久紫side 十一
三つ編みの娘が去ってからというもの、毎日のように来るおでこの娘の背丈は、久紫が待ち望む山吹色の着物の娘と変わらず。 ゆえに朝日を背にしたその輪郭に瞠目し、違うと知れては、近頃落ちる一方の創作意欲を持ち直すべく、触れていた自作の人形へ意識を戻す。 その行動こそが虚脱感を生む原因とも知らずに。 己ではあり得ない真似る行動の中に、誰を求めているか察せず、飽くことなく久紫は一日中、人形を慈しむように眺める。 そんな彼をおでこの娘はどう思っていたのかは知れないが、甲斐甲斐しく世話を焼こう――――とはしていた、らしい。 というのも、娘は久紫の側にずっといたのだが、当の彼がその行動を勤めて視界に入れなかったのである。 失敗するから――そんな理由ではなく。 「モウ、来ないでクレ。他の、世話役もいらナイから」 何度もおでこの広い娘へ、久紫はそう言い、けれど娘は聞き届けることなく何度でも訪れ。
正直、久紫は参っていた。 何よりも己に対して――――
期待を、してしまうのだ。 あまりに年恰好が似ている娘の姿、過ぎる気配と温もりに。 その都度顔を上げては、突拍子はなくとも自分を慕う娘に悪いと思いながら、落胆する。 いないと、理解している。 久紫が探す髪の短い娘は、唐突に現れるはずがないのだから。 まずは、戸を叩いて、入って来たなら「おはようございます」と礼をして。 しばらく会わずとも、仕草全てを思い浮かべられる己に驚き、同時になんて情けないと嘆く。 次いで沸き起こる苛立ちは、最初は己へ、そして徐々におでこの広い娘へ。 それは決して外傷を引き起こすものではなかったが、逆に、それよりも傷付く形を取っていった。 徹底した拒絶という形を。 娘の気配が動く度、反応しようとする自分を諌めては、空腹を訴える身体も省みず。 座るのも億劫になって倒れる日々が続けば、誰かが喚く声が遠くに聞こえ、宥める声が届く。 その内、乱暴に身体を揺すられたが、放っておいてくれと久紫は投げやりな態度で応戦した。 期待と落胆を繰り返す行為に、うんざりしていたから。 いるかもしれない――そんな淡い希望を打ち崩す、無。 何かに似ていると、ぼんやり巡る視界の中、久紫は思う。 ふいに浮かんだ過去は、まどろみを引きずりながら、何度も何度も、家の中の扉を開けては閉める、意味のない行為。 瞬きが回を重ねれば、現実を思い知り、糸の切れた操り人形のように崩れて、誰かが来るまで動かずに―― ……そうか、師匠が死んだ時だ。 気づいたなら、急に意識が明確になった。 沸き上がる不快に息が詰まる。 自分のモノではないような重い身体を無理矢理起こし、頭を掻き毟って不快を吐き出した。
違う違う違う違う違う――――――生きている死んでない、生きているんだ、死んでないんだ!
「――彼女はっ!」 ばしっという音が頬を打ったのは、その時。 じりじり焼けつく痛みに訳も分からず怯えた目を向ければ、いつの間にか掴まれていた右手の奥で、青褪めたざく切り頭の男の顔があった。 「あ? ……シン……スケ?」 「…………瑞穂、頼む」 久々だというのに、挨拶もない伸介は、久紫には応じず誰かの名を呼んだ。 了承の声こそなかったが、慌てたような足音が戸の開閉を交えて遠退く。 これを見送ったらしい視線が戻れば、安堵の息が伸介の口から落ちた。 「よお、久紫。お前、寝言にどこの国の言葉使ってんだよ? 俺の知ってるトコかと思えば、全然知らねぇ奇怪な発生するし。どこの国の人間なんだ、お前は?」 「…………」 「おーい、聞いてるか?」 「……髪、抜けタ」 「……あーそうだな。悪かったよ。でもこっちも怖かったんだぜ? 見るからに錯乱状態でさ。あんまりにも怖ぇから、無理矢理手ぇ引っぺがして、平手しちまったじゃねぇか」 まだ混乱している目の前で、拳を開いたり閉じたりする伸介。 おどけた姿を認めて両手を静かに下ろせば、突然、頭の痛みと嘔気が襲ってくる。 「ぐっ……頭、イタイ……気持ち悪い……髪、抜けたカラ?」 妙なことを口走ったなら、間髪いれず伸介が答える。 「違ぇよ。そりゃ腹減ってんだ。お前、最近ほとんど喰ってねぇだろ? そこんとこ俺って気の利くイイ奴だよなぁ。ほれ、握り飯だぜ? しかも特典としてお新香付。