小春side 二十一

  

 短い時間であったのに、船に揺られるのに慣れてしまったせいか、陸をふらりと傾ぐ小春。

 その肩を抱く者がいた。

「大丈夫かい、小春?」

 払う気力もなく見上げれば、相変わらず気味の悪い、志摩の笑顔。

 

 

 さつきから出た名を乾いた舌が紡ぐ。

「志摩……様……が?……何故?」

 小春が知っている限り、優男に見える志摩という人物は、人好きのする笑みを絶えず浮かべている割に、益にならぬことを自らするほど優しい性格ではない。

 当初は志摩に好印象を持っていたさつきだが、回を重ねる内に歪んだ本性を知ったのだろう。眉根を寄せて首を振った。

「分かりません。ただ、今回の涼夏様の件とて、志摩様と共にもたらされたモノのはず。分家のわたくしが言うのも難ですが、あの方が関わっている以上、何らかの謀があるでしょう」

「その……婚姻を結ぶ相手の方は……?」

「…………不甲斐ないお話ですが、わたくしも知りません。ただ、両親はとても良い縁談だから、と微笑んでましたが……」

 苦虫を潰した顔のさつき。

 彼女の親が滅法甘いのは知っているが、反面、“可愛いさつき”という型から彼女を逃がさないよう必死なのも知った。

 調理実習を続ける中で、一度だけ、さつきの両親の使いを名乗る者が訪れたことがある。

 幸乃家ですら驚く金額を押し付けて、さつきにこれ以上、包丁や火といった“凶器”を使わせないで欲しい、というのだ。

 これに怒ったのは、さつきと、何故か絹江。

 猛抗議の果てに、今までの調理実習がある。

 

 

 

 短い髪に触れる手がある。

 放っておけば、今度は右手を撫でる感触。

「…………いい加減、お止しになってください」

「良いじゃないか。私と君だけなのだし」

 正座する小春の後ろで寝そべり、先ほどから癇に障る手遊びを楽しむ志摩は、起き上がっては小春に寄り添う。

 二人きりの今、払い除けることも可能ではあるが、悔しいかな、小春が居るのは春野宮の本家。

 下手に騒いだものかどうか、悩む小春の肩にしなだれかかり、

「それにしても遅いねぇ。幸乃殿と奥方。どうしたんだろう、ねぇ?」

「っ!?」

 隙があったわけでもないのに、首筋に口付ける柔らかさを感じ、仰け反って身を捩る。

 屈辱に赤らむ顔を楽しむ如く笑いながら、

「面白いねぇ、小春は。嫌なら嫌って、ちゃんと言わなくちゃさ、伝わらないよ?」

「……言わなくても、態度で分かっては貰えませんか? わたくし、貴方がとても、嫌いです」

「有難う。私は初めて会った時から、君が好きだよ」

 頬に伸ばされる手をきっちり払い除ける。

 行き場を失った手が次に置かれたのは、崩された正座の足。着物から覗く肌。

 悲鳴を上げる暇なく引きずられ、寝転がされた先の、目の前には志摩の顔。

 冗談にしてはあまりに恐ろしい体制に、すぐさま起き上がろうとする両の腕を押さえつけられた。

 足掻こうとびくともしない手の平。

 青褪める小春とは裏腹に、ぺろりと唇を舐めた志摩の顔が近づき――

 

 べしっ

 

 軽く沈んだ。

「ひっ!?」

 けれど驚いたのは小春だけではなく、

「…………みかん?」

 興ざめした風体で志摩が持つのは、紛れもないみかん。

 惚けている間にようやく、待ち望んだ人の足音が届く。

「…………小春、そのまま寝てると問題あるんじゃない?」

 白々しい台詞に小春は唇を噛み締め、同時に志摩の頭を直撃したみかんの出所に、思いを馳せた。

 

 

 父母だけと思っていた足音は、しかし、ぞろぞろ続き、小春は身を硬くする。

 何事かと先頭を歩いて来た親を見やれば、困惑と憤慨を混ぜた、おかしな顔つき。

 勢ぞろいした者たちは、一様に小春――もしくは志摩を見、

「どう思われますかな?」

「宜しいかと」

「ふむ。私も良いと思いますが」

「あれはどうでしょうね」

「何、いくらもせず治ろうというもの」

 一瞬、あかぎれた手に視線が移ったのを受けて、小春は青筋を浮かべた。

 品定めをする目が続き、最後に、皺だらけの厳しい顔つきの老人が小春を一瞥する。

 緊張は瞬きの間。

 喋ることもなく去った老人が出て行くのに、またぞろぞろと人が去り、残ったのは父母と、厳しい顔の女が一人。

 

 

 

 初めての幽藍の外だというに、本家での生活は窮屈極まりない。

 父母と涼夏、気の置けない手伝い数人で、同じように暮らすと思っていたのに、志摩が入り浸るばかりか、監視のような手伝いが一人、ずっとこちらの挙動を窺っているのだ。

 涼夏を治すはずの医者は、まだ来ず、結局正月を越えてしまった。

 その際にもまた、ぞろぞろと人がこちらに来ては去り、あれから会話の一つもない父母の顔が、またも不快に彩られる。

 

 …………異人さん、きちんと食べてらっしゃるかしら?

