小春side 九
くて、と肩にしなだれかかる重みに、小春の意識は消し飛んだ。
次に目が覚めたのは、見慣れた天井。屋敷の自室。 寝巻きにまで着替えさせられ、起き上がって井戸の水を汲もうとすると、母の絹江に止められた。 大丈夫だ、と告げても少ない手伝いも加わって、自室に戻される。 過保護だわ……と思いながら、手鏡の中の自分を見て納得した。 どう贔屓目に見ても今にも死にそうな、青くやつれた顔がそこにはあった。
「若い殿方が貴方を連れてきてくださった時は、本当に、心臓が止まるかと思いました」 粥を椀に取り分けながら、絹江が大仰な溜息をついた。 人形師の世話役をしているのは知っていたが、あんな若い方だったとは、と呆れ半分悪戯っぽい笑み半分。 「……父様は宮内喜久衛門様のことを……?」 尋ねれば、また溜息。のち、首を振る。 「まったく、あの人と来たら、大事なことは何一つ教えてくださらないから」 倒れた理由を聞かれ、前と同じと言えば簡単に納得してしまった母に、小春は感謝しつつ苦笑する。 小春は幼い頃より、幽霊の類が大の苦手であった。別段、何かが見える、という能力があるわけではないが、兎に角、病の一種といっても良いほどの嫌いよう。 これを知った悪戯者の喜久衛門がある日、それとなくその類の話が書かれた紙を落とし、小春に留守番させた。 結果を面白く想像していた喜久衛門だったが、一刻も掛からず帰ると、小春はぐったりした面持ちで倒れていた。 「あの時だけは本当……宮内のお爺様を殺めたい気分だったわ」 天然の黒い微笑みに小春が引きつる。普段はおっとりした母ながら、幸乃家において実権は父より多分に握っている。 怒らせると鬼より怖い女性だ。 そんな絹江はころっと表情を一変させ、また悪戯っぽく笑ってみせる。 「でも素敵だったわよぉ、あの方。血相変えて貴方を抱き上げて、ここまで運んでくださったんだから。減点は伸介の坊やが一緒だった、くらいかしら」 半眼の絹江に「人形師様は家を知らないから」と言えば、ふっと和やかに「ええ、分かってるわ」と笑む。 放蕩者と評判の伸介とはいえ、絹江が彼を嫌う理由はただ一つ。 幼い悪戯にきつく灸を据えた際の捨て台詞、「鬼ババア!」を今でも根に持っているためだ。 これでもし、あの伸介の初恋の相手が絹江だったと伝えれば、どんな反応を示すか。 想像してみたが、どうあっても碌な命運を辿らない幼馴染を思い、小春は沈黙を保つ。
一週間経っても小春の顔色は良くならなかった。 しばらくはあの家に近づけないだろう。 前の時は町を抜けただけで足が動かなくなった。想像だけでそうなるなら、今回は家の外も満足に歩けないかも知れない。 一体あれは何だったのか…… 考えれば戻ってくる怖気と眩暈に、布団に潜って止めにする。 けれど目を瞑ると現れる、黒髪の先の視線に、がばっと起き上がった。 ……違うことを考えよう。 眩む目を明るい障子に映す。 そうして思い当たった出来事に、頬を赤らめることなく困惑する。 絹江は殊更久紫が抱き上げたのを強調して、うっとり夢見心地の表情だったが、現実はそんなに甘くない――はずだが…… 町では久紫の後ろを歩くだけで、羨望や妬みといった煩わしい視線に晒されてきた。 しかしこの一週間、見舞いと称して訪れる令嬢たちは皆、悲哀に満ちた眼差しと暖かな贈り物を小春に押し付けてくる。 何故と聞き返したいものの、口を開けば両手をそっと握られて、 「いいの。何も言わないで、小春さん」 と咽ぶ涙を堪えるかの如く、去ってしまうのだ。 流石にさつきは来なかったが、まだこちらの方が分かりやすい。 ただし、人形にかまける久紫を再確認し、逃避に走ったとはいえ、その衝撃も覚めやらぬ内に、小春が運ばれたのを知れば、因縁を付けられるのは間違いないが。 「……天変地異の前触れかしら」 優しい令嬢たちに、小春は感謝よりも、得体の知れない恐怖を感じた。
