久紫side 十
その女を紹介されて、最初に出てきた言葉。 それは――――
「…………………………エロジジイ」 「は? なんぞ言ったか、小僧?」 聞き返したクセに、自分と同じ背丈の白髪頭は、齢を感じさせない跳ねる姿でもって、彼の頭を細い腕で締め上げた。 見た目枯れ枝のような腕だが、思いのほか拘束は強く、幾ら暴れても解放が得られない。 やがて彼がぐったりしたなら、白髪頭は腹が立つほど明るく「カカカ」と笑い――女の溜息にビクンッと身体を揺らして止まった。 「な、なんじゃい、雪乃……あ、これ!」 「ぅぐっ」 恐る恐るといった様子で自分より遥かに若いはずの女へ尋ねる腕が緩み、チャンスとばかりに逃げ出せば、襟首をひょいと掴まれた。 身長差はないのに猫の子の気分を味わう。 とはいえ、こんなことは彼にとって日常茶飯事。 だが、雪乃というこの女にとっては違ったのだろう。 「喜久衛門様……」 「うっ……わ、分かっておる。頼むから、そんな憐れむような目でワシを見んでおくれ」 言うなりぱっと手が離れ、借りてきた猫でいるつもりもなく暴れていた彼は、一、二歩よろけては解放を喜んで逃げることなく、喜久衛門と呼ばれた白髪頭と雪乃を振り返る。 バツが悪そうな喜久衛門に、こちらに気づいてふんわり微笑む雪乃。 知らず、訂正が彼の喉を出た。 「…………………………ガキ」 「……何じゃ、今頃気付いたのか?」 今度は怒りもせず、向けられた罵りを胸を張って肯定する喜久衛門に、彼の方が動揺してしまう。
その後、改めて教わった女の正式な名前は、佐々峰雪乃。 最初は避けるように接していた彼だったが、一緒にいるだけで落ち着けるほど温かい彼女の人柄に触れ、徐々にその心を開いていく。 すると、当然とばかりに生じた、淡い想い。 けれど、開いた心の分だけ相手を尊重してしまった結果、彼の恋は淡雪のように消えていった。 雪乃の穏やかな瞳は、いつだって、喜久衛門を柔らかく見つめていたから。 そして、捻くれ曲がった根性においても足元に及べない、彼の師である喜久衛門も、また――。
だというのに、二人は終ぞ連れ合わず、幾年月を燻り続けた想いは別の帰結を求めた。
不審―― 長く陰で培われたその芽はある日、雪乃の想いに根を下ろし、彼女の身体を、精神を蝕んでいく。 元々、彼女の身体は強くなかったらしい。 柔和な心すら、彼の知らぬ過去で受けた傷ゆえに、痛みを知るからこそ生まれたモノで。 だから、と喜久衛門は迎えた彼女の死後、慟哭せずに淡々と述懐する。 眼差しの虚ろを宙へ投げて。 「ワシはなぁ、知っておったんだ。雪乃が……本当はどうありたかったのかを。ワシには……自信がなかったんじゃ。雪乃の傷は……あの人が思っている以上に深い。ただでさえ、長らく人形しか相手にしなかったワシだ。……彼奴らの如く、あの人を傷つけない保障はない……いや、彼女を想う気持ちの分だけ……私はきっと、あの者どもなど比べ物にならないくらい、雪乃様を傷つけてしまう……」 「師匠…………」 もしかしたら、この時の言葉は、誰かに向けたモノではなかったのかもしれない。 否、向ける相手はきっと、唯一人。 許しを乞うでもなく、喜久衛門は虚空にぽつりと問うた。 小さいくせにやけに通る声で、干からびた喉を震わせて。 「間違って…………いたのかな、俺は……雪姉――」
それきり、雪乃の骸から髪を切とるまで、喜久衛門の口は噤まれ…………
逆恨み――なのかもしれないと、人形の髪に、小春が気絶しながらも握り締めていた飴色の櫛を通して思う。 雪乃が死に、変調をきたした喜久衛門がその一年後に死んだ時、久紫は好きだったはずの雪乃を憎んだ。 喜久衛門を――久紫が唯一依り所としていた人を奪ったから。 雪乃の壊れてしまった精神を追うが如く、表では変わらず裏では狂気を宿し、病の床にあってははしゃいで命を縮めた、それでも依り所であった人を、死に導いたから―― しかし、こうして髪を梳き、穏やかな表情を眺めれば、そう考えること自体が誤りかもしれないと、久紫は視線を宙に投げつける。 たぶん、いや、絶対に―― 雪乃が死んだなら、喜久衛門はやはり、死んでしまうのだろう。 それも、己を頼る久紫がいなければ、自殺、という手っ取り早いやり口で。 死後の世界で結ばれる――――そんな甘い考えを喜久衛門は持っていまい。 ただ、虚空に語りかけていた背は、如実に物語る。 雪乃こそが“宮内喜久衛門”を形成する全てであり、彼女がいない世界に、留まるような未練はないのだ――と。