 

 幽藍がある方角の、寒さに遠い空を見上げ、小春はさつきの言っていたことを思い出す。

 あまりの剣幕に、話の半分以上頭に入らなかったが、

さつきの料理は兎も角、手伝いの料理に手をつけなかったというのは、初めて聞く話であった。

 実はわたくしが出す料理にはたまたま入っていなかっただけで、あの方、かなり好き嫌いが激しかったのでしょうか?

 さつきが聞けば、間違いなく「貴方は何を聞いてらしたの!?」と憤慨しそうなことを考え、

「……変、ですね。わたくしは今、世話役でもないのに、こんな心配」

 心を移すべきは涼夏の治療のはずなのに。

 気づけばすぐに思い起こされる片眼鏡の面影に、小春はふぅと息を吐いた。

 何かを問うような、けれど恐ろしい瞳を、あれほど拒絶し逃げ続けた自分。

 どれだけ明るい予想を立てても、久紫はもう、自分を嫌っている気がしてならない。

 いいえ、それで良かったのでしょう。

 久紫の世話役を逃げ出した辺りから、散々周りに「鈍い」と言われ続けた小春だが、流石に察せたことがある。

 本家の団体が、小春を見に来る理由。

 あれはきっと、志摩と婚姻でも結ばせる気なのだろう。

 渋い父母の顔を見続ければ、嫌でも分かる。

「小春」

 呼ばれて随分と柔らかく後ろから抱きしめられた。

 惚けたように見上げれば、人好きのする志摩の笑み。

 嫌がる素振りもなく、大人しくしていれば、少しがっかりした顔。

「やれやれ。君と来たら最近、全く嫌がってくれなくて、私としては興ざめも良いところなんだけれど?」

「……呆れているだけです。みかんの攻撃をあれだけ受けて、よくもまあ……恐ろしいとは思わないのですか?」

 眉根を寄せてやれば、ふんわり笑って、

「ああ、あのみかん、おいしいよねぇ。でも、もう少し酸味が強い方が、私は好きだな」

 小春を抱きしめる腕が多少の力を増し、逃れかけた目元に唇が寄せられる。

 これも受けるのみにすれば、楽しそうな笑い声。

「ねえ、もしかして、嫌がらなければ私が君から興味を失くすとでも?」

「……まさか。少しは妥協しなければいけないと、そう思ったまでです」

 ふぅん、と笑い、もう一度、今度は耳の下を噛むように口付ける。

 冷ややかなそれに、目を閉じ耐えれば、離れてくすくす笑う。

「本当、小春って打算的で好きだよ。私たち、良い夫婦になれそうだ」

 分かっていたとしても、告げられればそれなりに怖気は走るもの。やはり、と思う反面、別の言葉が口をつく。

「世迷言を……何故わたくしが、貴方などと夫婦にならなければいけないのです?」

「それこそ世迷言だよ。分かってるのだろう? 賢い賢い君の事だから。大切な姉様を治すための、代償だと」

 開放され、寄り添う志摩を払わず、離れもせず、小春は俯く。

 くすくすと耳障りな音がいたぶるように、耳元に寄せられる。

「君、さ。彼、好きだったろう?」

 ぞくりと泡立つ囁きに、一度だけ震えた。

 ようやくいつもの反応をする小春へ、更に笑みを深めて志摩は告げる。

「さぞかし悔しいよねぇ? それなのに、私と夫婦にならなきゃいけないなんて。それはそれは気持ちが揺らぐよねぇ?」

 向き合うように肩に手を添えられ、とん、と内に引き寄せられる。

 額をその胸に預ければ、子を寝かしつけるように、背を優しく叩かれた。

「でも、私はね。考えたんだ。君が気持ちを置いたりしないように、彼に一片たりとも遺せないようにするには、どうしたものかと、ね」

 顔を上げれば、額に唇が落とされ、また胸に戻される。

「だから、彼に良い縁談を上げたんだよ。ほら、君と一緒にいたあの……さつき、って分家。彼女との――」

 知らず、ぎゅっと志摩の袖を握る。

 目は見開かれていた。

「彼女の親、ねぇ。その縁談、とても気に入ってくれてね? なんでもあのお嬢さん、かの人形師にえらくご執心というじゃないか。やあ、良かった良かった」

 何が良いものか。

 突き飛ばし、けれどびくともしない、腹立たしい顔を睨む。

 満面の笑みに迎えられ、叫びもせず、無言で訴えた。

 

 さつきは、諦めたのだ、自分の意思で。慕う、久紫のことを。

 それなのに、久紫との縁談なぞ組めば、彼女がどれだけ傷つくことか。

 久紫だって――

 

 しかし、訴えは急にしぼんでいく。

 これを受けて、志摩がまた、小春を胸に取り戻す。

 香木の匂いに吐き気を覚えながら、もしかすると久紫は別段、困らないのかもしれないと思い直した。

 言伝も満足に出来ない自分には、彼の思いを察し、語る資格などない。

 さつきとは付き合いが長くても、久紫とは短い。

 決められる要因も、表情は分かりやすくとも内面は分かりにくい彼では、容易くぶれてしまいそうだ。

 

 くすくす笑う頭上を憎らしく思いながらも、小春は香木の匂いに、身を任せるのみ。

 

 


UP 2008/3/24
かなぶん

修正 2008/5/29

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