小春side 二十五
久紫の顔を見て、出迎えた涼夏はニヤニヤ笑う。 「あらまあ、中々良い方じゃない? お似合いよ、小春さん」 「茶化さないでください!」 真っ赤になって抗議すれば、「きゃー怖い」と離れていく。 居間の卓を挟んだ向こうでは、ここまで久紫を支えてきた伸介が、堪えきれずくつくつ笑っている。 茶を持ってきた絹江でさえ、同じように面白そうな顔。 はい、と向けられた茶を、久紫は唸りながら受け取り、一つ啜っては返して、 「小春ぅ……」 「もうっ! 異人さんもいい加減、酔ってないで離れてくださいよぉ!」 ぎゅうぅ…と背後から抱きしめられたまま座る小春は、また隠すことなく聞こえる笑い声に、恥ずかしさのあまり卒倒しそうな面持ち。
花街で久紫にようやく会えたは良いが、肝心の彼は酔い潰れており、加えて一向に小春を離してくれない。 何度呼んでも、己の名を呼び拘束を強めるだけの久紫。 けれど、小春の赤らんだ顔は、決して色のあるものではなかった。 重いのだ。 上背もあるが、引き締まった身体が成せる筋肉は、見た目の重量を遥かに越えて、小春の肩に圧し掛かってくる。 しかも久紫、自分では一切、この体重を支えてくれない。 なんとか倒れないよう、必死で重みに耐えていれば、青褪めた顔の伸介がやってきた。 「うわ、悪い! ちょっと目ぇ離した隙に……って、小春!?」 小春を認めるなり驚く伸介。 一転、安堵の表情を浮かべつつ、眉根を寄せる。 「お前、婚姻は?」 「もう、皆様なんなのです? わたくしは幸乃のままで――」 「小春ぅ」 酒臭さをふんだんに撒き散らし、肩に頭を擦りつける久紫に、言葉を失う小春。 足がガクガク震える。 「し、伸介! それより異人さんが、重いっ!」 助けを求めれば、心底安心した顔の伸介が慌てた。 しばらくは酔っ払い相手に、二人がかりで腕を解こうと頑張ってみるものの、結局解けずじまい。 それだけならまだしも、二人が頑張れば頑張るほど久紫は小春にへばりつき、通りすがりの注目を集める始末。 仕方なしに、とりあえず腰を落ち着けようと、小春の家まで伸介に支えられて、帰ったのだが――
くすくす楽しそうに笑う涼夏は、一人諦めず久紫から逃れようとする小春へ。 「ねえ、小春さん。諦めなさいな。これはバチだと思って、ね?」 「でも姉様、これでは夕餉も頂けません!」 「一食ぐらい抜いたとて、死にやしませんよ」 応えたのは無情にも夕餉を目の前で食す、母・絹江。 小春一人を除いて食事を楽しむ親子に困惑しつつ、伸介に助けを求めるよう見やれば、わざとらしく肩や腰を叩く仕草をする。 「やぁれ。これでようやく愛しい妻の下へ帰れますよ」 身重の瑞穂の名を出され、小春は途端に何も言えなくなる。 すると変わりに、涼夏がやんわり微笑んだ。 「あら良かったじゃない、伸介? 近々奥方、見に行くわ」 一ヶ月前に“仮病”から脱した姉に対し、最初から驚きもしなかった伸介は、おどけて肩を竦めた。 「止めておくれよ、涼の姐さん。ウチの奥方、嫉妬深いんだ」 「大丈夫よ。どう見たって私と貴方じゃ釣り合い取れないから」 小春は後で知ったことだが、親しげな涼夏と伸介、実は昔、言葉通りの親分・子分であったそうな。 だからといって、涼夏の状態を知っている理由にはならない気もするが―― そんな“親分”の言に、伸介は「ひでぇ」と笑いつつ、一応神妙に絹江へ頭を下げ、小春の方をにまっと見た。 「涼の姐さんや絹江様が言う通りだぜ? 小春。まあ、諦めろ」 これまた無情に出て行く幼馴染に、小春は深く溜息をつき、何度も名を呼ぶ顔を振り向いては、頬を染めてまた溜息を零す。 吐く息に熱が籠もるのは、仕方なきこと。
熱い息が髪に触れる。 くすぐったい感覚が肩を撫でる。 目蓋の裏に光を感じてうっすら目を開けば、居間の中心にある卓の下が覗いた。 しばし、ぼーっとしていれば、背中の気配が起き上がる。 向きにして天井から降りてくる声。 「……小春……?」 吐息に酒は若干残るものの、嬉しそうな恐れるような、困惑混じりの、低い音。 まだ寝ぼけた眼を少しだけ擦り、そちらを向けば、覗き込む黒い双眸。 「……おはようございます」 挨拶は返されず、代わりに口を覆って小春から飛び退く。 起き抜けに随分素早い動き。 呆気に取られることもなく、自身も起き上がれば擦れる布の音。 見やれば掛け布団が一枚、己に掛けられていたことを知る。 母か姉だろうか? どうやらいつの間にか寝てしまったらしい。 一体、どの時点で寝たのか。思い出そうとすると、何故か額がひりひり痛む。 軽く擦る。肌に馴染んだ痛みは、溶けるように消えていった。 痛みがなくなり、手持ち無沙汰になる。 次の行動を考えあぐね、むぅと小首を傾げれば、物凄い腹の音が聞こえて来た。 一瞬、己のモノかと思い、腹に視線を落とすが、再度鳴ったのは未だ口を押さえたままの腹。 明るい障子を認めて納得した。 「ああ、朝餉の支度……」 頷き立ち上がると、袖を掴まれた。 軽く引いても離れない先を振り返れば、熱みのある潤んだ目。 「本当に……小春、カ?」 はて? 妙な問いをされたものである。 春野宮の本家に滞在すること半年。変化は肩まで伸びた髪の毛ぐらいだろう。 伸ばそうと思えば、もう少し長くなったはずの髪は、涼夏が目覚めるまでの間、二ヶ月に一回は切っていた。 前は一ヶ月に一回であったから、多少なりとも別人に見えてしまったのかもしれない。 ――それとも久紫の眼には、小春はえもいわれぬ化け物として映っているのだろうか。 碌でもない想像が首をもたげ――止まった。 寝ぼけた頭で考えても埒が明かない。 疑問はさておき、優先すべきは別のこと。 「……………はい。あの、朝餉の支度を――?」 「ア……す、スマン」 名残惜しそうに、けれど離された袖へ一つ首を傾げてから、寝ぼけたまま炊事場へ向かう。
