小春side 十九

 

 父・信貴の話は、志摩の言ったとおり、姉・涼夏を治せる医者が本島で見つかったというものだった。

 眉唾物と疑うことも出来たが、春野宮からの情報と聞けば、信憑性はぐっと高まる。

 息子がどうであれ、春野宮は信頼に足る家だ。彼らから特別視されている幸乃家にとっては尚のこと。

 しかし、その医者、腕が立つ反面忙しく、本島からこちらへ招くのは無理だという。

 では涼夏を幽藍から出す算段となるわけだが、ここでどうするか、小春は問われた。

「実はな、涼夏にあまり負担を掛けぬ様、家族全員で行った方が良いらしいのだ。けれどお前、久紫殿のお世話をしているだろう?」

「だろう……とは、少々酷くありませんか? 父様が仰るから、わたくしはお世話役を務めているのですし」

 まるで他人事のように語った信貴に、小春は眉根を寄せる。

 いつもならば話の早い信貴だが、妙に含みを持たせた言いよう。

 志摩がいるからだろうか。そう思って横で茶を啜る顔を睨めば、気づいてにこりと笑う。

 全てを知るような面持ちに、先ほどの奇行を思い出して、腸が煮えくり返る気分を味わった。

 そんな娘の不穏な様子など知る由もなく、信貴はちらりと隣に目を伏せて佇む絹江を見、

「それはそうだが……私としては、お前の意見を聞きたいと――」

「勿論行くよねぇ、小春は? だって掛け替えのない肉親だもの。長いこと一緒とはいえ、人形師殿は真っ赤な他人。幸乃殿もお人が悪い。どうしたって小春は本島を目指すしかないのに」

 歌うような朗らかさで笑う志摩へ、今まで黙っていた絹江が口を開いた。

「申し訳ございませんが、志摩様。他人と言うなら、貴方とて同じでございましょう?」

「これは失礼、奥方」

 志摩が飄々とした態度を通せば、絹江は隠そうともせず大仰な溜息を吐いて、目をこちらへ向ける。

「……小春。貴方の意見を述べなさい」

 珍しく射抜く母の視線を受けようとも、小春の意見は最初から決まっていた。

 

 

 

 翌朝、久紫の家に訪れた小春は、彼の左手を奇怪な形で布が覆っているのに、嫌でも目がいった。

「どう……なされたのです、か?」

「何でもナイ」

 挨拶も忘れて開口一番尋ねれば、こちらも見ずに突っぱねる。

 機嫌が悪い、そう思いもしたが、硬い顔と青白さに具合が悪いのではと近づく。

 とりあえず一番気にかかる手を触ろうとして、

「ヤメろ!」

「きゃっ!?」

 腕に阻まれ尻餅をついてしまう。横暴に抗議しようと久紫を睨めば、逸らす一瞬、その顔が酷く傷つき歪んでいるのを知った。

 もしかして、不恰好な手だが、あれは包帯の変わりなのでは?

 慌ててもう一度、布に手を伸ばせば、激しい拒絶に合う。それでもどうにか剥がす。現れた左手に深い裂傷。

 気まずさと苦痛に眉を顰める久紫の傷口に、小春は薬箱から塗り薬と真新しい綿布、包帯を取り出した。

「……どうなされたのです?これは……」

 あれほど布を取るのを拒んでいたくせに、処置を大人しく受ける久紫に、苦々しい表情で再度尋ねた。

「………………………………」

 けれど、返ってくるのは無言。

 昨日の志摩の言葉が過ぎり、知らず下唇を噛む。

 

 ――長いこと一緒とはいえ、人形師殿は真っ赤な他人。

 

 知った口をと血が昇りかけたが、言うほど自分は彼を知らず、知ろうとはしていないことに気づかされた。

 詮索は好きではない――確かにそうだが、それ以上に今、久紫を知ることを恐れているのも事実。

 喜久衛門と雪乃の経緯を聞いてから、常に不安が付きまとう。

 知らない顔、知らない風景。

 自分とは縁遠かった裏側たちに、小春は慄いていた。

 深入りすればどうなるか……

 答えは雪乃という人形の姿で、今もこの家の片隅に微笑の影を落としている。

 

 

 綺麗に巻き終えた手は、尚痛々しく、小春は無性に泣きたくなった。

 女のようにたおやかで美しい手だというのに、人形造りに耐え抜き、勝るとも劣らない美を創り出す。

 あかぎれた己の手に悲観し続けた小春にとって、この手は憧れですらあったのに。

 一方的な想いを押し付けていると知りつつ、両手に包む包帯の甲に恭しく額を当てる。

 身じろぐ気配が伝わっても、小春は目を閉じたまま手を離さず。

 しばらくの沈黙。

 冬の外気は囲炉裏の傍にあろうと肌寒く、取った手は包帯の上からでさえ、氷のように冷たい。

 

 ――それともこれは、己の熱がもたらす感覚か。

 

