久紫side 十三

 

 妹などと小春のことを思ったところで、久紫は彼女との距離を自覚している。

 

 小春は呼ぶ。

 人形ですら、雪乃という、師の狂気が付けた名で。

 馴染みならば尚の事、親しい喜怒哀楽を込めて。

 けれど久紫が呼ばれるのは記号。

 「異人さん」と。

 久紫とて、そんな小春への呼び方は記号のまま。

 「幸乃の娘」と。

 

 その隔たりは大きく、他が己を「久紫」という名で呼ぶ度、彼女にもそう呼んで欲しいと願う反面――恐れる。

 一度、「小春」と呼んだ声は、彼女の初恋とすりかえられた。

 他の誰でもない、彼女自身の中で。

 呼ばれたくないのではないか――異人と呼ぶ久紫に、己の名前を。

 浮かぶ疑念の答えは、小春しか持っておらず、それを訊くということはすなわち、関係の破壊を意味していた。

 受領されれば今までの関係はなくなるだろう。

 拒絶されれば今までの関係はなくなるだろう。

 新しい後者の関係は確実に悪く、前者に関しては良くも悪くも――。

 元々久紫は、明るい展望を安易に持てるほど、自分という存在へ価値を見出してはいない。

 彼が唯一、自分の存在を評価できるなら、それは代替。

 師の技巧を受け継いだ弟子――求められるのは師の出来栄え。

 この家の主とて、喜久衛門という空白を埋める代わりに過ぎず。

 世話役の世話も、喜久衛門と代わって久紫が受けているだけ。

 何より、小春が言ったのだ。

 「喜久衛門様はそんなこと言わないのに」と。

 よりにもよって、「小春」と呼んだ己へ、すりかえた初恋と比較して。

 

 これを代わりと言わず、何と評されたと思えば良いのか――代替に答えは得られない。

 

 

 

 

 

「知ってるか?」

 小春が去り、入ってくるなりそう言った男の表情は、曇天が続く夏空とは対照的に、とても爽やかであった。

 見慣れないそれが不気味で、久紫は眉を顰めつつ、自分で入れた茶を啜る。

 同じ茶葉、同じ急須なのに、味わいは小春が淹れたモノより劣り、それでもいつかの冬、目の前のざく切り頭が淹れたモノよりは飲めた代物。

「妹ってお前は言うがな、その字にゃ、恋人や妻って意味もあるんだぜ」

「ぶっ……ぐぅ――」

 酒を煽る勢いで流し込んだ最後の一口が、伸介の言葉で暴れ、無理矢理呑めば動揺が喉の奥を揺らした。

 藪から棒に何を口走るんだ、この男は!

