小春side 十三

 

 夏の暑さは去年より穏やか。

 とはいえ、雨が降れば話は別。

 蒸した暑さに辟易しつつ、朝も早くから久紫の世話に勤しむ小春は、昼餉を終え、いつの間にか彼の姿が消えていることに気づいた。

 久紫の住まう部屋は、大きく分けて三つに分けられる。

 入ってすぐの居間に、右手の作業場、左手は寝所。

 大抵の場合、久紫は居間にいることが多い。横着して作業場ではなく、居間で人形を造ることも多々あった。

 前に、何故居間で造るのかと聞けば、困惑が浮かんだので、それ以上尋ねるのは止めた。

 随分分かりにくい性格の久紫だが、その実、表情の変化が幼子のように豊かである。

 これを本人に告げたことはない。

 言えば、物凄い顔をすると容易く予想できた。含まれる意味合いは決して良いモノではないだろう。

「……異人さん、どちらにいらっしゃるのかしら?」

 吹き抜けの居間と作業場にいないのだから、と考えるが、別段、いないからといって問題は――――

 うっかり見渡せば、小春の眼を釘付けにする、麗しの微笑み。

 カラクリが仕込まれた人形・雪乃。

 久紫には安心、などとのたまったが、やはり少し、いや、かなり怖い。

 それでも惹かれて近寄り覗く顔に、妙な覚えを抱く。

 最初は“雪乃”の存在かと思われたが、小春の思い出に、こんな笑みはない。

 こんな――――

 

がさり……

 

 耽りかけた小春の耳朶に、布擦れの音が届いた。

 びくっと体を震わせ、見やれば閉じられた寝所の板戸。

 もう一度意味なく視線を雪乃に向ければ、変哲のない柔和な笑みが迎える。

 知らず喉を鳴らして、雪乃に視線を送りつつ、小春は板戸に近寄った。

 雪乃が襲ってくるとは思えないが、やはりあの時の恐怖は拭いきれない。

がさごそ……

 また、板戸から音。もしかすると鼠か何かかも。淡い期待に板戸に手をかける。

 その手の話では、開ければ最後とよく聞くものの、開けないで済ませられるほど、図太い神経はなかった。

 意を決して、小春は板戸を一気に引き開けた。

 寝所、の意味を完全に失念して――――

 

 

 

 格好に絶句しながらも、動くこともままならず、小春は熱が宿るのを感じていた。

 当の久紫はこの様を気にする訳でもなく、はだけた素肌を布で拭き続けている。

「っな……何を……して……らっしゃるんですか?」

 ようやく口に出来たのは、干からびたもの。

 変に色気のある久紫の流し目に当てられ、喉がひぅ……と鳴った。

「ナニ……と言われれば、体を拭いてイル。寝汗が酷くてナ」

 機嫌が悪い訳ではない、寝ぼけた動きは、くてくてとやたら無駄なものが多く、余計に艶めいてみえる。

 そうですか、と板戸を閉じることも出来ず、かといって見続けているのも気まずく、小春は座り込んで視線を床に這わせる。

「ソウいや幸乃の娘。今日は夏祭りとヤラがあるんだロウ?」

 問われて顔を上げかけ、帯がだらしなく垂れているのを認めて、床に戻す。

「は、はい。ですが、この雨では、延期かもしれません」

 返しながら珍しいこともあるのだと、小春は思う。

 久紫が幽藍島に来て一年と半年近くになるが、祭りの類に行くどころか、話題にすら上げなかったのに。

 ここで、ふと、何気なく浮かんだ疑問を投げかけた。

「あの、異人さんは、いつまでここにいらっしゃるんですか?」

 ついつい上げた目線の先には、立ち上がり藍の着物を整え終わった久紫の、固まった表情。寝ぼけの一切を放り投げたような、冴えきった瞳。

 乱れのない姿にほっとしたのも束の間、久紫が片眼鏡をしていないのに気づいた。

 投げかけた素朴な疑問も忘れ、片眼鏡の行方を問おうとした小春だったが、

「…………幸乃の娘……オレは、いない方が良い、のカ?」

「……え、と……?」

 表情は驚きに固まったままだが、声音には若干の痛みが混じり、小春は自分が何を口走ったかを知った。

「い、いえ、決してそういうつもりで言ったわけでは……ただ、喜久衛門様はよく旅に出ていらしたので、異人さんは――――」

「! 俺は――――っ!?」

 害意なく答えたはずが、朱の差した顔で声を荒げた久紫は、言葉を続けることなく口元を覆い隠す。

 雨が外に打ち付ける音だけが、響いてきた。

 しばらく目を閉じ、冷静さを取り戻そうとする久紫に、小春は何も言えない。

 どれほどそうしていたのか、ようやく開かれた目と離された口元。

「…………俺は、師匠では……ナイ…………」

 溜息混じりに、掠れたそれを聞いて、小春は気まずい顔になる。

 いつからか久紫は、喜久衛門の名を口にすると決まって、怒るような戸惑うような素振りをみせていた。

 最近は特に酷い気もするが、理由がさっぱり分からない。

 初めて会った時には、あんなに崇敬していたのに。

「あ、灰」

「……ハイ?」

 俯く久紫の顔をまじまじ見つめていた小春は、左目の色が完全な黒ではないと知った。

 片眼鏡の反射で分からなかったが、どうやら左目は黒に近い灰色らしい。

 久紫はそんな小春の目線を惚けたように受け止めるが、はっと気づき左目を隠した。

「モウ…………帰っていいゾ?」

 更に痛む声音に、小春は声を掛けかけ、止めた。

 

