小春side 十二

 

 そこだけ熱を持ったような目元を、小春は何度も冷水に浸して洗い続けた。

 志摩が纏う香木の匂いがついた着物は、気持ちが悪いと洗わず捨てる。

 倹約で知られる幸乃家だが、小春の行動を咎めるものは、誰一人、いない。

 

 爽やかな風貌、人好きのする笑顔。

 けれど、弦の如く細められた瞳から覗く光は、値踏み・打算が見え隠れする。

 

 かつて小春は、そんな志摩と同じ光を宿す人間と会ったことがあった。

 それも、この家、父の紹介で。

 「小春ちゃん」と呼ぶその男は、続いて必ず言うのだ。

 笑みを絶やさず、愛しいとでもいうように。後で、非情に傷つけ裏切るくせに。

 「お姉さん――涼夏さんはいるかな?」と。

 

 

 志摩の見送りなどせず、小春は本来の仕事である久紫の世話役へ、項垂れながらも戻る。

 もうすぐ夏間近だというのに乾燥した海風が、崖上を目指す小春を押した。

 戸口に立って、深呼吸。億劫な面持ちを叩いて直し、

「異人さん、こんにち――――わっ!?」

 入ってすぐ後ろを向く。

 なにせ久紫が雪乃を、着物の前をはだけた姿で寝かせているのだ。

 だから、どうして、こう――――

 文句を言いたいところだが、振り向くのも恥ずかしく、頬の熱さを逃がすように手を当てる。

「幸乃の娘……チョット来い」

 いぶかしむような声音に、おそるおそる振り向けば、久紫が雪乃の腹をぐいっと力一杯押すところ。

 壊れるのではないかと、青褪めて近づけば、そこからぱかり、腹が扉の要領で開いた。

「ひっ……え、これは……」

 書物で見た人の身の内にあるという臓腑に似た、赤や白といった糸の類に、小春はこっそり久紫を盾にして、まじまじと眺める。

「ああ、コレは――――」

 小春の方を振り向いた久紫は、まさか肩越しに覗いているとは知らず、一瞬、虚を衝かれた顔つき。

 愛想笑いを返せば溜息のような息を吐き、雪乃の腹の糸を一つ、指で持ち上げる。

 すると、雪乃の腕が持ち上がった。

「カラ……クリ……? 喜久衛門様は、カラクリを?」

「ダな。アル動作をさせる、もしくはこちらがスルと、反応を返すヨウに出来ているミタイだ」

 腹に糸を帰すと、腕は下がる。

 腹を閉めて、今度は上半身を座らせた。

 何をするのかと思えば、背中に抱きつく久紫。ふぅと雪乃の耳元に息をかけた。

 己の身に起きたことではないが、その様子に小春の顔が朱に染まる。

 と、久紫の身が少しばかり身じろいだ。

 どうしたのかと見やれば、回した彼の腕に、雪乃の手がしがみついていた。

 悲鳴を上げかけ、久紫の変わらぬ様子に、呑み込んで見守る。

 次にギギギギギ……、かたかたかた……という音。

 ゆっくり、雪乃の顔が久紫の方に向けられ、その肩にかくんっと持たれかかった。

「これって……」

「ドウやら、抱きしめて耳元で風が起きると動く仕組みラシイ。アク趣味極まりない……が」

 久紫がもたれる頭を捩って退けると、雪乃はまただらりと腕を垂らして俯いた。

 もう一度寝かせて着物を調える久紫だが、何かに苛立っている様子。

 口には出さず、尚も見ていると、こちらを振り向いて、

「コレで安心したカ?」

「……へ?」

 気遣う片眼鏡の美麗な顔に、小春は間の抜けた返事をしてしまう。

「……もしかして、わたくしのため……だったのですか? 今の」

「他に誰がイル? 聞いたゾ? 伸介から、アイツは幽霊の類が死ぬホド嫌いだカラ、もしかすると、ココにはモウ、来ないかもしれナイ、と」

 これには眉根をついつい寄せてしまった。

「来ないって……来てるじゃないですか、こうして」

「…………確かにソウだが……」

 同じく眉を寄せる久紫だが、その顔には不機嫌が徐々に浮かんでくる。

 なんだか、凄く申し訳ない気分になってしまった。

「あっ、でも、はい、安心しました。これで心配なく来られます、有難うございます」

「ソウか……」

 なるべく愛想にならないよう気をつけて笑むと、心なしか安堵した表情が返ってきた。

 途端、柔らかな微笑に耳まで赤くなってしまう。

 これを咎められては堪らない。そう思って小春はいつもの仕事を、いつもよりキビキビこなしていく。

 

 

 