「……イナイ、か…………」 人形を元の位置に戻して呟けば、視界の端に黒い髪を捉え、はっとして後を追う。 条件反射のような素早い動きは、相手の目にも映ってしまったのか、ぎょっとした表情が浮かんでいた。 「あ……の、いかがされましたか、人形師様」 「イヤ…………いや、ソウ、あー……幸乃の娘の容態は?」 追い求めた影とは違う、久紫に近いと思しき齢の三つ編みの娘へ、否定から一転、求めても影すら捉えられない娘の様子を尋ねる。 すると、不思議なほど顔を和ませた彼女は、「小春様は床を払われましたよ」と教えてくれた。 「ソウか」とほっとした口。 が、その口が次いでは「では、いつから来てくれるだろう?」と尋ねようとしたため、久紫は会話を無理に切って、深い息を代わりに吐き出した。 息災の情報に礼すら言わないそんな彼を、三つ編みの娘は非難するどころか眩しそうに見て、自分の仕事に戻っていく。 小春の紹介で世話役に加わったという彼女は、紹介者に似る訳でもないだろうが、小春同様、そつなく世話役をこなしていた。 いや、来て三日目という浅さだが、彼女は小春以上の、徹底した手腕を発揮している。 評せば、隅に一つの塵すら許さないほどの完璧さ。 彼女に対してわざわざ難を一つ上げるとするなら、それはどうしても比べてしまう小春との、仕事への思いの違い。 完璧とは、言い換えれば、そこに人の意思は介在しないモノだ。 だから彼女は久紫が告げない限り、無駄な茶は入れないし、無駄な話もしない。 どんなに美麗な人形が作られても、また逆に、どんなに醜悪な人形が作られても、反応を一切示さない。 それは世話役として至極正しいのかもしれないが――
例えば、彼女が来る前の、敵意に満ち満ちた娘たちの目。
三つ編みの娘ほどではないにせよ、そつなく世話役に徹していた彼女らだが、皆一様に久紫に冷たかった。 今のように小春の容態を尋ねても、帰ってくるのは無視と息を呑む音、続くのは無言の怒り。 人見知りのきらいがある久紫ではそれ以上尋ねられず。 敵意の理由も分からず居づらくなっても、町へ下りるのは風呂の時くらい。 けれどその町中ですら、あれほど騒がしかった令嬢らはナリを顰めて、世話役たちと同じ冷たい目を久紫に投げつけてくる。 男手はほとんど島外勤めか、日中働きっぱなしで出会う機会が少ないため、同じ目で久紫を見る者がなく、これが女だけの現象か、男も含むのかは判別できない。 たとえ男がいたとて、家から出るのは、風呂や人形作りに役立てそうな木を探すため、山に登る時くらいの久紫に親しく話せる者はいない。 完全な孤立状態となった彼が、そんな中で満足に人形を作れるはずもなく。
人形師の精神を脅かす敵意の感情なぞ、世話役足り得ない――が。 かといって、敵意の理由を引っさげて、世話役となった三つ編みの娘の完璧さは、久紫の手に余る。 敵意はなくとも、機械的に物事をこなす娘相手では、孤立しているのとさほど変わりない感覚を久紫に与えてきて。 …………覚悟が、足りないのか? 可笑しな話だと久紫は思う。 幽藍に来たのは喜久衛門が住んでいたここで、外界を断ち切り、孤立の中で朽ち果てるためだったというに。 知らず知らず、孤立を与える者への恐れが生じている。
だからこそ、かもしれない。 日に増して、無意識にその姿を探すのは。