 

 

 次の日、降り続く雨に辟易しながら、家を出ようとした小春は、ざく切り頭の伸介の苦い顔に迎えられた。

 伝言だと告げられたのは、「しばらく来ないでくれ」という短いもの。

 

 けれど、無愛想な久紫一人では駄目だろうと、数人手伝いを頼んだ。

 するとこの日の午前中には、さつきと伸介と瑞穂の三人が尋ねてくる。

 居間に通せば思い思いに座る。小春の前にはさつき。左に瑞穂、右に伸介。

 てっきりまた、さつきが暴走するのではと危惧していた小春に対し、

「まだまだお料理の腕を上げねばなりませんから」

 と、言いつつも鋭い視線を向けてきた。

 あれからまだ、さつきは久紫の元には現れていない。料理の腕も、小春に多少劣るとはいえ、要領の問題。味付けにはさほど違いはないはずだが。

 いぶかしむ小春に、同じような顔の伸介が、小首をしきりに傾げる。

「なあ小春よ。久紫の奴、どうしたんだ?顔見にいけば、布団の化け物だったぞ、ありゃ」

 返事も聞かず戸を開け、数度叫び呼んだ伸介の下に、布団を被ってずるずる現れた久紫は顔も明かさず、小春に伝えて欲しいと短い伝言を託したらしい。

「どう、と聞かれても……」

「思い当たることで宜しいのです。伸介様は勿論ですが、私も気になります」

「勿論わたくしも気になりますわ」

 三者の同様の視線に、小春は昨日の出来事を一つずつ思い出しながら語りだした。

 

 

 そうして返ってきた反応は、どれも一様の絶句。次いで一言。

「「「酷い」」」

「ええっ?」

「黙りなさい。いつまでここにいらっしゃるんですか、なんて間抜けな質問、よく出来ましたわね」

 ぴしゃりと言われ、小春は眉を寄せる。

「しかも最近、喜久衛門の名前聞いて機嫌悪くなるの知ってんだったら、最初から言うなよな」

 呆れ混じりの伸介には少し腹が立った。

「それに小春様? 人形師様が片眼鏡をかけてらっしゃるのは、何かよほどの事情がお在りなのでは? 隠してるものをじろじろ見るのは、あまり感心されることではありませんよ?」

 トドメとばかりの瑞穂の言に、気まずさだけを浮かべる。

 久紫の様子を思い出せば、自分の失態だと反省できるが、この三人に責め立てられる謂れは果たしてあるのだろうか。

 

 ――――特に、伸介。

 

 視線を返せば「なんだよ」とやや及び腰になる。

「ま、まあ何にせよ、だ。ちゃんと謝ってやれよ? 結構繊細なんだぜ、アイツ。この前だって小春来る前に花街行こうぜって誘ったら、すげなく――」

「へええ……」

 瑞穂の壮絶な微笑みに、小春は頭痛を覚えた。さつきは伸介の言葉に、冷ややかな一瞥。

 慌てて弁明を取り繕おうとする伸介だったが、先に瑞穂が静かに立ち上がる。

「別に良いんですよ? 伸介様は春野宮のご子息ですから、手伝い風情の私がとやかく言う謂れは、ありませんものね」

 “様”と“手伝い風情”を殊更強調して、笑みをどこまでも深める瑞穂。

 見たこともない姿に、呆気に取られる小春とさつきに対しては、しずしず頭を下げて、

「申し訳ございません。仕事が残っておりますので、お先に失礼させて頂きます」

「あ、瑞穂!」

 一度も伸介を見ずに出て行こうとする背を、彼は慌てて追うが、目前でぴしゃりと襖を閉められてしまう。

 猫騙しの要領で尻餅をついた伸介に、さつきの冷たい声が刺さる。

「酷い、ねぇ? 人のこと、言えた義理かしら。――でも小春さん?」

 同じような冷ややかさながら、苦笑混じりのさつき。

「この愚か者の言ったことも一理あるわ。確かに久紫様、繊細ですから……貴方の行動次第では、ずっと籠もったままになってしまうでしょうね」

「私……の?」

 「お暇しますわ」と立ち上がるさつきの、思わぬ言葉に困惑する小春。

 惚ける伸介に声を掛けつつ、

「深く考えずとも良いのです。貴方が幽藍で一番長く、久紫様の傍にいるのだと、それだけを肝に銘じておけば」

 淋しそうなさつきの背に、小春は察してしまう。

 

 さつきは久紫を本当に好いていて――――けれど、諦めてしまったのだ。

 愛人と冗談めかしていた、あの時から。

 

 


2007/12/24 かなぶん

修正 2008/4/24

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