久紫side 十六

 

 無様な格好――――とは、こういう状態を言うのではなかろうか。

「……下ろしては貰えませんか?」

「…………」

 だが、融通が利かない、というのは本当だったな。

 担いだ熱っぽい米俵からの睨みへ、久紫は無言だけを貫き通して思っていた。

 

 寝室まで戻ると、幸乃の手伝いの女が、ほっとした溜息をついた。

 久紫の無言が移ったように無口となった米俵――小春を布団へ下ろせば、泥のついた足を丁寧に拭く。

 自分でやると小春が手を出せば、女は素知らぬ風体を装い、これをさらりと避けて手早く済ませる。

 「それでは」と頭を下げた女は、朝餉の支度へ向かい、寝室を後にする。

 残ったのは、むくれた顔と頭痛を堪える顔。

「……幸乃の娘」

 呼んでも応えぬ布団の膨らみ。

 小春が倒れてからの数日間、高熱で動けない時までは、良くはないが、まあ良かった。

 問題はある程度、小春の身体の自由が利き始めてからだ。

 最初は床を這いずり、次は四つん這い、壁伝い、よろよろと一人歩き――

 草履を履いて立ち上がれたなら、まだ熱も下がらぬ身体でこそこそ外へ出て行く。

 詰まるところ、脱走である。

 よほど久紫の家に留まりたくないのか、これ以上病の身で勝手をさせてなるものかと草履を隠せば、裸足で秋の冷たい土を踏む始末。

 今回は特に、深夜の通り雨で道がぬかるんだ状態だったというのに。

 幾ら何かしら羽織った姿だろうとも、弱った身では意味もなく、手足の先も熱とは違う、痺れる赤が差している。

 倒れてから目覚め、腹の音を鳴らした小春に粥を作った際、些細なことで言い争う形となったが、その時彼女は言っていた。

「こうしてご迷惑ばかり掛けて……これを醜態といわず、なんと申しましょうか?」と。

 では、脱走するのは迷惑でも醜態でもない?

 冗談ではない、久紫は激昂したい気分を抑えて首を振る。

 無言で出て行かれる身にもなって欲しい。

 己の身が病に侵されていると、少しは分かって欲しい。

 引き止めた小春の姿はどれもおぼつかない足取りで立つものだったが、これがもし、いつか見た倒れた姿であったなら――考えるだけで背筋が凍る。

 小春とは似ても似つかないその姿。

 寝ていれば治るはずだった流行病を長引かせ、先に逝った雪乃の後を追うように、死んでしまった喜久衛門。

 理由は違えど、小春がやっていることは、久紫の看病をものともしてくれなかった師と同じく。

「……幸乃の娘」

 窘めるようにもう一度言ったなら、娘は布団を頭からすっぽり被ってしまった。

 そんな態度を見る度、好き合っている、などと評していた絹江を内心で非難する久紫。

 これのどこが好いた男に対する態度だ? 嫌がられるばかりではないか。

 出そうになる溜息を堪え、久紫は小春の傍を離れず。

「……お人形造り、しないのですか?」

 くぐもった声が布団の中から、ぽそり聞こえた。

 今度ばかりは深々と溜息を吐き出す。

「シナイ。出来ない。病人が病人らしくナイと、何も出来ナイ」

 言い方は他にもあっただろう。

 例えば、ゆっくり療養して欲しい、これ以上無理をして身体に障られたら大変だ、とか。

 もしくは――貴女の傍にいたいのだ、とか。

 後者は露骨過ぎるが、これも久紫の本音の一つではある。

 けれど、どれも言わず、口をついた辛辣は若干の責めを表す。

 後は噤んだ唇。

 同じ無言となった布団の中の小春は、きっと悔しがっているはず。

 意地で治そうと思えば良いが、やっぱり出てってやると思われたら……厄介だ。

 いっそ床を一緒にしてしまおうか、と意地の悪い気分が半分、願望が半分、頭を掠めた。

 背中から抱き締めて、両手を絡め取り、足を乗せては身を引き寄せて。

 耳や首元を戯れに触れたなら、まだ少女の域を出ない小春のこと、真っ赤になって固まって――

 たぶん、久紫は理性を保てない。

 …………俺は何を考えているんだ。病人相手に。――しかも朝っぱらから。

 阿呆と罵って想像を消し去れば、板戸を叩く音がして、手伝いの女が朝餉の準備が整った旨を伝えてきた。

 

