と。

 昏い嗤いにその場の全員が引けば、ころっと表情を変えた絹江は、再度留まるよう、久紫へと告げ。

 迷う素振りをみせる久紫を知った小春は、彼を擁護するつもりで、背を向けては言ったのだ。

 久紫さんのことは久紫さんが決めるべきです。

 わたくしたちがお引止めする訳には参りません。

 久紫さんにも、行きたい場所がおありでしょう?

 と。

 後ろで久紫が何やら慌て。

 ま、待て、小春? 俺にはそんな場所はナイぞ?

 言い募られても、小春の目に映るのは鼻白む、絹江と姉・涼夏、二人の姿だけ。

 本当は、小春さんも留まって欲しいんでしょう?

 茶々を入れる涼夏の声に、小春はつい、大きな声で言ってしまう。

 わたくしは関係ありません!

 久紫さんの意思を尊重すべきだと――

 しかし、言葉は続かなかった。

 言い切る前に、後ろから腕を回されてしまったから。

 一段下の土間へ降り立つ久紫の顔が、小春の肩に埋められて。

 俺には、行くところナゾない……ココ以外には、もう、ドコにも……。

 こうなると、にやにや笑う母と姉に構える余裕はなかった。

 ただ、久紫の家が焼失した事実を失念した自分に失望し。

 尊重は嬉しい。ダガ、突き放すようなコトを言わないで欲しい。

 言われて気づいた、真に配慮が足りなかったのは、己の言であるという事実。

 

 

 あのやり取りを経、案内した父・信貴の書斎兼寝室では、楽しそうな様子だったため、深くは考えなかったが。

 ……まさか久紫さん、わたくしのせいで居辛くなってしまったからと、屋敷を出られたのでは?

 すっと冷えた肝。

「久紫さん!」

 よくない思い込みほど、浸透の早いモノは在らず、小春は一気に襖を開けた。

 勢いで中に数歩入り。

「……あ、まだ、お休みでしたか」

 規則正しい寝息を立てる、布団の膨らみを認め、騒ぐ胸を撫で下ろした。

 それでもはっと気付いては、開けた襖をそろそろと閉め。

「あ…………ど、どうしましょう……」

 何も考えず閉めたのは内側からであり、外から隔絶された室内には、眠る久紫と自分の二人きり。

 大袈裟に考えずとも、また開けるなりなんなりすれば良いところを、動転した気でも当初の目的・朝餉の報せを思い出した小春は、そのまま久紫の枕下へ向かっていった。

 背の低い父の布団を使っているにも関わらず、足も出さない寝姿は、身体を小さく丸めた形。

 膝を落とした小春、見つめるのは久紫の寝顔。

 寝顔自体はいつぞやの夏、うたた寝していた時に目撃したものだが、今回は場所が違う。

 枕に押し付けられた頬の、少しばかり拉げた様子にくすりと笑いが漏れてしまった。

 思ったより大きな声に、小春は慌てて自分の口を両手で隠し。

 だが、余程深く寝入っているのだろう、久紫は目覚める気配を見せず。

 すると段々小春を襲ってくる、羞恥の心。

 わたくしったら……殿方の寝所へ勝手に入った挙句、寝顔まで拝見してしまうなんて。

 はしたない――そう思いつつ、子どものように眠りを貪る久紫に微笑を浮べた。

 普段は気難しい顔をしている彼の柔らかな表情は、元より携えた美貌も相まって、何と評すべきか――

「……可愛い?」

 殿方相手に掛ける言葉ではないが、ぴったり過ぎる表現に、小春は呆れつつ笑った。

 そっと手を伸ばし、撫でたくなる衝動まで感じては、困ったものねと更に自分を笑い。

 かといって、いつまでも久紫の寝顔を見ているわけにもいかない。

 なので、小春は囁く声音で呼ぶ。

 彼の、名を。

「久紫さん、朝ですよ?」

「!!?」

「きゃっ!」

 呼び終えるのとほぼ同時に反応した久紫は、蹲り寝ていた布団を起き上がり様払い除け、酷く焦った様子で周囲を見渡す。

「ア…………こ、はる?」

 見開かれる、黒と、いつもは片眼鏡で覆われた灰の瞳。

 突然の行動には驚かされたものの、惚ける双眸に小春はにっこりと微笑んだ。

「おはようございます、久紫さん。朝餉の支度が整いましたので、お報せに参りました」

「ソウ、か……ココは、幸乃の…………分かった、今行く」

 片手で髪をかき上げた久紫は、バツが悪そうな面持ちでそっぽを向いた。

 苦い表情が浮かんでいるのは気になるものの、あまりの慌てようを尋ねる方が不躾と思い、小春は立ち上がる。

「……小春」

 名を呼ばれ、居間へ赴こうとする足が止まった。

 振り返ったなら、久紫の細められた目があり。

「オハヨウ。言ってなかったダロウ?」

 ふんわり笑む挨拶に、小春は照れつつ、同じ笑顔を久紫へと返した。

 

 


UP 2009/6/3 かなぶん

修正 2009/6/5

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