久紫side 十七ノ壱

 

 昔話を、しよう。

 外では、病の身で発とうとする身体を抑えるため、彼女の初恋が辿った病の果てを。

 そして……

 内では、背けてきた己の過去と向き合うための話を。

 

 宮内久紫という名を授かる前から、今に至るまでの、短くも長い軌跡を――――語ろう。

 

 

 

 唇が外へ紡ぎ出した名は、佐々峰雪乃。

 彼女は喜久衛門の想い人で、久紫が二番目に好きになった女であった。

 ならば最初に彼が想った者は何者かと尋ねられれば。

 臥せる小春と重なる姿がある。

 健康な身体を持ちながら、精神の病みから痩せ細った、似つかぬ姿が。

 笑う者もあるかも知れぬが、初恋はまだ彼が幼い頃、一番近くにいた女――母であった。

 

 

 記憶の中の遥か遠い空、瓦礫の街、あばらの家、ならず者さえ寄り付かぬ一間。

 今にも崩れ落ちそうなレンガと漆喰の壁、雨水を申し訳程度避ける布の天井、下水と無縁の骸が発するニオイ、混じる埃とカビの空気。

 幼き頃、寂れたそこに常時住まうは彼の母。

 陽の光も望めない、薄暗い室内で、ほとんどを寝て過ごし、たまに起きても上半身だけ。

 俯く目は黒く歪み、削げた頬、乾いた肌、干からびた黒髪に生気は感じられず。

 辛うじて彼が“持ち寄った”物で食いつないでいた身体は、妙齢の女の線を薄い布の下で保ってはいたが。

 死人――そう評されても仕方がないほど、母の有様は酷かった。

「――――」

 けれど、彼の名を呼ぶ時だけは、死人の眼にも光が宿る。

 頬にも赤みが戻る。

 口元にも笑みが浮かぶ。

 劇的な変化は彼だけがもたらせる物であり、ゆえに母にとって自分は特別だと思っていた。

 裏付けるように、母は言う。

 「私には貴方だけ」と。

 細い指を子どもながら筋力のついた腕へ置いては、千切れんばかりに握り締め、逃げないのを確認しては胸へ招いて抱き――

 為すがまま、母を受け入れる彼を認めたなら、痛いほど冷たい指を膨らみを忘れた子の頬へ這わせ、ひび割れた唇を子のソレへ向け。

 だが、彼は厭う。

 その行為だけは、他人の物を奪い暴力に耽る彼ですら、受け入れ難くて。

 無理強いはされなかった。

 ただ、頷いて、何故か褒められ、離され――。

 何度も繰り返されては拒絶で終わる、母の戯れ。

 感じた恐れのまま、硬い寝具に縫い付けられた母から逃れることも可能であったが。

 母には自分だけ――

 言葉を己のために作りかえれば、なんと甘美な響きか。

 思うだけでは飽き足らず、母にもう一度言われたくて、恐れながらも放れられず。

 乗じて、拒む距離が段々と短くなっていることにも気づいていた。

 略奪しては仕返しを逆に叩きのめし、追っ手を撒きつつ母の元へ帰っては、収穫を与え言葉を貰う。

 親鳥が雛を養うが如く。

 年齢にそぐわない保護欲は、やがて彼の中の母への思いを、恋慕と偽り捻じ曲げ――――

 

 拒む唇が紙一重まで近づいた時、その使いはやってきた。

 