 

 

 

 

 合間に食事を挟みつつ、女と交代で小春に目を光らせ、迎えた昼過ぎ。

 見舞いの林檎を届けた娘は、小春の着替えがあるため、久紫と共に居間へ戻り、近寄ってきた兄の胸へ肩を衝きいれ、苦しがる様をしれっと受け流しては頭を下げた。

「度重なるご無礼、お赦し頂きたく。改めまして。わたくし、春野宮さつきと申します。一応、コレは不肖の兄ではございますが、兄妹扱いは努々なさいませぬようお願い致します」

 優美な物腰。

 反して、言葉に含まれる刺々しさは、全て兄である苦悶の伸介へ向けられており。

「……アア」

 短い返事で頷いたなら、顔を上げたさつきが赤い着物の裾を口へ当てて、ころころ笑う。

「ご安心を。わたくし、貴方様のことは綺麗さっぱり、諦めましたから。これからは、友人の一人として仲良くして頂けたら、と。難でしたら、小春さんの友人、でも結構ですわ」

「……目の仇にシテいたはずデハ?」

「仇……などという生易しいものではありませんが…………そうですわね。小春さんはわたくしにとって、憎さ余って愛しさ百倍という方でしょうか」

「イト……?」

 ついていけない世界へ眉を寄せたなら、さつきは艶のある吐息を一つ。

「目標、ですの。あの方、絹江様に劣らぬ武勇伝の持ち主ですから」

「ブ……?」

 絹江の方はなんとなく分かるが、小春の力は知っている久紫。

 病を差し引いても小春の抵抗は久紫相手に通じず、身体も華奢な体躯に見合う軽さ。

 知った状況は褒められたものではないが、武勇伝と評される力は感じ取れなかった。

「…………で? お前は何をシテいる、伸介?」

 視界の片隅で、兄妹扱いして欲しくない妹から無碍に扱われた兄は、伴った恋人の援助を受けつつ、何故か寝室の板戸へ不審な手つきで縋っていた。

「何って……そら勿論、立ち上がろうぉと、してたりしてるわけでぇ……ちっ、隙間がねぇ――だっ!?」

 どうやら小春の着替えを覗こうとしていたらしい。

 気づいた久紫は拳を握りしめたが、それより早く三つ編みの娘のチョップがざく切り頭に決まった。

「伸介様……小春様は病人、いえ、その前に列記とした女人です。みだりに覗くなどもってのほか。増して――せ、僭越ながら、こ、恋人の私がいる前で……そ、そういうことをされては……」

 余程言い慣れていないのだろう。

 瑞穂がつっかえては顔を赤らめる様を見て、板戸から身を離した伸介は溜息をつき。

 俯く娘の腕を強引に寄せては、周囲なぞ知るかとばかりに口付けをする。

「やっ……し、伸介様っ…………っ」

 暴れようとする身を力で抱き締め、従うまで深いソレを続け――

 離しては軽くもう一度、羞恥と酸欠で赤くなる身体は離さず。

 人の家という事実を忘れて伸介が笑う。

「はい、よく出来ました。でもよぉ、瑞穂。僭越はいらんだろ? 名実共に恋人、いや、それ以上なんだから、俺ら。順調に行けば来年の初夏、だしよ?」

「っ!? ら、来年の初夏? それはつまりまさか…………」

 呆気に取られるばかりの久紫とは違い、察したさつきが信じられないモノを見る目で、真っ赤に染まった瑞穂へ頬ずりする伸介を見る。

 妹の突き刺さる視線を受けた伸介は、瑞穂のこめかみへ唇を一つ寄せた。

「そ。いやあ、まさかここまで上手く行くとは思わなかった。なんてぇの、既成事実? 瑞穂が逃げないようにさ、雁字搦めにしたかったし。俺って結構、子ども好きなのよん。男か女か、双子だったら大変だな。けど、きっと楽しいだろう?」

