久紫side 十四

 

 世界が歪んで見える。

 原因は、いつも左目を覆っている、片眼鏡が手元にないせいだ。

 小春を帰してから、左目を覆うため、一刻も早くつけようとしたのが災いした。

 動揺からうまく動かない手は眼鏡を落とし、あろうことか、寝所の箪笥と壁の隙間奥へ誘導してしまったのだ。

 慌てて菜箸やら長い得物を用い、眼鏡を取ろうとしたのだが、腕が入らない。

 その後訪れた伸介に頼もうと思い立ったが、おそるおそる小春を誘えたかどうかと開口一番に問われた。

 気まずいやり取りから「しばらく来ないでくれ」という伝言を頼めば、ぎこちなく頷いて、彼はあっさり出て行ってしまった。

 始終、余所余所しい姿なぞ追えず、届きそうで届かない片眼鏡を思えば気分は落ち込む一方で。

 ……よもや、隠した灰の瞳を見られたわけでもあるまいに。

 けれど、小春の代わりとして訪れた手伝いたちが、一様に、伸介と同じくぎょっとした顔つきで、久紫を見つめるのを見ると……。

 包帯で巻いた方が良かったかもしれない。

 それはそれで瞠目されそうな姿を思って息を吐いた久紫、取り戻せない片眼鏡を思っては人見知りを乗り越え、手伝いたちへ頼もうとするが、どうも避けられてしまう。

 

 原因が、蒸し暑い中を四六時中、布団を被って過ごしている、奇異な己の姿にあるとは露知らず。

 

 

 

 

 

「シバラク、と言ったハズだが……?」

「十日も過ぎていれば、しばらく、で良いと思ったのですけれど」

 そんな会話が展開されたのは、彼女の言う通り、久紫が伸介へ伝言を託してから十日後のこと。

 久方ぶりに夢ではなく現実で、間近に見た姿から、つい惚けて布団から出ようとする己を慌てて律する。

 また灰色の瞳を見て、反応されるのが恐ろしくて。

 だからこそ、交わしてしまう視線を逸らす。

 こちらは布団の暗がりで、決して小春からは久紫の眼なぞ見えないと知りつつ。

 しかし、それが不味かったらしい。

「アッ!?」

 がばっといきなり開けた視界の眩さに目が細まった。

 差し込む陽光は、長雨を終えた乾きを空気に与えていたが、まだ早朝。

 夏の真昼よりは褪せた、けれど、小春よりも久しい輝きは、曇天より暗いところにいた久紫の目を責めるように刺した。

「異人さん……もしかして……眼鏡、失くされましたか?」

 眩む視界の影が問うた言葉に、はっと気付いて左目を隠した。

 黒髪黒目が当たり前というこの島で、何よりも異人と呼ばれるに相応しい灰色の瞳。

 取り戻せない片眼鏡の代わりに手を用い、小春から視線を外せば、色を取り戻した影が呆れた様子で、取り上げた布団を持っていこうとする。

「アア、布団」

 なよなよした声は、縋るべき物を失う恐怖から。

 だが、世話役に徹する小春は容赦がない。

「駄目ですよ。このお布団干さないと。湿気を吸って、すごく重いです」

 自分より年若い娘から、子どもを叱るような口調で言われては、久紫に抗えるわけもなく。

 左目を隠すこの手だけが頼りと思い込んだなら、やはり子どもへ向けるような口調で小春が尋ねてきた。

「どこで眼鏡を失くされたか、覚えてらっしゃいますか?」

 

 

 大切な大切な片眼鏡。

 久紫の目に納まり続けたそれは、現在四代目で、買ったのは久紫自身。

 こつこつ作り、ぽつぽつ売れた人形の金を貯めて買った、最初の功労の証。

 メンテナンスはずっと己で行い、悪戯好きの喜久衛門から幾度となく守ってきた、大切な大切な――――久紫の分身。

 

 これを優しく拭いた小春は、最後に外側へ吐息を吹きかけて湿らせ、水分を拭き取って後、光に翳しては透明さにふんわり笑った。

 久紫へ手渡す時も楽しそうに。

 酷い早鐘が久紫の胸内にある。

 近しい距離から気づかれるのを恐れてつける。

 するとすぐさま世界の歪みは払拭され、残ったのは苦笑混じりでこちらを見つめる小春が一人。

 しばらく、とは言ったものの、本当はもう来ないのではないかと思っていたのに、たかだか十日程度で「しばらく」の有効期限を切った娘。

 それとも、久紫を慮って、十日も来るのを止めていたのだろうか。

 ――だったら嬉しいと、素直に思えた。

「ナァ、幸乃の娘」

 何気なく呼べば、

「うぁっはい!?」

 小春が素っ頓狂な声を上げた。

 考え事をしていたのか?