 飲み下した茶がまだ熱かったのか、全身を襲い始めた熱に顔を真っ赤に染めた久紫は、言葉にできない思いを眼力へ込めて伸介を睨んだ。

 しかし彼はらしくない笑いを浮かべてこれを受け止め、今の話題を綺麗さっぱり忘れた風体で言う。

「じゃあ、花街でも行きますか」

「…………何故ソウなる? お前、いつも以上に変ダゾ?――待テ」

 断ればすぐ、夏の夕暮れに出て行こうとする着物を引っ張る。

 勢いが良過ぎた行いは、居間にざく切り頭を打ちつけ倒し、鈍い音が響いた。

 驚く久紫。

 慌てて近寄れば、片眼鏡の奥が更に見開かれた。

「伸介……泣いてイルのか?…………野郎の涙ハ、気持ち悪イゾ?」

「……くそっ、前に俺が言った台詞、パクるんじゃねぇよ……」

 目に腕を乗せて言いながらも、口元には笑みを浮かべる伸介。

 人の泣き姿など見慣れない久紫は、どうしたものか戸惑い、その顔をじっと見つめる。

 しばしの無言を夏虫の声が、冷たく裂いていく。

 腕が少しずれ、じろり、睨む瞳が久紫を射た。

「……で? 久紫、面白いか、こんな俺見て」

 ふむ、と一つ考え、

「…………ソレなりに」

「ああ、そうかよ、畜生!」

 がばっと起き上がった伸介は、一度、床に拳を叩きつける。

 痺れを払い、くるっと久紫の方を向いては指を差し、

「よし、決めた! ヤるぞ、久紫!」

「ハ?」

 途端に調子を取り戻したように見える伸介だが、その目はギラギラ輝いていた。

 何か良からぬ考えに至った風体、久紫は気付かれない程度に身を引く。

「何をダ?」

「勿論、夏祭りに乗じて、俺は瑞穂、お前は小春をモノにするんだ!」

 一瞬、言われた意味が分からなかった。

 が、分かったからといって、即座に頷ける内容でもなく。

「も、モノ!? チョット待て、話が見えナイ! 大体、瑞穂はスデにお前の恋人だロウ? 何故祭りに乗じる必要ガある?」

「あるんだよ! 最近あいつ、俺と距離を取りたがるんだ。理由は分かってるさ。身分がどうのこうのって……バカじゃねぇの。時代錯誤も良いところだってんだっ!」

 憤りに任せて人の家を殴るな。

 言いたい文句は堪え、鈍い音を響かせても無事な床を心で褒めつつ、久紫は言いにくいことを脳裏に浮べた。

 伸介の恋人である瑞穂が、うろたえたあの時のことを。

「……伸介。ソノ、身分もアルかも知れんガ……タブン、違うのではナイか?」

「はぁ!? 何だよ、お前! 瑞穂の気持ちでも代弁してくれるってか!? 未だに小春から異人なんて呼ばれている、部外者のお前が…………って、悪ぃ」

「……構わんサ」

 普段の彼からは決して聞こえてこない、突き刺さる言葉に、久紫は苦笑を呈して首を振る。

 好ましくは、ない。

 言われるまでもなく、自分が部外者だと自覚しているし、激昂の最中でも言われれば、やはりという思いが蔓延していく。

 だが、そんな部外者だからこそ出来ることもある。

 彼女の代わりに、意気消沈する彼へ文句を言う事だって出来る。

 自分のものではない、代替の思いなら。

「ミズホに謝り損ねたコトがアル。お前のコトでな」

「俺の?」

 幾らか落ち着いた伸介の目に、困惑と不安が映る。

 それは世話役を忘れた恋人の動揺と似ていて好ましく――――羨ましかった。

 双方の想いが通じ合っているようで。

「ソノ……噂をな。真偽を聞かれたンダ。特にお前が……ミズホを隠れ蓑に男と通じているかドウカ。女好きモ、ソレを隠すタメなのではナイか、と」

「……俺が信用できないってか?」

 吐き捨てるような言葉だが身が入っていない。

 まさに同じコトを瑞穂に対して言った久紫は、段々と強張り始めた喉を慮って、深呼吸を一つ。

 話す相手は伸介だが、今の彼は久紫の知る春野宮伸介と違って弱々しくも荒々しく、まるで別人を相手にしているような錯覚を受けてしまう。

 人見知りの激しい久紫、正直、話し続けるのが辛くなっていた。

「俺もソウ言って……ミズホは傷付いた。俺は、謝れなかっタ」

「…………」

 そこで切ったなら、伸介は忌々しそうに目を閉じ――剣呑な光を宿らせて目を開けた。

「分かった。……ならやっぱ、夏祭りに乗じるしかねぇな。噂の真偽、じっくり確かめさせてやる――――な、久紫!」

「…………あ、アア……」

 最後の最後で、いつもと同じ声を掛けられては、話を早く切り上げて欲しかった久紫に、断る術は、ない。

 

 

 

 

 

 妙な運びで伸介と結託することとなった久紫。

 別々に行動するのを普通、結託とは言わないだろうが、だからこそ、伸介の本気が窺い知れた。

 久紫という第三者を置くことで、引くに引けない状況を作りたかったのだろう。

 逆に、彼らの仲は、そうしなければならないほど不穏と察せた。

 臥せていた小春を伴った際には、仲睦まじく見えたのだが……。

 男女の仲というのは、余人では計り知れない展開を繰り広げるものらしい。

 

 それはそれとして。

「……どうシタものカ」

 ぬたりと起き上がった寝室の外は、曇天続きの真夏から脱するべく、しとしと雨を降らせ続けている。

 予定では今日が夏祭りの日だが、果たして雨天決行であったかどうか。

 いや、それより目下の問題は別にある。

 だからこそ、小春が働いている壁一枚隔てた寝室で、不貞寝していたわけだが。

「誘えるカ、俺に……大体、伸介の目的は恋人ダガ……小春は俺にとって――――」

 一体、何なのだろう?