 無法者が集う街であっても、なけなしのルールはある。

 縄張り、という唯一の制限。

 置く心はないが、効率良く物を得るため、彼はあるグループに属していた。

 そこで、唐突に頭から告げられた。

 「お前に客だ」と。

 街の中で名を馳せた頭をして、怯えた目に変えた存在は、彼より少しだけ上背のある老紳士。

 周辺では決して見かけない、貴族染みた出で立ちは、漂う悪臭に口元を覆わず、彼を見ては頷き、恭しく頭を垂れた。

 「お初にお目にかかります」と。

 ついで母を尋ねられては、瞬間我を忘れて飛び掛り、易くいなされては逃げ。

 撒いたと思ったのに、母が待つ一間では彼の老紳士が先回り。

 しかも何故か、彼以外に見せなかった笑顔が、老紳士の手を取り、涙まで流していて。

 愕然とした。

 急に居場所がなくなったようで。

 けれど母は彼を手招いた。

 縋るように近づけば、壊れ物でも扱うようにそっと引き寄せられ、抱き締められて。

 交わされた瞳は黒く艶めき、彼の黒髪を掻き揚げては、視力を補うため獲得した片眼鏡を剥ぎ取り、裸眼となった右目の灰へ優しく微笑んだ。

「ありがとう、貴方のお陰だわ」

 落とされた唇は、情欲ではなく親愛を右の瞼へ向け――

 

 生活が一変した。

 

 身綺麗にされ、連れて行かれたのは、街から幾日も馬車を走らせた先の屋敷。

 どこまでも続く、檻のような塀は純白、門扉は黒く、屋根瓦も黒く。

 開けた道は石畳の灰で、手入れの行き届いた庭は白い砂を下地に、深緑と淡い花の色を馨しい香りと共に届ける。

 寝たきり状態から回復して間もない母が、齢にそぐわない杖をつきながら、隣で悦ぶ声音を聞いた。

 共に悦びたい――一方で、酷い閉塞感を彼は屋敷から感じた。

 そして――母と共にいながら、初めての孤独を感じ……。

 塀と同じ色彩の屋敷、客室と思しき場所で待つよう言われた彼は、浮かれる母へ何度目かの問いをする。

 一体、これはどういうことなのか、と。

 幾度聞いても夢見心地の母は答えず。

 しかし、屋敷について、夢ではないと知って、母はようやく「御免なさい」と優しく笑った。

 彼が見たこともない、幸せそうな笑みを浮かべて。

 どくどく巡る熱。

 嫌な予感が眩暈となってやってくる。

 いやこれは、彼用に新調された、片眼鏡の度が合うための不自然さだろう。

 今まで使っていたのは大人の、それも彼より視力の悪い男の物だったから――

 母が言うには、この屋敷の主こそが、彼の父親なのだという。

 難しい話は分からなかったが、要約すれば、母は身分を理由に父から遠ざけられ、すでに大きくなっていた腹を抱えたまま、屋敷を追われたんだ、と。

 捨てられた、というべきだろう。

 だというのに、けらけら艶めき笑う母。

 彼は何故と問う。

 何故、そんな男の下へ、今更自分たちが戻らねばならないのか、と。

 すると母は口を閉ざし嫣然とした表情を浮かべて、彼の頬へ両手を這わす。

 片眼鏡の奥の瞼に直接触れて、貴方があの人の目を宿したから、と言われた。

 母を捨てた男には、正妻と多くの妾がいたが、生んだ子はどれも彼の特徴がなかった。

 中には隔世遺伝をのたまう者もあったが、調べは全て付けられており、その都度、追い返したらしい。

 だが、そうこうしている内に、男の方に問題が発生した。

 新しく子が望めなくなったのだ。

 男以外に若い者がいなかった一族は、養子の話が出た際、血を重んじ苦々しい決断を下す。

 こうなれば、出自の卑しい女の胎から出た者でも構わぬ、と。

 母の先祖に、国という概念がないのは知っていた。

 入り混じる国々の血は、一を大事とする旧家にとって、下賤以外の何者でもないのかもしれない。

 けれどそれが、己の母を差した時、彼は激昂する。

 こんな家に留まる理由はないだろう? 帰ろう、母さん!