 世話をする人形師の前で惚ける珍しい様子には首を傾げつつ、久紫は腹を決めた。

 なにせ外は暑さを予感させる晴天で、暗く歪んだ視界は払拭されたのだ。

 それならば、心の靄も晴らすべき――要は験かつぎだ。

 「乗じる」と伸介も宣言したのだし、誘うなら今しかない。

「今日は夏祭りダッタか?」

「あ、はい、そうです。延長に延長を重ねて、ですけれど。……でも、異人さん、随分お祭りに御執心ですね?」

 う……やはり俺が言うには無理があったか。

 内心で怯む己を叱咤し、続く言葉を探しつつ。

「シュウシンというか……祭りは好きダ……しかし、アレは人が多い。知らん奴バカリだと息が詰まル」

 本音である。

 やや言い訳めいたところもあるが、祭りに対する久紫の思いは、人見知りの激しさに反して好意的だった。

 人でごった返す催事場へは近づかないものの、離れた場所ではしゃぐ声や音楽を聴き、その姿や明りを眺めるのは楽しかった。

 傍目からは孤独のように見えても、溢れる光と音の群れは久紫を同じ位置へと誘い――。

「では、一緒に行きませんか? 綺麗ですよ。最後に海に灯篭を流したりし……て……」

 良い事を思いついた顔に、何を言われたのか分からなかった。

 聞き間違いとも考えたが、しまったといった具合に強張った表情が、間違いではないと告げていて。

 …………この娘は……これも、世話役だからか……それとも――――?

 今当に、自分から言おうと思っていた言葉を先回りされ、久紫は勝手に崩れる相好から逃れるように俯いた。

 

 

 

 

 

 どうしたのだろう、俺は。

 幾度となく、見慣れた短い黒髪の、花があしらわれた紺の見慣れぬ浴衣姿を眺めて思う。

 着物姿と変わらぬ形状の浴衣だが、色彩のせいか、身体の輪郭がより鮮明であるせいか、いつも以上に小春を女性として認識してしまう。

 加え、こちらをくりくりとした目で見上げては、安心させるように微笑む顔が、他を向いて後も脳裏に刻まれて消えない。

 ふわふわ妙な熱に侵されて進む夏祭りの夜は、久紫が知るものより華やかさに欠けてはいたが、参加した分それ以上に楽しかった。

 尤も、人の流れは幽藍のどこに隠れていたのかと言うくらい多いため、小春が近くにいなければ、やはり出向くのは難しかっただろう。

 しゃりっと手にした林檎飴を齧る。

 舐めた飴は甘かったが、実はだいぶ酸っぱかった。

 だから飴で包んでいるのか……と変なところで感心しつつ、もう一口。

 食べ歩きは褒められた行為ではないが、祭りでこれを咎めるのは野暮というもの。

 現に、普段は世話役として肩肘張っている小春も、団子を食べながら祭りの騒がしさを楽しんでいる。

 自然、深い息が出たなら、小春が気づいてこちらを向いた。

「どうかなさいましたか?」

 まさか何気なく出ていった息が、彼女の気遣いを返すとは。

 それよりなにより、この騒がしさの中、深くとも掠れた吐息に気づくとは――。

 祭りを楽しみつつも、常に久紫へと気を配っていたらしい。

 悪いとは思いながら、込み上げる嬉しさに笑んで首を振った。

「イヤ……随分、絡まれナクなったト」

「絡む……ああ、ご令嬢方のことですか?」

「ソウ。それと……伸介の妹」

 久しぶりに見た彼の妹は、久紫の名を呼びながらも彼に纏わりつくことなく、将来義姉になるかもしれない瑞穂を捜してどこかへ行ってしまった。

 自らの料理を口にしてから、一度も久紫の下へ来なかった彼女の無事な姿に、内心ではほっとしたものだが。

 そんな久紫に対し、小春は少しだけ遠くを見つめるような表情をして、また彼の心を波立たせ――――

 