いやんっ、ついてるぅ、お客さん。買い物上手ね!」 うふっと真面目に言いながら渡されたのは、久紫の視覚から取り出された白い握り飯。 「まずは一つだ。急に入れたら戻しちまう。ゆっくりだ。ゆっくり喰えよ?」 子どもに噛み砕いて言い聞かせるような調子に腹は立つが、じろりと見た顔つきがあまりに真剣で、久紫は仕方なしに、食べられるかどうかも分からぬ飯を一口含む。 乾いた口内に広がる、粘着性の食感と塩気、甘味、酸味。 噛めば噛むほど出てくる唾液に促されて、ごくりとそれらを呑み込んだ。 「っ」 胃の腑へ落ちる異物に対して傷みが生じた。 食べられない―――― けれどそう思ったのは久紫の意識だけ。 身体の方はその一口を皮切りに、また一口と食んでは呑みを繰り返し。 徐々に上げられたペースは、止める伸介を押し除けて、彼の陰に隠されていた山盛りの握り飯を貪る。 無我夢中の片隅で、小春が最初に、一方的に叩いてしまったその手で作ってくれたのもまた、握り飯だったと思い出せば、咀嚼のスピードは増すばかり。
そうして見事に完食したなら、計ったかのように湯呑みが渡され、ぐびぐび呑む内、入れたてと思しき熱さは兎も角、柔らかな味わいから、その姿を期待して呑み干した。 落胆――――してしまうのかも知れないけど。 「……っふ。…………幸乃の娘?」 顔を上げればまさしく、彼女がいて。 呆気にとられる暇ももどかしいと次いで尋ねた。 「具合はモウ良いのか?」 けれど彼の娘は、そんな久紫の思いも知らない様子で、心底呆れた顔つき。 「お茶の味で人の存在に気づかないでください」 ということは、だいぶ前からここに――久紫の家に来ていたのだろうか? よく分からないが、差し出された急須に誘われて茶が注がれゆく間、久紫は夢でも見るような面持ちで、小春の顔を眺め――。
瑞穂、というのは、伸介の恋人である三つ編みの娘の名前だったようだ。 そう言えば、最初に「柴又瑞穂」とフルネームで名乗っていた……ような気がした、と久紫は眉間に皺を寄せて思い出す。 後に久紫からこれを聞いた伸介は、怒ったり殴ったりする代わりに心底呆れた溜息を吐き出し、久紫は居心地の悪さを味わったりするのだが――。
ともあれ、そんな瑞穂から告げられて、初めて三角関係の噂を知ったらしい小春は、中でも自分が久紫に懸想していたというところで、顔を真っ赤にし「デタラメ」と叫んだ。 ……確かにデタラメかもしれないが、そんなに嫌がらなくたって。 心外だと言わんばかりの口振りに久紫が若干眉を寄せれば、次いで上がった名の響きには殊更渋面が刻まれる。 最後には懇願して、もう来ないでくれと頼んだにも関わらず、意気揚々と訪ねてきた娘。 それが好意から来るものであったとしても、結果的には久紫の精神を極限状態にまで追いやった元凶。 しかも、三角関係の噂をまことしやかに流した張本人と、小春が知るなかで久紫も知り、腹立たしさは募る一方。 加え、こともあろうに小春は三角関係の下地となっている、久紫と伸介が恋仲という噂を信じていた様子で。 苛立たしさから彼の娘の横暴を少しばかり、私情を交えて伝える。 すると何故か小春が神妙な面持ちで謝罪を述べ、頭を垂れた。 「……幸乃の娘……」 困惑して呼べば、真一文字に引き結ばれた口を携えた、後悔に揺れる瞳が上がる。 何故だろう、その顔を見ただけで、久紫の中の激情がするりとどこかへ抜け落ちてしまう。 謝罪の意味は図りかねるが、許しを得るためではない意思の強さは、眩暈のような安堵を久紫に与え―― 「具合は、モウ大丈夫なのか?」 問えば頷かれて、染み入る嬉しさに久紫は戸惑う。 そこへ。
「小春さんっ!?」と聞こえてきた声は、得体の知れない丼を携えて現れ。 「…………さつき様……失礼っ!」という小春の行動により、現れた声の主――おでこの広い娘は、自分の料理モドキの味を知って卒倒した。
