小春side 二十六
どう話掛けたものか。 晴れ渡っていたはずの空は曇天に変わり、その下の閑散とした海岸を歩く男の背に、小春は頬を染めて困惑する。
わざわざ二人きりにして、様子を覗き見していた肉親含む者共は、開き直って「さあ、続きをどうぞ」とのたまった。 出来るわけないと叫ぶ前に、久紫が彼らを一瞥して後、外へ出ようと誘う。 言葉を失って、先を進む背に大人しくついていく。通り過ぎた青褪める一団に首を傾げつつ、小さく溜息を落とした。
さて、困った。 何せ告白した後の邪魔。 返事も聞けずに、増して他を話す切っ掛けも得られず、途方に暮れる。 しかも勢いで告白したのは良いが、よくよく思い起こせば久紫のあの瞳、あれは誰かを想っての熱だと理解していたはず。 先走り過ぎたと、後悔だけが徐々に募っていく。 悩める小春の視線が、ふと、崖上に寄せられた。浮かんだ名前に気まずさが失せる。 「…………異人さん、雪乃さん……は?」 全焼。この目で確認した事実は、今頃になって小春の胸を締めつける。 あの場所は人形師の世話役を務めてから、ずっと、小春の居場所だった。 別段他に居場所がなかったわけでもないが、幼少の頃より知った場が消えるのは寂しく、切なく、虚しい。 幽藍の店はほとんど老舗で成り立っているため、なおさら喪失感が増すのかもしれない。
不変――そんなことは決してないのに、人の移ろいや四季の流れは知っているのに、いつの間にかそう思っていた、今は亡き場所。
「…………燃えた」 痛むような返事は、それでもなお進む背から発せられた。 胸がずきりと痛む。 あれだけ壊れるのを嫌っていたのに、家と共に燃えてしまったのでは、修復さえ叶わない、雪乃。 前を行く藍の背と、曇天を受け鉛の陰りを寄せては返す波。二年前、久紫と雪乃に初めて逢った時に似て。 けれど、踏みしめる砂の温かさは冬ではなく、春。 そして、久紫の隣には誰もいない。 彼が背負っていた人形は彼が幽藍に“連れて”きた、唯一の思い出だったのに。 「……異人さんと喜久衛門様が作り上げた、雪乃さん……」 熱に浮かされた晩。昔を語る苦痛のなかにも柔和な響きがあった――気がする。 最期がどうあろうとも、久紫にとって喜久衛門と“雪乃”はかけがえない人で、勿論、彼の人形も大切だったはずで。 今は亡き微笑みを思い俯く額。コツンと柔らかく硬いものにぶつかる。 何が? そう思い、額を軽く抑えて顔を上げる。 迎えるのは熱病に沈みながらも、苦しそうな悲しそうな久紫の瞳。 喉が鳴りかけ、退きかけた己を叱咤する。 「…………小春……頼むカラ、俺も名で呼んでクレないか? ドウもその、異人サンという呼び名はとても――遠くて……」 「ぅえ……で、では久紫様と――」 「久紫、で良い」 あっさり引き寄せられ、抱きしめらる。小春は顔が沸騰する気分を味わいつつ。 「で、ですが、やはりここは」 「伸介は呼び捨てナのに?」 「あ、アレはそういう役柄というか、その、なんと申しましょうか……そ、それでしたら、久紫さん、というのは如何でしょう!?」 如何とはどういうことだと思いながら、顔を上げれば少し淋しそうな久紫の顔。 物思いに耽っていた分、回らない頭が真っ白になっていく。 それなのに抱きしめる腕の温もりははっきり伝わる始末。 混乱するのに必死な小春へ、久紫が溜息を零した。 「…………仕方ない、譲歩してヤル」 またきゅっと小春の身体が胸に押しつけられた。 僅かに残る酒と久紫自身の香りに、小春はただただ酩酊したように頬を染めるのみ。 一体久紫はどうしたというのだろうか。まだ酔いが醒めないのか? 