小春side 二十三
その時の音を、どう表現したものか。
膨らませた紙風船より、尚甲高く重い音が、橙の軌跡を描いて小春の前から、志摩を攫っていった。 呆気に取られ、軌跡を追えば、みかんの汁を血のように頭から流して蹲る志摩。 軌跡の元を追えば―― 「ね、姉……様?」 寝間着のまま、陽の光に照らされた姉の姿は、喜久衛門がいつしか教えてくれた球技の扱いに似て勇ましい。 代わる代わる志摩と姉を見比べ、つまりこれは。 「姉様が……みかんを投げて……」 「小春さん!」 呼ばれた名に、涼夏の方を向けば、ずんずん近寄り様、ぺちり、と頬を張られた。 志摩を一投にて伏したとは思えぬほどの、身内贔屓の平手打ち。 一応頬を押さえはしたものの、痛みは一切なく、驚くばかり。 「姉様……治って……?」 「ええ、治りましたよ? 治ってますとも!」 ふんぞり返る長い髪の、澄んだ瞳の姉に、小春は涙を浮かべるが、もう一度ぺちりと叩かれて、きょとんとした顔になる。 「それで小春さん? 貴方、どうなされるおつもりかしら?」 涼夏にまで、どう、と尋ねられ、困惑した。 「どう……? いえ、それより姉様の方こそ、何故――」 「私のことは二の次です。そう、最初から二の次なの」 ここで涼夏は惚けた顔で彼女を見る志摩を睨みつけ、そうして小春に優しく微笑む。 「小春さん? 私はほら、この通り、あの馬鹿らしい病から復活したの。これでふりだし。分かる? ふりだしなの。あとは本当に貴方次第」 夢ではないかと思う。だって、あまりに突拍子がない。 涼夏は確かに、朝方まで例の澱んだ瞳であったはずなのに。 けれどその彼女が自分を見つめて問うのだ。 ならば、小春の答えなぞ、やはり最初から決まっていて――
「実は、ね。去年の……丁度貴方が倒れた辺りかしら? みかん、美味しかったでしょう? その頃から徐々に、だけど、“外”が分かるようになっていたの」 舌をちろりと出して笑う涼夏に、小春はまだ夢心地でいた。 今、二人がいるのは、幽藍を目指す、船の上。 妙に浮かれた素振りの信貴は仕事があるからと本島に残り、母たちと共に帰る途中。 元気な涼夏の様子に、絹江は今も船内で頭を抱えている。 結局、破談になったあの滑稽な品評会は、実は最初から仕組まれていたことだと、病に臥せていたはずの涼夏は憎らしげに言う。 「そうして “外”に出てくるようになった私は、あの坊ちゃまが春終わりに訪れた頃、不穏な話を聞いたの。膿出しをしたい、っていう、ね」 最近、春野宮の経営に、不審な点がいくつか表出した、という語りから始まり、どうやら先代の眼を逃れた膿が悪さをしている、という結論に到ったそうだ。 そこでどうしてあの品評会が開かれたといえば、坊ちゃま・志摩の提案だった。 姉をダシにして、妹と婚姻を結んでおけば、幸乃頼りの貴方がたは安泰であると、膿と目星をつけた者たちに打診したのだ。 その際、姉云々は当主には秘密、でなければ厳しい叔父は婚姻を許さぬだろう、と念を押して。 膿でさえも次期の当主には志摩が相応しい、そう思っていたようだ。次いで、ここで計らえば更に甘い汁を吸えるとも。 春野宮財閥の運営は、世間で囁かれるほどワンマンではない。 けれど、一族間で決めた当主への秘め事を許せるほど、心が広くも愚かでもなく―― 故に、了承すれば膿と見なされ、拒絶すれば立派な側近と認められる――はずが。 「中々どうしてあの坊ちゃま、大した眼力を持っていらっしゃる」 皮肉げに笑う涼夏に対して、小春は婚姻の取り止めを宣言した時の様を思い浮かべた。
意見を言えというから答えれば、志摩が使えないと評した連中から、奇妙な非難が浴びせられた。 忙しい自分たちを呼んだのだから、当主の前なのだから、とどれも婚姻を迫るモノばかり。 終いには志摩に話が違うと詰め寄り、逆に当主に睨まれる始末。 最初から志摩と当主は結託していた、というか、やはりこれすら志摩が最初に言い出したことなのだという。 志摩が上げた名は、全て春野宮の膿そのものの連中ばかり。 けれどその中には一度たりとも婚姻を口にしなかった、彼の兄たちも含まれていた。 何故と傾げれば、愉快そうに返ってくる「ぼんくらだから」。 早まらなくて良かった。 そして、もう一つ気になることを問う。 もしも自分が頷いてしまったら、どうしたのかと。 首を振る確信でもあったのか尋ねれば、色濃い笑みが橙の汁塗れの顔に浮かんだ。 「いいや? 確信なんか最初からないよ? 