 自慢げに語る伸介に対し、さつきの横で握られた拳がぶるぶる震える。

「お、愚か愚かと思い続けて早十数年……ここまで底無しの愚か者だったとは。定職にもつかず、ふらふらしっぱなしの伸介風情が、瑞穂さんへなんて酷な仕打ちを……」

「失敬な。これでも俺は働いてるって――」

「伸介。強請りタカリは真っ当な仕事ではありませんよ?」

「うわっ、なにその言い草。俺ってそんなに信用ない? 兄として失格ってのは慣れてるけどよ……ちょっぴり傷つくな、お兄ちゃん」

「誰が兄ですか、誰がっ! わたくし、貴方をお兄様だなどと思ったことは一度としてありません!」

「ひ、酷いっ! あんまりだわっ!」

 瑞穂からはそっと離れた伸介。

 よよよよよ……と嘆きつつ、わざわざ板戸へ縋りつく不審な動きをした。

 嫌な予感に久紫は素早く動き、つっかえ棒代わりに足を板戸へ引っ掛けた。

 途端、がっと掛かる重み。

「……伸介」

 性懲りもなく小春の着替えを覗こうとしていた男を睨めば、唇を尖らせて抗議し出す。

「いいじゃないの。久紫だって、本当は見たいくせに」

「…………ソウいうコトは好かん。褒められたモノではナイ」

 ぷいっと横を向いた顔が、朱に染んでいたのを知る者は伸介に限らず。

「……殿方というのは、皆様、同じ思考をお持ちのようですわね? まあ、片や好奇心、片や好意と差はありますれども」

「…………」

 ここできっぱり否定出来なかったのは、さつきが久紫の好意の矛先をぺろっと口にしたためであって、決して図星だったからではない。

 心底呆れた目つきは、いつの日か払ったものとは違い、不快は起きないが、居心地がかなり悪くなる。

 そのせいで、少し緩む足。

 と、目ざとい伸介がまた開けようとしたのを、今度は正気を取り戻した瑞穂が止めた。

「ですから、伸介様! お止め下さい!」

「だーからっ! ちょっとくらい大丈夫だって!」

 無茶苦茶な理論である。

 何がどう大丈夫と言うのか。

 けれどそれを確かめている時間はない。

 全員で呆れたのを良いことに、伸介が板戸へ手をかけたのだから。

 ぐらり、伸介を押さえた身体が板戸ごと倒れれば、止めることだけに専念していた心が、他方を向いてしまった。

 

 薄暗い室内、透けるような白さの柔肌が、短い黒髪では到底隠せぬ、うなじから背までを模り、見返る瞳は熱みを帯びた艶を流し――。

 “女”を、彼女に見る。

 

 

 

 

 

 謝ったなら、着替え中であった小春は、少しばかり背が見えただけと気にせず。

 続いて、生き人形の背中の方が良いと褒めた。

 これに複雑な思いを抱く久紫。

 もしかしかすると、告白を聞かれてから小春を悩ませていたのは、人形しか愛せないと言ってしまった、さつきを追い払うための嘘を信じていたからではないのか。

「どひゃひゃひゃひゃ」

 そんな久紫へ、帰り際、奇怪な笑い声が腹を抱えた伸介の口から吐き出される。

 ぴしゃりと止めたのはさつき。

 言葉ではなく、頬を張って。

「伸介。お黙りなさい。貴方にとっては冗談であっても、久紫様にとっては笑い事では済まされないのですよ?」

「ちぇー。ちょっと笑っただけじゃん。じゃなきゃやってられねぇって。瑞穂ったら最近積極的でよ。まさか林檎の袋被せられた挙句、首絞められるとは思ってなかったし。相思相愛はいいんだが、問題だよな。もうちっと遠慮してくれねぇと俺の身が持たない」