普段、人の動向を見ては、目利きの父と同程度の鋭さを発揮する小春だが、久紫に関してはそれが揺らいでしまう。 ともすれば襲う胸の高鳴りに、倒れそうな身体を久紫の着物を掴んで耐える。 そんな小春を知ってか知らずか、久紫の腕が支えるように更に身体を引き寄せた。 「コの半年……ずっと、小春のコトが頭から離れなかった。あの男に嫁ぐと聞いてカラも……イヤ、一層増して。けれど、家が燃えた。恐ろしかっタ。アノ家があったからこそ、小春は俺の傍にいたんだと……依り所がなくなった気分で」 熱の籠もった低い囁きに、小春は誰も来ませんように、それだけを願う。 「色んなモノが俺に言うんだ。モウ、小春を忘れてしまえト。お前は違うんダと」 「……いじ――あ……すみません」 少しだけ緩まった腕から顔を上げ、投じられた視線に惑って呼び間違った。 恥ずかしさに下を向きかけ、逃げてはいけないと再び上げれば、息を呑むほど哀しい微笑。 それでも久紫の言葉は紡がれる。 「最初に違和感を抱いたのはイツだったか……小春が俺を異人と呼ぶ度、他を名で呼ぶ度、胸が痛んだ。人形ですら名で呼ぶのに。名で呼んで、髪を梳き、頬を撫で――」 離れた右手が小春の頬に添えられ、その髪を梳いていく。 「髪……伸びたんだナ。その時間さえ、俺は知らナイから、俺は幽藍の者ではないカラ」 たぶん生涯でこの時ほど、短い髪を恨めしく思う時はないだろう。 髪が長ければ、労わるような指にもう少し長く触れて貰えるのに。 はしたないと思いつつ、心地良さに細まる目。 合わせられる額。久紫の瞳が閉じ、眉間に皺が寄った。 「俺は小春が……あの男と口付けを交わしたんダと思っていタ」 突然やってきた告白に、小春は青筋を立てて固まった。なんという勘違い。ちょっとだけ、腹立たしい。 そこでハタと気づいた。あの時志摩が笑ったのは、小春の頬を舐める馬鹿をするためではなくて―― 小春の視線に気づいて、目を開ける久紫。 力なく笑いあの場にいたのだと、肯定する。 「ソウして笑い合う二人に、俺は動揺してしまっタ。忘れるタメに人形を造れば手を傷つける馬鹿までヤッテ。そんな手を取った小春……耐えられなかっタ。誰かのモノになるのだとしても、少しダケ俺を残して置きたくて。拒絶されタなら、止めるツモリだった。でも、受け入れられた」 何かに焦がれる瞳が小春を見つめる。 けれど、小春はこれをきちんと受けた。 病む涼夏に似ながらも、どこか違う黒い眼と、灰の眼。 「動揺した……あの男と口付けたノニ、拒まれなかっタから。本当は拒まれルことを望んでイタ。ソレで諦めをつけヨウと。同情なのカとも考えた。だから、スマないと、忘れてクレと。同時にまだ俺が入り込む余地がアルんじゃないかと、ソウ思って――」 また両腕が後ろに回り、顔を胸に押し付けられる。 「小春、そう名で呼んでも良いカと聞いた。頷かれて、俺は舞い上がってしまった。心をあるだけ込めたツモリで、名を呼んだ。けれど――小春は離れてしまった。会いに行っても会ってクレズ……やはり俺では……異人の俺ではダメなのかと」 「っ! 違います! あれは――」 顔を上げれば額に唇を落とされ、続きを失くしてしまう。 「色んなモノに手を出してミタ。忘れるタメに。小春を、自分が異人でアルことを。けれど幾ら足掻いても、消えナイ。異人の肩書きも……小春のコトも。だが昨日、小春に似た後姿を見つけテ、我を忘れてシマッタ。どうやっても忘れられなかっタ自分を。目覚めて、夢だと思って、落胆シタ。でも、腕に小春がイタ」 再度胸に納まる頭。安堵の息が落ちて、小春はとても胸が苦しくなる。 「夢だと……マダ夢を見ているのだと、ソウ思った。共に飯を喰って、会話して……小春が小春のままダと知って……俺を、好きだと……言ってくれて」 「……久紫さん」 今度は違えず名を呼べば、一度だけ、震えが伝わった。
