久紫side 十七ノ弐

 

 目覚めた先にあったのは、彼の部屋となっている、見慣れてしまった天井。

 重たく赤い瞼、掠れた声、気だるい身体が泣いた事実を夢ではないと告げ。

 あの怪物の正体が知りたくて、再度倉へ向かえばもぬけの殻。

 もしかすると、来客か何かであったかも知れぬが……。

 彼は、誰にも尋ねはしなかった。

 

 泣き疲れた身体は、しばらくの間、逃げた分増量した課題に取り組むことで、空っぽの心を無視した。

 耳に入る、男と同じ名の彼を「令息」と呼ぶ声も、可能な限り排除し続けて。

 そんな日々が延々続くと思われた、屋敷に住み着いてから、丁度一年経ったある日。

 女の姿が最近見えないという話が、閉ざしていた彼の耳に入る。

 好き勝手な噂が、屋敷仕えの者の口から飛び出す。

 逃げた、死んだ、病に臥している、他の男を囲い始めた、等々。

 彼が傍にいようがいまいが構わず囁かれる中で、彼の心を波立たせた噂があった。

 用済みとなったから捨てられた、という――

 我に返った時、彼はその者の身体を幾度となく、殴り続けていた。

 止めたのは、彼を迎えに来た老紳士。

 名を名乗っていた記憶はあれど、女が男の名を呼んでから、彼の耳は人の名を拒んでいた。

 だというのに、噂一つで母を想う心が甦る。

 酷い嗤いが込み上げてきた。

 怒りに似せて声を殺して肩を震わせ。

 宥めようとする老紳士は、彼の様子に気づきもせず、女の――否、男の真実を告げた。

 懐妊。

 耳を疑えば殴っていた男から引き剥がされ。

 けれど彼は老紳士を見つめるばかり。

 別室に連れられて、血に染む手を拭われ、裂けていた皮膚へ包帯が巻かれる。

 その間、語られたのは男の一途な想い――悪逆なほどの。

 正妻と妾たちに手を付けたとみせて、その実、彼女らが好む者を手慰みと偽り己へ侍らせて。

 招き、孕んだ者が産褥を終えてから切っていく。

 不貞を働いた者というレッテルを貼って、補償もせず排除を繰り返し。

 機に乗じ、自らが問題をまことしやかな噂として流し、話題が上れば素知らぬ風体で公表する――。

 途方もない時間を要する、実にくだらない、けれど家を潰さず、女を得るための最善と選ばれた方法。

 代替は代替でしかないと、母への想いですら同じ位置には立てないと、またも思い知らされた。

 男の方が全てにおいて勝っていたのだ。

 最初から――――

 

 

 