「……はい、以後自重します。申し訳ございません」

 伸介の横に並んでいた瑞穂が、板戸が倒れた際の己の行動を諌められて項垂れる。

 途端、ぎょっとした顔つきの伸介は、別の反応を期待していたらしく、あっさり引き下がっては久紫へ礼をし、帰ろうとする瑞穂を追いかける。

「じゃな、久紫。――――瑞穂、瑞穂ちゃん? ちょっと、あれってば冗談よ? 切り返すなら俺の方に問題あるんだって言ってくんなきゃ」

 言葉と関係が分からなければ、嫌われ者のチンピラが娘へ無理矢理交際を迫っているように見える。

「全く……度し難い痴れ者ですわ。けれど久紫様」

 去って行く伸介を追う目は厳しく、久紫へ据えた目もまた厳しく、人形の嘘を知っていた娘は言う。

「あれの苛立たしい笑い声を聞きたくなければ、誤解はきちんと晴らして頂きたいのです。本当に小春さんをご自分の女になさりたいのでしたら!」

「女……な、何か露骨な言い方ダナ? それにアンタは――」

「わたくしのことでしたらお構いなく。それとも、残して下さる心なぞ久紫様にありまして?」

 問いかけ。対する噤んだ口は首を横へ振り。

 一瞬、残念そうな歪みを見せた艶やかな娘の美貌は、元の高慢さで胸を張った。

「そう、でしょう? ならば手早く小春さんを絡め取って頂きたいのです。そうでなければあの方、一世一代の婚期を逃してしまいそうですから」

「ハ? 小春の家事の腕前ナラ婚期なぞ幾らデモ――」

 あっては困るが、本心で思う。

 だが、さつきは笑う。酷く、寂しげに。

「ですから、久紫様でなければいけないのです。小春さんは信貴様譲りの目利きの際の持ち主。世話役であれば有能ですが……ねえ、久紫様? 人は知りたくないと、知られたくないと思うものでしょう? 己の内面など――気が置けない者であっても」

「……小春は、詮索するヨウな者では」

「ええ。けれどそれは無意識に歯止めを利かせているだけ。覗けば関係が崩れると知っているのでしょう。……小春さんが惚れやすい、そのような話はお聞きになりましたか?」

 打って変わった内容に眉を顰めつつ、頷く久紫。

 さつきは溜息をついて首を横に振る。

「あれも歯止めの反動ですわ。人を知るのを避けてばかりでは己すら見失う。少しばかり表に良い面が現れれば好意を持ち、悪い面が現れれば離れていく――だからこそ」

 据える目に宿るのは、久紫へ焚きつけんとする炎。

「小春さんを求めるならば、御覚悟を、久紫様。生半可な想いではなく、裏表もなく、遠回しも謀りも捨てて、率直に全てを捧げ守る覚悟でなければ、あの方を得ることは叶いません。……まあ春先の様子を見る限りでは、心配なぞしておりませんが」

 言うだけ言って、そんな小春を恋敵とし、久紫を得んとしていた娘は背を向ける。

 一体、どういう関係なのだろう、小春とこの娘は?

 ほとんど聞いていることしかできなかった久紫は、ここにきて初めて、おでこの広い娘へ関心を示した。

「アンタは……小春をドウ思ってイル?」

 開けられたままの戸をくぐる直前に尋ねる。

 足を止めてから数秒、無言が交わされ。

「わたくしは…………嫌い、と言ってしまった幼き時よりずっと……いいえ、これからも――――小春姉様が好きですわ」

 首だけで振り向いたさつきは晴れやかに笑う。

「これでもわたくし、あの方より一つ年が下ですの」

 見えないでしょうと自慢げに笑む様へ、久紫の胸が一つだけざわめいてしまった。

 

 だからこそ、知る、内面を曝け出す恐れを。

 だからこそ、思う、内面を曝け出すことを。

 

 何より、向き合わねばならない。

 己こそが、その内面と。

 もう、他方を向いては、誰かとソレを重ねることがなきように。

 

 


UP 2008/10/13 かなぶん

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