 夕方、帰ってきた小春を待ち受けたのは、艶やかな黒髪と広いおでこが印象的なさつき。

「いつか来る旦那様のためにも、わたくし、頑張らねばなりませんの、よ!」

 調理実習で、呟かれた言葉に小春は驚きを隠せなかった。

「いつか来る……? さつき様は、異人さんに食して貰おうとしていたのでは……」

「馬鹿を仰いな。いくら久紫様が優れた人形師で、世に認められた方だからといって、財閥の、分家といえど令嬢と釣り合いが取れると思って?」

 ざくっとまな板ごと切り落としそうな、力の入った包丁にハラハラしつつ、鼻白む台詞に混乱する。

「で、でもそれでは、何故、異人さんにあそこまで入れ込んで?」

 小春が知る春野宮さつきという令嬢は、美人で高飛車で、そして努力が嫌いな類の人間だ。

 だからこそ、こんな調理実習をするのは、きっと久紫に認めて貰いたいからだろう、そう思っていたのに。

「ふふふふふ……決まってるでしょう?春野宮は貿易を主な益としてるのです。旦那様も春野宮に婿入りするのですから、当然、島を出るでしょう。その時、良い方がいると、華やいだ生活が約束されますの」

「ふふふ。つまり、人形師様は愛人候補?」

「あ、あいじん……?」

 楽しそうなさつきと、何故かいる絹江の様子についていけず、小春は眩暈を覚えてしまう。

 けれど同時に、妖しい笑い声を上げて鍋を掻き混ぜるさつきに、暗い影が投じられたのを感じた。

 ――かすかな、しかし、悲哀に満ちた影を。

 その正体まで判別できず、小春は眉を寄せようとし、気づいて制止を叫ぶ。

 鍋の中では、得体の知れない干物が、くるくる泳いでいた。

 

 

 

 結局料理を駄目にしたさつきが帰って後、覗いた部屋で、彷徨う視線もなく、微笑を浮かべて眠る姉の姿に、小春はそっと溜息を落とす。

 

 数年前、父・信貴が連れてきたのは、垢抜けた青年。

 初対面からこの男を嫌う小春とは対照的に、姉・涼夏はどんどんのめり込んでいく。

 端から見ればお似合いの二人。

 けれどこの時、信貴の表情が険しかったのを、小春は今でも鮮明に覚えている。

 そして突然訪れた別れは、あらかじめ春野宮が仕組んだ、青年への罠。

 彼は間諜であった。

 詳しいことは小春に分かるはずもなく、ただ、春野宮が長年築いてきた“繋がり”を寸断するのが役割だったと、人づてに聞く。

 悲惨な末路を辿る。そんな風にも聞いたが、どうでも良いことだった。

 涼夏が、病んでしまったのだから。

 

 二人がどんな関係だったのか、詮索好きがあれこれ言うのに、小春は耳を塞いだ。

 涼夏、と呼ばわる声たちも遠いものとして受け入れた。

 ある日、信貴が「すまない」と、潤む視線の涼夏に、ずっと謝りつづけていたのを見つけても、小春はあまり関心を持てなかった。

 ただただ、姉様は壊れてしまったのだと、空虚な思いだけが、積み重なっていく。

 

 そんな中で、小春は志摩と出会う。

 人好きのする笑みを絶えず浮かべた彼に、一度だけ、尋ねたことがある。

 「楽しいですか?」と。

 一瞬、惚けた表情を見せた彼は、次には晴れやかな顔で答えた。

「君のような子がいるから、時折楽しくてしかたないよ。でなけりゃ、こんな場所、さっさと消してしまいところだ」

 本家というだけで与えられる賛辞の数々を、無駄だと唾棄すべきだと、志摩は笑う。

 

 人を殴りたい、そんな衝動に駆られたのは、この時が始めて。

 そして、涼夏を病みに追い込んだ者を、自分は心底憎んでいるのだと気づいたのも、この時――――

 

 

「――はる」

 呼ばれた気がして、はっと顔を上げると、眠る微笑。

 しばらく見つめていると、睫毛が揺れ動いた。

 開かれる瞳。

 ぎくりと体が強張った。

 彷徨う視線は天井を舐めるように動き、次いで傍らで息を呑む小春を掠める。

 どろりと濁った、熱病の眼。

 背中を気味悪さが駆け抜けた。

 目線の先の対象が自分ではないと知りつつも、恋焦がれる、かつての姉からは想像だに出来ない瞳が、小春は大嫌いだった。

 澄み切らない瞳に映るものを想像すれば、吐き気に襲われる。

 涼夏の中には未だ、彼女をこんな風に変えてしまった男がいるのだと、示されている気がして。

 小春はそっと、微笑を携えたまま室内を巡る視線に、襖を閉める。

 

 


2007/12/24 かなぶん

修正 2008/5/28

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