 過ぎ去る月日の中。

 彼の傍には、女の噂をする者どころか、世話をする者さえ必要以上に近づかず、目を合わせれば怯える。

 何故だろうと、老紳士の話を聞いてからぼんやりした頭で考える。

 答えはあの時、老紳士が止めた暴行にあったと出て、そうか、と彼は納得した。

 ふと、虚ろな目が部屋の片隅に向けられた。

 暗がりに蜘蛛の巣。

 彼が常時いるため、掃除の手が疎かになっていると結論付けて。

 庭を横目に廊下を進む。

 目的のない彼は、教養さえ遠ざけられて久しかった。

 それは暴力沙汰のせいかも知れないし、名を覚えられぬ彼では社交も望めまいと諦められたせいかもしれない。

 あるいは――女の懐妊が公になったからか。

 男の虚言を漸く知った古い血たちは、時を謀られ力を失って久しく。

 自らが呼んだ娘を不埒と送り返した者なぞ、その縁者が協力するはずもなし。

 一方、一族の恥として虚言が隠された男は、縁者らにとって後ろめたい存在でしかなく、下賤だろうが得た伴侶に対し、ここぞとばかりに祝いが示された。

 すなわち、過去は水に流してくれまいかと、新しい門出へ際して暗に。

 身内がどうであれ、男が当主を勤める家は、縁者たちが結託し排除できたとしても、無傷でいられるほど小さな枠組みではない。

 加え、その傷に差が出来ようものなら、どちらかはそれを逆手に今度は相手を喰らうだろう。

 噛みつかれる前に噛みつけ――それは獣の法。

 噛みつかれる前に牙を抜け――それは蛮族の法。

 噛みつかれる前に手懐けよ――それは己を智者と違えた愚者の法。

 愚者たる縁者の、巧みを装う稚拙な考えは、女の地位を下賤から高貴と舞い上がらせた。

 結果、血は継げど粗雑な環境にいた彼より、新たな命へ期待が寄せられるは必然――。

 ぴたり、歩みが止まる。

 ぼんやりした視界が鮮明になる。

 映すは、久方ぶりの女の笑み。

 隣には笑みを返す男の姿。

 仲睦まじい中央、二親から守られ、安らかな眠りを抱くは――

 生まれたんだ……生まれて、しまったんだ。

 男か女か、知れないが。

 片親すら望めなかった彼とは違う、幸福な絵の中の赤子。

 寂しい、加わりたい、妬ましい、喜びたい。

 空っぽの心を意味のない思いが流れ巡り――。

 

 

 気づけば彼は、屋敷の外へ出ていた。

 止める者がいたのかどうかさえ分からない。

 いつの間にか走っていた足が、取り戻した意識ごと前へつんのめる。

 全身を襲う衝撃。

 片眼鏡が外れて、合わない左右の先で車輪がレンズを壊す。

 彼が着用する衣類は全て、男の両親が思い出と名付けて閉まっていたモノだった。

 容姿と血筋以外、貴族である男と接点のない彼を、形へ嵌めようとしたがゆえの、代替には相応しい格好。

 なれど片眼鏡だけは、彼のためにあつらえられた、唯一の品で。

 それが、敵わぬ力に破壊され、土へ溶ける様は、彼とよく似ていた。

 馬車が止まる。

 倒れた彼を不審に思った御者は、青褪めた顔で彼の無事を確認し、ほっとしたくせに。

「どうした?」

「はっ、どうやら当たり屋のようです。しかもこの出で立ち……常習でしょう」

 勝手に止めた言い訳で彼を罪人へと仕立てる。

 倒れた彼へ靴を引っ掛けては突き上げ、仰向かせに寝かせた。

 穢れたモノを厭う扱いを受けても、レンズに己を重ねた彼は抵抗せず。

「なるほど、見事な衣だな……これなら高い金で話を付けられそうだ」

「突き出しましょうか」

「いや、待て」

 馬車の扉が開く。

 御者から杖を渡されたのは、背の高い髭面の中年男。

 おもむろに杖の先で彼の足を突く。

 痛みの反射で起き上がれば、頬を軽く張られ、解けた黒髪が艶めいた女のように身体へ這う。

 痛みで回る視界の中、顎へ杖先が伸ばされた。

 くいっと上を向かされる。

「……これはこれは。なかなかの掘り出し物ではないか。どうだ、小僧? 私はお前の容姿が気に入ったぞ?」

「だ、旦那様、相手はまだ子ども――」

「私に意見できる立場か?」

 髭面に睨まれた御者は、息を呑んで彼を見た。

 ありありと浮かぶのは、馬車を止めたことへの後悔。

「私の下へ来い。こんな、どこで命を落すとも知れぬ稼ぎでは、到底得られぬ生活ができるぞ?」

 顎を解放する杖先。

 代わりに差し出される、白い手袋。

 幼くとも、荒廃した街で暮らしてきた彼には、髭面の示す意味が知れた。

 末路も、実際目にしてきた。

 こうして、誘われた憶えもあった。

 あの時は冗談じゃないと罵り断り、母の下へ逃げ帰ったが……

 白い手袋へ伸べる手に意思はない。

 ただ酷く、空虚な思いだけがあって。

 名もない己なぞ、完全に壊れてしまうがいい。

 もしもそれで、幸福な彼らの絵に少しでも影が出来るなら――――

 その絵はどんなに素晴らしかろうと、嘲り笑んで。

 