 ――と。

 自分たちをいらないと捨てて置きながら、必要になったなら頭も下げず連れて来る、身勝手さ、傲慢さ。

 腹が立って、未だ細い手を引くが、母は笑ったまま。

 「どこへ?」と問う。

 驚けば彼の手を払って対峙。

 彼の、母と同じ黒い左目を眼前で指差し。

「貴方はあの人じゃないもの」

 くすくす笑って。

 その時。

「――――」

 低い声が彼の知らぬ名を呼んだなら、母は――その女は杖を忘れて、現れた男へ縋った。

 次いで、呼ぶ。

 誰かの、名を。

「――――」

 見開かれる、彼の瞳。

 男の瞳は、女へ驚きを、彼へは真っ直ぐな視線を向ける。

 同じだった。

 彼の右と男の両目は、同じ灰の色を宿していた。

 そして……

 彼の拒絶を受け入れていた女は迷わず、そんな男へ腕を回し。

 唇を、重ねた。

 彼の名を呼んだはずの、同じ音で呼んだはずの、舌の根乾かぬ、その唇で。

 呼ばれた男は怪訝に思わずこれを受け入れて――――

 

 母が呼ぶ、彼の名前は消え去った。

 

 

 目覚める度、柔らかい寝具、黒い梁と白の天井が映り、彼は落胆する。

 いつも肌寄せ合って寝ていた母は、女に戻って子を為せない男との床を望んだ。

 温もりが恋しかったのではない。

 ただ、空っぽとなってしまった内を埋める物が欲しかったのだ。

 代替だったと知ったから。

 母にとって本当に意味ある存在は彼ではなく、女にとって本当に意味ある存在は男だったと。

 求められたのは彼の中にあった、男の名残――

 しかし、男がいたなら全て事足りる。

 そうして次に、彼が求められたのは、愛しい母を奪った者たちの、ていの良い道具となるための教養を身に付けること。

 空っぽの彼に、詰め込むだけのソレらは難色も示さず、すんなり入り込み。

 嘲笑は、教養を身に付けてもなお、下賤と彼や母を称し、削がれていた気力を更に奪っていく。

 反論しようにも、見知らぬ女となり果てた彼女と、彼女から呼ばれる名を奪われた彼が、卑しくないと言い切れる自信はなく――

 見かけるだけとなってしまった女は常に男へ話しかけ、男は彼へ目を向けようとするが、彼自身がそれを拒み。

「放っておきなさいな」

 母であった女の、そのたった一言で、彼は屋敷を逃げ回った。

 がむしゃらに走り回り、気づけば迷い込む、離れの倉の中。

 探す声に怯えて奥へ奥へと進む。

 昼間の明るさを天窓のステンドグラスが伝えても、なお暗いそこは肌寒く。

 何者かの視線を感じ、はっと振り向けば、煤けた金縁の絵が一枚。

 ほっとしたのも束の間、埃を被って久しいモデルの姿に瞠目する。

 黒い格子の天井、白い壁、庭の淡い花の水差しと丸い卓、漆塗りの黒い椅子、座る、編まれた長い黒髪を肩へと垂らす、子どもにしては冷ややかな眼差し。

 鏡――そう錯覚してしまうような絵の中の少年は、しかし、衣服は鮮やかな朱の礼装。

 彼の黒いソレとは違っていて……

 恐れて下がったなら、棚が彼の背を叩く。

 驚いて向けば、彼の目線より一つ高い位置に、絵と同じ水差しが、やはり埃を被って在り。

 なるべく埃を落さぬよう、底部分を覗いたなら。

 彼の名前があった。

 彼の知らない、年月を記して。

 祝い、だと齢と思しき数字を記し。

 逆算したなら丁度、男が重ねた齢と等しく。

 理解するのは、見ただけで頷き納得してみせた老紳士。

 母と自分は似ていなかった。

 絵の中の少年と自分はあまりにも似ていた。

 母と唯一似ている黒目を彼は喜んでいた。

 男と左目以外似ている彼を女は悦んでいた。

 霞む視界、巡る吐き気、震える指先。

 何事もなかったかのように、水差しを戻し、彼は己の身を抱き締める。