幾度となく久紫を苛立たせた相手とはいえ、白目を剥いて口から泡を吹いた姿は痛ましい。 けれど、彼女の想い人らしい久紫は、そんな状態の彼女を介抱して良いものか迷う。 目覚めた彼女が介抱した久紫を更に好くなど御免だが、醜態と泣いて世を儚まれるのはもっと御免だった。 と、その時動いたのは、彼女から「信じられるわけありませんわ!」と言い切られた男、伸介。 「ほれ、さつき。帰るぞ?」 聞こえていないと知りつつも、気安く頬をぺちぺち叩いて名を呼ぶ。 次いで懐から取り出した手拭で口元を拭ってやり、瞼を閉じさせる様は、労わるように優しく、久紫は彼の名を不思議そうに問う。 「……シンスケ?」 「悪ぃ、久紫。コイツ、俺の妹なんだ」 言って肩を担げば、瞑られた娘の目元の涼しさは、なるほど伸介に似通った面がある。 「ソウか……ソウ言われてミレバ、似てるナ?」 「……あー、悪ぃ。今度コイツに会ってもソレ、言うなよ? 嫌われてんだ、俺」 丼を片付ける小春と瑞穂の手が数瞬止まる。 どちらにも不可思議な表情が浮かぶが、久紫の方とて似たようなもの。 「ムウ? お前はイイ奴なのに、不思議ダナ?」 素直にそう言ったなら、 「! なっ、は、恥ずかしい奴! 変なコトさらっと言うな!」 真っ赤になった顔で怒られた。 益々不思議に思い、更に口を開こうとしたなら、遠慮がちに袖を引かれた。 見れば小春がいて、久紫の心臓が大きく跳ねた。 そんな彼を知ってか知らずか、小春はそっぽを向く伸介を目で示しながら囁く。 「異人さん、いけません。伸介は意外に純情なのですから。あまり褒めると恥ずかしさから、さつき様放って逃げてしまいますよ?」 「…………分かっタ」 かくっと頷けば、小春はふんわり笑って片付けに戻る。 しばらくすると瑞穂を伴って出て行き、後に残されたのは、気絶した娘を担ぐ赤面の男と、口元を押さえて動かない片眼鏡の男。 おもむろに、久紫の手が口から離される。 「シンスケ……」 「んだよっ! くそっ、俺はもう行くからな!」 バツが悪そうな顔でそう言って出て行こうとする伸介に構わず、惚けた表情で久紫は続ける。 「今、気づイタ……俺は……俺はドウやら小春のコトを――――」 「久紫……お前?」 ぴたりと足を止めた伸介は、些か呆れた、咎めるような口調で久紫を振り返った。 溜息混じりに惚ける男へ。 「今頃気づいたのか? 自分が小春をどう思ってるかなんてよ?」 「…………シンスケ……知ってイタのカ?」 片眼鏡の奥が驚きに見開かれれば、妹をずり落ちないように一度持ち上げた兄は、いつもの調子を取り戻したように口の端を上げる。 「オウよ」 「……ソウ、か」 これ以上先は聞きたくない――そんな背がまた歩き出すのを受け、久紫はフムと首を傾げた。 どうやら偏屈と思っていた自分の考えは、相手の方が先に察知できるほど分かりやすいらしい。 と、なれば小春にも伝わっているのだろう。 そう考えれば恥ずかしい気分になり、久紫は兄妹の背を眩しそうに眺めた。 家族を労わる、その様子を――――
「マサカ、小春を妹のヨウに思ってイタとは」
ぼそり、照れくさそうに一人言を呟けば、 「…………………………………………………………………………はい?――――ぬぉっ!?」 足を止めた伸介の肩から妹の腕がすっぽ抜け、危うく地に伏しそうになる。 これに慌てた久紫が駆け寄り、伸介の手助けをしたなら、手首をがっしり掴まれた。 「な……なんで、そうなる?……妹って?」 「? ソウだな。シンスケとその妹の関係を見てタラ、ソウ思ったんダ」 「お、俺たち? 馬鹿言うな……どこをどう見たら、そんな戯けたことを思うって」 信じられないと開かれる眼に正気を疑われ、久紫は伸介の手を払って手首を取り戻す。 「……確かに、本物の兄妹のシンスケたちトハ、違う点もアルだろうガ……コウ……何というか、愛おシイと思う気持ちは似通ってイルのではナイか、と」 この男は気づいていないのだろうか? 妹を見つめる自分の眼差しが、どこまでも優しいことに。 「ちょ、ちょっと待て! な、何でお前、愛おしいってとこで止めとかないんだよ!?」 そんな伸介から妙な指摘を受け、久紫は眉根を寄せて不思議がる。 「? 何だ? 妹と思うノハ、そんなに可笑しいノカ? 家族とイウのは、一般的に心配スルものと聞くが?」 伸介の動揺を理解できない久紫は心底困ったような顔をする。 開いた口が塞がらない様子の伸介は、小春たちが戻ってくるまで久紫を唖然とした表情で見つめ続けていた。 |
UP 2008/9/8 かなぶん
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