 けれど、ゆるゆる近づいていた手は、皺くちゃの手に攫われてしまった。

 

 ばしっと音がして、髭面が呻く。

 地に落ちたのは、紙幣の束が三つ。

「悪いが、これはワシの連れでな。あんたの悪趣味な玩具にゃならん。金で買うならその倍額で買ってやるわ。ほれ、受け取れ」

「なっ、何をする、このジジイ! この金……さては貴様が主犯か? いいだろう、小僧共々つき出して――」

「はっ、栄爵風情が偉そうに。ちぃとばかし事業が成功した程度で、貢献だなんやと権力得た挙句、やることが稚児囲いたぁ恐れ入ったわい。そりゃあ恥ずかしくて社交の場すら出んのも頷けるもんじゃて。……それとも、陰口怖さに出れんだけか? 所詮、と嘲られるんが怖いんか?」

「っの、クソジジイ!」

 図星だったのだろう、髭面は顔を真っ赤に染め上げて、杖を振り上げ振り下ろし。

 依然、彼の手を握ったままの皺の主は、これを軽快に避けては、齢にそぐわない仕草で舌を出した。

「やれ、図星か? 分かりやすいのぉ。確かに所詮はならず者よな? 染み付いた雑言はそうそう抜けんと見える」

「ぬかせっ!」

 紳士ぶった皮を脱ぎ捨て、杖が投げつけられればひょいと避け、死角を突いた拳は柳のような身のこなしで懐に招いて、片手で方向をぺしっと変えてみせた。

 勢いだけが取り得と思しき髭面では、何が起こったのか分かるまい。

 最悪、いなされたことにすら気づかないだろう。

 それほどまでに優れた技巧でもって、ついでに足まで引っ掛けられて、髭面は勢いの分、彼より強く地に倒れ伏した。

 知らぬ内、皺くちゃの手に握られた手が、ぎゅっと己から握り始める。

 諦めれば良いと思った。

 だけど髭面は集り始めた野次馬を睨みつけると、無謀にもまた襲い掛かり。

 すると呆れた溜息が皺の先から降ってきて、認めた彼はその目を見てぽかんと口を開けた。

 齢の割に好戦的な光がつぶらな黒に宿っていて。

 再度簡単にいなされた髭面は、ひっくり返された額へ馴れ馴れしいでこぴんを喰らう。

 明らかな挑発。

 乗る方も馬鹿だが、やる方はもっと馬鹿だと彼は思った。

 そうして我も忘れた髭面、御者へ命じ、取り出したのは――

「御止め下さい」

 鈍い光を放つ筒は、横合いから伸びた手に押さえつけられた。

 抵抗していたらしく、髭面は更に顔を赤くしたが、手は下げられたまま。

 脅しに使おうとしても、先は地になく、髭面の足を向いており。

「――坊。良いではないか、使わせても。ワシは構わんぞ? そんな手応えのない武器を頼る性根で当たる由もなし」

「宮内殿。いけません。このような人通りのある白昼堂々、爵位を持つ方が古狸へ発砲したなどと。彼を評したこの国にご迷惑が」

「古狸……狸とだけはお前に言われたかないが……」

「はて、何のことでしょうか? 兎に角、宮内殿は馬車にお戻りを。私は閣下とお話がありますゆえ、お先にお戻り下さい」

 銃を押さえる男の口調は至極丁寧ながら、有無を言わせぬ強制力を孕む。

「やれやれ、つまらんのぉ」

 ぼやく皺の手の主だったが、男の意には添う様子。

 しかして、彼の意は聞く気がないらしく、握った手を持っていかれては従うしかない。

 元より、戻る場所なぞないのだから。

 髭面から守った風体とはいえ、所詮は皺の持ち主も彼を金で“買う”人間。

 相手が変わっただけで、何も変わらない。