私――いや、当主も、君が春野宮に来るのなら、膿を抱えたままでも良かったんだ。彼らは後で滅せるし、なにより幸乃との関係が強固になる。けれど誤算があってねぇ。当の幸乃殿に反対されてさ。君が良いというなら兎も角、そうでなければこの話はなしにして貰いたい、と。折角ダシである姉君を、本当に治せそうな医者まで用意したって言うのに、最後の最後で困った条件を付けられたものだよ」 「つまり……あの婚姻は本気で……?」 「勿論。そのために色々根回ししたくらいで。ま、幸乃殿はそれを知らないんだけど……知ったら後が怖いかな? でも――」 ここで志摩は小春の頬を撫で、 「幽藍は春野宮のもので、君ら家族が今後もあちらに住むのなら、彼とて今までと変わらず、春野宮に仕えてくれるだろうさ。馬鹿だよねぇ。最初っから人質なのに、それにすら気づかないなんて――痛っ!?」 懲りずに寄せる顔に、みかんがぐりぐり押し付けられた。 「……作戦とやらは終わったのでしょう?お願いですから、これ以上私の妹に触れないでくれません?」
ふふふ、と毒々しい思い出し笑いをする涼夏に、小春は隠れて溜息を落とす。 作戦を聞いて後、涼夏の意識は完全に回復していた。 けれど面白そう、もとい、不穏な話を放ってもおけず、病に倒れたままを演じていたらしい。 もっと早く言ってくれれば、こんなややこしい目には合わずに済んだのに、そう文句を言えば、 「病に臥せるか弱い女人をダシに使うなんて……貴方なら許せて?」 鮮やかな笑顔は絹江に似て、底知れぬ暗さを秘めている。 だからこそ、涼香に言えないことがあった。 みかんを投げつける度、煌く志摩の眼が、最終的に涼夏を完全に捉えていたことを。 小春を見る時の眼とは明らかに違う光は初めて見るもので、それだけに恐ろしく、伝えるのも難しく―― と、突然、幽藍の方角のみを眺めていた涼夏が小春の方を向き、淋しそうに笑った。 「ねぇ、小春さん。恋、してる?」 脈絡のない話に、涼夏が病む前の姿を呼び起こす。 ……多少美化されているものの、あまり変わらない破天荒さ。 病に臥せているのを長く看ていたせいか、どうも清楚だった気がしてならない。 小春の長い沈黙をどう思ったものか、涼夏は語る。 「私ね、病んでたくせに、あの人に一度も想いを告げたことないのよ?」 相思相愛、そんな風にまで噂された二人の事実に、小春は現在の姉の姿を焼き付ける。 「好きだって、愛してるって、何度もあの人に言われたわ。それだけで幸せだったの。自分の想いも当然、彼に伝わってて、だから、想われてる、そう勘違いして」 罰だったのかもね、と涼夏は笑った。 「私からそんな言葉を吐いて置けば、たぶん、病むこともなかったんじゃないかって思うの。後悔とか、くだらないものが回って、押しつぶされたりとか、ね――」 一度涼夏の視線が下に落ち、上がって艶やかに笑う。 その後で、急に透明な顔をみせた。 「だから小春さん。誰か想う人がいるのなら、とっとと伝えて頂戴ね? 私みたいになった貴方なんて、見たくないもの」 最後にはやっぱり笑って、勝手なことを言う。 けれど小春はおずおず問うた。 「その方が誰か、別の方を遠くに見ていても? その方が……既婚者でも?」 「……随分手強い恋してるのね、貴方。臥せっている間に、どれだけ面白いことになってるのかしら?」 至極残念そうに茶化し、 「そうねぇ……気分次第じゃない? 私の場合は散々愛囁かれといて、一片も返さなかったから、ああなってしまったのだし。とりあえず、会ってみれば良いじゃない。駄目ならお友達とか、ね。いや待て、告白してお友達って、気まずいわよねぇ?」 悩み始めた涼夏を他所に、小春は久紫に会うことだけを想い浮かべてみる。 隣にさつきがいても胸は騒がず、けれどやはり、誰かを重ねて己を見られるのは苦痛。 と、沈む小春に関係なく、悩む涼夏がはっと顔を上げた。 「いやいや、でも、とりあえず告白しとけば、私はある程度特別、よね?」 いやしかし、と続けるのを、小春は目が覚めたような顔つき。 そう……誰を想い、重ねていようと、語る言葉は全て己のモノだ。 想いを告げる、そんな深刻なものでなくとも良い。 癪だけれど、志摩が言っていた言葉が浮かぶ。
――ちゃんと言わなくちゃさ、伝わらないよ? |
UP 2008/4/3
かなぶん
修正 2008/4/24
Copyright(c) 2008-2017 kanabun All Rights Reserved.