 そっと、頬に触れるものがある。

 恐れるような慈しむような、久紫の手。

 導かれ、小春はようやく顔を上げた。

 困惑と共に自嘲めいた苦笑が浮かぶ片眼鏡の先、異国の、けれど良く知る黒い、灰の滲む瞳。

 痛むであろう左手が小春の右腕を優しく引き寄せる。

 抗うことなく従えば、眼前に久紫の顔。

 支える手は彼の胸に添えて。

 移動に離れた久紫の右手は、もう一度小春の頬を撫でる。

 赤らむ暇さえなく、名を呼ぶ声もなく。

 

 唇に不慣れな、けれど暖かな感触が落ちる。

 

 自然に閉じた瞳は、他の感覚を許さず――

 離れては、訪れた時と同じくらい、自然に瞳は開けられた。

 ………………………………………………………………………………………………………。

 今しがた起こった事を理解するまで、数秒。

 その間、見開き固まった視線の先は、口元に手を当て俯く。

 恥じている様子に、混乱する頭でどういうことかと問う。

 だって……随分と…………手馴れてらっしゃるのに?

 瞬間、火が吹く想いに駆られ、頬に手を当てた。

 志摩の冗談をしゃもじで防いだ自分は、言わずもがな初めてだが、久紫のを受けてはそんな感想がもたらされた。

 はしたないと思いつつも、そっと感触の残る唇に触れると、

「スマない……忘れてクレ」

「…………はあ」

 やたらと苦しげな呟きに、小春は間抜けにも頷いてしまった。

 そうして、まるで何事もなかったのだと、小春に言い聞かせるかのように、空の湯呑みを差し出す。

「……はい、只今……」

 小春はこれを受け取り、ふらりと離れて茶の準備にかかる。

 ぎこちないどころか、今までにない丁寧さと速さで茶を入れてしまった。

 もう一度久紫へ近づけば、普段通りに茶を受け取り、

「幸乃の娘……」

 呼ばれればそのまま腰を下ろす。

 しばらく何事か考える素振り。言葉を探しているようにも見えた。

「ソの…………小春、と呼んデモ良いだろうカ?」

 虚を衝かれて固まってしまう。

 「小春」と己の名を呟き、また口元に触れる。

「イヤ……その……皆が名で呼ぶノニ、俺だけ違うというのが……ナンというか……」

 赤らみ後悔を色濃く映す、逸らす表情に、小春は一度だけコクリと頷いた。

 途端、明るさを取り戻す久紫。

 何故だろうか、小春はそんな久紫の様子を嫌い、立ち上がって窓の方へ身を寄せた。

「……小春」

 背筋を通る、己の名にしては甘く響くそれに、一つ身震いがなされた。

 自身でも戸惑う行動であったが、冬の気配を閉ざす窓を開け放つ。

 すぐに、痺れを起こす冷たい風が、火照った体を苛み始めた。

 高揚する想いを抱きながら同時に、小春は酷く冷めた己の心を知る。

 

 雰囲気に呑まれたとはいえ、口付けを、交わした。

 けれど、スマないと、言われた。

 そして、名を、呼ばれた。

 

 歪んだ、不可解な、突拍子もない、連なり。

 

 とても嫌な予感がして、冷やした体に腕を回す。

 気づけば雪がちらほらと小春の着物に纏わりつく。

「――?」

 もう一度、己の名を呼ぶ声がする。

 向けば、惚けた久紫の姿。

 この国の人間と同じ黒い髪、黒い瞳。

 なれど、異国の、整った相貌。

 女のような肌を持つ、小春より背の高い、男。

 一歩、知らずに退けば、座っていた久紫が不安げに腰を浮かせる。

 心配するような顔。

 しかし、その目は――――

 

 先ほど呼ばれた名は、本当にわたくしの――?

 

 浮かぶ疑問に目線は外さず、小春は首を振る。

「――?」

 再度、呼ばわれる名。

 熱のこもった吐息を孕むソレ。

 もしもこれが、真実、己の名ならば、こんな幸福はないだろう。

 だが、同時に向けられる目は――

 

 恐ろしい。

 

 青褪める小春に久紫が近づく素振りをみせる。

「っ――いや!」

「――!?」

 驚いて呼ばれる名がある。

 けれど小春はそんな響きは知らない。

 だから逃げ出す。

 

 追いかけてくる気配もなく、ひたすらに家を目指す小春は、涙と共に込み上げる吐き気を抑えられない。

 脳裏を過ぎるのは、姉の眼。

 病んでまで誰か、遠い者を追う瞳。

 

 澱んだ熱を孕む、己を通り過ぎる双眸は、確かに久紫にも宿っていて――耐え難く、ただただ恐ろしい。

 

 


UP 2008/3/12
かなぶん

修正 2009/9/1

目次 

Copyright(c) 2008-2017 kanabun All Rights Reserved.

inserted by FC2 system