 停車していた馬車に引きずられるよう乗り込めば、離されて御者側の席へ放られた。

「ちぃと寝ろ。この馬車の馬は気が荒くてな。まともに起きてりゃ――――死ぬぞ?」

 けらけら笑う顔は、皺の手より少ない皺で覆われていた。

「…………上等だ」

 最初、彼はその声が誰のものか分からなかった。

 自分の考えをなぞるその声が。

 だが次の瞬間、きょとんとした皺の主は豪快に笑い、

「ひゃひゃひゃひゃひゃ! おう、上等じゃ。よぉ言いおったわ、小僧めが。生意気を口にしたツケ、覚悟しとけよ?」

 彼はその声が、久しく聞く自分のモノと知り――。

 

 

 

 乗った時以上に引きずられて馬車を降りた彼は、そのまま地に両膝をつき、引かれていないもう一方の手で、青褪めた顔の口を覆った。

 馬車の乗り心地は――起きれたものではなかったが、寝れたものでもなかった。

 見やれば御者もぐったりしたていで、皺の主だけがげひゃひゃひゃひゃ、と気持ち良さそうに笑っていた。

「うぅむ、流石ワシの見初めた馬共じゃ。あっちゅう間に屋敷まで辿りつきおったわい。ほれ、小僧。行くぞ」

 かくしゃくとした動きで、先を歩く皺の主。

 座り続けることも許されず、縺れる足のまま彼は引きずられていく。

 爆走する馬車の揺れで確認できなかったが、どうやらここは広大な敷地内らしい。

 囲いは生垣で、緑の草が敷地と外とを区切っている。

 彼がいた屋敷と同じ造りには、白い砂、石畳の道はあれど、黄味がかった白い壁、橙の瓦屋根が暖かく感じられた。

 それでも窮屈と、陰鬱な未来を思って嗤ったなら――

 いきなり、皺の主が綺麗に波打つ白い砂を踏んだ。

 てっきり正面玄関から入っていくものだと思っていた彼は、ぎょっとした面持ちで前の背中を見つめた。

 ようやく気づいたのは、皺の主の服が、彼の着ている物と違う形状であること。

 異国の人間。

 知識でしか知らなかった存在。

 惚けていたならい突然立ち止まる背。

 ついていくだけだった彼が鼻からつっ込めば、その背は頼りなくよろっと前に傾いだ。

「あにすんじゃ、小僧。しっかり前を見て歩かんかい。ほれ、行け」

 ぐっと引っ張られ、皺の主の前まで持っていかれる身体。

 たたらを踏み、見上げた先には、しかめっ面の老婆がいた。

「…………嫁?――っぃ!?」

 指差し、皺の主を振り返ったなら、背後から肩をむんずと掴まれる。

「……お坊ちゃま。あまりわたくしを怒らせないでくださいませ」

 しゃがれた声は、憤怒と形容するのが正しい低さで唸りを上げる。

「折角整えた庭園を土足で踏みにじる、こんな野蛮なお方の妻に間違われるなぞ、末代までの恥でございますゆえ」

「ぉうっ!? 酷い言い様よな? 仮にも雇用主の客じゃぞ、ワシは!」

「勿論、存じ上げております。が、事実は事実。ささ、お坊ちゃま、湯浴みの準備は出来ております。腐った林檎の傍にある林檎はまた傷みやすきもの。まだまだお若い貴方様が萎れるには早うございますぞ?」

 深読みせずとも分かる、隠す気のない嫌味。

 呆気に取られていたなら、今度は老婆が彼の手を優しく引き、残された皺の主は、後ろでキィキィ喚く。

 

 


UP 2008/10/21 かなぶん

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