小春side 二
三日後。棚は思ったより随分と早く直った。 もう少しかかっても良かったのに。 戸口の外で小さく溜息をつく。 たかだか叩かれたくらいで手伝いを交代する訳にも行かない。 大工の人に混じって家に入り、出る時も同じ頃に出ていたから、どちらから口を開くこともなく過ごせたのに。 今日からまた久紫と二人きり。 羨ましいという声は今もって聞こえてくるものの、 「本当……誰か、代わっていただけませんか……」 気分を殺がれる相手を思って、短い髪を撫で、また溜息をついた。 仕方ない、か。 頬を一度張って、深呼吸。 戸口を迷いなく開き、深々と頭を下げた。 「おはようございます」 だが、肝心の返事がない。 結局人形には触ってもないのに、ここまで怒られる理由が分からない。 内心でもう一度だけ溜息をついて顔を上げる。 と、上げた先に片眼鏡の無愛想な顔。 「異人……さん?」 こちらは愛想笑いを浮かべてみるものの、久紫は変わらずのしかめっ面。 途端、帰りたくなる心を叱咤して、愛想笑いを消し、目を合わせて待ってみる。
長いこと見詰め合っていた気がする。
段々奇妙な気恥ずかしさに襲われ、小春はついつい視線を外してしまう。 その様子に、久紫の方から溜息が漏れた。 驚いて視線を戻すと、自分より広い背中。 「来い」 言われて招かれたのだと気づくまで数秒。 狐につままれたような気分で床に上がる。 そうして久紫が立ち止まったのは、例の人形の前。 どうされたのでしょう?まさかわざわざここで、前の続きを? 読めない行動に、最悪の状況が脳裏を過ぎる。 父はほとんど不在で、母もおっとりとした人。姉が一人いるが、母にとても気性が似ている。そんな家庭で育った小春は、怒鳴られるのに慣れていない。 耳を塞いでも怒られそう。 どんどん帰りたくなる小春。 だが、その耳に届いた言葉は、全くの予測外。 「お前、人形の手入れもできるのカ?」 「え……あ、はい。多少ですが」 頷いて渡されたのは、綺麗な飴色の櫛。 なおも困惑し続ける小春の様子に、一つ咳払いをしてから、 「この前は悪かっタ。謝る。蜘蛛の巣がついてるとは思わなかったんダ。それでナ、考えたんだガ、俺は人形は造れても、出来上がった人形にまで気が回らナイ。だから――」 恥ずかしそうな困ったような、そんな顔。 「幸乃の娘。アンタにコイツの世話を頼みたいんだが……良いカ?」 指差したのは散々触るなと言われてきた人形。 突然の申し出に、小春は驚きながらも頷いた。 「は、はい。……でも――」 「?」 「わたくしが触っても良いのですか? ずっと怒って……」 「ああ、アレは……素人に触られて壊されたら困るカラな……・師匠との最初で最期の合作だったカラ……」 そうでしたか、と頷きかけて、「最期」の言葉に引っかかりを覚えた。
乱れた髪を整えると、人形は段違いに柔和な笑顔となった。 「…………喜久衛門様が、亡くなられた……」 「ああ。去年の暮れ頃に、流行り病を患ってナ」 膝をつき合わせて座る久紫は茶を啜る。 小春は茶には口をつけず、ただじっと震える水面を見ていた。 あんな愉快な爺様が死ぬなんて。最後に会ったのは去年の夏。花街の姉様方に、足蹴にされていた姿を懐かしむことになろうとは。 「……本当にいたんだナ」 呟きに顔を上げる。光の加減で片眼鏡が反射した小春を映す。今にも泣き出しそうな顔をしていた。 「亡くなる前に師匠は言われたんダ。自分が死んだら残念がる奴は五万といるが、悲しんでくれルのは片手で足りるって。コウやって伝えても、大抵の奴ら……アンタには悪いが、幸乃殿ですら、新作がモウ見れないと残念がるだけで、死自体には悲しみナンか持ってなかったからなぁ」 そう言う久紫も淋しそうな顔。 「いえ。父は……根っからの商売人ですから……」 喜久衛門をここに連れてきては小春に世話を頼み、自分は碌に話しもせず次の商談に駈けずり回る信貴の背中を思い出す。 その様子を謝れば、決まって喜久衛門は「いやいや、こんな静かな所を提供してくださるだけで有難いことだよ」と満足そうに笑っていた。 「でも信じられません……いえ、異人さんの話が信じられない訳ではなくて」 「分かってル。俺だって未だに信じられん。自分で看取っといてナンだが、ひょっこりその辺カラ現れるんじゃないかと、ツイ思ってしまう」 世間で知られる宮内喜久衛門という人物は、厳格で常に仕事一筋な印象だが、実際はかなりお茶目な性格であった。 勿論、人形作りに手は抜かない。 「そうですね。そんな方……でしたから……でも、良かった」 安堵の息に久紫が眉根を寄せる。 小春を見る目が不信感を露わにしていた。 だからこそ小春は微笑む。 「喜久衛門様が昔、仰っていました。己は人形ばかりかまけていて、どうも人を蔑ろにしてしまう。だから、死ぬ時はきっと、一人で死ぬのだろう、と」 お嬢ちゃん、ワシを看取ってやってくれんか? 冗談めいた笑みを浮かべて、時折そんな風に、喜久衛門は小春に言う。 決まって頷く小春の頭を、心底嬉しそうに撫でる、大きな皺の手。 看取ったのは自分ではなかったけれど…… 「だから嬉しいんです。異人さんが喜久衛門様の側に居てくださって」 「……ソウ、か」 茫然とした面持ちで、久紫が湯呑みに視線を落として俯いた。
静かな沈黙が続く中、その日の小春の仕事は終わりを迎えた。 帰り道、夕暮れの空の下、煌く海、その向こうの水平線。 霞む本島がある辺りを眺めながら町へ向かう。 小春は生まれてこの方、幽藍島を出たことがない。 そんな少女の前に度々現れた老人は、本島どころか世界各地を回って来たのだと豪語していた。 どうせ花街で人気を得たいがための作り話さと、姉様方は影でせせら笑っていたけれど。 土産は話だけで、語る中身を証拠として持ってきたことは、一度もなかったけれど。
その土産だけで小春は島にいながら、どことも知れぬ異国へ想いを馳せることができた。
夢の中で喜久衛門が色んなところを案内してくれた、そんな風に伝えれば、皺だらけの顔を更に深めて、そうかそうかと嬉しそうな顔。 いつか、一緒に行こうね。 小さな頃、そんな他愛ない約束をしたのも思い出す。 もう、叶わないのに…… じわりと視界が滲む。 これを夕陽のせいと決め付けて拭い、小春は視線を前に移した。 夕陽を、先の水平線を見てしまえば、また泣いてしまいそうだから。
それでも次の日、見た夢はあまりに遠く、優しくて、知らずに涙が溢れてしまう。 |
2007/12/13 かなぶん
修正 2008/4/24
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