 自分はちゃんとここにいると、誰よりもまず、自分へ知らしめるために。

 荒い息を繰り返し、歯を食いしばり、淡い吐息を零し――――

 それでも……それでも彼が母を想う心は、女を捨てた男とは違うと、正気を保たせて。

 顔を上げた先、数々の物が雑然と並ぶ奥、彼は隠すように置かれたその袋を見つけた。

 ゆるゆると手を伸ばす。

 招かれたかのように。

 麻のざらついた肌触り。

 引き寄せた布は、他の物のように埃を被ることなく。

 黒い紐を解いて中を取り出せば、金細工が施された朱の箱。

 夫婦の鳳凰。

 ざわり、彼の胸が騒いだ。

 開けてはいけないと、警告が内から為された――だが。

 彼は、開けた。

 奏でられる、オルゴールの音色。

 合わせて、番の鳳凰がぎこちない動きで、箱の半分を用い、仲睦まじく戯れ――

 しかして彼の目に映るは、鳳凰の横、金細工の耳飾り。

 控えめな朱の宝石が嵌められたそれと同じ造りを彼は知っていた。

 母の、片耳だけを飾る深紅の宝石。

 朱は対であるにも関わらず。

 強張る瞳が映す、朱の下にある、僅かな窪み。

 そこにはきっと、母の耳飾りがあったはずなのに、両方ともなくなっている。

 顔を上げたなら、裏蓋に文字。

 彼は知らなかった女の名と、彼の名ではなかった男の名が、違う筆跡で刻まれていて。

“縦令血脈が分つとも、血の交わりは絶えず、流涕の涸渇に隠匿の焔は風伯を召さん”

 誓いと思しき年月を経た文が、掘り込まれていて。

 唐突に浮かぶ、避け続けた男の、母とは逆の耳に光る深紅。

 その意味する――――想い。

 音が、途切れる。

 閉じた箱を激情のまま振り上げて――抱き締めて。

 蹲る。

 涙はなく唇が血の味を知らしめた。

 己が母の傍にいた真の意味を理解した。

 代替ともう一つ――繋ぎ。

 拒絶する彼を母が褒めたのは、男との繋ぎを断つ行いを止めたから。

 それも、男とよく似た彼が為すことにより、男の意を代替が伝えていると考え――。

 厭わしい箱は同時に、彼を生み育んだ箱。

 再び開けることは出来ないが、壊すことも出来ず。

 同じ場所へそっと還す。

 心さえも男と同等と知り、唯一縋れる黒い眼は女から否定され――。

 方向を見失ったなら、ぼんやりとした明りが見えた。

 気づく、闇に慣れたからではない、絵と箱を視認してしまった理由。

 渦巻く思いは凪に似た表面をもたらし、ふらふら近寄れば。

 蹲る影が、明りの手前にある。

 一瞬、物取りといぶかしむ彼だったが、くるっと振り向いた影は、面白くなさそうに口をひん曲げた。

「なんじゃい。まだ出来とらんわ。全く……静かな場所を提供するというから乗ってやったというに。どたばた煩くしおって。人を馬鹿にするのも大概にせ……えぉ?」

 しゃがれたクセのある声を聞いたなら、影はのっそり立ち上がった。

 刻まれた皺は影の生きた時間を如実に表すが、その背は子どもの彼より少し高い程度。

 怪物の類と彼は思い、このまま殺されてしまえと自嘲し。

 それがいきなり両腕を広げて近づくのを見ては、眉を顰めて――

「おーおー、子どもではないか。よしよし、悪かったな、怒鳴り散らして」

 意外にしっかりした身体から伸びた手が、優しく彼の頭と背を撫でた。

 抱き締められているのだと、彼は知り――

「ほれほれ、泣くでない。男の涙は武器にもならんぞ? それとも気の済むまで泣くか? 豊満なバストもないジジイの侘しい胸じゃが、良ければ貸してやるぞ?」

 久しぶりに感じた人の温もりに、空の心が満たされて、彼は知らない影へ縋って泣いた。

 

 


UP 2008/10/18 かなぶん

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