ことん……
そんな不思議な音に目を覚ましたのは、倒れてから一ヶ月後。 まだ朝というには早い時間の小さな音に、寝ぼけた顔で起き上がる。 特に変わったことはない…… もう少し寝よう、そうして布団を被ろうとすれば、丸い物体に気づいた。 薄闇でも浮かぶ橙のソレ。 「…………みかん?」 よくは分からないが、手にとれば間違いない質感と香り。 考えようによっては、幽霊の類と騒いでも良さそうなのを、しかし小春はあまり考えもせず、寝ぼけたまま、皮を剥き剥き食べた。
床からは抜け出せたものの、案の定、外に出ただけで足が竦んでしまった小春は、久紫の世話役を他に頼み、家で養生を続けていた。 我ながら、なんと脆い精神か。 そう嘆くものならば、 「なにを仰いますか。小春? 貴方と来たら幽霊の類以外なら、誇れるほど図太い神経をしていますよ?」 と絹江に窘められた。例に、ミミズを素手で引っつかんだやら、物取りに無茶な体当たりしたやら、顔を覆いたくなる遍歴を上げられて。 次いで表情を和らげ、 「それに、この一年、ほとんど休みなく働いていたのですから」 言われて気づくのも本当に間抜けな話だが、久紫が来てからずっと、病に伏せる暇もなく、働いていたのを知る。
だからだろうか。寝ぼけた頭も拍車をかけ、なんとなく、このみかんもご褒美のような気がした。 「……あ、皮」 橙の残骸を食べる訳にはいかず、くず籠を探すが、炊事場に集めるために置いて来たのを思い出す。 仕方がないと立ち上がり、肌寒い空気に一枚羽織って炊事場へ。 小さな籠にみかんの皮を放った。 わざわざ来たのだから、残飯用の壷にでも入れれば良いものを、満足そうに籠を持ち上げて部屋に戻る。 その途中、白い影が前を横切った。 これには寝ぼけも一瞬にして冷めてしまう。 しかし、すぐに正体が思い当たる。 「姉様……?」 けれど、それはそれでおかしな正体だ。長い間臥せっていた姉の歩く姿に、小春はくず籠を抱いたまま首を傾げる。
みかんはそれから一ヶ月間、決まって早朝に置かれていた。 試しに起きて待つが、どうしても眠ってしまう。 一度寝入ると、大抵朝方までぐっすり安眠できる小春は、日中覗いても変わらぬ姉の彷徨う視線にも、みかんの答えを探せず、悩める日々を送っていた。 「でも――美味しい」 本来なら不気味なモノ、と口にするのも躊躇われるみかんは、程よい甘さで小春好みの味。 一口食べてはもぐもぐ味わいつつ悩みつつ。 時刻はまだ日が昇って間もないほど。近づく春につれて、日の入りが早くなったのを、出てくる欠伸を噛み潰して感じる。 皆が起きるまでもう少し。さてどうしようか、迷っていると、 「小春様」 庭に面した窓から小さく名を呼ばれた。 他を起こさないよう気遣う声音を小春は知っている。 窓を急いで開けると、少し年上の三つ編みの少女が、何やら青い顔で迎えた。 「瑞穂様、どうかなされたのですか? こんな早朝に」 「様は止めてくださいませ……伸介様からご伝言をお預かりしております」 眉根を寄せる柴又瑞穂は、伸介の家の手伝いをしている娘で、小春の幼馴染。 ついでに伸介の恋人でもある。 「至急、人形師様のお宅へ、と。私からもお願い致したく」 「何か……ありましたか?」 臥せる小春が久紫の世話役を、と頼んだ内の一人の言に、妙な胸騒ぎを感じる。 言葉を探す沈黙。 一度伏せられた瞳がしっかり小春を見据え、 「あの方……このままだと天に召されるかもしれません」 「…………は?」 沈黙の意味は果たしてあったのか、包まれることなく伝えられた「死」の一言に、小春はただ唖然としてしまった。 |
2007/12/19 かなぶん
修正 2008/4/24
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