――沈黙。
顔を上げると何かを望む瞳とぶつかる。 途端、久紫の方が慌てた様子でしかめっ面を作った。 「すぐ邪魔が入ったノハ、正直、腹立たしいガ……」 きょとんとして、彼の言わんとする場面を思い返す。 雪崩れ込む、家族たち。 首を傾げた。 「でも、何故母様たちはあの場に? あの様な……野次馬染みたことを?」 自問のつもりが、虚を衝かれた表情に迎えられた。 尋常ならざる様子に益々困惑を浮かべる。 すると久紫も同じような顔つきになった。 「…………ナア、小春? 俺がアンタをどう想っているカ……知ってル、よな?」 「……? ええと、とても便利な、世話役……ですか?」 意地悪を言っているつもりはないのに、途端に情けない顔をする久紫。 口元を手で覆い、「また俺ハ……」と小さく後悔を滲ませる。 何の事か図りかね、問う視線を送れば、惑う様子。 忙しなく動く瞳を閉じ、考える素振りの後、久紫の手が両肩に置かれた。 引き離されて、大仰な溜息をつかれて。
けれど上がったのは苦笑。
「信じラれんな。知らずトモ、ココまできて……例えば、コウして――」 肩の手が離れて、背に回り、体が寄り添う。顔は上げたまま。 「抱き締めて。例えば、コウして――」 すぐさま頬に手が添えられ、滑り、顎を上に向ける。触れる暖かな感触に目を閉じた。 前より長く、そして惜しむように離れ、眼を開ければ未だ苦笑の久紫。 「口付けを交わして。こんな風に接しても、分からないとイウのなら言ってヤルさ。何度でも――……」 誰かを想っているはずの、熱みの帯びた瞳で見つめられ、その黒い眼に宿る自分も、同じ色を宿していて―― ずるい、と思う。 ようやく久紫の想いを理解できて、けれど彼が口にしたのは、小春の知らない、異国の音色。 甘く、低く、囁かれる久紫の言葉はまるで理解できないのに、小春の心を絡めて奪う。
――噤んでから間を置かず、もう一度、更に長い口付け。
息つく間を縫って訪れた新たな柔らかさは、驚く暇を与えず、順応を促す。 「…………ふ……」 合間から零れる意味をなさない声。 これを呑み込むように、抱擁を強める久紫に合わせ、小春の手がその胸元に皺を作る。 完全に目を閉じては一層明確になる感触。 身体から心から生じる息苦しさに喘ぐ直前、ゆっくりと解放された。 吐息混じりの眩む熱から離れても赤いのは小春だけ。 久紫は悪戯っぽく笑っている。 彼の瞳はもう澱みを忘れて澄んでいるのに、映る小春だけが熱病を伴う。 散々逃げ回った熱を恥じて俯こうとしても、近づいてくる美麗な相貌が決して許してくれない。
再度、唇が寄せられ――
「…………いい加減、人の眼をお気になされたらいかが?」
呆れ混じりの非難に、小春の熱が他方を向いた。 久紫は構わず柔らかい感触を頭に落とし、離しては抱き締め頬を寄せる。 されるがまま揺れる視界の先には、白布で首から左腕を下げたさつき。 右手には重そうな荷物を引きずっていた。 「さ、さつき様……その腕は……?」 羞恥も忘れ、惚ける小春に許されたのはそれだけ。 荷物を離し、ずかずか怒り肩で近寄ったさつきは、小春を離さない久紫を無理矢理引き剥がした。
ぱんっ