 妹、と結論付けた。

 なのに、その字に恋人やら妻やらの意が含まれると聞いては――

「ウウ…………寝る度にあんな夢を見るナゾ……」

 意が直接小春へ宿る、そんな夢。

 困るのは、夢から覚めて落胆を示す己の姿。

 悩めば悩むほど夢から――睡眠から逃げ続け、結果、働く彼女を尻目に寝室へ籠もっては、夢の彼女に惑ってしまう。

「キット……蒸し暑いセイダ。寝汗を掻くカラ妙な夢を見る」

 適当な逃げ道を作って、関係の悩みを放棄した。

 でなければ、いつまでも考えが堂々巡りを続けるばかりで、答えが得られないような気がして。

 箪笥から布を一枚取り出し、寝不足から凝りもせずまどろみそうになる身体を拭く。

 すると勢いよく開いた、居間へ続く板戸。

 ちらりと見たなら、今しがた関係で悩んだばかりの小春の姿があった。

「っな……何を……して……らっしゃるんですか?」

 上擦った声に珍しいと久紫は思った。

 訊ねることなく板戸を開けることも、汗を拭く姿を見て「何」と尋ねることも。

「ナニ……と言われれば、体を拭いてイル。寝汗が酷くてナ」

 我ながら捻りのない、事実をなぞるだけの応えに内心笑いつつ、拭き終えれば着替えようと立ち上がる。

 けれど、視界の端では、寝室の籠もった暑さを拭う未だ開けっぱなしの板戸、これをもたらした小春が控えたままの状態でいる。

 いぶかしんで見たなら、彼女の顔は気恥ずかしげに俯いていた。

 そこで察したのは、久紫が寝所にいるとは思わなかったらしい、という事実。

 世話役だろうと小春も年頃の娘だ。

 加えて幸乃の屋敷には女手ばかり。

 親族でもない男の寝起き姿など、直視できないのだろう。

 恥らう気持ちも分からぬではない――が、しかし。

 知らず、喉が鳴った。

 朱混じりの上気した頬、伏せ震え潤む瞳、物言いたげな唇――無防備過ぎる華奢な体。

 煩わしさから跳ね除けていた衝動が久紫の身の内に生じる。

 同時に襲うのは、卑下した女たちと同じ眼で小春を捉えてしまった、己への羞恥。

 すぐに視線を逸らしてそれでも目を閉じ、口元に手を当て呼吸を整える。

 小春は……小春への思いは、妹の、家族のようなモノであったはず。

 だというのに、夢も、そして今の反応も、久紫へ伝えるのは全く別の浅ましさ。

 こうなると優先されるのは、一刻も早く違う話題へ自分の意識を逸らすことだ。

「ソウいや幸乃の娘。今日は夏祭りとヤラがあるんだロウ?」

 言いながら、何故このタイミングで夏祭りの話が口をついたのだろう。

 きっと不審に思うはずだ。

 なにせ久紫は祭りの類に興味を見せたことなどなかったのだから。

 しかも運悪く雨降りの日に尋ねる。

 間抜けにも程があろう。

 案の定、

「は、はい。ですが、この雨では、延期かもしれません」

 少しだけ惚けた声音の小春。

 それでも何故と問わない小春に、久紫は内心でほっと溜息をつき、着物を整える。

 延期と言っていたから、いっそのこと、この勢いのまま誘ってしまおうか。

 己の中の靄がかった関係の正体をはっきりさせるためにも――。

「あの、異人さんはいつまでここにいらっしゃるんですか?」

 ………………………………………………………………………………………………………。

 世間話の声量に、何を言われたのか分からなかった。

 じわりと、否、ぐさりと胸に突き刺さった言葉が、息苦しさを徐々に増して。

「…………幸乃の娘……オレは、いない方が良い、のカ?」

「……え、と……?」

 当たり前だと言わんばかりの戸惑いに、久紫の頭が理解するのを拒むように痺れを訴える。

「い、いえ、決してそういうつもりで言ったわけでは……ただ、喜久衛門様はよく旅に出ていらしたので、異人さんは――――」

 言い繕うような語りに、初恋の面影を重ねられては動揺する。

「! 俺は――――っ!?」

 口を押さえ目を閉じ、心を鎮め、息を鎮め。

「…………俺は、師匠では……ナイ…………」

 代替ではない――本当に?

 現にこうして幽藍へ身を寄せているのも、師の影を追った顛末の故。

 人間関係も己で作り上げたモノは皆無に等しい。

 小春と他の世話役たちがこなす仕事は、久紫よりもこの家に詳しいと証明していた。

「あ、灰」

「……ハイ?」

 肯定のような惚けた声。

 しかしそれは久紫の知る発音ではなく、察した事柄に慌てて左目を押さえた。

 いつもは片眼鏡で視力を補う、黒に近い灰の左目。

 寝るのに邪魔と片眼鏡を取ったのを、指摘されて疼く古傷がある。

 目に見えないその傷は、小春へ帰宅を促し――。

 

 

 ふいにこだまする声。

 「あなたはあの人じゃないもの」と。

 意味するところは、個を認めるものではなく、断罪する拒絶。

 澱んだ微笑に鋭利な光が宿っては、灰の眼を「あなたのお陰」と愛で、黒の眼を「裏切り者」と嘲笑う。

 

 今は遠い、何よりも――己の命よりも大切であった人。

 

 彼女を守るために自分は生まれてきたのだと、その時まで本当に思っていた。

 両手を血と泥で穢しながら、彼女を遠ざけてしまうであろう死だけは忌んで。

 

 「あの人」と愛おしむ名を問えば、嗤って還ってくる。

 ――――。

 捨てた名が、書き換えられた名が――久紫の思いを深い靄へと手招く。

 

 


UP 2008/9/22 かなぶん

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