人形を作る気力も湧かず、完成した人形たちの出来栄えを眺める久紫。 本来、自分の作品に感心のない彼は、誰かの姿をなぞるあまりに自然な、自身にとっては不自然な行動に気づく様子もなく、汚れに気づいてはそれを拭い取ってやる。 没頭しながらも掠める黒髪の低い背にはっとし、また振り向いてしまうギリギリであの娘は違うのだと、人形たちの棚に頭を寄せる。 なにせ、この娘は姿形からして小春ではない以前に、あの伸介の恋人なのだから。 「シンスケ…………ソウいえば、あの男はマダ?」 浮べたざく切り頭をその恋人に尋ねれば、少しだけ哀しそう笑んで言葉もなく頷いた。 久紫はその表情に眉を顰めて唸り、一言、「スマン」と謝罪した。 一方的な怒号以来、久紫の前に姿を見せなかった伸介と、令嬢らの敵意には繋がりがある。 無論、そこには久紫も含まれていて。 「いいえ。謝罪なぞ……どうかなさらないでください。それに謝るのはこちらです。三角関係のもつれから、小春様が害されたなどという噂に踊らされて、人形師様を敵視するなんて。伸介様の場合は……自業自得ですし。ご自分で広め過ぎた醜聞に加えて、実は女好きは偽装で、本命は人形師様みたいな殿方だった――って……」 「……ダガ、自宅で幽閉とは……謹慎ナラばマダしも…………」 それとも、春野宮という財閥内では当たり前のことなのだろうか? 少しだけ伸介を不憫に思っていたなら、じーっと久紫の様子を見つめる視線を感じた。 返せば、疑いの色濃い眼差しが突き刺さる。 「……人形師様、失礼を存じながらお尋ねすること、ご容赦ください…………あの噂――特に、伸介様が……その、そちらの道を辿っている、という噂は……本当、ですか?」 「ハア?」 顎が外れるとはこういう時に使うべきだろうか。 真剣な顔つきで聞くから何かと思えば、くだらない。 そうばっさり吐き捨てようとした久紫だが、思いつめた三つ編みの娘の顔に息を呑む。 もう一度、よく、考えてみた。 幽藍の噂が当てにならないと、この娘は言っていた。 だというのに、真実をわざわざ問う。 これはつまり―――― 「アンタは……シンスケを信じられナイ?」 「っ、ち、違います! ですが、だって、私、伸介様は――」 ついポロリと口から零れた言葉は、完璧だった世話役の陰から、恋人の浮名に惑う娘を引きずり出した。 しまった、と思い、何かフォローをと考えても、娘の動揺がうつって久紫の喉からは言葉が発せられず。
「信じられるわけありませんわ!」
すぱんっと大きな音を立てて、明快な返答が抜群のタイミングでやってきた。 戸口に仁王立つ、赤い着物の長い黒髪、広いおでこの娘は―――― 「さ……つき様?」 「ええ、わたくしですわ、瑞穂さん。丁度良かった。後はわたくしに任せて、貴方は屋敷にお戻りなさいな。他の方々にも伝えてありますから」 惚ける娘と人形師の混乱に紛れて、とんでもないことをさらりと言ってのけたおでこの娘は、我に返った三つ編みの娘が口を開く直前で、ぴしゃりと言葉を重ねた。 「聞こえませんでした? お帰り、瑞穂さん。口答えなど為さらないで? それとも、主人たる春野宮の娘の行動、手伝い風情に口出しできて? しかも、伸介ごときの醜聞を仕えるべき久紫様の前でグチグチと。見苦しくてよ!」 びしっと指をつきつければ、瑞穂は餅を喉に詰まらせたように押し黙り、久紫に一礼して帰ってしまう。 しずしず項垂れる背を見送り、嫣然と久紫に向かっては、勝負を挑む格好で胸に手を当てる、おでこの広い娘。 「お待たせしましたわ、久紫様! 小春さんがお倒れになった今こそ、わたくしたちの仲を深める絶好の機会! ご安心くださいませ。必ず貴方様が生ける女人を好むよう努めます……あらやだわたくしったらはしたない――久紫様……?」 転じて赤らむ頬に両手を当てた娘の呼び声には応じず、謝罪も出来なかった久紫は、己の言葉が過ぎたことを悔やみ、深い溜息をつく。 |
UP 2008/9/1 かなぶん
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