小春side 二十四
まずは「御免なさい」辺りから、初めてみようか。 久紫の目は鏡でなければ彼には分からないから、小春が逃げ続けた理由も知らないだろう。 そう考えると、やはり自分は愚かであったと後悔が過ぎる。 これで許されれば良し、本気で嫌われていたら……どうしたものか。 うだうだ悩みながら、着いて早々久紫の家へ向かう小春。 港から崖上ならば家に戻るより近い。 興味本位でついてこようとする涼夏は、絹江が引きずっていった。 いくら回復していると本人が宣言しても、演技とはいえ床払いしたのは最近。 心配なのだろう、きっと。その目に夜叉が宿っていようとも。 久しぶりの幽藍の景色を楽しみながら歩を進める。 緑深い山の所々には桜の花が舞う。 気づけば半年も本島にいた。閉塞的な本家から一歩も出られなかったせいか、季節の感覚が未だ戻らず、不思議な気分だ。 けれど、住み慣れた場所の空気は、もうすぐ小春が生まれた頃合を示してくれる。 海岸を沿って行けば誰とも会わず、久紫の家に辿り着く―――
「え…………」 目の前に広がる光景に絶句する。 おかしいとは感じていた。坂を上る際、中々久紫の家が見えない、と。 だがまさか、あると思っていたはずの家が、炭に沈んだなどと誰が考えよう。 どう見ても、全焼後。それも、幾日か雨風に晒された風体。 「異人さんは……そんなっ!?」 黒い残骸に慌てて飛び込もうとし、はっとして坂道を、先の町を見る。 悲観に走るのはまだ早い。 逸る鼓動を胸に、小春は今一度、志摩の企みを思い出す。 「さつき様……」 きっと彼女の家に、久紫はいるはずだ。
笑顔で小春を出迎えたさつきの家の手伝いは、久紫の行方を尋ねられ、慌てて小春を外に追いやった。 「困りますよ、お嬢様。今、屋敷でその名は禁句なのですから」 「で、ですが、さつき様とご婚姻を結ばれたと聞いて」 これを聞いて、納得した素振りで一つ頷いてみせた手伝いは、殊更小声で、 「ああ、お嬢様は本島に行ってらしたんですっけね? あれ、破談になったんです。しかもそのせいでさつき様、本島に行かれてしまって」 「破談……さつき様が本島へ?」 「ええ、ええ。そのせいで旦那様と奥様、酷く気を揉んでおられまして。本当は人形師様を幽藍から追い出したいところでしょうが、本家と幸乃家の手前、個人の内情でどうこう出来ませんからね」 だから禁句なのだと手伝いは言う。加えて、しばらくは屋敷に近づかない方が良いと忠告を受けた。 人形師を擁護する幸乃の娘が来ては、主の癇癪が面倒だから、と。 中々に砕けた物言いの手伝いに、もう一つ尋ねる。 「では、瑞穂様はどちらに?」 「瑞穂……様ならば、ご実家の方にいらっしゃいます」 さつきの兄である伸介の恋人とはいえ、瑞穂は屋敷の手伝いの一人であったはず。 なのに畏まった言い草。 小春が困惑を浮かべれば、手伝いはただただ苦笑する。嬉しそうな色を濃くして。
瑞穂の実家は屋敷からさほど離れず、町寄りの場所にある。 訪れれば彼女の母に出迎えられ、寝所へ通された。 寝そべる姿に驚き固まった小春は、襖が閉まる音で我に返った。 「……瑞穂様……どうされたのですか、そのお腹」 不躾と思いつつも尋ねれば、頬を赤らめ、愛おしそうに己の膨らんだ腹を撫ぜる瑞穂。 それだけで小春は理解する。脇に腰を下ろした。 「伸介と……婚姻を結ばれたのですか?」 「はい。さつき様の破談の後……ですが……」 「破談……? でも、それにしては日が経ち過ぎでは……」 恥ずかしそうに俯く瑞穂は、ぽつりぽつりと経緯を話し始めた。 婚姻を結ぶ前に瑞穂の腹には子が宿っていたそうだ。 けれど身分違いと許されず、内々に処理しろと突き放された。 そこへ訪れた、久紫とさつきの破談。 かなり良いところまで来ていたそうだが、土壇場で久紫が裏切った、らしい。 この頃瑞穂は屋敷を追い出されていたので、詳しいことは知らないという。 だがこの時集ったのは、忙しい合間をぬってやってきた春野宮のお偉方。 くだらない茶番につき合わせて、などと文句を言われ、詰め寄られ。 打開も全く浮かばなかった両親に代わり、伸介が瑞穂のことを宣言したらしい。 窘める両親とは裏腹に、これにめでたい、と言ったのが、あの当主。 身分どうのを口にする親に対し、鼻白みながら「古い」と一喝。 