「…………人に……酔っタ。気持ちがワルイ」

 ほんの数分後に久紫はそんな事を言って、あろう事か振り向いた小春の両肩に、両手と頭を預けてしまった。

 

 

 

 誘導されたのは、丁度海が見える小高い茶屋の椅子。

 提灯に明りもないため、営業していないと分かるそれへ腰掛けた途端、久紫の身体はふらふら傾いた。

 受け止めたのは、細い肩。

 至近で嗅いだ甘い香りの安らぎから、ほっとしたのも束の間、更に身体が倒れて受け止められた柔らかさは……。

「ウゥ……」

 察する前にやって来た気分の悪さが喉を震わせる。

 これを宥めるように、背に温もりが訪れては撫で擦り。

「大丈夫だと思ったンダが……スマナい」

「いえ、わたくしも気づかずに申し訳ございません。あ、ほら、灯篭ですよ?」

 耳朶を震わせる優しい声音。

 気分の悪さとは別の心地良さが熱となって巡る。

 言われるがまま見つめた先には、黒い海を漂う月影に運ばれる灯篭の光。

 遠い祭囃子の音色は相変わらず愉快さを散していたが、朧の灯と通じてはどこか物悲しく。

 去りゆく儚き明かりの影に、柔和な笑顔と優しい面差しを乗せたなら、そっと額に触れたものがある。

 熱を冷ますようなひんやりとした感触。

 だというのに、久紫の熱は更に巡り、離れようとする意思を感じては、それへ己の手を重ねて言う。

「……冷たイ」

 ずるいと、自分でも思った。

 そう言ったなら彼女はきっと、額に押し当てた自らの手を退けられないに違いない。

 小春の手の重みが戸惑いながらも留まる様子を受けては、引き止めた無骨な手を元に戻す。

 枕として提供された、小春の膝の上、己の眼前へ――。

 肩からの高さに少し足りない腿は、毎日の世話役勤めが成せる筋肉と共に、女の身を忘れまじと程好い柔らかさを保っている。

 香とは違う小春の甘い香りには、生命を育む陽と水が、混じり溶け合って。

 目を閉じれば、それら全てが久紫を包んで……。

 

 唐突に、眠くなった。

 

 とろとろ誘われる眠りを更に引き寄せるべく、頬を暖める柔らかなモノへ擦り寄る。

(異人さん――――)

 そんな声が聞こえては、無粋と呻き。

(この前は、本当に申し訳ありませんでした)

 風が起こったなら、謝られる筋合いはないと首を振る。

 と。

(異人さん?)

 また、無粋な呼称が聞こえてきた。

 違うのに……その唇、吐息、響きから呼ばれたいのは、そんな記号ではないのに。

 急に心細くなり、温もりを求めて、柔らかなモノへ願望を寄せる。

 

 「久紫」と――――貴女に呼んで欲しい。

 俺は、「小春」と――――貴女を呼びたい。

 

 もう、だいぶ前から――そう、思って。

 そう……想っていたんだ。

 

 本当は最初から、「いもうと」などという役割で、小春を近しいと思ってはいなかった。

 本当は最初から、妹――「いも」が意味する、恋人や妻――異性として彼女を想っていた。

 

 なのにすり替えたのは、異性への恐怖があったがため。

 恐怖の源は、群れて色を示す女たちではない。

 真実、恐ろしいのは、異性と認識した女からの拒絶。

 

 慕い、好いた彼女らは、似た過程でもって久紫を嘲笑い、それは今も時折耳を穿ち――。

 

 小春までそうなってしまったら……。

 恐れから震えそうになる身体。

 するとそれを宥めるように、髪を慈しみ撫でられる感触が届いた。

 途端、恐れが氷解する。

 誰がもたらしたかなど、まどろみに引きずられようとも分かる。

 

 完全に寝入る前、低く述べた礼は果たして、彼女に届いただろうか?

 

 


UP 2008/9/29 かなぶん

目次 

Copyright(c) 2008-2017 kanabun All Rights Reserved.

inserted by FC2 system