勢いよく張られる頬。 押さえればすぐに張れ、かなり痛いのだが、驚きの方が大きい。 耳が音をしばらく忘れてしまう。 「――っ! 何をする、サツキ!」 久紫が慌てて抱き寄せ、頬を擦った。 まるで我がことのように傷ついた顔を浮かべるのを放って、小春は眼を見張った。 「何を驚いてらっしゃるのかしら? わたくしの名を久紫様が呼ばれたこと? それとも頬を叩かれたことかしら!?」 「……いえ、その腕は……?」 広いおでこも黒い艶やかな髪も、艶やかな赤い着物ですら変わりないのに、痛々しいまでの白いソレに小春は眉を顰めた。 これを溜息を持って迎え撃つさつき。 「これは、自由のための布石ですわ! ね、久紫様っ!?」 視線を外され、ようやく久紫の方を向けば、さつきの声なぞ聞こえなかったようで。 「すぐ冷やさなければ……小春、戻ろウ」 「え、え、く、久紫さん!?」 肩に腕を回され、押され気味に歩けば、背後でさつきが騒がしく何かを叫んでいる。 「ま、待ってください。さつき様が――」 「平気だ。アノ娘の腕を見ただロウ? アレは自分でやったんダ。大体、怪我人が平手打ちナド、並大抵の神経じゃナイ。関わるだけ無駄だ」 そこまで言い切って最後に小さく毒づく。
「ちっ……俺の女にナニしやがる」
聞かせる気がなかったとしても、どきりとする俗な言葉に、小春はまた、卒倒しそうな動悸に襲われた。 |
UP 2008/4/23 かなぶん
修正 2008/7/27
あとがき
以上で本編の小春sideは一先ず終了です。ありがとうございました。
そんな訳で、だらだらあとがきです。
話の大筋が決まったのは、冬に居間で寝ころんでいた時でした。
ほのぼの恋愛っぽいものが無性に書きたくなりつつも、少し、間を空けて。
で、我慢できなくなって書いたら、驚くほどすらすら書けたものです。
あの時の勢いは、我ながら恐ろしかった。
当初、転がって考えていた人形師と世話役は、現在の久紫と小春より、もう少し明るい二人でした。
人形師の原型はファンキー爺の喜久衛門に近いものがあり、世話役の原型も小春より幼く元気ありあまる少女で。
余力があったらその内書きたいものですが。ちなみに雪乃さんも出てきます。やっぱり故人だったりしますが。
その頃、人形の雪乃はいませんでした。彼女がどうして出てきたかは……あんまり覚えてませんが、確か当初久紫の想い人に似せたっぽい設定だったかと。まあ、喜久衛門に譲っちゃったわけですが。
さつきはもっと嫌味なライバル役になるはずが、妙に気に入ってしまい、なかなか情のあるお嬢さんになりました。暴走娘のままでも良かったけれど、小春が淡白過ぎた。もっとリアクションとれる主人公だったら、メリハリあったんですけど。
涼夏はあまり変わりませんが、いつの間にか姉御肌になっておりました。何故だろう。
絹江はほとんど変わらない……気がします。表でニッコリ、裏で夜叉を飼っている、タヌキと似合いの鬼です。鬼。キツネじゃございません。媚薬云々さつきに言ってますが、絹江の料理もさつきよりマシな程度。繰り糸女性陣で一番料理の腕前が酷いのは涼夏だったり。一番は小春、ではなく手伝いの女中さんたち。次点は瑞穂で小春はその次くらい。亀の甲より年の功。
志摩……コイツこそ、最初っから最後まで変わらない変態。そして魔王の位置づけ。ある意味最強です。なにせ本性ド○ですし。
でも一番の黒幕は、やはりタヌキ。出番はすこぶる少ない信貴ですが、恰幅の良い柔和な顔してやるときゃやります。
他キャラは久紫sideのあとがきにでも書くとして。いつになるやら。
ここまで読んでくださり有難うございます。
繰り糸囃子・小春side、少しでも楽しんで頂けたなら幸いです。
2008/4/23 かなぶん
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