その後は夢のようにトントン拍子に事が運び、晴れて夫婦となったそうな。 「…………春野宮の御当主様は、一体どういうお方なの?」 志摩と謀って小春を春野宮に取り込もうとしていた姿しか知らず、困惑に呟く。 くすくす忍び笑う瑞穂の声。 「それで、肝心の旦那様はどちらにいらっしゃるのかしら?」 久紫の行方を聞くつもりが、腹の大きな嫁を置いて、どこぞに消えている男を非難する。 しかし、これに瑞穂は苦笑を浮かべた。 「お狐様たちのところですわ」 「お狐……?…………なっ!?」 聞きなれぬ蔑称に首を傾けていた小春が、膝立ちになる。 幽藍の娘たちは一部を除き、花街の姉様方を「狐」と呼ぶ。理由は唯一つ。好いた男共が大抵、一度はあの場所へ行くからだ。 「何を考えているのです、あの愚か者は! は、花街になぞ、よくもこの状態の瑞穂様を置いて――!」 火でも吹きそうな勢いで怒り出す小春は、瑞穂が困惑した表情を浮かべているのに気づいた。 居住まいを正す。 「瑞穂様……呼んで参りましょうか?」 「いえ、良いのです。どういうご事情かは……察しております故。ところで小春様? この度はどういったご用件で幽藍へ?」 瑞穂の険しい顔に眉を寄せ、少しの間、沈黙。のち、嫌な気分に苛まれ、青い顔となる。 志摩は確かに根回しをしたと―― 「……もしかして、志摩様と婚姻を結んだと思ってらっしゃる……?」 「違う……のですか?」 首を傾げられ、小春は幽藍の情報は本当に遅いのだと身を持って知る。 「違うもなにも……最初から姉様の治療目的でしたから。色々ややこしい目には合いましたけれど、姉様も無事、病から立ち直られ……いえ、何か違うような?」 困惑にどう伝えたものか考えれば、安堵の息が瑞穂から漏れた。 「そう……でしたか。では、人形師様にはお会いになられて?」 考えから引きずり戻される。伸介への怒りに霞んでいたが、本来の目的は久紫の行方を聞きに来たのだ。 全焼した家に驚き、破談に困惑した経緯を話せば、言いにくそうな顔で瑞穂は告げた。 「人形師様は、今、伸介様と共にいます。あの……狐様たちのところに」 聞いて納得し、「有難う」と微笑めば、妙な顔をされてしまった。
あら小春ちゃん、と甘い声に呼ばれ、久紫の行方を尋ねれば、太夫は苦笑する。 「なんていうか、ここに来て、殿方探す人なんて、怒れる女房様くらいなのにねぇ? 小春ちゃん、あの方を叩きに来たわけじゃないんでしょう?」 そんな風に迎えられ、瑞穂の妙な顔の正体を知った。 判別した花街という場所に、安堵してはいけなかったのだ。特に、男を捜している、女としては。 気まずく照れれば、にこり微笑む。 「でも残念。先ほど出て行かれたわよ? 何と言ったかしら、あのざく切り頭の……伸介様? 彼と一緒に、ね」 「どちらへ行かれたかは……?」 「さあ?……最近根無し草みたいだから。家は全焼、頼りの幸乃は本島。ま、尤も一番響いたのは……っとと。これは言わぬが華かしら?」 含みをもたらす笑み。そうしてまた、聞かれた。 「それで? 晴れて春野宮の奥方様になられた小春様は、あの方にどういった御用なのかしらん?」 「…………本当、情報の遅いことで」 ここまで来る道すがらでも、知り合いに同じように詰問を受けた。いい加減説明するのも面倒で、短く、 「わたくしは幸乃のままです」 「あら本当? 良かった」 説明し続け、例外なく、喜ぶ顔。 何故ここまで皆に喜ばれるのか分からず、一礼して花街から帰路を目指す。 昼前に着いて散々歩き回り、結局、陽がとっぷり、暮れてしまった。 あまり深く考えず勢いで来てしまったが、ここは花街。 色と毒に濡れた視線が、時折小春を通り過ぎてゆく。 ねとりと絡みつくそれらの気持ち悪さに、足早に通り過ぎようとして、後ろから何者かが被さってきた。 「っきゃああ――!?」 振り解こうともがくが、やけに酒臭い圧し掛かる重みに、倒れないようにするだけで精一杯。 何の冗談かと、腕を回す背後を振り向こうとすれば、肩にがくりとしなだれかかる頭。悲鳴が更に上がりかけ、 「小春……」 名を呼ばれ、叫びを引っ込めれば、捜し求めていた片眼鏡の顔が、目を閉じ苦悶を浮かべていた。 |
UP 2008/4/9
かなぶん
修正 2008/8/
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