母や姉は未だ寝ているらしく、朝餉の支度をしても起きてくる気配すらない。 手伝いも来ていないようで、まだ朝早いのだろうか、そう思いつつも、開けた窓から差し込む陽は眩しい。 自分の部屋で寝なかったせいか、はたまた人の腕の中などという、経験なき場所で寝たせいか、すっきり目覚めない顔で黙々食事を続ける。 時折視線を感じて見れば、久紫の惚けたような表情と澱み過ぎた目にかち合う。 「お口に合いませんでしたか……?」 尋ねれば「イヤ」と慌てて飯を掻き込む。けれどしばらくするとまた、こちらを見る。 おかしな視線に、小春は己が珍獣のような扱いを受けている錯覚に陥った。
湯呑みに茶を入れて渡せば、一口含み、表情を硬くする久紫。 「……………ソレで、イツまでココに居られる?」 ここに来て小春の頭が清々しいほど覚めきり、続いて顔を真っ赤にして怒る。 「待ってください! 貴方もですか!? もう、皆様方、本当に情報に疎くてらっしゃる! あれから一ヶ月も経って、何故、わたくしが志摩様なぞに嫁いだという偽りが払拭されないのです!?」 久紫に怒鳴ったとて、関わり無き事。 けれど他から問われるより、慕う久紫の口からそう尋ねられれば、流石に平静は保てない。 「イツワリ……嘘、なのカ?」 「勿論、嘘です! もう、嫌……」 大仰に溜息をついて痛む頭を抑えへたり込む。 しばらくそのままじっとしていれば、視線を注がれていることに気づいた。 はっとして、昨日散々久紫を捜していた要件を思い出す。 熱に歪む眼に怯みながらも、姿勢を正して頭を下げる。 「あの時は何も言わずに帰ってしまい、申し訳ありませんでした。その後も尋ねてくださったのに、逃げてしまって」 「小春?」 近づく気配。頬に左手を添えられ顔が上がる。久紫からの視線を受けつつ、その手を押さえて奇妙な感覚を覚えた。 離れて見れば痛々しい裂傷の痕。 「痕が……」 「手が使えれバこんなモノ、問題ナイ」 ふいっと拗ねる素振りで顔を背ける。 幾分戸惑っていると、熱の籠もった溜息が久紫から漏れた。 「……逃げたコトはもう、どうでもヨイ。ソレよりも、小春がいなくなってカラ大変だったんだ。家は燃えるシ、馬鹿げた婚姻とヤラに付き合わされるシ……しゃもじもなくなって」 「しゃもじ……?」 「握り飯を作ロウと思ったんダガ――」 「あ!? 返すの忘れてました」 短い声に逸らされた瞳が戻ってきた。 困惑を映すソレへ弁明を図る。 「いえ、志摩様が異人さんのお宅に現れた時、絶対あの方、良からぬコトをしでかすと思ったもので拝借していたんです。お陰で口への接吻を免れて――」 言った後で、次の日の久紫とのことを鮮明に思い出し、恥ずかしさのあまり俯いてしまった。けれど久紫は少し考える素振り。 「……ツマリ、あの男とは、ソノ――口付けを交わしていない……と?」 「あ、当たり前です! 何故あのような方と!」 いつだって冗談混じりな志摩を思い浮かべて、ぐっと拳を握ればどういう訳か、久紫が口元を押さえて項垂れた。 その顔が赤くなっている。 「ナンてこった。俺は……ソウとも知らないで……」 次いで「スマない」と謝られた。 何のことか分からずに眉根を寄せれば、呻きが久紫から流れてくる。 「アノ時は……アノ時の雰囲気は……俺の責任だ。ワルい。スマない」 謝り続けられて、小春は益々困惑を濃くしていく。 雰囲気とは何のことで、何を謝られているのかは分かるが…… 「異人さん、謝らないでください。あの、わたくし、その……嫌ではなかった訳ですし、いえ、寧ろ嬉しかったくらいで――」 言いつつ、段々頭が真っ白になっていく小春。 徐々に赤らむ顔、火照る頬に混乱していれば、久紫の濁った眼が上がる。 その瞬間、変な覚悟が決まった。 ここまで来ては、もう言うしかない。 「ええと、その、わたくし、異人さんのこと……ずっと、お慕いしておりました!」 白状した極悪人の気分で頭を下げ――
「うえ、ちょっと押すなよ、お前ら!」
知った声を合図に襖が倒れる。 茫然とした視線の先には、口を押さえた茶目っ気たっぷりの絹江。 他、涼夏、伸介、手伝い連中は、襖を一番下に折り重なるようにして、倒れている。
告白に聞き耳立てていたと気づくまで、さほど時間は要せず。 |
UP 2008/4/16 かなぶん
修正 2008/8
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